反逆者の集い
「スパナを放り込んで戦争マシンを止めることができる人は限られている。素手よりもわずかに多くを持つなら、君には特別な役割があるはずだ」
反戦の歴史家、故ハワード・ジンは常々「小さな反逆」を人々に説いていた。そして反逆する多くの人々とつながる喜びについても頻繁に語った。そんな時、ジンはいつもいたずらっ子のような笑い顔だった。
素手よりもわずかに多くを持つ反逆者、ダニエル・エルズバーグ、ジュリアン・アサンジ、エドワード・スノウデン。そして無名の内部告発者たちがジンの系譜を踏み、今、新しい歴史を綴っている。
彼ら内部告発者の支援団体「報道の自由基金(https://freedom.press)」の理事の一人であるジョン・キューザックは、ロシアに亡命しているスノウデンをエルズバーグと共に訪れるというアイデアを思いついた時、ふと、もう一人の反逆者を誘うことにした。子供のような好奇心で本質に切り込むアルンダティ・ロイだ。
エルズバーグ、キューザック、ロイ、スノウデン、アサンジ。笑いと涙が交錯するこの反逆者の集いの記録を読みながら、ジンのあの嬉しそうな顔が脳裏をかすめた。
キューザックによる記録を4回のシリーズで配信します。
(前書き:宮前ゆかり、翻訳:キム・クンミ/TUP)
エドワード・スノウデンに会いに行く-2
「将来の約束をもたらしたが、我らの舌はもつれ吠え声となる…」
夜中の3時に電話がなった。ジョン・キューザックが私に、エドワード・スノウデンに会いにモスクワに一緒に行かないかと聞いてきた…
アルンダティ・ロイ
夜中の3時に電話がなった。ジョン・キューザックからで、エドワード・スノウデンに会いにモスクワに一緒に行かないかと聞いてきた。ジョンとは何度か会っている。ばれないように大きな体の背中を丸め、黒のパーカーに収めた彼とシカゴの街を一緒に歩いた。いくつか観た、彼が脚本を書き役を演じた代表的な映画は大好きだし、ことが明るみにでて米国政府がスノウデンの首を要求したわずか数日後に「ザ・スノウデン・プリンシプル」というエッセイを書き、スノウデンの側に立っていたことも知っている。私たちはよく数時間にわたる会話をしたけれど、キューザックをまぎれもない同士だと思ったのは、彼の冷蔵庫を開けたとき、古い真鍮のラッパと冷凍庫に小さな枝角一対だけだったのを見た時だった。
モスクワでエドワード・スノウデンにぜひ会いたいと、キューザックに言った。
旅の仲間になるもう1人は、ベトナム戦争中にペンタゴンペーパーを公表した内部告発者、60年代のスノウデンともいえるダニエル・エルズバーグだった。ダンとは、10年以上前にちょっと会っている。そのとき彼は著書の「Secrets: A Memoir of Vietnam and the Pentagon Papers(秘密:ベトナムとペンタゴン・ペーパーズの回顧録)をくれた。
ダンは本のなかでかなり冷酷に自分を非難している。ぜひ一読されることを薦めるが、これを読むことでのみ、彼が84年の人生のうちおよそ50年間を罪の意識と誇りの陰鬱な組み合わせを生きてきたことが理解できるだろう。それはダンを、半分は英雄、半分は亡霊のような、複雑な葛藤を抱えた男にした。何十年も、講演し、執筆し、抗議し、市民的不服従を実行し逮捕されることによって過去の行為の償いを試みている男に。
『Secrets』の最初の数章で、1965年、彼がペンタゴンのまだ若き職員だったころ、いかにしてロバート・マクナマラの執務室から直接の命令(それは神の命令に等しい)、ベトナムのどこでもいいから、ベトコンが一般市民や軍事基地周辺を攻撃している「残虐行為の詳細」を集めるようにという命令がきたかを述べている。当時国防長官だったマクナマラは「報復行為」を正当化するために情報を必要とした。その本質的な意味は南ベトナムへの爆撃を正当化する必要があったということだ。「神」が選んだ「残虐行為」の収集人がダニエル・エルスバーグだった。
自分のベストを尽くすために統合作戦指令室に出向くことに疑いもためらいもなかった。それは私が向き合わなければならない記憶だ……端的にいうと、私は残虐行為の詳細が必要だと大佐に言ったのだ。
とりわけプレイクで、特にクイニョンでアメリカ人に対する血なまぐさい詳細が欲しかった。「血が必要です」と大佐に言った……ほとんどの報告では血なまぐさい詳細に触れていなかったが、中にはそういうものもあった。地域の代表者が村の手前で腸を抜かれ、妻や4人の子供たちも殺されていた。「すごい!こういうことが知りたかったんだ!これが欲しかったんだ!もっとないか!似たような話を見つけられないか?」
数週間のうちにローリングサンダー作戦が発表された。アメリカの戦闘機が南ベトナムを爆撃し始めた。約17万5000人の海兵隊員が地球の裏側に、ワシントンD.C.から8000マイル離れた小さな国に派遣された。戦争はさらに8年以上続くことになる。(最近出版されたベトナム戦争に関するニック・タースの著作『Kill Anything that Moves(※動くものは何でも殺せ)』のなかの証言によると、米軍がベトナムで女性や子ども、家畜を含め「動くものは何でも殺せ」という命令のもとで、村から村へと移動してやっていたことは、今ISISがやっているのと全く同じ悪質なことであり、ただそれをはるかに大きな規模でやっていたのだ。しかも世界最強の空軍のバックアップまで受けながら。
ベトナム戦争の終わりまでに300万人のベトナム人と5万8000人の米兵が殺され、ベトナム全体を数インチの鋼で十分に覆うことができるほどの爆弾が投下された。ここでダンを再び引用しよう。「これまで自分自身に説明することができなかった。なので誰にも説明できない。爆撃が開始されてからも、なぜ自分はペンタゴンの仕事をし続けたのだろう。単に出世第一主義だったからではない。自分の役割に固執したわけでも、内部から調べようと思ったわけでもない。必要なことはすべて学んでいた。その夜の仕事は今まで自分がやったなかで最悪のことだった。」
最初に『Secrets』を読み終えた時、一方でダンに敬意や同情を抱きながらも、同時に、もちろんダンに対してではなく、彼があまりに率直に、自分はその一部だったと認めた体制に対する怒りがこみ上げて動揺した。二つの感情が収束することを拒み、あきらかに並行する軌道を走っていた。私の苛立ちが彼の苛立ちに直面したときには友人になれるとわかっていたし、結局はその通りになった。
おそらく私が最初に抱いた苛立ち、ダンの立場としては明らかに勇気と良心の行動を私が簡単にそして寛大に反応することができなかったのは、ケララ州で育ったことに関係があった。ケララ州は1957年に世界で初めて民主的に選ばれた共産主義政府のひとつが権力を握った場所だ。そこには、ベトナムのようにジャングルや河、田んぼ、そして共産主義があった。私は赤旗の海、労働者の行列と「インキラーブ・ジンダバード!(革命万歳)」の合唱のなかで育った。もし強い風がベトナム戦争を数千マイル西に吹き飛ばしていたら、私は殺傷可能な、爆撃可能な、ナパーム可能な「グーク(東洋人の蔑称)」の死体となって『地獄の黙示録』に地方色を加えただろう。(アメリカは負けたけど、ハリウッドはベトナム戦争を勝利した。そしてベトナムは今や自由市場経済になっている。なのに、年数が経ってもこんなことを深く悲しんでいる私は一体何者?)
当時ケララ州ではペンタゴン・ペーパーズがなくともベトナム戦争に激怒していた。とても小さかった頃、母の柄物の巻きスカートでベトコンの女性のような恰好をして学校の弁論大会で初めてスピーチしたのを覚えている。教え込まれた憤りとともに「帝国主義の走狗」について語った。遊び仲間にはレーニンやスターリンという名前の子供らがいた。(小さなレオンやトロツキーはいなかったので、たぶんすでに追放されたか撃たれてたのね)。ペンタゴン・ペーパーズの代わりに、スターリンの粛清や中国の大躍進、そのなかで何百万人もが死んだという現実について内部告発をするべきだった。しかし、それらすべては共産党によって西洋のプロパガンダだと一蹴されたり、革命に必要な部分と釈明されていた。
私は、インドの様々な共産党政党への批判(私の小説『小さきものたちの神』は反共産主義的だとケララ州のインド共産党(マルクス主義)から批判された)やひっかかりを持ってはいたけれど、左翼の大量死(ソビエト連邦の敗北やベルリンの壁の崩壊のことを言っているのではない)が、私たちを今まさに我が身を置いているあきれるほど愚かな立場に導いたと確信している。知性に関しては少なくとも、資本主義者でさえ社会主義は立派なライバルだと認めるだろう。それは敵にさえも知性を与える。私たちの悲劇は今日、自らを共産主義者や社会主義者と称した数百万人もの人々がベトナム、インドネシア、イラン、イラク、アフガニスタンで物理的に殺害されたことだけでなく、中国やロシアが、すべての革命ののちに資本主義経済を取り入れたことだけでもない。米国で労働者階級が破壊され労働組合が解体されたことだけではなく、ギリシャが膝を折り、キューバが間もなく自由市場に同化されようとしていることだけでもない。それは、左翼の言語が、左翼の言説が隅に追いやられ根絶されようとしていることでもあるのだ。両陣営の主役が主張していた信念をすべてを裏切ったとしても、社会正義、平等、自由、富の再分配について議論がなされてた。いま私たちに残されるのはパラノイアが放つ対テロ戦争のたわごとだけだ。彼らの目的はただ戦争を拡大しテロを増大させること。今日の戦争は異常事態ではなく、一つの生活様式を維持するための体系的、論理的な企てだという事実を見えにくくすることだけだ。戦争を続け長引かせることでのみ、選ばれた少数が優雅な楽しみと洗練された快適さを享受する―ライフスタイル戦争なのだ。
エルスバーグとスノウデンに尋ねたいのは、親切な戦争?優しい戦争?良い戦争?人権を尊重する戦争?ってありえるかということだった。
正義についての会話のはずだったものをコミカルに言い代えたのは最近のニューヨークタイムズの『ビルとメリンダ・ゲイツの寝物語』だ。二人が語るのは「340億ドル使って学んだこと」であり、タイムズのコラムニスト、ニコラス・クリストフによるざっとした計算では3300万人の子供たちがポリオのような疾病から救われている。
「(ゲイツ)財団に関して多くのことをよく寝室で話します。お互いに相手をねじ伏せようと頑張るんです。」とメリンダは言った。…メリンダはビルが役人と過ごす時間が多すぎると思っていて、ビルはメリンダの現場訪問が多すぎると思っている… そしてメリンダは、互いに教えあっているとも言う。ジェンダーのことについていえば、避妊への投資は彼女がリードし、同時にビルを満足させる新しい基準を開発した。なので、15年の慈善活動から学んだ教訓で、どんなカップルにもあてはまることは…配偶者に耳を傾けろ!ということだ。(ニューヨークタイムズ、2015年7月18日)
記事は皮肉を交えずに続ける――彼らは今後15年で6100万人の子供たちの命を救うことを計画している。(つまり、同じく大雑把な計算で行くとさらに610億ドルかかることになる。少なくとも)。そのお金全部が一つの会議室/寝室にある。ビルとメリンダは夜はどうやって眠るんだろうか? 彼らに愛想よくして、良いプロジェクト案を策定すれば、資金提供してくれて、あなたなりの小さなやり方で世界を救うことができるかもしれない。
しかし真面目な話、自分たちが経営する会社から得る桁外れな利益のほんの数パーセントにすぎないとしても、そんな大金を使って一組のカップルは何をしているのだろう?その数パーセントでさえ数十億ドルにもなる。その額は世界の課題項目を決め、政府の政策を買収し、大学のカリキュラムを決定し、NGOや活動家に資金提供するに十分な額だ。それは彼らの意志どおりに全世界を形成する力を与える。政治は無視って、失礼じゃない?「善意」によるものだとしても? 何が良くて、何がそうでないかを誰が決めるの?
まあ、大雑把に言うと、これが政治的な意味で私たちの現状だ。
午前3時の電話に話を戻そう。私は、夜明け頃には航空チケットとロシアのビザを取得することを心配していた。ロシアの何とか省やどこかが承認して密封したモスクワでのホテルの予約が確認されているコピーが必要だとわかった。どうすればそんな書類が揃えられるんだろう?3日しかないというにのに。ジョンの魔法使いのようなアシスタントがその手配を整えて送ってくれた。それを見た時、心臓が止まるかと思った。ザ・リッツ・カールトン。最近の政治的な遠出といえば、数週間、毛沢東主義ゲリラとダンダカラーニャの森を歩き、星空の下で眠ったことだった。そして次がザ・リッツに行くこと?お金の問題ということだけでなく、それは…なんて言ったらいいのか…、ザ・リッツ・カールトンが実際の政治のベースキャンプや会議の場所になるなんて想像もしなかった。(とにもかくにも、リッツは「ペニスの写真」で有名なスノウデンとジョン・オリバーの会話など、いくつかの彼のインタビューに選ばれた場所であることが判明した。)
ロシア大使館に行くために、厳重に警備された米国領事館の外にできた長く曲がりくねった列を車で通りすぎた。ロシア大使館はガラガラだった。「パスポート」、「ビザ申込書」、「受け取り」と書かれたカウンターには誰もいなかった。ベルもなければ、人の注意をひくためのものは何もない。半開きのドアの向こうの奥の部屋で動き回る人々がちらりと見える。いままでのところ考えつく種類の行列という行列の歴史をもつ国の大使館に、行列がない。ヴァルラーム・シャラーモフは、コリマ・テールズ(コリマ川の強制労働収容所に関する彼の物語)で、とても鮮やかにそれを描いている。食べもののため、 靴のため、衣類のわずかなきれっぱしのための行列、ひからびたパンをめぐって死ぬほどの争い。私は、多くの人とは違い強制収容所を生き延びた、アンナ・アフマートワによる行列について詩を思い出した。まあ、生き延びたと言えるだろうか。
エジョフ・テロの恐ろしい数年間、私は過ごした、
レニングラード刑務所の行列のなかで17カ月を。
誰かが私を「認識」する。すると、青白い唇をして
私の後ろに立っていた女が、もちろん
私が名前で呼ばれたことなど聞いたことなどない、その女が目を覚ます
誰もが屈服した混迷から、そして
私の耳にささやく(そこでは誰もがひそひそ声で)
「これを描写できる?」
私は答えた「ええ、できるわ」
すると笑顔のように見えるものが
かつて彼女のものだったものの上を横切った
アフマートヴァと彼女の最初の夫ニコライ・グミリョフ、オシップ・マンデリシュターム、そして他の3人の詩人は詩人ギルド、アクメイズムの仲間だった。1921年、グミリョフは反革命活動で銃殺隊に射殺された。マンデリシュタームは彼が書いたスターリンへの叙事歌に風刺の兆しがあり、賞賛に十分な説得力がないとして1934年に逮捕された。彼はシベリアの一時収容所で、飢餓と狂気のなかで数年後に死亡した。
枕カバーや調理容器に隠された紙や、彼を愛した人びとの記憶によって生き延びた彼の詩は、未亡人とアンナ・アフマートヴァによってよみがえった。
これが、エド・スノウデンに亡命者保護を申し出た国の監視の歴史だ。スノウデンは、KGBとシュタージ(※東ドイツの秘密警察)の工作員がまるで幼稚園児のように見える監視装置を露呈したために米国政府に指名手配されている。スノウデンの物語がフィクションならば、有能な編集者なら鏡写しになった物語のシンメトリを安物の仕掛けとして却下するだろう。
ついにロシア大使館のカウンタに1人の男が現れ、私のパスポートとビザの申し込み用紙(同じく密封されスタンプが押されたホテルの予約確認のコピー)を受理した。彼は次の日の朝に戻ってくるように言った。
家に着くと本棚に直行し、ずいぶんと前にしるしをつけたアーサー・ケストラーの『真昼の暗黒』の一節を探した。ソ連政府の高官だった同志N.S.ルバショフは反逆罪で逮捕された。彼は刑務所の独房で回想する。
我らの原則はすべて正しかったが結果が間違っていた。これは病んだ世紀だ。顕微鏡の正確さで診断を下し原因を探ったが、治療のためナイフを用いるたびに新たな痛みが出現した。我らの意思は固く純粋で、人民から愛されてしかるべきなのに、我々は憎まれている。なぜここまで忌み嫌われているのか? 真実を言っても、我らの口からではウソのように聞こえた。自由をもたらしたが、我らの手の中では鞭のように見える。生き生きとした生活をもたらしたが、我らの声が聞こえる場所では木は枯れ乾燥した葉の擦れる音となる。将来の約束をもたらしたが、舌はもつれ吠え声となる…
今読むと、長く苦しい戦争を戦いもはや互いに判別がつかなくなった旧敵同士の寝物語のように聞こえる。
翌朝、私はビザを得た。私はロシアへ向かった。
原文
Exclusive: meeting ed snowden – II
“We Brought You The Promise Of The Future, But Our Tongue Stammered And Barked…”
My phone rang at three in the morning. It was John Cusack asking me if I would go with him to Moscow to meet Edward Snowden…
ARUNDHATI ROY
Nov 16, 2015
http://www.outlookindia.com/article/we-brought-you-the-promise-of-the-future–but-our-tongue-stammered-and-barked/295797