DATE: 2005年2月3日(木) 午前3時38分
まだ続く軟禁状態。パレスチナの小さな町。命がけのドナ。前回の続き パート2
2004年4月イラクで、米軍包囲下のファルージャに人道救援活動のために入り、そ の帰路、地元のレジスタンスによる拘束を経験したオーストラリア人女性ドナ・マル ハーンは、現在パレスチナに滞在しています。彼女は、西側報道ではガザ地区での実 質停戦が伝えられるなかヨルダン川西岸北西部の小さな町で、イスラエル軍による外 出禁止令のもと命をかけて住民のために奔走しています。西側諸国にはほとんど報道 されない事実を、身をもって体験しているドナが伝えます。 (翻訳:福永克紀/TUP)
ドナ・マルハーン サイダ村――占領5日目 2005年1月30日
お友達の皆さんへ
土曜日:今日でサイダ村の軍事占領は5日目になります。地元住民の欲求不満、我慢 の限界、絶望感は誰にでも分かるものとなっています。
この無力感は、いまや誰の心にも宿ってしまっているのですが、それを実感するのは 胸が痛むものです。
ヨルダン川西岸のこの町の住民3500人は、火曜日の朝7時に戦車と装甲軍用ジープの 大群が町を支配したときに、集団拉致にあったようなものです。
いくつかの拡声器から命令が流されました――だれも家から出てはいけない、さもな くば致死的軍事力が行使されるだろう。それは字句どおり単純なことでした。屋上に 戦略的に配置された狙撃兵によって、この規則は偉大な成果をあげたのです。
こうして、次の4日間、住民たちは家にあったものだけで生き延びなければならな かったのです。
男は誰も働きに行けなかった。女は誰もお店に行けなかった。まったく、どのお店も 開けることができなかったのです! 誰も身内の様子をうかがいに行くこともできな かった。医者に行くこともできなかった。牧畜業者は家畜に餌を与えに行けなかった のです。農家の人は作物の手入れに行けなかったのです。町を訪れていた人たちは誰 一人、町を出ることができませんでした。窓から外を覗き見ることさえ命がけだった のです。想い描いてみて下さい。
4日目には飢えが広まり始めました。食品棚の多くはからになり、食料が必要になっ たのです。この軍事作戦は人道上の大災害になり始めたのです。
私たちが町をあちこち動き回って住民に必要なものをたずねると、彼らが求めたのは もっとも根本的なものでした――「どうか、兵隊が町から出て行って、私たちが安全 に家から自由に出れるようにして下さいませんか?」
無力感に打ちひしがれながらも、私たちは、この包囲作戦の終了に手を貸せると思わ れる人や、そんな人に連絡を取れそうな人たちに、だれかれとなく電話をかけまし た。1日目には始めていたロビー活動を、本格的に再開したのです。いくつかのイス ラエルの人権問題グループが、軍の指揮官やイスラエルの国会であるクネセトの議員 に、率先して圧力をかけてくれました。
国内外の焦点はガザ地区の動きにあてられていて、包囲攻撃を受け飢えつつあるヨル ダン川西岸の小さな町サイダのことは、脇に押しやられ忘れられているようでした。
ついに、昨日の午後遅く小さな前進がありました。町はまだ軍事占領下にあり、道路 封鎖で外の世界からは遮断されたままですが、一時的に外出禁止令が解除されたので す。
それが発表されると、人々は非常に用心深く家の外に一歩を踏み出し、やがて堰を 切ったように表に出てき始めました。通りは安堵の笑みを浮かべた人でいっぱいにな り、強く抱き合って挨拶を交わしたり、エル・ハムディララ(神様、感謝します!) と叫びながら握手をしたりしていました。まるで大晦日のようでした。
お店は人で混雑し、農家の人たちは飢えた動物たちの被害を調べに急ぎました。
しかし、軍はサイダを支配下に置き続けると明言していました。外出禁止令が一時的 に撤回されたのも、明確な根拠があったわけではありません。装甲ジープが街中をパ トロールし、道路を封鎖し続け、いくつかの家は兵士たちに占拠されたままでした。
兵士たちに尋ねてみると、外出禁止令の解除は24時間だといい、「問題」があれば いつでも再命令を出せるというのです。
しかし、最大の不満は、村から出て行くという行動の自由がいまだにないことでし た。
この村に閉じ込められてしまったが出て行かなければならない人たちの列が、検問所 の前に続きました。でも、拒絶されたのです
21歳のナセルは、最も絶望的だった一人です――ナブルスの大学まで行って、今日 から始まる最終試験を受けなければならなかったのです。もう試験も受けられず、今 度できるはずだった彼の卒業は、おそらくだめになってしまうでしょう。
また、隣村のエルハル村にある高校での初授業を受けるため、どうしても高校に行き たかった中学卒業生がたくさんいたのですが、町を出ることができませんでした。そ ればかりか、サイダ小学校の先生たちも町に入れなくて、小学校は廃墟のようになっ ていたのです。
それから、アーメド、近くの町トゥルカレムのスクールバスの運転手です。学校では 今日から新学期が始まるというのに、休日明けの初日の巡回をするためにその町へ行 くこともできずにいるのです。
他にも仕事や商売で、村の外へ行かなければならない人たちがたくさんいます。彼ら はもう賃金を手にいれることもできず、機会をそこね、おそらく職を失ってしまうで しょう。
彼らは、いまや軍事地区、本質的には牢獄と化したサイダの町の境界内で、ビクビク しながら、先のことも分からず、孤立感にさいなまされながら、とらわれの身のまま になってしまうことでしょう。
皆さんの巡礼者
ドナより
追伸:もしどなたか、イスラエルにあなたの声をきく人がいるなら、イスラエル政府 か国防当局の職員の誰でもいいから、緊急に連絡を取って、どうかサイダの住民のた めに声をあげることを考えてください。
追追伸:いま、もう土曜の夜で、外出禁止令が再発令されています。先の不透明さが 続きます。
追追追伸:国際ニュース番組で、ガザ地区の停戦と和平会談の進展を耳にするのは勇 気付けられることです、しかし、ここパレスチナの地で地元の人たちが感じているの は、一種の幻滅と懐疑だということを、お伝えしなければなりません。イスラエルの 部隊がガザ地区から撤退したといわれてから、4人のパレスチナ人が殺害され、その 一人は自宅の裏庭で遊んでいた3歳の少女でした(オーストラリアでは、こんな ニュースは聞いていないでしょう?) 一方ヨルダン川西岸では、村民たちは恒常的 に暴力と脅迫を受け、イスラエル軍の包囲攻撃下にあるのです。パレスチナ抵抗勢力 の譲歩を得て平和への機会を見出すには、この占領の特徴である人権蹂躙の数々は言 うにおよばず、イスラエル軍がこの種の行為を停止しなければならないのは、当然の ことだと思います。
追追追追伸:「最悪の監獄は閉ざされた心であろう」――ローマ法王ヨハネ・パウロ 2世
(翻訳:福永克紀/TUP) [関連情報] *ドナとともにサイダで活動していたアーロンさんの報告について http://0000000000.net/p-navi/info/column/200502020418.htm *アーロンさんが撮ったサイダの写真 http://gallery.cmaq.net/album30?page=1
原文:Saida village – Day five of occupation URL: http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/148