6月17日、サウスカロライナ州チャールストンの、エマニュエル・アフリカン・メソジスト・エピスコパリアン(AME)教会で、白人の男が銃を乱射し、9人のアフリカ系米国人が殺害されました。
エマニュエルAME教会は、南北戦争より半世紀前に南部連合国のただ中に創立された、もっとも歴史ある黒人教会の1つです。1816年、それまで通っていた教会が人種隔離するようになったため、黒人信徒が退会し、自分たちの自由に礼拝できる場所を自分たちで作ったのがエマニュエルAME教会の始まりでした。奴隷を平等に迎えたこの教会はたびたび襲撃を受けました。
1822年、自由黒人デンマーク・ヴィージが奴隷の大規模な武装蜂起を計画したものの密告され、ヴィージら35人が絞首刑となりました(ハワード・ジン『民衆のアメリカ史』9章「服従なき奴隷制、自由なき解放」)。ヴィージが創立者の1人だったエマニュエルAME教会は焼き払われました。1834年南部連合国の黒人教会非合法化後も礼拝は続けられ、教会は1865年に再興されました。
乱射テロで殺害されたクレメンタ・ピンクニー牧師は、”母なるエマニュエル”教会について、「創立以来 、アフリカ系米国人の精神を、そしてさらに言えば、米国の精神を、まさに代表してきました。それは正しいこと、真実なることのために立ち上がる、不屈の精神です」と語っていました。
200年にわたって自由と平等を求める闘いの象徴となってきたこの教会で大勢の人が無慈悲に殺害されたとき、どうして「わたしはエマニュエル」というプラカードが掲げられなかったのでしょうか。ヒラリー・クリントンは、24日になってようやく乱射事件を「テロ行為」と呼びましたが、民主党大統領予備選向けの点数稼ぎと指摘されています。
以下は、「テロ」という語の恣意的な使われ方を実証し、この言葉について思考停止しないことが必要と警告するグレン・グリーンウォルドの論稿です。安倍政権が「対テロ戦争」への参加を画策している現在、「テロ」という言葉の実体を明らかにするグリーンウォルドの指摘は、日本の私たちにとっても重要だと思います。(翻訳・前書き:荒井雅子/TUP)
チャールストンの教会での銃乱射事件を「テロ」と呼ぼうとしないことは、「テロ」という言葉が無意味なプロパガンダ用語であることをあらためて示すものだ
グレン・グリーンウォルド
2015年6月19日
2010年2月テキサス州オースティンで、ジョセフ・スタックという男が、米国税庁地方支部の入っている建物をめがけて、自家用小型機を横から突っ込ませた。200人の職員がちょうど仕事を始めていたところだった。スタック自身が死亡したほか、支部長が殺され、13人が負傷した。
スタックは、狂信的な反税・反政府主義者で、標的を純粋に政治的な理由で選んだ。長大な声明文を後に残しており、その中で自身の非常にリバタリアニズム寄りの政治観を、説得力をもって展開していた(併せて、当時筆者が指摘したように、左派も共有するいくつかの反資本主義的憤りも含まれていた。たとえば「公的資金による救済措置、米国の貧困層の苦しみ、また腐敗した経済エリートと彼らに奉仕する政治家・官僚による中流階層の収奪に対する激しい怒り」を表明していた。声明はこう締めくくられていた。「共産主義の綱領は、各人から能力に応じたものを取り、各人に必要に応じたものを与える。資本主義の綱領は、各人からだまされやすさに応じたものを取り、各人に欲望に応じたものを与えるのだ」)。スタックは声明の中で、自身の政治的憤りについてこう宣言している。「暴力は答えだというだけではない。暴力こそが唯一の答えなのだ」
この襲撃には絵に描いたようなテロの要素が揃っており、建物に航空機を横から突っ込ませる、という、もっとも一般的なテロ観の見本のようなものだった。しかしスタックは白人であり、ムスリムではなかった。その結果、スタックには「テロ」という言葉が使われなかっただけでなく、当てはまらないのだということを、メディアも政府関係者もはっきりと宣言した。
事件に関する『ニューヨーク・タイムズ』紙の報道によれば、襲撃は「当初はテロ攻撃ではないかという懸念を生んだが」――操縦士の身元がわかる前の話だ――、その後「イデオロギーで動かされる典型的なテロリスト像ではなく、スタック氏は、ふだんはきさくで、才能あるアマチュアミュージシャンと言われ、結婚生活に問題を抱え、また国税当局に激しい怨みを募らせていたと言われていた」としている。
記録として権威あるこの高級紙は、「その結果」としてこう続ける。「州関係者は、いかなるテロリスト集団、テロリズムの主張ともつながりはないものと判断した」。そして「連邦政府関係者も同じ見方を強調し、この事件を犯罪として捜査すると述べた」。米国の複数のムスリム団体が、事件を「テロ」と宣言するよう求めたときでさえ、FBIは「”連邦職員に対する襲撃という犯罪”としてこのケースを扱っており、テロ行為とはみなしていない」と主張し続けた。
これと非常に明白な対照をなすものとして、2014年10月にオタワで起きた、マイケル・ゼハフ=ビボーという個人によるカナダ議会議事堂への銃撃を考えてみよう。銃撃者がイスラームへの改宗者であることがわかるやいなや、この事件は即座に一様に「テロ」と宣言された。24時間経たないうちに、スティーブン・ハーパー首相は事件をテロと宣言し、それを名目として新しい「テロ対策」権限を求めさえした(その後、この権限を手に入れている)。テロというレッテルを裏付けるため、政府は、ゼハフ=ビボーがジハード主義者とともに戦うためにシリアに向かうところだったと主張し、メディアはこの「事実」を喧伝した。
銃撃翌日の国民への演説でハーパーは、「このテロリスト、および存在した可能性のある共犯者」についてさらに調べると誓い、厳かにこう言った。「この事件は、世界中のほかの場所で私たちが目にしてきたテロの類と、カナダも無縁ではないという苦い現実をあらためて示すものです」。世界中のツイッター・ユーザーが大挙して、ムスリムの襲撃を受けた街のためだけに(なぜか)使われる(しかし自国政府の襲撃を受けた街々のためには使われない)、連帯のハッシュタグ「#OttawaStrong」を使った。つまり、これは「テロ」である、というのは、襲撃者がムスリムだということ以外何もわからないうちに押し付けられる通念だった。
実際には、襲撃者がムスリムであって暴力を西洋人に向けたという事実以外、この襲撃には「テロ」の典型的特徴はないといってよいことが今ではわかっている。事件後数日ないし数週間のうちに、ゼハフ=ビボーが重篤な精神疾患を患っており、「精神的に不安定になっていたらしい」ということが明らかになった。軽犯罪で一度ならず逮捕された前歴があり、精神分析治療を受けていた。複数の友人の記憶によれば、現実的な政治観を披露したことはなく、その代わり、悪魔に取り付かれたと言っていた。
カナダ政府は最終的には、ゼハフ=ビボーがシリアに行く準備をしていたという当初のメディアでの発言が全面的に偽りであったことを認めざるをえなくなり、「単なる間違い」だったと片付けた。ゼハフ=ビボーについて、単にムスリムだという事実と暴力に訴えたという事実だけでなく、本当のことが知られるようになった今、カナダの大多数の人は彼に「テロリスト」というレッテルを貼ることができるとは考えなくなり、襲撃は精神疾患によって引き起こされたものと考えている。何も知らない人々が「テロリスト」という用語を即座に適用した理由は一つ、ムスリムで暴力に訴えたということであり、これは9/11後の欧米では、事実上、この用語のただ一つの実際的定義となっている(最近、この用語が稀に非ムスリムの人々に使われる場合には、この言葉を耳にしたときふつう思い浮かべることとは似ても似つかない行為を行った少数派に使われるのが典型的だ)。
サウスカロライナ州チャールストンにある、黒人信徒の多い教会で祈りを捧げていた9人のアフリカ系米国人に白人民族主義者が銃を乱射した忌わしい事件に、「テロ」という用語が適用できるかどうか。このことをめぐる昨日の議論には、こうした重要な背景がある。事件のほぼ直後から、ニュース報道は「テロの兆候はない」と伝えた――この意味は、乱射したのはどうやらムスリムではないらしいということだ。
しかし、襲撃者がムスリムでなかったということを別にすれば、チャールストン乱射事件は最初から、通常「テロ」と理解されるものの特徴をもっていた。特に、容疑者は明らかに憎しみをむき出しにした人種差別主義者であり、教会での目撃者に、自分はアフリカ系米国人を力ずくで「出て行かせ」たいという願望と人種的憎悪から行動していると語っていた。容疑者の暴力は、自身のゆがんだ政治的目標の副産物であり、その目標の宣伝と推進を狙ったものであり、明らかに、自分の憎むコミュニティを恐怖に陥れることを目的としていた。
だからこそ、多くのアフリカ系米国人やムスリムのコメンテーターや活動家は、「テロ」という用語を適用するよう主張したのだ。襲撃者がムスリムで犠牲者が主に白人であれば即座に「テロ」という烙印を押されるほかの行為と、まったく同じように見え、同じように感じられ、同じ匂いがしたからだ。少なくとも、9/11以後の欧米での主な使われ方がそうだったように、「テロ」とは、暴力に訴えた者が誰であって標的となったものが誰であるかということに関する用語だと、結論せざるを得なかったし、それは今も変わらない。そのレッテルを貼られた行為についての中立的で客観的な判断とは何の関係もないことは明らかだ。
ここで重要なのは、まったく頭の整理のついていない一部のコメンテーターが示唆したように、「テロ」という用語を、現在の適用範囲以上に拡大しようとすることではない。私はこの10年間、この用語の悪用やそれによるごまかしを実証し、記録することに全力を注いできたようなものだが、そういう私からみても、用語の適用範囲の拡大などまったく要らない。
しかし私はまた、ムスリムでない人々が自らの特権的な場所に安住して、この用語やその悪用が隅に追いやられたあの集団だけにかかわる話だと胸をなでおろすことも望まない。そして特に起きてほしくないのは、この「テロ」という用語が、とりわけ忌わしい暴力を指し示す、何か客観的な区別をもった、一貫して適用される語だという、どこから見ても有害な神話がこのまま続くことだ。私は、この用語がどういうものか、その本質が認識されるようにしたいと強く思っている。この言葉は、どのようにでも変わりうる、操作された、くだらないプロパガンダ用語であり、その適用に一貫性はまったくない。この現実を認識することが、「テロ」という用語のもつ力を削ぐためには決定的に重要だ。
「テロ」という語がまったく融通無碍であることを証明する例は、枚挙に暇がなく、ここですべて挙げることはできない。しかし過去10年間だけでも、欧米の政治家やメディア関係者によって、アフガニスタンの侵略占領軍に対抗して暴力を行使したムスリムを非難するために、あるいは自国を侵略占領する軍と戦うイラク人の支援を目的に資金集めをするムスリムに対して、あるいは、多くの戦争を戦う軍の兵士を攻撃するムスリムを指して使われてきた。言い換えれば、欧米に対するムスリムの暴力は何でも、本質的に「テロ」なのだ。たとえ、戦争中の兵士だけを標的にしたものであっても、あるいは、侵略と占領に抵抗することを目的としたものであっても。
これとは著しい対照として、ムスリムに対する欧米の暴力は決して「テロ」ではあり得ない。どれほど残虐で非人道的で、無差別に民間人を殺害するものであっても。米国は、テロを行う意図の古典的な宣言として、米国によるバグダード侵略を「衝撃と畏怖」[作戦]と呼ぶことができ、恐怖に陥った村や町の上空に絶えず無人殺人機を飛ばすことができ、ファッルージャで何世代も後まで影響の続く暴虐を働くことができ、イスラエルとサウジアラビアによる無力な民間人住民の殺傷に武器を資金を提供することもでき、そしてそのどれも、「テロ」と呼ばれることなどもちろんあり得ない。第一、加害者が違うし、犠牲者も違う。
さらに、米国はこの用語をずっと公然ともてあそんできた。今でこそ倫理的英雄と一般に見られているネルソン・マンデラは、数十年にわたって米国では公式に「テロリスト」だった(そして、それゆえCIAは同盟関係にあったアパルトヘイト体制がマンデラを捕らえることに手を貸した)。イラクは、テロリストのリストに載せられ、その後リストからはずされ、また載せられた。その時々の米国の国益にどんな名称がもっとも合うかに基づいて。イランのカルト集団MEKは、長い間「テロ集団」とされていた。米政界の有力者に金を弾んでリストからはずしてもらうまでは。それはちょうど、米国がイラン政府に罰を与えたがっていた時期だった。レーガン政権は、中南米の古典的なテロ集団に武器と資金を提供する一方、ソ連とイランがテロ支援国家であるとして制裁を求めた。こういうことが何を意味するのであれ、一貫した、客観的な意味のある用語なら、このような使われ方はしない。
多くの学問的研究によって、「テロ」という用語が、中身のない、定義のない、常に操作されているものであることが明らかにされている。ハーバード大のリサ・スタンプニツキーは、「研究者が”テロ”という概念の適切な定義を確立できない」ことを実証している。「テロ」の概念は根本的に、イデオロギー的な目標や利己的な操作に付きまとわれている。ニュージーランドの国立平和紛争研究センターのリチャード・ジャクソン教授が指摘するように、「テロ研究において、確固とした根拠のある”知識”として受け入れられていることの大半は、実は、かなり疑わしく、揺らいでいるものであり」、さらに「欧米国家が重視するものに偏って」いる。レミ・ブルリンは、「テロ」の言説を専門とする学者であり、この用語が初めから、定まった意味を持つ語ではなく、高度に操作されたプロパガンダ用語だったということを、ずっと実証してきた――「テロ」とは、欧米とイスラエルによる暴力を正当化し、彼らの敵の側の暴力を非合法化することを主たる目的とする用語だった、と。
中でももっとも驚くべきことは、「テロ」――これほどたやすく、頻繁に操作される、定まった意味を持たない語――が、いまや私たちの政治文化と法律的枠組みにとって中心的なものとなり、私たちが世界観をどう教え込まれるかの不可欠な要素になっていることだ。この言葉は常に、際限なく繰り出される過激な政策や権限を正当化するために、あたかも科学的正確さを備えた用語であるかのように持ち出されている。イラク攻撃に始まって、拷問、際限のないドローン殺戮、監視社会、そのほかさまざまなことが、「テロ」の名の下に正当化されている。
実は、筆者がたびたび論じてきたように、この言葉は、何でも正当化するが、何も意味しない。人々がそのことに気づき始める、あるいは少なくともそのことに違和感を持つようになる唯一の方法はおそらく、隅に追いやられた少数派だけでなく、自分たち自身も、この言葉のもつ弾力性、無意味性によって吹き飛ばされかねないということが明らかになったときだろう。そうはさせまいとする動きにはこと欠かない。だからこそ、昨日の教会での大虐殺のような、非ムスリムの白人の犯した忌むべき暴力が「テロ」という言葉で呼ばれることがこれほど稀なのだ。しかし、だからこそいっそう、この用語が公平な一貫した意味で使用される状況に少しでも近づくことを強く求める理由がある。
原文
Refusal to Call Charleston Shootings “Terrorism” Again Shows It’s a Meaningless Propaganda Term
By Glenn Greenwald
June 19, 2015