今から四年前、米海軍特殊部隊(SEALs、以下ネイビーシールズ)の一団が、パキスタンのアボタバードにある、高い塀をめぐらした屋敷に夜襲をかけ、中にいたウサーマ・ビン・ラーディンを暗殺した。この殺害は、オバマ在任一期目の見せ場であり、再選の大きな要因となった。ホワイトハウスはいまだに、この作戦がすべて米国の単独工作であったとし、パキスタン軍上層部の将官や統合情報総局(ISI)[訳注:パキスタン軍の諜報機関]には事前に通告していなかったと主張している。これは偽りであり、オバマ政権の説明にある他の多くの要素もまた嘘である。ホワイトハウスの手になるこの物語は、ルイス・キャロルが書いたとしてもおかしくない内容だ。大掛かりな国際的捜索の標的であるビン・ラーディンが、住む場所として、またアル=カーイダの作戦を指揮する場所として、イスラマバードから六〇キロほどのリゾート都市を、本当に最も安全な場所と判断するものだろうか?ビン・ラーディンは誰にでも見えるところに身を潜めていたのだ。それが米国の言い分だった。
最も露骨な嘘は、パキスタン軍最高幹部の二人、陸軍参謀長アシュファク・パルヴェズ・カヤニ大将とISI長官アフメド・シュジャ・パシャ中将が、米国の作戦について一切知らされていなかったというものだった。ホワイトハウスはいまだにこれを公式見解としているが、疑問を投げかける報告は多数存在する。その一つが、二〇一四年三月一九日付の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』誌に掲載されたカーロッタ・ガルによる報告だ。『ニューヨーク・タイムズ』紙のアフガニスタン特派員を一二年間務めたガルは、ビン・ラーディンがアボタバードにいたことをパシャは襲撃前から知っていたという話を、一人の「パキスタン政府当局者」から聞いたと書いている。この話は、米国およびパキスタンの政府当局者たちに否定され、それ以上追及されることはなかった。イスラマバードにあるシンクタンク、「リサーチおよびセキュリティ研究センター」代表イムチアズ・グールは、著書『パキスタン――ウサーマ以前と以後(二〇一二年刊:仮題)』の中で、パキスタン軍はこの作戦について知っていたはずだという話――地元で広く受け入れられている見方を反映するものだ――を、四人の覆面諜報員が明言していたと述べている。
この問題が再び頭をもたげたのは、今年二月、一九九〇年代初期にISI長官を務めたアサド・ドゥラニ中将(退役)がアルジャジーラのインタビューに応えて、次のように語った時だった。ビン・ラーディンがどこに隠れ住んでいたかをISIの幹部将校が知らなかったということは「大いにあり得る」ものの「知っていた可能性のほうが高かった。ビン・ラーディンの居場所はしかるべき時が来たら明かされる、という意図だった。しかるべき時期とは、必要な交換条件が揃ったときだ――ウサーマ・ビン・ラーディンのような人物を手に入れているのに、どうぞと米国に差し出すようなことはしないだろう」
この春、わたしはドゥラニに連絡し、ビン・ラーディン襲撃について米国の情報提供者から聞いたことを詳しく伝えた。ビン・ラーディンは二〇〇六年からアボタバードの敷地でISIの拘束下に置かれていたこと。カヤニとパシャは襲撃について事前に知っており、ネイビーシールズをアボタバードに送り込む二機のヘリコプターが警報を引き起こさずにパキスタン領空を通過できるよう手配したこと。CIAがビン・ラーディンの居場所を知ったのは、ホワイトハウスが二〇一一年五月から主張しているように、ビン・ラーディンの伝令を追跡したことによってではなく、米国が提供した二五〇〇万ドルの報奨金のほとんどと引き換えに秘密を漏らしたパキスタンの元幹部諜報将校から得た情報によるものであったこと。そして、確かにオバマが襲撃を命令し、ネイビーシールズのチームが実行したのだが、政権による説明のその他多くの側面は嘘であること。
「あなたの見解が表に出たら――もし表に出すならの話ですが――パキスタンの人々は心から感謝することでしょう」とドゥラニはわたしに言った。「もうずっと前から、人々はビン・ラーディンに関して当局職員の口から出る情報を信用しなくなっています。なんらかの非難がましい政治的コメントや多少の怒りの表出はあるでしょうが、人々は本当のことを話してもらうほうが好きですし、今お話しいただいたことは、基本的に、この事件後に事実調査任務に関わった元同僚からわたしが聞いたことそのものです」。アボタバードにビン・ラーディンがいることを米国に通告した密告者がいたこと、そしてビン・ラーディン殺害の後で米国に約束を破られ、カヤニとパシャが危うい立場に曝されたことを、ISIの元長官の一人として、襲撃の後すぐに「情報に通じた『戦略関係』の人々」から告げられた、とドゥラニは言った。
以下の見解は主として、ビン・ラーディンがアボタバードにいることについて当初の諜報を知りうる立場にあった、米国の諜報分野の元高官からの情報提供に基づく。この元高官はまた、襲撃に備えたネイビーシールズの訓練に関する多方面の内情にも、作戦後の多様な報告にも通じていた。あと二人の米国の情報提供者は、裏付け情報へのアクセスがあり、特殊作戦軍[訳注:米軍(陸軍・海軍・空軍・海兵隊)の特殊作戦を統括する司令部]の顧問を長年務めてきた。またパキスタン国内からは、ビン・ラーディン死亡のニュースを即時に公にしたオバマの判断に関して、ISI幹部および軍幹部の間に遺憾の念が広まっている、という情報を入手した――この遺憾の念は後にドゥラニも口にしている。ホワイトハウスは、コメントの求めに応じなかった。
■密告
ある飛び入り密告者が事の発端だった。二〇一〇年八月、一人のパキスタン軍元幹部諜報将校が当時イスラマバードの米国大使館のCIA局長だったジョナサン・バンクに接触してきた。この人物は二〇〇一年に米国政府が提示していた報奨金と引き換えにビン・ラーディンがどこにいるかをCIAに教えてもいいと持ちかけた。飛び入り密告者は信頼できないというのがCIAの認識であり、CIA本部はポリグラフ(嘘発見機)チームを飛行機で送り込むことで対応した。飛び入り密告者はこのテストをクリアした。「そのようなわけで、ビン・ラーディンがアボタバードの敷地内に住んでいるという内報を受けたが、本当に本人なのか、どうすれば確実に分かるだろうか」というのが、当時CIAの懸案だったと、米国の元諜報高官はわたしに語った。
米国は自分たちが何を知っているのかを、最初はパキスタンに隠していた。「情報提供者の存在が知られたら、パキスタンが独自にビン・ラーディンを他の場所に移すのではないかという恐れがありました。だからごく少数の人々にしか情報提供者とその話は知らされませんでした」と、元高官は言った。「CIAの最初の目標は、密告者の情報の質を確認することでした」。当該の敷地は衛星による監視の下に置かれた。CIAはアボタバードに家を借りて前進観測基地とし、パキスタン人職員や外国人を配属した。その後、この基地はISIとの連絡場所の役割を果たすことになる。アボタバードは行楽地で、短期契約で貸し出される家屋がたくさんあるため、まったく注目を集めることはなかった。密告者の心理的プロファイルが作成された。(この密告者と家族はその後パキスタンから秘密裏に出国し、ワシントン近郊に移った。この人物は現在、CIAのコンサルタントである。)
「一〇月になる頃には、軍および諜報関係者の間で軍事的選択肢の可能性が議論されていました。バンカーバスター(遮蔽物貫通型の爆弾)を屋敷に落とすか、それともドローン攻撃で殺すか。あるいは、人を送り込んで殺害する単独暗殺スタイルはどうだろう?しかし、そうすると本人だったのかどうかを確かめるすべはなくなります」と元高官は言った。「夜歩き回っている人影が見えるのですが、敷地内からは何も発信されないので、傍受情報がありませんでした」。
一〇月にオバマはこの諜報について報告を受けた。オバマの反応は慎重だったと、この元高官は言った。「ビン・ラーディンがアボタバードに住んでいるなど、理解できないことでした。あまりにも荒唐無稽でした。大統領の態度は断固としていました。『確かにビン・ラーディンだという証拠がない限り、この話をこれ以上わたしの耳に入れるな』」。CIA幹部と統合特殊作戦コマンド(JSOC)の当面の目標は、オバマの支持を得ることだった。証拠としてDNAサンプルが手に入れば、そして例の敷地への夜襲にリスクはないと確約することができれば、支持が得られると彼らは考えた。この両方を達成する唯一の手段は、「パキスタン側の協力を得ることでした」と、元高官は言った。
二〇一〇年晩秋の間、米国はこの飛び入り密告者の存在について沈黙を守っており、カヤニとパシャの方は米国側のカウンターパートに対し、ビン・ラーディンの居所については何も情報がないと主張していた。「次のステップは、カヤニやパシャをどう懐柔してこちら側に引き入れるかを考えること――当該の敷地に価値の高い標的人物がいることを示す諜報を持っていると二人に伝え、彼らがそれについて何を知っているのか聞き出すことでした」と元高官は言った。「塀に囲まれたこの敷地は武装しておらず、機関銃などもなかった。なぜならISIの管理下にあったからです」。飛び入り密告者が米国側に話したことによれば、ビン・ラーディンは二〇〇一年から二〇〇六年にかけて、妻子たちとともにヒンドゥークシ山中に潜伏しており、「ISIは、地元の部族の何人かに金を渡してビン・ラーディンを裏切らせ、捕えた」ということだった。(襲撃後の報告では、この時期のビン・ラーディンの居場所はパキスタンの別の場所とされていた。)バンクは、さらに飛び入り密告者から、ビン・ラーディンが重病であること、アボタバード監禁当初、ISIが、パキスタン軍少佐で医師のアミール・アジズに、近くに引っ越して治療するよう命令していたことを知らされていた。「実は、ビン・ラーディンは体が不自由だったのですが、そんなことは言えません」と元高官は言った。「こう言われますよ。『身体障碍者を撃ち殺したんですか?そんな人が自分のAK−47を引っつかもうとしたとでも言うんですか?』」
「こちらが必要としていた協力を得るのに、大して時間はかかりませんでした。パキスタンは米国からの持続的な軍事支援を確保したかったからです。軍事支援の相当な割合が反テロ資金であり、ISI幹部用の防弾リムジン車や警備員や住宅など、個人の安全確保のために使われていました」と元高官は続けた。そしてさらに、ペンタゴンの帳簿外の臨時費用で賄われ、袖の下で渡される個人的な「奨励金」があったと付け加えた。「パキスタンが合意するために何が必要なのかを、諜報関係者は知っていました――アメを差し出したわけです。そしてパキスタンはアメに手を出した。これは双方にとって利益があったのです。それから、我々はちょっとした脅迫もやりました。ビン・ラーディンを裏庭に隠していることを漏らしますよとパキスタンに伝えました。彼らの味方も敵も」――パキスタンやアフガニスタンにいるターリバーンやジハード勢力のことだ――「パキスタンの行動をよく思わないだろうということを我々は知っていました」
この元高官によると、早い段階の悩みの種のひとつは、サウジアラビアの存在だった。パキスタンによるビン・ラーディンの身柄拘束以来、扶養費を負担してきたのはこの国だった。「ビン・ラーディンはサウジアラビア人だったので、サウジアラビアはビン・ラーディンの存在が我々に知れるのを嫌がり、表に出さないようにとパキスタンに求めました。我々がビン・ラーディンのことを知ったらパキスタンに圧力をかけ、サウジアラビアとアル=カーイダの関係について、ビン・ラーディンが我々に話すよう仕向けるのではないかとサウジアラビアは懸念しました。それでサウジは金を落としていたのです――多額の金を。パキスタンはパキスタンで、自分たちがビン・ラーディンを管理下においていることをサウジアラビアがうっかり漏らしてしまうのではないかと心配していた。パキスタンが怖れていたのは、ビン・ラーディン拘束のことを米国がリヤドから聞いて知るととんでもない大騒ぎになる、ということでした。飛び入り密告者から知るのは、事態としてはまだましだったのです」
表向きは絶え間なく反目し合っていたものの、米国とパキスタンの軍や諜報機関は数十年にわたり南アジアにおけるテロ対策で協力し合ってきた。両国の軍・諜報機関にとって表向き対立し合ってみせることは、元高官の言葉を借りれば「お互いのアリバイ工作のため」に有益であることが多かった。両者はドローン攻撃のための諜報を常に共有し、隠密工作で協力していた。同時に、アフガニスタンにいるターリバーン幹部との関係を維持することがパキスタンの国家安全保障にとって欠かせないと考える勢力がISI内部に存在することを、ワシントンは理解していた。ISIの戦略的目標は、カーブルにおけるインドの影響力を相殺することにある。さらにパキスタンではターリバーンは、カシミール紛争でインドに対抗する際に支援してくれるジハード派突撃隊の調達源とも見なされている。
緊張をさらに高めているのがパキスタンの核兵器だった。西側の報道では、イスラエルとの危機が発生した場合にどこかの中東の国が四面楚歌状態になれば、パキスタンから移される可能性のある「イスラームの爆弾」としばしば言われている。一九七〇年代にパキスタンが兵器システムを構築し始めた時に米国は見て見ぬふりをしたのであり、今ではパキスタンは一〇〇基以上の核弾頭を保有しているという認識が広く共有されている。ワシントンでは、自国の安全保障はパキスタンとの強力な軍事および諜報の連携を維持できるかによっていると理解されている。パキスタン側も自国の安全保障と米国との関係について同じように考えている。
「パキスタンの軍隊は、軍を家族として見ています」と元高官は言った。「将校は兵士をわが息子と呼びますし、将校は皆『兄弟』です。米国の軍隊とは、考え方が違う。パキスタンの幹部将校は自分たちがエリート階級であり、イスラム原理主義を迎え撃つ炎の守り人として、すべての国民を守らなければならないと考えています。さらに、パキスタンは、インドからの侵攻に対する切り札が米国との強力な関係であることを知っています。パキスタンが我々との個人的な繋がりを断ち切ることはありえません」
CIA支局長の例に漏れず、バンクは覆面職員だったが、二〇一〇年一二月初め、身元が割れた。息子と弟を米国のドローン攻撃で殺されたと地元ニュースで報じられたカリーム・カーンというパキスタンのジャーナリストが、イスラマバードでバンクを公に殺人罪で訴える刑事訴訟を起こしたのだ。バンクの名前を出して訴えることを許したのは、パキスタン当局側による外交プロトコル違反であり、余計な注目を集めることになってしまった。バンクはパキスタンを出るようCIAに命じられ、CIA職員たちはその後、バンクの異動は身の安全のためだったとAP通信に語った。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、バンクの名前をカーンに漏らすのにISIが一役買ったという「強い疑惑」があると報じた。バンクの身元を暴露したのは、二〇〇八年のムンバイでのテロ攻撃にからんで長官をはじめとするISIの高官たちの名前が一カ月前にニューヨークでの訴訟で公にされたことに対する報復だとする推測があった。しかし、元高官が言うには、CIAがバンクをすすんで米国に送り返したのには、副次的な理由があった。「パキスタンには、米国と協力してビン・ラーディンを厄介払いしたことが露見した場合の言い訳が必要でした。こう言うことができるからです。『え?私のことですか?米国の支局長を追い出したばかりですよ』と」
■取引
ビン・ラーディンの屋敷はパキスタン軍士官学校から三キロそこそこの場所にあり、そこからさらに一キロ半ほど先には、パキスタン軍の戦闘大隊本部があった。ISIの隠密工作にとって重要な基地であり、パキスタンの保有核兵器の警備隊員を訓練する施設があるタルベラ・ガジは、アボタバードからヘリコプターで一五分以内の距離だ。「そもそもISIがビン・ラーディンをアボタバードに住まわせた理由は、ガジがあり、ビン・ラーディンを継続的な監視下に置くことができるからです」と元高官は言った。
この早い段階では、オバマにとってリスクは高かった。テヘランで米国人人質を救出しようとして失敗した一九八〇年の厄介な前例があったからだ。その失態は、ジミー・カーターがロナルド・レーガンに敗れる一要因となった。オバマの懸念には現実味があった、と元高官は言った。「本当にビン・ラーディンはそこにいるのか。この話全体がパキスタンの策略なのではないか。失敗した場合の政治的な揺り戻しはどうだろう」。元高官が言ったように、結局のところ、「もし工作が失敗したら、オバマは『黒人のジミー・カーター』でしかなくなり、再選はありえなくなる」
ビン・ラーディン本人に間違いないという確証を、オバマはどうしても欲しがった。証拠はビン・ラーディンのDNAという形で提供されることになっていた。襲撃の計画者たちは、カヤニとパシャに助力を求め、二人はアミール・アジズに検査サンプルを採取するよう命じた。襲撃のすぐ後で、報道機関はアジズがビン・ラーディンの屋敷の近くに住んでいたことを発見した。地元の記者が戸口の表札にウルドゥー語で書かれたアジズの名前を見つけたのだ。パキスタンの高官はアジズとビン・ラーディンとは何の関係もないと否定したが、アボタバードにいるのがビン・ラーディンであることがDNA鑑定で明らかになったため、二五〇〇万ドルの褒賞の一部はアジズに与えられたと、元高官はわたしに語った。(アジズはその後、ビン・ラーディン襲撃を調査するパキスタンの調査委員会に出頭し、アボタバードでの襲撃を目撃したが、屋敷に誰が住んでいたのかは知らなかったし、その場所には近寄らないよう上司から命じられていたと証言した。)
任務の実行方法をめぐって交渉が続いた。「カヤニは、最終的には我々に合意することになるのですが、大きな攻撃部隊を入れることには最後まで反対しました。スリムな必殺勝負でなければならないと。そして必ずビン・ラーディンを殺すのでなければ、取引はしないと」。元高官はこう言った。合意は二〇一一年一月末に成立し、統合特殊作戦コマンド(JSOC)はパキスタンへの質問リストを作成した。「外部の介入がないことをどうやって保証してもらえるのか。屋敷内の防衛はどのようなもので、屋敷の正確な寸法はどのくらいか。ビン・ラーディンの部屋はどこにあり、正確にはどれくらいの大きさか。階段は何段あるか。ビン・ラーディンの部屋に行くドアはどこにあるか、鋼鉄で強化されているか。その厚みは?」。パキスタンは、ネイビーシールズ、CIAの作戦要員、二人の通信専門家からなる米国の四人組小部隊が、来るべき攻撃を準備する連絡事務所をタルベラ・ガジに設置することに合意した。その頃には、米軍はネバダにある秘密の元核実験施設にアボタバードの屋敷の実物大模型を構築し、精鋭ネイビーシールズのチームが攻撃のリハーサルを始めていた。
米国はパキスタンへの支援を削減し始め――元高官の言葉では「蛇口を閉め始め」――ていた。一八機の新しいF16戦闘機の供給は延期され、上級幹部への現金賄賂の支払いも停止されていた。二〇一一年四月に、パシャはCIA本部で長官レオン・パネッタと面会した。「パシャは米国が金の流れを再開するという約束を取り付け、我々のほうはこの作戦中にパキスタンからの反攻はないという保証を得ました」と、元高官は言った。「パシャはさらに、パキスタンが米国の対テロ戦争への協力を怠っているというような不満を漏らすのは止めるよう、米政府に強く求めました」。その春のある時点でパシャは、パキスタンがなぜビン・ラーディン捕獲を秘密にしていたのか、ISIの役割を伏せておくことがなぜ肝要なのかについて、米国側にあけすけな説明をした。元高官によると、パシャはこう言ったという。「アル=カーイダとターリバーンを監視するには人質が必要でした」。高官は続けた。「ISIはビン・ラーディンを使ってアフガニスタン、パキスタン両国内のターリバーンやアル=カーイダの活動に対する歯止めにしていました。もしISIの利害と衝突するような作戦を実行したら、ISIはビン・ラーディンを米国に引き渡すつもりがあることを、ターリバーンやアル=カーイダの幹部に知らせていた。ですから、我々がアボタバードにいるビン・ラーディンを殺すことにパキスタンが手を貸した、などということが知れたら、
この元高官とCIA内の情報提供者の一人によると、パネッタとの面会の一場面で、パシャに対して、自分が実質的にはアル=カーイダやターリバーン側の工作員としての役割を担っていると思うかという質問が、あるCIAの上級高官から出た。「パシャの返事はそうは思わないというものでしたが、それでも、多少の支配力をもつことはISIにとって必要だと答えました」。CIAがこの発言から読み取ったのは、この元高官によれば、カヤニやパシャはビン・ラーディンを「利用可能な一つの資源と考えており、彼らの関心は、米国よりも自分たち[自身]の生き残りにあるということでした」
ISI上級幹部に近いあるパキスタン筋は、わたしにこう言った。「米国の最上層部との取引がありました。我々はまったく嫌々ながらでしたが、やらねばならなかった――個人的な利益が理由なのではなく、米国からの支援プログラムのすべてが打ち切られてしまうからです。米国の代表は我々に、やらなければ飢え死にさせるぞと言い、パシャがワシントンにいるうちにOKが出されました。この取引で単に蛇口が開きっ放しになるだけではなく、パキスタンにとってもっといいことがあるぞとパシャは言われました」。パシャの訪問の結果として、米国は、アフガニスタンから軍事的撤退を始めるときパキスタンにアフガニスタンでの「自由裁量」を与えるという約束をしたと、そのパキスタン人は言った。「だから、我が国の最高権力者たちは、これは我が国のためだと言ってこの取引を正当化したのです」
■殺人計画
パシャとカヤニには、パキスタン軍や防空司令部がこの作戦に使われる米国のヘリコプターを決して追跡したり、交戦したりしないようにする責任があった。タルベラ・ガジの米軍小部隊は、ISI、アフガニスタンの司令基地にいる米軍幹部将校、そして二機のブラックホークヘリコプターとの間の連絡を調整する役割を担っていた。目標は、国境警備にあたっているパキスタンの戦闘機が、何らかの理由で命令を逸脱してしまい侵入者を見つけて侵入阻止の行動を起こす、ということがないようにすることだった。当初の計画では、襲撃のニュースはすぐには発表してはならないことになっていた。JSOCのすべての部隊は厳格な秘密の下に行動しており、JSOC幹部は、カヤニやパシャと同様に、ビン・ラーディン殺害について少なくとも七日間、またはそれ以上の間、公にしてはならないと考えていた。その後、注意深く構築された作り話が発表されることになっていた。国境沿いのヒンドゥークシ山脈のアフガニスタン側でビン・ラーディンがドローン攻撃により殺されていたことがDNA分析の結果確認されたとオバマが発表する。米国の作戦計画者は、カヤニとパシャに、協力が表沙汰になることは決してないと請け合った。パキスタンの役割が知られたら――多くのパキスタン人にとってビン・ラーディンは英雄だった――抗議の暴動が起き、カヤニやパシャやその家族が危険に曝され、パキスタン軍が公に面目を失うことは皆が理解していた。
この時点で、ビン・ラーディンが生き延びる可能性はないということは全員にとって明らかだった、と元高官は言った。「パシャは四月の会議で、ビン・ラーディンがあの屋敷にいることが知られてしまった以上、そのまま置いておく危険を冒すことはできないと、我々に言いました。パキスタンの司令系統内に、この作戦について知っている人間が多すぎる。パシャとカヤニが防空司令部の司令官たちと地元の司令官数人に一部始終を話さなければならなかったからです」
「勿論、分隊の連中は標的がビン・ラーディンであり、パキスタンの管理下でそこにいるということを知っていました」と、元高官は続けた。「でなければ、この作戦を上空援護なしに実行するわけがない。これは明らかに、完全に、計画殺人でした」。過去一〇年間に似たような作戦を十数回指揮し参加した元ネイビーシールズ司令官は、わたしに断言した。「我々はビン・ラーディンを生かしておく―テロリストの延命を許す、というつもりはありませんでした。法に照らせば、自分たちがパキスタン国内でやっていることは殺人だというのはわかっている。我々はそのことと正面から向き合ってきました。こういった作戦を実行する時、皆、自分にこう言いきかせるのです。『やむを得ない、これからやることは殺人だ』と」。ホワイトハウスの当初の説明では、ビン・ラーディンは武器を構え威嚇したと主張されていた。この物語は、米国政権による標的暗殺プログラムの合法性に疑問を呈した人々の矛先をそらすことを狙ったものだった。この戦略に関わった人々の発言が広く報道されていたにもかかわらず、もしもビン・ラーディンがすぐに降伏したならば生きて捕らえられたはずであると、米国は頑に主張していた。
■襲撃
アボタバードの屋敷では、ISIの警備兵が二四時間態勢でビン・ラーディンと妻たちや子どもたちを監視していた。警備兵は、米国のヘリコプターのローターの音をきいたら即時にその場を去るよう命じられていた。街は暗かった。ISIの命令で、襲撃が始まる数時間前から電力供給が切断されていたのだ。ブラックホークの一機が敷地の壁の内側に墜落し、乗員の多くが負傷した。「連中はTOT(目標到着時間)が厳密でなければならないことを知っていました。突入する時に街全体が目を覚ますからです」と元高官は言った。墜落したブラックホークのコックピットは、通信やナビゲーション用機器もろとも衝撃手榴弾で破壊する必要があり、それが一連の爆発をひき起こして、火の手が何キロも先からも見えた。アフガニスタンから二機のチンヌックヘリコプターが兵站支援のために近隣のパキスタン諜報基地に飛んできていたが、そのうち一機が即時にアボタバードに派遣された。しかし、このヘリコプターは二機のブラックホーク用の予備燃料袋を搭載していたため、まず兵員輸送機として再構成する必要があった。
ブラックホークが墜落し、代用機を送り込まなければならなかったことで、神経を擦り減らし、時間を食ったが、ネイビーシールズ部隊は作戦を続行した。屋敷内に進入するとき銃撃戦はなかった。ISIの警備兵は立ち去っていた。「パキスタンでは誰もが銃を持っているし、アボタバードに住むような富裕層の有力者は武装した護衛を置いているものだが、この屋敷内には武器がなかったのです」と、元高官は指摘した。何らかの反撃があったのであれば、このチームは極めて危険な状況に置かれていたことだろう。ところが、元高官によれば、同行してきたISIの連絡将校が暗い家の中にネイビーシールズを誘導し、階段を上ってビン・ラーディンが住む部屋へ向かったという。一階と二階の間の踊り場では重い鋼鉄の扉が吹き抜けを遮っていると、ネイビーシールズはパキスタンから警告を受けていた。ビン・ラーディンの部屋は三階にあった。ネイビーシールズの分隊は爆薬を使い、だれも怪我させることなく、この扉を吹き飛ばした。ビン・ラーディンの妻の一人が狂乱状態で泣き叫び、一発の弾丸が――多分、流れ弾だろう――膝に当たった。ビン・ラーディンを撃った銃弾以外には、発砲は一切なかった。(オバマ政権は別の説明をしている。)
「彼らは、標的がどこにいるのかを知っていました――三階、右側の二番目の扉」と元高官は言った。「そこへ直行する。ウサーマはうずくまり、寝室に逃げ込む。二人の狙撃者がその後を追って銃弾を撃ち込む。実に単純、実にあっけない、実にプロらしい狙撃でした」。後に、ホワイトハウスが「ネイビーシールズは自衛のためにビン・ラーディンを撃った」と当初は主張していたことを聞き、隊員の一部は開いた口がふさがらなかった、と元高官は言った。「ネイビーシールズの中でも最も優秀で経験豊富な下士官六人が、丸腰の年老いた民間人を前にして、自衛のために殺さなければならなかった?その家はボロボロで、ビン・ラーディンは、窓には鉄格子がつき、屋根には有刺鉄線が張られた小部屋に住んでいました。交戦規則では、ビン・ラーディンがもし何らかの反撃に出たら、致死的行動を起こす権限がネイビーシールズには与えられていました。しかし、例えば長衣の下に爆弾ベストをつけているなど、何らかの反撃手段を持っているかもしれないと疑われる場合にも、ビン・ラーディンを殺すことができた。というわけで、怪しい長衣をまとった男がいて、彼らはその男を撃ったわけです。男が武器に手を伸ばしたからではない。交戦規則が、ネイビーシールズにこの男を殺す絶対的な権限を与えたのです」。ビン・ラーディンの頭部に一発ないし二発の銃弾が撃ち込まれたという、後にホワイトハウスが行った主張は、「でたらめです」と、元高官は言った。「分隊は扉から姿を現し、ビン・ラーディンを木っ端みじんにしました。ネイビーシールズの常套句の通り、『蹴りを喰らわして息の根を止めた』のです」
ビン・ラーディンを殺した後、「ブラックホークの墜落で負傷した隊員も数人いて、ネイビーシールズはそのまま現場に待機し、救出ヘリコプターを待っていた」と元高官は言った。「緊張の二〇分。ブラックホークはまだ炎上中。街に灯りはない。電気もない。警察もいない。消防車もない。拘束者も一人もいない」。ビン・ラーディンの妻たちや子どもたちはISIが尋問し、身柄を移すために残された。「一方的な話ばかりまかり通っているが」と元高官は話を続けた。「ゴミ袋いっぱいのコンピューターや記憶装置などありませんでした。連中はビン・ラーディンの部屋で見つけた何冊かの本や書類をバックパックに詰め込んだだけでした。ネイビーシールズを送り込んだのは、ホワイトハウスが後になって報道機関に話したように、ビン・ラーディンがそこにアル=カーイダの作戦の司令塔を構えていると考えていたから、ではない。それに、ネイビーシールズはその家の中で情報を収集する諜報専門家ではありませんでした」
通常の襲撃作戦では、ヘリコプターが墜落したとしてもそこでぼんやりと待っているなどということはありえない、と元高官は言った。「ネイビーシールズは作戦を終えるや否や、銃や装備を放り投げ、墜落しなかった方のブラックホークにぎゅうぎゅう詰めで乗り込んで、ディディマウしたはずだ」――ベトナム語のスラングで急いで逃げるという意味――「ドアの外に何人かぶらさがったままの状態で撤退したはずです。安全だと知っていたのでなければ、ヘリコプターを爆破するようなことはなかったでしょう――どんな通信機器であろうと数人の命と引き換えにはできない。ところが、彼らは屋敷の外でぶらぶらと迎えの”バス”が来るのを待っていました」。パシャとカヤニは自分たちの約束をすべて守ったのだった。
■演説
ホワイトハウス内の舞台裏では、作戦が成功したことが明らかになるや否や論争が始まった。ビン・ラーディンの遺体はアフガニスタンへ向かっていると考えられていた。オバマはカヤニとパシャとの約束を守り、一週間ほどたってから山岳地帯でのドローン攻撃でビン・ラーディンが殺されたように見せかけるべきか、それともすぐに発表するべきか。墜落したヘリコプターの件のおかげで、オバマの政治顧問たちは後者を主張しやすくなっていた。爆発や火球を隠すことは不可能であり、何かが起きたらしいという噂は必ず漏れる。オバマはペンタゴンの誰かがやる前に「舞台の真ん中に躍り出る」必要があった。遅れると政治的なインパクトを失ってしまう。
誰もが賛同したわけではない。国防長官ロバート・ゲイツは、パキスタンとの約束は守らなければならないと主張した人々の中でも最も歯に衣着せぬ物言いをした。ゲイツは回顧録『任務(仮題)』の中でも怒りを隠さなかった。
我々が解散し、大統領が米国民に何が起きたのかを話すために二階へ向かう前に、ネイビーシールズがビン・ラーディン作戦で使ったテクニック、戦術や手法は、毎晩アフガニスタンで使われている、ということ……をわたしは皆に再度念押しした。だからこの襲撃作戦の詳細を公開しないと約束することは非常に重要だった。我々が言わなければならないのは、彼を殺したということだけだ、とわたしは言った。その部屋にいた全員が詳細についてはだんまりを決め込むことに合意した。その約束が守られたのは約五時間だけだった。最初のリーク元はホワイトハウスとCIAだった。自慢と功名争いを待ちきれなかったのだ。リーク情報の中には事実関係の間違いがかなりあった……それでもなお、情報はひたすら溢れ続けた。わたしは激怒し、ある時点で[国家安全保障担当補佐官、トム・]ドニロンに「なんだってどいつもこいつもさっさと口を閉じないんだ?」と言った。しかし無駄だった。
元高官によれば、オバマの演説は急ごしらえのもので、補佐官たちはこれを政治的な文書とみており、国家安全保障担当官僚の機密情報取扱許可が必要なメッセージとはみていなかったという。ご都合主義の不正確な文言を並べたこの演説は、その後数週間、大混乱を引き起こすことになる。
演説でオバマは、ビン・ラーディンがパキスタンにいることをオバマ政権が知ったのは、その前年の八月、「糸口となる可能性のあるもの」を通じてだったと述べた。多くのCIA関係者にとって、この文言は、飛び入りの情報提供のような特定の出来事を暗示するものだった。発言は新手の作り話につながった。ビン・ラーディンからアル=カーイダへの矢継ぎ早の作戦司令を伝達する伝令ネットワークがあって、CIAの優秀な分析官がそれを暴いたのだ、とするものだ。オバマはまた、「少人数の米国人チーム」が、民間人の巻き添えを避けるよう配慮したことを賞賛して、こう言った。「銃撃戦の末、チームはウサーマ・ビン・ラーディンを殺害し、遺体を収容しました」。こうなると、作り話にさらに二つの細部が必要になった。起こらなかった銃撃戦の描写と、遺体がどうなったかという話だ。オバマの演説はパキスタンに対する賞賛へと続く。「対テロ作戦へのパキスタンの協力のおかげで、ビン・ラーディンとその隠れ家に辿りつくことができた、ということを申し上げておかねばなりません」。この発言は、カヤニとパシャのことを暴露する恐れがあった。ホワイトハウスは、オバマの発言には素知らぬ顔をすること、そして、マスコミと話す人間全員に、パキスタンはビン・ラーディン殺害に何の役割も果たしていなかったと強調するよう指示することで乗り切ろうとした。オバマの演説は、ビン・ラーディンがアボタバードにいたことを、オバマも補佐官たちも確実には知らず、「その可能性がある」という情報しかもっていなかったという印象を強く残した。このことはまず次のような話につながった。ネイビーシールズは、本人を殺害したことを確定するために、身長一八〇センチの隊員を遺体の隣に横たわらせた(ビン・ラーディンは身長一九〇センチ超と知られていた)という話だ。その後、遺体のDNA検査が行われてネイビーシールズが殺害したのはビン・ラーディン本人だと結論づけられた、という話になった。しかし元高官によれば、ネイビーシールズの初期の報告からは、ビン・ラーディンの遺体、あるいはその一部でさえもアフガニスタンに戻ったかどうかは確かではないと言う。
■取り繕い
元高官によれば、オバマが前もって発言内容のチェックを受けずに演説する決断をしたことに困惑した官僚はゲイツ一人ではなかったが、「抗議したのはゲイツだけでした。オバマは単にゲイツを裏切っただけではない、全員を裏切ったのです。これは、”戦争の霧[訳注]”なんかじゃない。パキスタン側と合意があったこと、もし何か問題が生じたら何を開示すべきかという不測の事態の分析がなかったこと――これは議論すらされていなかった。そしてひとたび齟齬が生じたら、急遽、新しい作り話をひねり出さなければならなくなりました」。ごまかしにもそれなりの理由はあった。パキスタン人の飛び入り情報提供者が果たした役割を伏せておく必要があったのだ。
ホワイトハウス記者団は、オバマの演説後まもなく、次のようなブリーフィングを受けた。ビン・ラーディンの死は、側近として知られる一人をはじめとした伝令グループの追跡に的を絞った「何年にもわたる、慎重かつきわめて先進的な諜報収集活動の成果」だ、と。特別に集められたCIAと国家安全保障局(NSA)の分析官のチームが、その伝令を起点にして、アボタバードにある、セキュリティを固めた一〇〇万ドルの屋敷まで辿りついたのだ、という話だった。数カ月の監視の末、米諜報関係者は、価値の高い標的がその屋敷に住んでいるという「強い確信」をもち、「[それが]ウサーマ・ビン・ラーディンであるという可能性が高いと評価」された。米軍の襲撃チームが屋敷に入るときに銃撃戦となり、ビン・ラーディンのほかに、三人の成人男性――うち二人は伝令とみられている――が殺害された。ビン・ラーディンは身を守ろうとしたか、と問われて、ブリーフィングをした官僚の一人はそうだと言った。「ビン・ラーディンは襲撃部隊に抵抗しました。そして銃撃戦の中で殺害されました」
翌日、当時オバマのテロ対策担当上級補佐官だったジョン・ブレナンは、オバマの勇気を称えつつ、演説の中にあった誤りの取り繕いを図るという任務を受け持った。襲撃とその計画についてブレナンが提供した話は、細部にわたるものだったが、誤解を招くという点で変わりはなかった。ブレナンは珍しく、公表を前提とする発言を行い、この作戦を実行したのはネイビーシールズの一団であり、可能ならビン・ラーディンを生かしたまま身柄を確保せよという指示を受けていたと述べた。また、パキスタン政府あるいはパキスタン軍の誰かがビン・ラーディンの居場所を知っていることを示唆する情報を、米国はもっていなかったとも言った。「我々は、米軍の人員全員、航空機全機がパキスタンの領空を出るまで、パキスタン当局と接触しなかった」。ブレナンは、襲撃を命じたオバマの決断の勇気を力説し、ホワイトハウスは、襲撃が始まる前は、「ビン・ラーディンがその屋敷にいることを確認する」情報は持っていなかったと言った。オバマの「決断は、最近の記憶の中でどの大統領よりも肝の据わったものだったとわたしは考える」とブレナンは言った。屋敷内でネイビーシールズによって殺害された人数については五人とした。ビン・ラーディン、伝令とその兄弟一人、ビン・ラーディンの息子、そしてビン・ラーディンをかばったとされる女性たちのうち一人だ。
ビン・ラーディンはネイビーシールズに発砲したのか――何人かの記者はそう聞いていた――と問われて、ブレナンは、この後ホワイトハウスのお題目となることを唱えた。「ビン・ラーディンは、自分のいた家の敷地に入った者たちと銃撃戦を行った。ビン・ラーディンが発砲したかどうかは、率直に申し上げて、わたしは承知していない。……この襲撃を招いたビン・ラーディンは……正面玄関からずっと奥まった区画に住み、女性たちを盾として前に置いて、その後ろに隠れていたわけで……[このことは]ビン・ラーディンという人間の本性をあらわにするものとわたしは考える」
ゲイツは、米諜報当局が水責めなどの拷問で得た情報からビン・ラーディンの居場所を突き止めたのだという、ブレナンとレオン・パネッタ[当時、CIA長官]が押し通そうとした話にも異を唱えた。「こういったことはすべて、ネイビーシールズが作戦を終えて帰国の便に乗っている間に進められたんです。CIAの連中なら話を全部知っていますよ」と元高官は言った。「やったのは、”年金受給者”のグループです」(年金受給者とは、請負契約で活動を継続している、元CIA職員のことだ。)「彼らは、作戦を計画したCIAの誰かに、作り話を手伝ってくれと呼び出された。やってきた古顔たちは、ビン・ラーディンについての情報の一部を強化尋問で得たと認めてはどうかと言った」。そのころワシントンでは、拷問を実行したCIA工作員が訴追される可能性がまだ取り沙汰されていた。
「それはうまく行かないと、ゲイツは彼らに言ったんです」と元高官は語る。「ゲイツはまったく噛んでいなかった。キャリアの最後の最後にこんなナンセンスに関わり合いになるものじゃないとわかっていました。しかし、国務省、CIA、ペンタゴンは作り話に乗りました。オバマが全国放送のテレビに登場して、襲撃のことを発表するなどと、ネイビーシールズの誰も考えていなかった。JSOCは怒り心頭でした。彼らは作戦の機密を保つことを誇りにしていました」。JSOCには懸念があったと元高官は言う。「もし作戦の本当の話が漏れたら、ホワイトハウスの官僚たちは、ネイビーシールズに責任をなすりつけるのではないか」と。
ホワイトハウスは、ネイビーシールズの口を封じることで収束を図った。五月五日、ネイビーシールズ襲撃チームの全員――バージニア州南部の基地に帰還していた――と、JSOC幹部の一部に、ホワイトハウス法務局が作成した守秘義務文書が提示された。公的にであれ私的にであれ、作戦について話した者は誰でも、訴訟と民事処罰の対象になると警告されていた。「ネイビーシールズは面白くなかった」と元高官は言った。しかし当時JSOC司令官だったウィリアム・マクレイヴン海軍大将はじめ、大半は口をつぐんだ。「ホワイトハウスに裏切られたことを知って、マクレイヴンは怒り心頭でした。しかし彼は、骨の髄までネイビーシールズ隊員で、当時は政治的策士ではなく、大統領を内部告発しても何の栄光もないことを知っていました。オバマがビン・ラーディンの死を公にしたとき、みなで寄ってたかって、新しい話をでっち上げてつじつまを合わせなくてはならず、襲撃の計画者たちは貧乏くじを引いて身動きがとれなくなりました」
数日のうちに、初めの誇張や歪曲のいくつかがあからさまになり、ペンタゴンは、一連のコメントを出して説明を補った。いや、ビン・ラーディンは撃たれて殺されたとき、武器を持っていなかった。いや、ビン・ラーディンは妻の一人を盾にしたりしなかった。こうした間違いは、作戦の詳細を何としても知りたがった記者にホワイトハウスが応じようとしたことから起こる、不可避の副産物だったと説明され、マスコミはこの説明をおおむね受け入れた。
しぶとく残っている嘘は、ネイビーシールズが戦いながら活路を開いて標的に辿りついたという話だ。公に発言しているネイビーシールズ隊員は二人しかいない。二〇一二年九月、マット・ビソネットによる襲撃の直接証言『アメリカ最強の特殊戦闘部隊が「国家の敵」を倒すまで NO EASY DAY』(熊谷千寿訳、講談社、二〇一四年)が発表された。二年後、ロブ・オニールがフォックス・ニュースのインタビューを受けた。二人ともすでに海軍を辞めていた。ビン・ラーディンを狙撃した二人の話は、多くの細かい点で食い違っているが、全体的にはホワイトハウスの話を裏打ちするもので、特に、戦いながらビン・ラーディンに迫っていくとき、殺すか殺されるかの状況だったという話を補強している。オニールは、自分も同僚のネイビーシールズ隊員も「自分たちは死ぬだろう」と思ったとまで、フォックス・ニュースに語っている。「訓練をすればするほど、わかってきた……片道切符の任務になるだろうということが」
しかし元高官の話では、ネイビーシールズは最初の上官への報告の際、銃撃戦については何も触れず、それどころか反撃があったという話すらなかったと言う。ビソネットとオニールが劇的な状況や危険を描いてみせたのは、根深く染み付いた欲求に沿ったものだと元高官は言う。「まったく無抵抗のビン・ラーディンを殺害したなどという事実を、ネイビーシールズは認めるわけにいかない。だからこそ、危険に立ち向かう勇敢なネイビーシールズの話が必要なんです。連中が酒場で時間をつぶしながら、あれは楽な一日だったね、などと言うだろうか。ありえませんよ」
屋敷内で銃撃戦があったと主張するのには、もう一つ理由があると元高官は言った。反撃に遭わなかったのなら当然問われる質問を避けるためだ。ビン・ラーディンの護衛はどこにいたのか。言うまでもなく、世界最大のお尋ね者テロリストならば二四時間体制の警備がされているはずだ。「そして殺された者の一人は例の伝令でなくてはならなかった。なぜならそのような人物は実在せず、したがって証人として連れて来ることもできないからです。パキスタンは、話を合わせるしかなかった」。(襲撃の二日後、ロイターは、ISI要員から買ったという、三人の男性死者の写真を掲載した。うち二人は後に、ISIのスポークスマンによって、件の伝令とその兄弟だとされた。)
■「宝の山」
襲撃の五日後、ペンタゴンの記者団は一組のビデオテープを提示された。ネイビーシールズが一五台ものコンピューターとともに屋敷から運び出した膨大なビデオテープの一部だ、と米政府官僚は言った。うち一本の断片には、毛布にくるまった青白い顔のビン・ラーディンが一人、テレビで自身のビデオ映像らしきものを見ている様子が映っていた。匿名の官僚は記者団に言った。襲撃で「宝の山……幹部テロリストの資料の収集物として、単独では過去最大のもの」が手に入り、これでアル=カーイダの計画にきわめて重要な洞察が得られるはずだ、と。官僚によれば、資料が示しているのは、ビン・ラーディンが「依然としてアル=カーイダのリーダーとして、戦略、作戦、戦術上の指示を与えており……名目上のリーダーどころか、アル=カーイダの運営の戦術的細部までも指示し」、アボタバードの司令部とされた場所から「陰謀を扇動し続けている」ということだという。「ビン・ラーディンは現役で活動中だったのであり、このため今回の作戦は、我が国の安全保障にとっていっそう大きな意味を持ちます」。さらに政権は、情報が非常に重要であるため、省庁横断でタスクフォースを結成し、情報処理にあたると付け加えた。「ビン・ラーディンは単にアル=カーイダの戦略を書く人物というだけではありませんでした。作戦行動に移せるアイデアを世に出し、他のアル=カーイダのメンバーに具体的に指示を送ることもしていました」
こうした主張は作り話だった。ビン・ラーディンが指揮権を及ぼすような活動はあまりなくなっていた。元高官によれば、ビン・ラーディンが二〇〇六年にアボタバードに移って以来、指揮下のアル=カーイダ残党と結びつけることのできるテロ攻撃は、片手で数えられるほどしかない、という指摘がCIAの内部報告にあるという。「我々が最初に知らされたのは」と元高官は言った。「ネイビーシールズが雑多なものの入ったごみ袋を提示し、諜報関係者がこうしたものから日々諜報報告を作っているということだった。その次は、諜報関係者がすべてをまとめており、それを翻訳する必要があるということだった。しかし、何も出てこなかった。彼らが作り上げた話はどの一つをとっても、本当ではないことが判明している。これは壮大なでっち上げです――ピルトダウン人[訳注**]も顔負けの」。元高官によれば、アボタバードから持ち出された資料の大半はパキスタンによって米国に引き渡されたものであり、パキスタンは後に屋敷の建物を解体して更地にした。ビン・ラーディンの妻たちと子どもたちについてはISIが責任を持っており、米国側は誰も審問することができなかった。
二〇世紀初頭、頭蓋骨の化石が猿人のものと判定され、発見場所の名を取ってこう名づけられたが、世紀半ばに捏造であることが判明した。
「なぜ宝の山の話を作り上げたか」と元高官は言った。「ホワイトハウスは、ビン・ラーディンが依然として作戦上重要だったという印象を与える必要があった。でなければ、なぜビン・ラーディンを殺す必要があるだろう。作り話がひねり出されました――メモリースティックと指示を携えて行き来する伝令のネットワークがあるのだ、と。すべて、ビン・ラーディンが今も重要人物であることを示すためです」
二〇一一年七月、『ワシントン・ポスト』紙は、こうした資料の一部をまとめたと称するものを掲載した。記事の矛盾は歴然としていた。文書に基づいて六週間で四〇〇以上の諜報報告が作成されたと書かれていた。アル=カーイダの不特定の陰謀について警告が発せられていた。そして、「ビン・ラーディンが受け取った電子メールに名前があったり描写があったりした」容疑者の逮捕の話もあった。しかし、『ワシントン・ポスト』紙ではこの容疑者は特定されておらず、さらに、アボタバードの屋敷にはインターネット接続がなかったという、政権の以前の発言との突き合わせもなされていなかった。文書から何百もの報告が作られたと主張しているにもかかわらず、『ワシントン・ポスト』紙には複数の官僚の次のような言葉が引用されていた。文書の主な価値は、そこにすぐに活用できる諜報 があることではなく、それによって「分析官がアル=カーイダについてさらに包括的な全体像を描ける」ようになることだ、と。
二〇一二年五月、ウェストポイント(陸軍士官学校)にある私的な研究グループ「テロ撲滅センター」は、ビン・ラーディン文書のうち一七五ページ分について、連邦政府との契約の下で作成した翻訳を公表した。記者たちは、襲撃後の数日間に喧伝されたドラマを一つも見つけることができなかった。[英『インディペンデント』紙の中東特派員]パトリック・コバーンは、ビン・ラーディンを「陰謀ネットワークの中心にいるクモ」とした、政権の当初の主張と、翻訳が実際に示していることとのギャップを指摘している。ビン・ラーディンは「妄想的になっており、屋敷の外の世界とは限られた接触しか」なかった、と。
元高官はウェストポイント文書そのものの信憑性に疑いを示している。「文書とCIAの対テロセンターとの間には何のつながりもありません。諜報関係者の分析がまったくない。CIAが次のようなことを、いったいいつしたことがありますか。1)重要な諜報の発見を発表した。2)情報源を公表した。3)文書の処理方法を説明した。4)提示のタイムラインを公表した。5)誰がどこで分析しているかを説明した。6)情報に基づいて行動する前にデリケートな結果を公表した。CIAのプロフェッショナルならこんなおとぎ話を誰も支持しませんよ」
■DNA
二〇一一年六月、アミール・アジズがパキスタンで尋問のために拘束されていることが、『ニューヨーク・タイムズ』、『ワシントン・ポスト』、それにパキスタン各紙で一斉に報道された。アジズのことは、ビン・ラーディンの屋敷での人の出入りを密かに監視していたCIA情報提供者と書かれていた。アジズは釈放されたが、元高官の話によれば、彼がビン・ラーディン殺害作戦に関与したという高度機密情報を誰がリークしたのか、米諜報当局は突き止めることができなかった。米政府官僚にとって「ビン・ラーディンのDNAを入手するためにアジズが果たした役割までも知られてしまうという危険を冒すことはできなかった」。犠牲の子羊が必要となり、選ばれたのが、四八歳のパキスタン人医師で一時CIAのスパイだったシャキル・アフリディだった。アフリディは、五月の終わりにパキスタン当局に逮捕され、CIAを幇助したとして告発されていた。「我々は、アフリディを追えとパキスタンに言ってやった」と元高官は言う。「DNAの入手方法の問題全体を隠蔽する必要があった」。ビン・ラーディンのDNAを入手する目的で、CIAがアフリディの助力によってアボタバードで偽のワクチン接種プロジェクトを行ったが失敗したということが、すぐに報じられた。アフリディは地元の保健当局から独立した合法的な医療活動を行っており、潤沢な資金のもと、B型肝炎の無料ワクチンを提供していた。プロジェクトを広報するポスターが地域全域に貼り出されていた。アフリディはその後、ある過激派とのつながりで反逆罪に問われ、禁固三三年の刑を宣告された。CIAが背後にいるワクチン・プロジェクトのニュースは、パキスタン各地で反発を巻き起こし、ほかの国際的なワクチン・プログラムまでもが米国のスパイ活動のカムフラージュと見られて中止に追い込まれた。
元高官によれば、アフリディが雇われたのはビン・ラーディン作戦よりずっと前であり、アボタバードと周辺地域でテロリスト容疑者についての情報を収集する、別個の諜報任務の一環としてだった。「ワクチンを村々のテロ容疑者の血液を採取する一方法として使う計画だった」。アフリディは、例の屋敷の住人からDNAを採取しようとはしていなかった。アフリディがそうしたという報告は、急遽まとめられた「CIAの作り話」であり、アジズと彼の本当の任務の隠蔽を図る拙劣な工作として、「”事実”をひねり出す」ものだった。「今その余波が出ています」と元高官は言った。「農民のために意義のあることをする、重要な人道的プロジェクトが、ねじくれたごまかしとされ、台無しにされている」。アフリディの有罪判決は覆されたが、殺人容疑で依然として獄中にある。
■遺体
オバマは演説で、ビン・ラーディン殺害後にネイビーシールズが「遺体を収容した」と言った。この発言は問題を引き起こした。当初の計画では、ビン・ラーディンはパキスタンとアフガニスタンの国境にある山岳地帯の中で、ドローン攻撃を受けて殺され、遺体はDNA検査で確認されたと、襲撃の一、二週間後に発表されることになっていた。しかし、ネイビーシールズがビン・ラーディンを殺害したとオバマが発表したため、遺体が提示されることを誰もが期待した。ところが、記者団はこう告げられた。ビン・ラーディンの遺体はネイビーシールズによってアフガニスタンのジャララバードにある米軍飛行場に運ばれ、それから、アラビア海を通常パトロール中の空母カール・ヴィンソンに直行で運ばれた、と。その後ビン・ラーディンは、死後数時間のうちに海葬に付された。五月二日のジョン・ブレナンのブリーフィングの中で、マスコミも葬送についてだけは疑念をいだき、簡潔で的確な質問を次々と繰り出したが、ほとんど回答されなかった。「ビン・ラーディンが殺害されたら海に葬られるという決定はいつ出されたか」「これも計画の一部にあったか」「なぜそうするのがいいと考えたか説明してほしい」「補佐官、このことについてムスリムの専門家に相談しましたか」「葬送の映像記録はあるか」。最後の質問が出たとき、オバマの報道官ジェイ・カーニーがブレナンに助け舟を出した。「他の方々にも質問の機会を差し上げないといけませんので」
「ビン・ラーディンの遺体にしかるべきイスラム式葬送を行う最善の方法は」とブレナンは言った。「ああした海葬ができるような行動をすることだった」。ブレナンによれば、「しかるべき専門家」に相談しており、米軍は「イスラーム法に則った」葬送を行う能力を完全に備えていたという。ブレナンは、イスラーム法では葬送の儀式はイマームが執り行うよう求められていることには触れず、空母カール・ヴィンソンにイマームが乗り合わせていたことをうかがわせる話もなかった。
『ヴァニティ・フェア』誌に掲載されたビン・ラーディン作戦の再現ルポで、多くの高官の話を聞いたというマーク・ボウデンは、ビン・ラーディンの遺体はジャララバードで清められ、写真撮影されたと指摘している。イスラーム式葬送に必要なそのほかの手続きは空母でなされた、とボウデンは書く。「ビン・ラーディンの遺体は再度洗われ、白い葬送布に包まれた。一人の海軍写真家が、五月二日月曜朝、快晴の太陽の下で葬送を記録した」。ボウデンは写真についてこう記している。
一枚の写真には、錘をつけた葬送布に包まれた遺体が写っている。次の写真では、遺体が傾斜台に斜めに横たわり、足が船外に出ている。その次では、遺体は着水している。その次では遺体は水面のすぐ下に見え、波紋が広がっている。最後の写真ではただ、水面に丸い波紋だけが写っている。ウサーマ・ビン・ラーディンの遺骸は永遠に姿を消した。
ボウデンは用心深く、自分が記事にした写真を実際に見たとは言っていない。最近になってわたしには、見ていなかったと語った。「自分の目で見られないときはがっかりするものだが、わたしが話を聞いたのは信頼できる相手で、その人物は写真を自分の目で見たと言い、詳しく説明した」。ボウデンの言葉は、行われたとされる海葬にさらに疑問を投げかける。海葬については情報公開法に基づく申請が大量に出されたが、大半は何の情報も得ていない。一つの申請では写真の提示を求めた。ペンタゴンの回答は、可能な限りあらゆる記録を調べたが、葬送の写真が撮影されたという証拠は見つからなかった、というものだった。襲撃をめぐる他の問題についての申請もやはり何も引き出せなかった。なぜ回答がなかったか、理由が明らかになったのは、オバマ政権が映画『ゼロ・ダーク・サーティ』の製作陣に機密文書閲覧を認めたという指摘について、ペンタゴンが調査を開始した後だった。二〇一三年六月にオンライン掲載されたペンタゴンの報告書は、マクレイヴン海軍大将が、襲撃に関するファイルを軍の全コンピューターから削除し、CIAに移すよう命令したことを指摘している。CIAには「作戦に関する免除規定」があるため、ファイルは情報公開法の対象にならない。
マクレイヴンの行動は、空母カール・ヴィンソンの機密指定されていない航海記録に、部外者がアクセスできなくなることを意味する。海軍では航海記録はきわめて神聖なもので、航空作戦、デッキ、エンジニアリング部門、医務室、そして指揮情報管理部で、それぞれ航海記録がつけられている。記録には、艦内の日々の出来事が時系列に沿って示される。もしカール・ヴィンソンで海葬が行われていれば、記録が残されているはずだ。
カール・ヴィンソンの乗組員の間で、葬送についての噂はまったくなかった。この空母は、二〇一一年六月に六カ月間の配備を終え、カリフォルニア州コロネードの母港に帰港している。その際、カール・ヴィンソン空母打撃軍指揮官のサミュエル・ペレス海軍准将は、乗組員は葬送について話をしないよう命令されていると記者団に語った。艦長のブルース・リンゼイ大尉も、葬送の話はできないと記者団に語った。乗組員の一人キャメロン・ショートは、イリノイ州の『ダンヴィル・コマーシャルニュース』紙に、乗組員は葬送について話を聞かされていないと語った。「ショートが知っていることは、ニュースで見たことだけだ」と同紙は報じた。
ペンタゴンは、AP通信に一連の電子メールを公開した。そのうちの一通で、チャールズ・ガウエット海軍准将は、葬儀が「イスラーム式葬送の伝統的手続きに従ったものだった」と報告しており、水兵は誰も式次第を見ることを許されなかったと言っている。しかし、誰が遺体を洗い、包んだか、あるいは、どのアラビア語話者が葬儀を執り行ったかは、何も示されていない。
わたしは襲撃後数週間経たないうちに、JSOCのコンサルタントを長年務めて現在の諜報にアクセスできる立場の二人から、空母カール・ヴィンソンでの葬送は行われなかったと聞いた。一人のコンサルタントの話では、ビン・ラーディンの遺体は、アフガニスタンに空路運ばれた後、写真撮影され、確認されたという。「その時点で遺体はCIAの管理下におかれた。カール・ヴィンソンに運ばれたというのは作り話だ」。二人目のコンサルタントも「海葬はなかった」ことを認めた。そして「ビン・ラーディンの殺害は、オバマの軍事面の業績を飾り立てるために計画された政治ドラマだった。……ネイビーシールズは政治的なスタンドプレーを予測しておくべきだった。政治家は誘惑に勝てない。ビン・ラーディンはいわば運転資産になったのです」と付け加えた。今年の初めに二人目のコンサルタントともう一度話したとき、わたしは海葬の話を持ち出した。コンサルタントは笑い出した。「つまり、ビン・ラーディンが落ちていった先に水はなかったとでもいうわけですか?」
元高官の話によれば、もう一つ厄介なことがあったのだ。ネイビーシールズ隊員の一部が、同僚や他の人たちに、ビン・ラーディンの体をライフル銃撃でばらばらにしたと自慢していた。遺体は、数発しか銃弾を受けなかった頭部も含めて遺体袋に投げ込まれ、ジャララバードまでヘリコプターで戻る間に、遺体の一部がヒンドゥークシ山脈の上空から投げ捨てられた――あるいは、そのようにネイビーシールズの一部隊員は主張した。元高官によれば、当時、ネイビーシールズは、オバマによって作戦が数時間のうちに公にされるなどとは思っていなかった。「大統領がシナリオどおりに進めていれば、殺害から数時間での葬儀など必要なかったはずです。シナリオがひとたび破綻して、ビン・ラーディンの死が公にされると、ホワイトハウスは、”遺体はどこだ”という深刻な問題を抱えることになった。米軍がアボタバードでビン・ラーディンを殺したことを世界は知ってしまった。パニックが走った。どうすればいいか。DNA鑑定でビン・ラーディン本人であることを確認したと言えなければならないため、”使いものになる遺体”が要る。”海葬”のアイデアをひねり出したのは、海軍将校でした。完璧だ。遺体なし。シャリーアに則った、名誉ある弔い。葬送の次第は事細かに公表されたが、それを裏付ける文書の情報公開法による開示は、”国家安全保障上の”理由によって拒否された。拙速にでっち上げられた作り話が破綻する典型的な形です――目前の問題は解決するが、ほんの少しでも調べれば、裏付けがない。当初は、遺体を海に運ぶ計画はまったくなく、ビン・ラーディンの海葬は行われなかった」。元高官の話によれば、もしネイビーシールズの当初の話を信じるとすれば、どのみち海に沈められるようなビン・ラーディンの体は大して残っていなかったことになる。
■政権の嘘
オバマ政権の嘘、誤った発言、裏切りが余波を巻き起こすことは避けられなかった。「協力に四年間の空白ができた」と元高官は言った。「パキスタンがテロ対策をめぐる軍同士の関係でもう一度我々を信頼するまでには、時間がかかった――世界中でテロが増加しているというのに。……パキスタンは、オバマに点数稼ぎのために裏切られたと感じた。今、関係を修復しつつあるのは、勢いを増すISIS[自称「イスラーム国」、ダーイシュ]の脅威のほうがはるかに大きく、またビン・ラーディン事件がドゥラニ将軍のような人物でも表に出て話題にできるほど過去のものになったためです」。パシャ、カヤニの両将官は引退しており、二人とも在職中の汚職のため捜査を受けていると報じられている。
CIAの拷問に関する米上院情報特別委員会の報告は、遅れに遅れた末、昨年一二月に公表された。報告書は政府が嘘を繰り返したことを証明するもので、ビン・ラーディンの伝令についてのCIAの知識はよくて断片的であり、しかもその知識は水責めをはじめとする拷問によって得るまでもなく、すでにあったことを示唆している。報告書が公表されると、暴行と水責めについて、さらには直腸栄養チューブや氷水風呂、情報を漏らしそうもない収容者に家族の強姦もしくは殺害をほのめかす脅迫の陰惨な詳細について、世界各紙が大見出しで取り上げた。悪評にもかかわらず、報告書はCIAにとっては勝利だった。報告書の主要な指摘――拷問は真実の発見にはつながらなかった、ということは、すでに一〇年以上も公的な議論の的になってきた。もう一つの主要な指摘――行われた拷問は議会に知らされていたより残虐だった、などというのは、元尋問官や元CIA官僚による公式報告や公開発表を見ていれば笑止千万だった。報告書では、明らかに国際法に違反する拷問が、規則違反あるいは「不適切な活動」、場合によっては「管理不行き届き」とみなされていた。指摘されている行動が戦争犯罪に当たるかどうかは論じられておらず、CIA尋問官もしくはその上司の誰一人として、犯罪的活動のために調査されるべきだとも提言されていない。CIAは、報告書が出た結果、何ら意味のある影響を蒙ることもなかった。
元高官の話によれば、CIA上層部は、議会からの重大な脅威の矛先を逸らせる術を身につけるようになったという。「CIA上層部がひねり出したのは、ひどいことはひどいが、最悪ではない、という事例だった。議員連中に何か恐ろしげなものを提供してやれ。”なんてことだ。収容者の尻から食べ物を押し込むなんて!” そうしておいて、殺人、そのほかの戦争犯罪、ディエゴガルシアに依然としてもっているような秘密収容所については、何も情報特別委員会に言わない。目的はまた、できるだけ時間を稼ぐことであり、実際、長引かせました」
上院情報特別委員会による報告書は要旨だけでも四九九ページに及ぶが、その主旨は、米国内での将来のテロ攻撃を防止する情報の入手にあたってCIAの拷問プログラムがどれほど有効かに関して、CIAが組織的に嘘をついていたということだった。特に、アル=カーイダ工作員で組織の最重要伝令と言われたアブー・アフメド・アル=クウェイティの身元の暴露と、その後二〇一一年初頭にアボタバードに至るアル=クウェイティ追跡に関する非常に重要な詳細の一部も、そうした嘘の一つだった。CIAがアル=クウェイティ捜査における諜報、粘り強さ、スキルと称したものは、『ゼロ・ダーク・サーティ』で映画化された後、伝説となっている。
上院報告書は、アル=クウェイティに関する情報の質と信頼性について、繰り返し疑問を投げかけている。二〇〇五年、ビン・ラーディン追跡に関するCIA内部報告書で、「拘束者たちは、利用可能な手がかりをほとんど提供していない。彼らが、我々の注意を逸らすため、あるいはビン・ラーディンについて直接の知識をもっていないと思わせるために、虚構の人物をでっち上げている可能性を考慮しなければならない」と指摘されている。一年後のあるCIA公電は、「ビン・ラーディンの居場所について、利用可能な情報をどの拘束者からも引き出すことに成功していない」と述べている。報告書はまた、ビン・ラーディンの伝令を突き止めるにあたっての「強化尋問手法」の価値について、パネッタをはじめとする複数のCIA官僚が、数回にわたって、議会と国民に嘘の説明を行ったことも明るみに出した。
オバマは今日、二〇一一年春のような再選問題には直面していない。イランとの核合意提案に対するオバマの一貫した姿勢は多くを物語っており、議会で保守派共和党の支持なしで行動する決断もまた多くを物語っている。しかし上層部による嘘は、秘密収容所、ドローン攻撃、特殊部隊の夜襲、命令系統の無視、異議を唱えかねない人間の切り捨てなどと同じように、依然として米国の政策の常套手段となっている。
原文リンク:http://www.lrb.co.uk/v37/n10/seymour-m-hersh/the-killing-of-osama-bin-laden
原題: The Killing of Osama bin Laden (2015年5月21日)
原文著者: Seymour M. Hersh