大虐殺を目撃し、支援を訴え続けてきた国際ボランティア医師の証言
今年2012年で、パレスチナ人が故郷を追われてから64年、そして追われた先のレバノンにあるサブラとシャティーラ難民キャンプで大虐殺が起こってからちょうど30年になります。
その大虐殺の30周忌に、大虐殺当時パレスチナ人支援のためにキャンプで活動していた外国人医療関係者たちが世界中からベイルートに集まりました。この記事の執筆者、シンガポール出身でイギリス在住のスウィー医師もその中の一人です。30年という年月が流れていますから当時の関係者たちもみんなだいぶ年を取っていましたが、とても小柄なスウィー医師は後ろから見たら子どもにしか見えませんでした。こんな小さな女性が本当に大虐殺現場や野戦病院で執刀していたのだろうかと目を疑いたくなるくらいでした。
スウィー医師自身、祖国であるシンガポールから追われて長年イギリスで亡命生活を強いられてきました。また、熱心なクリスチャンとしてイスラエルを支持して育ちました。その彼女が、30年前のイスラエルのレバノン侵攻とそれに続くサブラとシャティーラの大虐殺で、パレスチナ人と出会い、彼らを知り、一生の友達になりました。ともすると閉塞感が先行して希望を失いがちになってしまうパレスチナ問題ですが、彼女は大虐殺から30年経った今、パレスチナ人の中に何を見たのでしょうか。
(前書き:宮地葉月、翻訳:荒井雅子、解説・訳注:岡真理 / TUP
「サブラ・シャティーラ大虐殺」については、末尾の解説をご覧ください。)
希望について学んだこと――サブラ・シャティーラの大虐殺30周忌によせて
アン・スウィー・チャイ
今年、レバノンのパレスチナ難民が、サブラとシャティーラの大虐殺から30周忌を迎えようとしている中、レバノンはシリアから逃れてきた何千人もの難民を受け入れています。私たちは国際社会の断固とした姿勢の下、紛争が早く終わり、シリア難民が帰還できるよう祈っています。
64年前の1948年にも、レバノンは難民を受け入れました。パレスチナの街や村での大虐殺と破壊を逃れた75万人のパレスチナ人の一部でした。難民たちはテントに入れられ、帰還の権利を約束されました。しかしパレスチナの地のほとんどがイスラエルと名を変え、そのため難民とその子孫はレバノンに留まることになりました。国連の運営する12の公式難民キャンプに散り散りに住む彼らは、今日世界で400万人に上るパレスチナ人ディアスポラ[訳注1]の一部です。パレスチナ人にとっては、自分たちの土地を収奪された根本原因に取り組む熱意を欧米主要国からまったく感じられず、祖先伝来の故郷への帰還権への実質的支援もまったく得られません。
[訳注1]
国連に登録されている難民(登録難民=国連から支援を受けている人々)は、2012年1月段階で 470万人である。また、64年前に難民となったが、現在、国連の援助を必要とせず、たとえばクウェイトやアメリカのパスポートを所持し、国連に難民登録していない、いわゆるディアスポラのパレスチナ人も含めると、その数はそれをはるかに上回る。
毎年9月、何百人ものパレスチナ人、そして世界中から訪れる友人たちがシャティーラ・キャンプの殉難者広場に集まります。広場には、サブラ・シャティーラの大虐殺で殺された人たちのうち1000人が葬られています。私たちは無残に命を断ち切られた人たちを思い、悼むのです。彼らが忘れ去られてしまわないように。そして彼らの家族に弔意を捧げます。
30年前の1982年8月、若手ボランティア医師として[レバノンに]やって来た私は、ベイルート南部のサブラ・シャティーラパレスチナ難民キャンプにあったガザ病院で活 動することになりました。ボーンアゲイン(再生)派原理主義クリスチャンとして私は、イスラエルを強く支持していました。その夏、イスラエルの爆撃機による容赦ないレバノン空爆をテレビで見ていました。数え切れない人びとが殺され、その中には多くの子どももいました。病院、工場、学校、家々が瓦礫の山と化しました。レバノンの人間はテロリスト集団であるPLO(パレスチナ解放機構)をかくまっているのだから苦しんで死ぬのは当然だとイスラエル寄りのクリスチャンの友人たちは言いましたが、私は納得できませんでした。レバノンの人びとの役に立ちたいと考え、それで、「クリスチャン・エイド」が負傷者の手当てを手伝う外科医を求める要請に応えて、イギリスの勤務先の病院を辞め、ベイルートに向かったのです。
中東に来るのは初めてでした。それまでパレスチナ人の存在をまったく知りませんでした。欧米の一般メディアは、テロリストPLOのことしか報じません。PLOはユダヤ人を憎み、爆弾を仕掛け、飛行機を乗っ取る。PLOはレバノンに拠点を築いており、イスラエルはレバノンがPLOを追い払うのを支援しているのだから、そのためにたとえレバノン中が瓦礫と化してもいいと言うのです。イスラエルのある政治家はこう宣言しました。「オムレツを作るにはまず卵を割らねばならない」と。
私が着いたのは、10週間にわたる激しい爆撃で破壊されたベイルートでした。攻囲のために食糧、水、医薬品が不足していました。家を失った人々が荒れ果てた駐車場や学校にあふれ、道端で眠る人さえいました。通りかかって案内されたアッカ病院は、5階建ての建物が瓦礫ともつれた鉄筋と化していました。アッカ病院は、シャティーラ・キャンプで一番の大通り、サブラ通りの端にあります。サブラ通りのもう一方の端にあるのがガザ病院で、こちらは10階と11階が砲撃で崩れていましたがまだ建っていました。どちらもパレスチナ赤新月社の最新鋭の病院で、国際赤十字社の旗が翻っていたにもかかわらず、どちらも標的とされたのです。私は整形外科の責任者として再開の支援をするため、ガザ病院に配属されました。
私の到着後まもなく、PLOがベイルートを撤退しました。イスラエルがさらなる空爆を中止し、攻囲を解くための条件として求めたのです。残していく家族の安全が守られるという保証を欧米主要国から受け、1万4000人に上るPLOの壮健な男女がベイルートを去りました。去っていた中には戦士もいましたが、医師、講師、労働組合活動家、広報担当者、技術者、技師といったPLOの文官もいました。PLOはパレスチナ人の亡命政府でした。こうして、レバノンでは、爆撃で殺された人びとに加えて、1万4000の家族が稼ぎ手――多くの場合、父親や長男――を失いました。
停戦は3週間しか続きませんでした。停戦協定によってベイルートの民間人の保護を任された多国籍平和維持軍が突然撤退しました。9月15日、イスラエルの戦車数百台がベイルート南部と西部に侵攻しました。その一部がシャティーラ・キャンプを取り囲み、封鎖して、住民が逃げ出せないようにしました。イスラエル軍は、同盟者であるキリスト教徒民兵の一団をキャンプに送り込みました。9月18日イスラエル軍戦車がキャンプ周辺から撤退したとき、3000人の民間人死者が残されていたのです。
ガザ病院の私たちのチームは、18日までの72時間休みなく働いていましたが、銃を突きつけられ、患者を残してサブラ通りを通ってキャンプを出るよう命じられました。地下の手術室から外に出たとき、私は辛い真実を知りました。私たちが数十人の命を救おうと必死になっていたとき、何千人もの人たちが殺されていたのです。ベイルートの暑い太陽の下、すでに腐敗している死体もありました。
大虐殺の映像は私の記憶に刻み込まれました。キャンプの小道に累々と並ぶ、切り刻まれた死体。ほんの数日前まで、命と希望に満ちた生きた人間だった死体。家を建て直し、PLOの撤退後は攻撃されることなくわが子を育てられると信じていた人たち。彼らは、崩れた自宅に私を迎え入れ、アラビア式コーヒーを入れ、食べ物があれば惜しみなくふるまってくれたのです。質素な食卓でしたが温かみと好意があふれていました。破壊された生活のこと、どのようにレバノンで難民となったかを話してくれました。1948年以前のパレスチナでの家と家族の色あせた写真や、ずっと大切にしてきた大きな鍵を見せてくれました。女性たちは美しい刺繍を見せてくれました。どれも、残してきた村のモチーフでした。こうした村々の多くは、彼らが去った後、誕生したばかりのイスラエル国家によって破壊されました。
命を救えなかった患者、病院に運ばれてきたときすでに死亡していた患者もいました。後に孤児と寡婦が残されました。重傷を負ったある母親は、病院の輸血用血液の最後の一袋を自分からはずしてどうかわが子につけてほしいといいました。彼女はその後まもなく亡くなりました。女性たちが殺される前に強姦されたために、生き残った子どもたちに無残な心理的傷が残りました。
武装集団に集められた住民の怯えた顔。何とか安全なところへ連れて行ってもらおうと赤ん坊のわが子を必死で私の手に預けようとした若い母親。集団墓地が毎日掘り起こされるときの死体の腐敗臭。決して記憶から消えることはありません。死体が次々と見つかるたび、衣服の切れ端や難民身分証明書から愛する家族の変わり果てた姿とわかった女性たちのつんざくような悲鳴が、いつまでも耳にこびりついています。
サブラとシャティーラの人びとは、大虐殺の後、再び家を建て直しに戻ってきました。ガザ病院は再開しました。しかし彼らの勇気にまたしてもさらなる暴力が返ってきました。1985年から1988年にかけてシャティーラ、ブルジルバラージネ、ラシーディーエの難民キャンプが包囲・攻撃されて、2500人の難民が殺され、3万人が家を失いました。レバノン北部のナハレルバーレド難民キャンプには4万人のパレスチナ人が住んでいましたが、2007年レバノン軍によって破壊され、未だ再建は終わっていません。レバノンのパレスチナ難民キャンプは、中東でもっとも困窮した貧しいところです。
これに加えて、レバノンの法律によって、パレスチナ人は難民キャンプの外では30の職業、40の技能を活かした仕事を禁じられています[訳注2]。若い世代がどれほど絶望しているか想像に難くありません。学校を中退して肉体労働を探す若者もいます。パレスチナ人はまた、不動産を所有したり受け継いだりすることを禁じられています。こうした不当な法律が施行されている限り、パレスチナ人は難民キャンプに押し込められ[訳注3]、出口がありません。パレスチナへの帰還権を拒まれた彼らは、難民として生を受けるだけでなく難民として生涯を終え、さらに彼らの子どもたちもそうなるのです。
[訳注2]
2010年時点で、パレスチナ人が就労を禁じらていた職種は70前後に及んだ。現在は30種前後に緩和されたものの、依然、医師をはじめハイレベルの専門職に関しては就労が制約されている。
[訳注3]
レバノンのパレスチナ難民は、すべてが難民キャンプに押し込められているわけではないが、周辺アラブ 諸国の中でもっとも際立って差別されている。また、1967年の占領で「難民」となって、レバノンに密入国したパレスチナ人は、「難民」という身分すらもっておらず、難民身分証がないため、レバノン当局に見つかれば強制追放となるため、キャンプの外に出ることができない。
私にとってつらい質問ですが、ひとつ答えなければならない問いがあります。パレスチナ人がなぜ死ななければならないかではなく、彼らがなぜ難民として死ななければならないか、ということです。64年も経って、ある人の人間としての証が難民身分証明書しかない[訳注4]という状況をどうして許せるでしょう。この質問が30年間私に付きまとっています。まだ納得のいく答えはみつかっていません。
[訳注4]
レバノンではパレスチナ人は、国連に登録しているいないを問わず、身分証明書における「身分」は、「難民」とされている。
それでも近年、サブラとシャティーラの大虐殺を悼んで毎年サブラ通りを歩くとき、私たちの重い足取りは、何百人ものパレスチナの若者の参加によって軽くなります。大虐殺後の世代である彼らは、あの恐ろしい出来事のあとに、命が続いていることを思い出させてくれます。意欲と勇気にあふれ、彼らを葬り去ろうとする何人をもものともせずに今まで生き抜き、これからも生き抜いていくでしょう。
パレスチナの人たちに希望はあるのでしょうか? 64年前に祖国を失って、異国で暮らすことを余儀なくされ、基本的な市民権すら認められていません。占領下の西岸地区とガザ地区に住む人々は、包囲下にあり、壁の中に閉じ込められています。パレスチナの土地は、違法なイスラエル入植地と軍事使用によって、日々奪われています。シャティーラでは、若い世代は、惨たらしい大虐殺が影を落とす中、この世に生を受けています。傷は癒えていないのです。
けれども希望があります。パレスチナ人はすべてを乗り越えて一つの民として生き残っています。難民キャンプで若者たちと話せば、彼らが決してパレスチナを忘れていないことがわかります。自分たちの一生の間にパレスチナに戻ることはできないかもしれないけれど、子どもたちがきっと戻るだろうと彼らは言うでしょう。彼らの勇気と不屈の精神に励まされて、パレスチナの支援者・友人が世界中で日々、数を増しています。
パレスチナの人たちの生とかかわり、その惜しみない歓待を受ける機会に恵まれた私たちは、感謝の気持ちに堪えません。私たちは真の友情を見出しています。貧困も権利剥奪も人間の尊厳の妨げにまったくならないことを学びました。日々の闘いにおける彼らの勇気に敬意を表します。彼らの子どもたちに抱擁されるとき、再び新たないのちと希望が生まれます。
昨年、そのような機会がありました。パレスチナの若者のグループが、サブラ・シャティーラの記念式典に参列しに来た私たちのためにイベントを催してくれました。資金もなく資金を出してくれる人もなく、イベントは夕方殉難者広場で行われました。詩の朗読とヒップホップ。水しっくい塗りのかべに参加者のシルエットを即興で描く。そして伝統的なダブケの踊り。若者たちはほぼ全員が大虐殺後の生まれでしたので、私は直接経験したことを話すよう頼まれました。
私は1982年の出来事を思い、以下のように締めくくりました。
「大虐殺の数日後、私はサブラ通りをガザ病院に向かって歩きました。腐敗臭は耐え難いほどでした。生き残った人たちが、愛する家族の遺体を確認していました。数人の子どもたちが私を見つけ「ドクトーラ・シネ(中国人の先生)」と呼びました。ほとんどが親を亡くし、家もなく、極貧でした。子どもたちは突然私の前に立つと写真を撮ってほしいと頼みました。私がシャッターを押すとき、彼らは手を挙げてVサインを作り、「怖くなんかない」と言いました。この写真の背景は破壊された建物、集団墓地であり、無力感が漂っていましたが、前景に写った子どもたちは、それに抗うように、Vサインをした手を上げていました。その後何度もレバノンを再訪しましたが、一度もこの子たちを見つけることはできませんでした。命を落としてしまったのかもしれません。でもこの子たちはいつでも私の励ましとなってくれるでしょう。たとえ光がまったく見いだせないときにも、手を上げて脅しと死に立ち向かい、奪い去られた尊厳を取り戻すポーズをとる彼らの姿が目に見えるのです」
それ以来私は、ガザと西岸地区で多くの子どもたちに会ってきました。彼らもまたレバノンの子どもたちに劣らず勇敢で愛しい子たちです。彼らはあれほどの苦しみを経験しながら、恐れを知らず、揺るぎないのです。
サブラ・シャティーラの大虐殺の30周忌を迎えた今、私たちは、パレスチナ人がこの64年間にわたってどのように自らの生活を勇気を持って築き上げ、立て直してきたか、正義を求める彼らの闘いを私たちが友としてどのように支えられるかを考える必要があります。涙の向こうに、素晴らしい若い世代を目にするでしょう。シャティーラに再びいのちが生まれています。パレスチナの人たちとともに生きて30年、私が希望について学んだのはこのことです。
解説 「サブラ・シャティーラ大虐殺」について
1948年のイスラエル国家建国にともなう民族浄化によって、パレスチナの70万から100万と言われるイスラーム教徒とキリスト教徒が故郷を追われ、周辺アラブ諸国で難民となった。国連は、イスラエル建国によって発生したパレスチナ難民の救済のために、1950年、UNRWA(パレスチナ難民救済事業機関)を設立(1950年より活動開始)、同機関が周辺アラブ諸国の土地を借り上げ、難民キャンプを作り、テントを支給し、難民たちを収容した。シャティーラはこうした国連が設置した難民キャンプの1つ。歳月の経過とともに、シャティーラ・キャンプの北側に隣接するサブラ地区や南に隣接するビール・ハサン地区にもパレスチナ難民が多数集住することになった。
1982年6月、イスラエルはベイルートを拠点に同国を攻撃するパレスチナ武装勢力を叩くためレバノンに侵攻、その空爆により市民2万人が殺された。イスラエル軍はベイルートを包囲し、PLOの拠点を集中攻撃、8月、PLOはベイルート撤退を決定した。パレスチナ人戦士が退去し、イスラエル占領下のベイルートの難民キャンプには、非戦闘員のキャンプ住民だけが遺されることになった。1982年9月14日、次期大統領に決定していた親イスラエルのバシール・ジュマイェルが何者かに殺害され、16日から18日にかけての3日間、イスラエル軍に支援されたレバノン右派民兵たちが「テロリスト撲滅」を掲げ、サブラとシャティーラ、およびビール・ハサン地区を含めたこの地域一帯で、2000名以上のパレスチナ人住民を殺害した。また、拉致され、以後、行方知れずの者も多数いる。
国際法上、占領国は被占領下住民の安全保障に対し責任を負っているが、イスラエル軍は照明弾を打ち上げるなど、虐殺を側面援助した。当時、国防大臣であったアリエル・シャロンは事件の責任を問われ、のちに国防相を罷免されたが、この大虐殺の罪は今にいたるまで正式に裁かれていない。
原文
A lesson on hope on the 30th anniversary of the Sabra-Shatila massacre
Dr. Ang Swee Chai
尚、本記事の原文を編集したものがMiddle East Monitor
(http://www.middleeastmonitor.com/articles/guest-writers/4239-a-lesson-on-hope-on-the-30th-anniversary-of-the-sabra-shatila-massacre)
に2012年9月1日より掲載されている。
また、虐殺後、筆者が撮った難民キャンプの子どもたちの写真が以下のサイトに掲載されている。