FROM: Schu Sugawara
DATE: 2003年8月27日(水) 午前7時12分
米国こそ「ならず者国家」では。今回のイラク戦争開始へのプロセスで国際
社会のルールをことごとく破った横暴さを見て、そう思った人は少なくないで
しょう。
しかし、戦争という特殊状況を除いても、米国の「ならず者ぶり」は尋常で
はありません。またその「一国単独主義」は最近加速的に進んでいます。
それに危機感を募らせるEU諸国やカナダは、正面衝突は避けつつも、様々な
外交ルートを駆使して、米国に直言することを怠りません。
日本もただ何もかも呑み込むのではなく、米国を国際社会に引き戻す努力を
尽くすことで、国際社会に貢献する時期にきているのではないでしょうか。
(今村和宏/TUPメンバー)
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「鏡よ、鏡、この世で一番のならず者はだーあれ?」
リチャード・デュボフ
Znet, 2003年8月7日
1. 「包括的核実験禁止条約」:1996年、164カ国が調印、フランス、英国、ロシ
アを含む89カ国により批准された。米国の場合、クリントン前大統領が 1996年
に調印したものの、1999年上院によって批准を拒否され、核兵器または核開発計
画を有する国家で批准していない13カ国のひとつとなっている。2001年11月、米
国は国連軍縮安全保障委員会で、核実験禁止条約に反対する意思表示の採決を強
行させ、新型の短距離戦術核兵器開発のための核実験を再開する計画を発表した。
2. 「ABM条約(弾道弾迎撃ミサイル制限条約)」:2001年12月、米国は1972
年に締結されたこの画期的な条約から公式に離脱した。核の時代において米国が
主要な軍縮協定を破棄したのは初めてである。
3. 「生物・毒素兵器禁止条約」:1972年に米国をふくむ144カ国により批准され
た。2001年7月、米国は、現地査察規定で協定を強化する1994年議定書の内容を
協議していたロンドン会議から退場。2001年11月ジュネーブでは、米国国務次官
(軍備担当)ジョン・ボルトンが「議定書は死んだ」との公式声明を発表し、同
時にイラク、イラン、北朝鮮、リビア、スーダン、シリアの協定違反を非難した
が、非難は具体的でなく、告発理由を裏付ける証拠は提示しなかった。2002年5
月、ボルトン氏はキューバが細菌兵器の研究開発を遂行していると非難したが、
ここでも証拠は示されなかった。同月、1994年に作成された国防総省の3つの文
書により、米国が物質を破壊する(“生物付着”と“生物腐食”)攻撃的生物兵
器の開発を計画していたことが明らかになった。これは、同協定ならびに1989年
に同協定に基づいて制定された米国内法に違反する。
4. 「違法小火器の国際移動制限に関する国連合意」:2001年、米国だけが反対
票を投じた。国務次官ジョン・ボルトンは、この協定は国際社会にとって「重要
な発議」であるが、合衆国憲法で保証された、国民が武器を所有また所持する権
利を侵害する恐れがあるため、米国としてはこれを支持する「ことができないし、
そのつもりもない」と述べた。
5.「国際刑事裁判所(ICC)条約」:1998年、戦争犯罪や人道に反する罪で起
訴された政治的指導者や軍人を裁くため、ハーグに設立することに決定。1998年
7月にローマで最終協議が行われ、120カ国が調印した。クリントン前大統領は、
2000年12月に署名したにもかかわらず、中国、ロシア、イスラエルなど6カ国
とともに米国も条約に反対すると発表した。2002年5月、ブッシュ政権はこの
条約への「署名を撤回」、また、米国は同裁判所の司法権を認めず、個人を告発
する場合に証拠となる情報の提供を一切行わないと発表。米国が条約に一度署名
し、それを後に取り消すというのは、前代未聞のことである。2002年7月、IC
Cは必要とされる60カ国の批准を得て発効した。批准国には英国、カナダ、フラ
ンス、ドイツ、イタリア、スペインが含まれていた(ロシアは、その後署名した
が批准はしていない)。
2002年から2003年にかけて、米国は、お互いの国民をICCに起訴しないことを
定めた二国間協定を各国との間に調印して、ICC条約の転覆を図った。2003年
半ばまでに、37カ国との間に相互引渡し免除協定を調印。相手はほとんどがアフ
リカ、アジア、中米、東欧の貧しい小国である。例えばボスニアは、米国からの
補助金7300万米ドルを削減すると脅されて、この取引に応じた。2003年7月、
ブッシュ政権は、ICCにおける米国民の訴追免除の誓約を拒絶した35カ国に
対し、すべての軍事援助を停止した。
6. 「条約法に関するウィーン条約」:1969年、米国は調印したが、批准しな
かった。2002年5月、米国はICC条約への調印を撤回した際、各国が他の条約
に従う義務をまとめたウィーン条約にも拘束されない、と発表した。18条では、
なんらかの条約に調印した加盟国は、それを批准しない場合も、その条約の効力
を損なう行動を取ってはならない、と定めている。
7. 「米軍人保護法」2002年:ブッシュ政権は血眼(ちまなこ)になってICCの
無力化を図ってきた。この法律は、ICCへの協力を禁止し、(ICC条約)批准
国に制裁の脅しをかけるにとどまらず、いかなるアメリカ国民であっても、
ICC審判のためにハーグに身柄を確保された場合、その身柄を解放するために
「必要なあらゆる手段」を採用することを認めると定めていて、2002年11
月、大統領は法案に署名した。
8. 「地雷禁止条約」1997年:対人爆弾および地雷の使用、製造および輸送を禁
じたこの条約は、1997年のオタワ会議で123カ国によって調印された。クリント
ン前大統領は、韓国は北朝鮮の「圧倒的軍事的優位」に対抗するため地雷を必要
としている、と主張して、批准を拒否したが、この言い分は2000年6月に南北朝
鮮の指導者によって否定された。2001年8月、ブッシュ大統領は条約を拒絶した。
9. 温室効果ガスの排出を制限し地球温暖化を緩和するための「京都議定書」
1997年:ブッシュ大統領は2001年3月に、条約は「死んだ」と宣言。他のいかな
る国家もこの条約を完全に破棄することを選択していない。2001年11月マラケッ
シュ(モロッコ)会議において、ブッシュ政権は、2001年11月、議定書改定のた
めに開催されたマラケッシュ(モロッコ)会議は、米国の賛同を得られるように、
議定書の内容緩和を主な目的としていたが、米国は出席さえしなかった。2002年
2月、ブッシュ大統領は100パーセント自主努力にもとづく新たな(温室効果
ガス)排出削減計画案を発表した。米国は、国別単位で最大の温室効果ガス排出者
であり、その排出量は全世界の合計排出量の20%を占める。
10. 「クリーン・エネルギー国際行動計画」2001年:先進国G8(米国、カナダ、
日本、ロシア、ドイツ、フランス、イタリア、英国)によるジェノバ・サミット
(2001年7月)において提起されたこの計画に反対したのは米国だけだった。こ
れは、化石燃料関連の助成支出を徐々に削減し、世界全体で無公害エネルギー源
への資金投入を増やす計画である。
11. 「海洋法に関する国連協約」1982年、および、「海洋法に関する国際連合条
約第11部*の実施に関する協定(深海底採鉱)」1994年:これにより、未来世代
のために(魚類、鉱物、国際航行、海洋科学調査および海洋工学を含む)海洋資
源管理と海洋環境保全を図るための法的枠組が確定した。クリントン前大統領は
これらの条約を1994年に上院に提出したが、未だ批准されていない。135カ国が
前者の枠組み条約を批准し、100カ国が後者を批准している。条約を適用してい
く上での根本的な障害は、米国が批准していないことである。
*訳注:原文はPart IXとなっているが、Part XIの誤り
12.国連の「生物多様性条約」に関する「生物安全性に関するカルタヘナ議定書」
2000年:バイオテクノロジーが生んだ遺伝子組み換え生物によってもたらされる
危険から生物の多様性を保護するため、130カ国によって支持された国際条約。
現在までのところ、13カ国によって批准され、英国、カナダ、フランス、ドイツ、
イタリア、アイルランド、南北朝鮮、中国、インド、インドネシア、アルゼンチ
ン、メキシコを含む95カ国以上が調印している。米国は長らく、このような議定
書には根拠がないとして批准しておらず、今後もその見込みはない。
13. 「経済的スパイ活動および、電話、Eメール、ファックスの電子的監視に関
するEU会合」2001年5月:米国の「エシュロン」プログラムの下で行われるこ
うした活動について、EU諸国との間で話し合いを持つための低レベル事務協議
さえ拒否した。一方で、米国はEUの「ガリレオ」プロジェクトに対する反対姿
勢を一層強めた。「ガリレオ」は全世界を網羅した衛星ナビゲーション・システ
ムで、グローバル・ポジショニング・システム(衛星測位システム:GPS)の
ライバル的存在となり得る。GPSは、米国防省の資金提供およびコントロール
によって世界全体で数多くの企業や個人利用者にサービスを提供しており、すべ
ての利用データは米国によって監視および記録されている。2001年12月、米国防
副長官ポール・ウォルフォヴィッツはEUに対し、ガリレオは「将来のNATO
運営にマイナスの結果」をもたらし、GPSを妨害することになるだろう(実際
は、互換性を持つよう設計されている)、と発言した。2002年3月、EUは
「ガリレオ」プロジェクトを推進し、2008年には運用にこぎつける予定と発表し
た。
14. 「OECD(経済協力開発機構)主催の多国間会議」2001年5月、パリ:
オフショア国(税金逃避国、非課税地域)を通じて行われる脱税や資金洗浄など
の「悪質な税金のがれ競争」に終止符を打つための方法を論じた会議。米国は出
席を拒否した。米国財務長官ポール・オニールは「世界の税金システムの協調を
計るための構想に参加するつもりはない」との声明を発した。
国連の支援を受けて行われたウィーンでの交渉では、米国とEUは全世界を対象
とした「汚職防止条約」の議案に関しても論争を繰り広げている。ヨーロッパは、
この協定で企業と政府の両方を網羅する意向だが、米国は政府への限定を求めて
いる。
15. 「人種差別反対世界会議」(人種主義、人種差別、排外主義および関連の不
寛容に反対する世界会議)2001年9月:UNESCO(国連教育科学文化機構)
および国連人権高等弁務官事務所の主催によって開催され、163カ国が参加した。
米国は、多くの参加代表団が反イスラエルおよび反ユダヤ主義であると主張して
会議から退席。会議の最終声明では「他国の占領下にあるパレスチナ人の窮状に
対する懸念」が表明され「パレスチナ人の自決および独立国家樹立の必然的権利
およびイスラエルを含む該当地域のあらゆる国家の安全の権利が確認された。」
16. 39年間続いている米国によるキューバに対する不法な制裁:ブッシュ2世の
下、一層強化されている。2002年11月、国連総会は11年連続となる経済制裁の終
結を求める決議を173対3の賛成多数で採択した。1992年に総会においてはじめ
てこの問題が協議されて以来、最大の賛成票数である。例によって、米国、イス
ラエル、マーシャル諸島がこの決議に反対票を投じた。
17. 米国は1984年にUNESCO(国連教育科学文化機構)を脱退、以来
UNESCOの予算負担金の支払いを停止:その口実は、「新国際情報通信秩序
(NWICO)である。これは、UNESCO単独のプロジェクトではなく、UNESCOを含む複数の機関による提案で、発展途上国が西側のメディア、報
道機関、広告会社に依存する度合いを緩和することにより、世界の通信体系を変
えていくために打ち出された計画。NWICO計画は1989 年に中止されたが、
それにもかかわらず米国はUNESCOへの復帰を拒否した。1995年、クリント
ン前政権は再加入を提示したが、その動きは議会で阻止された。2000年2月、米国
はようやく国連の未払い分担金の一部を支払ったが、UNESCOは支払い項目
から除外された。ブッシュ大統領は、2002年9月にイラク攻撃の承認決議を求め
て国連会議に臨んだ際、UNESCOへの再加入を示唆した。
18. ハーグの国際司法裁判所(ICJ)は、1986年、米国がニカラグアにおいて
自国およびコントラ代理軍の活動を通じて「非合法な軍事力の行使」を行ったと
して、国際法違反の裁定を下した。米国は、国際司法裁判所の司法権の認知を拒
否。1988年、国連において、「国連憲章の該当条項に準じ、『ニカラグア国内で
行われた軍隊および民兵組織による反政府活動』に対して1986年6月27日に国際
司法裁判所によって下された裁定に、完全に、また即時に従うよう求める緊急決
議」が94対2で採決された(反対票は米国とイスラエル)。
19. 国連の「市民的および政治的諸権利に関する国際規約」(1966年)に関する
「選択議定書」1989年:死刑の中止を目的とし、18歳未満の死刑執行を禁止する
条項を含む。米国は調印も批准もしておらず、特に後者の条項に関しては自国を
除外し、未成年者の死刑執行を行う5カ国(他にサウジアラビア、コンゴ民主
共和国、イラン、ナイジェリア)のひとつとなっている。未成年者の死刑執行に
関しては、1997年に中国が、2000年にパキスタンが廃止した。
20. 「女性に対するあらゆる形態の差別を除去することに関する国連協約」1979
年:169カ国によって批准された。1980年、カーター元大統領は「女性差別撤廃
条約」(CEDAW)に署名したが、上院によって却下された。署名しただけで
批准に至っていない国は、米国、アフガニスタン、サントメ・プリンシペだけで
ある。
21. 「子どもの権利条約」1989年:子どもの経済的および社会的権利を守るため
の条約。米国は署名したが、批准していない。米国以外で批准していない国はソ
マリアのみ。
22. 「カイロ行動計画」:1994年に「人口と開発に関するカイロ国際会議」にお
いて179カ国に承認された。開発途上国における人口増加の抑止策のひとつとし
て「性と生殖に関する健康保険制度と健康管理」を定着させるための計画。2002
年7月、米国は国連家族計画プログラムへの年間負担金3400万ドルを打ち切り、
11月にはカイロ行動計画への支持を取り下げた。国務省の人口政策局は、この計
画は中絶の権利を示唆するもので、性行為自体を抑制する避妊策を奨励する米国
の国際キャンペーンに水を差すことになりかねない、と述べた。国連の高官は、
「これはまったく寝耳に水だ。みな驚いている」と述べている。
23. 「大量虐殺罪の防止と処罰に関する国連協約」1948年:米国は、1988年によ
うやく批准したが、執行にあたり、「武力紛争の状況下における行動」が大量虐
殺にあたるかどうかは、合衆国憲法および上院の「助言と承認」によって判断
される、などいくつかの「留保事項」を加えた。こうした留保事項は英国、イタ
リア、デンマーク、オランダ、スペイン、ギリシャ、メキシコ、エストニアなど
の国々に却下された。
24. 「拷問その他の非人道的、屈辱的処遇や処罰に反対する条約」1987年:
1994年に米国によって批准された。2002年7月、国連経済社会理事会において、
米国はこの条約を強化する議定書の採決を中止させようと動いた。議定書では、
世界各地の刑務所や拘留施設で虐待などを調査する査察システムを確立するこ
とになっていた。米国は、新計画を認めれば、自国が拘留する囚人や抑留者
(恐らくはグアンタナモ(キューバ)、アフガニスタン、そして現在イラクに
ある米国の抑留施設に監禁されている者も含む)の状況に監視の目が入ること
を許すことになるとして、異議を唱えた。
25. 「領事関係に関するウィーン協約および選択議定書」1963年:米国は長期に
渡ってこれに違反し、外国籍者を拘留しながら、母国の政府に通知することを怠
っている。1999年、2人のドイツ人ヴァルター・ルグランと弟カールはアリゾナ
州のガス室で死刑に処された。1984年に銀行員殺害の罪で逮捕されたとき、ルグ
ラン兄弟はドイツ大使館に連絡を取る権利を知らされず、ドイツ当局は法的に彼
らを援護することができなかった。1998年、国際司法裁判所(ICJ)は、米国
はこの事件において国際法を犯したとの採決を下し、米国最高裁判所に死刑執行
の中止を求めたが、最高裁は要請を却下した。2002年、メキシコは米国の地方お
よび州当局がウィーン協約に違反しているとして、米国内で死刑囚として拘留さ
れている54名のメキシコ人の死刑執行を中止させるようICJに嘆願した。2002
年8月、メキシコ大統領ヴィンセント・フォックスは、アラバマ州でメキシコ国
籍のハビエル・スアレス・メディナに対する死刑が執行されたことに抗議して、
テキサス州のブッシュ家の農場で予定されていたブッシュ大統領との会談をキャ
ンセルした。メディナは、1988年に逮捕されたとき、メキシコ政府に援助を求め
る権利を認められなかった。
2001年9月11日以降、米国の協約違反は急増しており、600名以上の「非合法戦
闘員」が、すべての法的権利を剥奪されて容疑未確定のまま、非公開軍事法廷で
の裁判を受けるべくグアンタナモその他に拘留されている。
26.エイズ、結核、マラリア、その他の病気の治療薬の価格を貧しい国の人々が
入手可能なレベルまで下げるために特許法を緩和する協約。世界貿易機構
(WTO)の米国以外の加盟143カ国すべてが2001年11月にカタールのドーハに
おける関係閣僚会議で合意した。2002年12月、米国は単独でこの協約を粉砕した。
ジュネーブのWTO本部筋によると、米国の決定は、米国の製薬諸企業の強力な
ロビー活動を受けて、ホワイトハウスが直接下したものであるという。
27. 「オレ達ならず者ナンバーワン!」の現状は、アメリカほどの幸運に恵まれ
ない国々への気前の良い援助で埋め合わされているだろうか?GDP比で測った
2002年の対外援助率ベスト3は、デンマーク(1.01%)、ノルウェイ(0.91%)、オラ
ンダ(0.79%)の順。最下位は米国(0.10%)で、英国(0.23%)の次だった。「世界的
開発と外交政策センター」誌がまとめた、先進21カ国の開発途上地域の振興への
貢献度を順位づけた2003年の指標によれば、米国は20位で、日本がいなければ最
下位となるところだった。
最強のならず者に関する上記の記録には、他の諸国に対する武力行使は含まれて
いない。米国議会調査部によれば(レポート96-119F『外国における米国軍事力
行使の事例』)、1798年から1995年までに通算251例があり、そのうち、宣戦布告
された戦争は5例のみで、軍事紛争下や紛争の恐れのある状況下、あるいは通常
の平時目的以外で、国外における軍事力行使が行われている。第二次世界大戦後
における米国の対外介入の記録については、ウィリアム・ブルム『ならず者国家』
(Common Courage Press, 2000年 邦訳『アメリカの国家犯罪全書』作品社)参照。
ソビエト連邦崩壊以降、米国は国外での軍事活動において“空前の”活発さを見
せている。「冷戦期間中、アメリカ合衆国による国外軍事介入はわずか16回であ
ったのに対し、冷戦終結後は50回近くの軍事介入に手を染めている(1989年〜
1999年)。これらの介入の多くは、ソマリア、ハイチ、ボスニア、コソボなどの
ように、米国にとって利害がないと以前は考えられてきた地域で行われた」
(米国国家安全保障委員会『21世紀、新たな世界の到来、21世紀アメリカの安全
保障』1999年9月)
訳注:本資料は2001年12月に第1稿が誕生。その後、改訂を重ね、2002年4月
28日の第4稿は、「アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署
名事務局」が2002年7月10日に和訳しています。ただし今回は種々の
追加・削除・改良により全面改訂されているので、改めて全訳しました。
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Bushwar/arrange_iraq_attack4.htm
(抄訳:池上陽子、今村和宏/TUPメンバー)
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原文:
http://www.zmag.org/content/showarticle.cfm?SectionID=40&ItemID=4009
MIRROR MIRROR ON THE WALL, WHO’s THE BIGGEST ROGUE OF ALL?
Richard Du Boff