TUP BULLETIN

TUP速報1015号 スケートボードはアフガニスタン人少女を「救い」はしない

投稿日 2020年3月21日

なぜ欧米の観客は、アフガニスタン人少女が「勇気ある」ことをする心地よい話が好きか


本稿は、アルジャジーラのオピニオン欄に掲載された「Skateboarding won’t ‘save’ Afghan girls(https://www.aljazeera.com/indepth/opinion/skateboarding-won-save-afghan-girls-200308121710895.html)と題する記事の邦訳である。

米国主導で2001年に始まったアフガニスタン侵攻から19年、それに続き2003年に始まったイラク戦争から17年が経とうとしている。多くの犠牲者を出したこれらの国に、今も平和や安定はもたらされていない。このような状況の中、2020年の現在に至るまで、アフガニスタンをはじめとするイスラーム社会の少女や女性が「自分の道を切り開いていく」ストーリーは、欧米のみならず、日本でも人々のお気に入りの物語であり続けた。しかし、ともすれば心地よい感動を誘うこれらのストーリーに、警鐘を鳴らすのが本稿である。一見ポジティブに見えるストーリーが、「ソフトな武器」として、映画、本、写真などの媒体を通してどのように利用されてきたか。これらのストーリーを好む欧米の人々にどのように消費されてきたか。人種、ジェンダー、心理分析の研究者である筆者が鋭く切り込む。また、本稿で述べられる指摘の多くは、欧米だけでなく日本社会にもよく見られるメンタリティーではないだろうか。


イスラーム文化に限らず、異なる文化背景を持つ人々に関する情報は、ここ数十年で以前に比べてだいぶ手に入りやすくなった。しかし、そのコンテンツを吟味せずに消費することは、本当の理解が深まったことにはならない。様々な情報に手軽にアクセスできる時代であるからこそ、読者・視聴者はそのメッセージの裏にあるもの、ストーリーの背景にも気を配る必要があるだろう。本稿が、そのための一助となることを願ってやまない。



(前書き・翻訳:法貴潤子)

先月、『戦場でスケートボードを習う少女たち』がオスカーの短編ドキュメンタリー賞を受賞した。これはベルリンを拠点にするNGOスケーティスタンのプログラムで、スケートボードを習うアフガニスタン人少女たちに焦点を当てた映画だ。この団体は「スケートボードと創造的なアートを使った教育」を組み合わせ、「よりよい世界のリーダーになるチャンスを子供たちに与える」のが目的だと言う。

監督のキャロル・ダイシンガーはオスカー授賞式で、この映画は「あの国の勇気ある少女たちへのラブレター」だと述べ、彼女自身の言葉によれば「少女たちに勇気と、手を挙げること、私はここにいて、言いたいことがあるということ」を教えるスケーティスタンの活動を称えた。

この受賞により、『戦場でスケートボードを習う少女たち』は、欧米で制作され、高く評価されている映画や本、記事、写真などの長いリストの仲間入りを果たした。これらの作品は、苦境に立たされたアフガニスタン人女性や少女が―往々にして欧米人の助けを得て―地位向上への道を見い出す、という筋書きだ。

近年では、パレスチナ人女優リーム・ルバーニー演じる若いアフガニスタン人歌手が、売れない米国人音楽マネージャー(ビリー・ムーリー)によって「見いだされる」、バリー・レヴィンソン監督の『ロック・ザ・カスバ!(2015年)』がある。また、アンジェリーナ・ジョリーが関わったアニメーション映画、ターリバーンが支配するカーブルで貧しい家族を養うために男の子に変装する少女の話『生きのびるために(2017年)』もある。

この映画は、カナダ人作家デボラ・エリスが1990年代後半にパキスタンの難民キャンプで、アフガニスタン難民に行なったインタビューに着想を得て書かれ、数々の賞を受賞した三部作小説『生きのびるために(2001~2003年)』を元にしている。

「アフガニスタン人少女の地位向上」についての記事は、欧米メディアに頻繁に登場する。「壁画のためにどんなリスクも顧みない、アフガニスタン初の女性グラフィティ・アーティスト」、「コールドプレイ(訳注:英国のロックバンド)やボブ・マーリーの歌でギター演奏を習うアフガニスタン人少女たち」、「我々は黙っていないとターリバーンに物申す、全員女性のオーケストラ」などだ。

これら全てのストーリーは、一見すると、自分の好きなことを追うアフガニスタン人女性や少女が、社会における女性に対する規範を打ち破る物語として描かれる。彼女たちはアーティストで、型破りで、信念を持つ反逆者であり、暴力、貧困、逆境が当たり前の環境における草分け的存在、あるいはそれがどんなものであれ、今まで「聞いたことのない」この社会で初の、と形容される。

では欧米人はなぜ、エッジが効いてアーティスト風のことをする、アフガニスタンのイスラーム教徒の少女が大好きなのだろうか。欧米の観客にとって、こういったストーリーがなぜそれほど重要なのだろうか。

 これらのストーリーは、少女たちの人生から切り離された文脈で語られ、彼女らを、憐れむべきかっこうの犠牲者、称賛すべき理想のヒーローに仕立て上げる。彼女たちの成功は、イラク戦争と違って、欧米人がアフガニスタンの戦争に対して感じる良心の呵責を軽くしてくれる。アフガニスタン侵攻は「よい」戦争だった、少女や女性を「解放」し、彼女たちの社会が決して与え得なかったチャンスを与えた、と。何といっても、2001年に米国主導で行われた不朽の自由作戦という名の侵略において、「アフガニスタン人女性の解放」は崇高な大義のひとつとして宣言されていた。

こういったストーリーは、白人の救世主としての感情を奮い立たせるだけでなく、アフガニスタンや他のイスラーム世界における経済的・政治的現実の複雑さを覆い隠すのにもってこいだ。実のところ欧米人にとって、少女や女性が苦しんでいるのは、何世紀にもわたる非情な欧米の軍事的・政治的介入のせいで続く争いが原因ではなく、アフガニスタン社会「固有の後進性」のせいなのだと考える方が、よっぽど心地よく、安心できるだろう。

これらのストーリーは、アフガニスタンや他の国の状況を説明するのに、価値観の衝突として描かれる。現代vs伝統、女性vs家父長制度、個人の願望vs コミュニティの規範。そしてこれは、国際的な「対テロ戦争」の恐怖やアフガニスタン人女性、および男性の身の上に降りかかった大惨事から目をそらせてくれる。

アフガニスタン人(より広範囲にはイスラーム教徒の)少女や女性の経験は、メディア研究者のジリアン・ウィットロックが呼ぶところのプロパガンダ「ソフトな武器」、つまり欧米勢力の政治的・軍事的アジェンダに沿った第三世界からの物語として商品化される。そういう意味において、これらすべての地位向上ストーリーは、欧米の介入という目的のためにあつらえられたものと言える。

アフガニスタンの女性や少女を犠牲者扱いしたがる欧米の妄想は、1枚の象徴的な写真、1985年のナショナルジオグラフィック誌の表紙になったアフガニスタン人少女に遡ることができる。何十年もの間、8歳のアフガニスタン人難民であった少女シャルバット・グラのイメージは、彼女の名前や本当のストーリー抜きに何度も出版され、印刷され、展示されてきた。この写真につけられたひとこと、「恐怖に満ちたアフガニスタン人難民の目」というまやかしのキャプションと共に。

しかし彼女の目は恐怖でいっぱいだったのではなく、あれは白人男性―米国人写真家スティーブ・マッカリー―が全員女子の教室に押しかけて来て、彼女が嫌がったにも関わらず、教師に頼んで外で彼女に写真のポーズを取らせたことに対する怒りだった。

15年後、同じ白人男性とナショナルジオグラフィックの白人クルーの前でまた顔をさらすために、シャルバットは村から引きずり出され、9時間かけて移動しなければならなかった。

彼女の肉体はまたもや被写体として扱われ、商品化された。「時と苦難が彼女の若さを奪い去った。肌は皮のよう。顎の形は柔和になった。目の輝きは今も健在で、和らぎはしていない」と同誌は書いた。

シャルバットの経験は、米国人の作家・映像作家であるスーザン・ソンタグの写真批評を見事に体現している。「人の写真を撮ることは、被写体となる者を侵害することだ。本人が自分では決して見ることのない姿を、他人が見ることによって。本人が決して持ち得ない自身に対する認識を、他人が持つことによって。それは人間を、象徴的に所有できる物体へと変貌させる」

数えきれないアフガニスタン人の少女や女性が、このようにして欧米の消費と娯楽のために所有され、型にはめられ、パッケージ化されてきた。その一方で、彼女たちの人生はコンテクストから切り離され続け、苦難や虐待の裏にある本当の原因はうやむやにされてきた。

欧米は、暴力と有害な家父長制度を当たり前のように扱い、避けられないものとして容認し、紛争の根っこにあるものは無視する。アフガニスタン(あるいは他のムスリム)社会が変化し、自ら性差別の解消を目指し、若い女性(と男性)が安全でのびのびとした環境で自らの夢を追える場を作るなど、想像もできない。

その代わり、「解決法」は数々の社会的介入と「楽しい活動」を提供、促進するNGOプログラムだ。スケートボーディング、グラフィティ、音楽などを通して、欧米人が思い描く「解放された少女や女性」像に彼女たちを近づけること、これが何も変わらず残酷な現実を生きる女性たちの人生を一変させると思っているのだ。

このアプローチは、余生短い患者に人生の最後を楽しんでもらうことを目的とした、苦痛緩和ケアに似ている。アフガニスタン人の少女や女性は、問題そのものへの対処ではなく、紛争、貧困、資源や教育の欠如といった構造的な問題の症状緩和ケアを施されているだけだ。

なぜならアフガニスタン社会は「絶望的」だとみなされ、自らの「後進性」で身動きが取れなくなり、歴史の中で消えつつある存在だと見放されているからだ。

従って、「戦場でスケートボードを習う少女たち」のようなストーリーでは、社会全体が変わる経済的、政治的正義を求める運動よりも、個人の「勇敢な」行動が期待される。

しかし、アフガニスタン人少女や女性にとっては、真の変革を起こす政治的、社会的変化を夢見て戦うことこそが、ずっと勇気のある行動だろう。選ばれた一握りの人間だけでなく、すべての人に安全、選択の自由、正義がもたらされる国を目指して。


原文: “Skateboarding won’t ‘save’ Afghan girls” by Sahar Ghumkhor
Al-Jazeera, Opinion/Women, 10 Mar 2020
URI: https://www.aljazeera.com/indepth/opinion/skateboarding-won-save-afghan-girls-200308121710895.html