TUP BULLETIN

速報476号 米映像作家、マーク・マニングのファルージャ報告 050313

投稿日 2005年3月13日

FROM: liangr
DATE: 2005年3月13日(日) 午後10時48分

生まれてはじめて、アメリカ人であることが恥ずかしかった。
*****************************************************************

TUPメイトのみどりさんから転送されてきたメールです。

イギリスのジョー・ワイルディング、TUPでもお馴染みオーストラリアのド
ナ・マルハーンといった活動家のように、米軍に同行せず、独自にファルー
ジャに入った合同軍の国の人間はそれほど多くはないでしょう。その貴重
な、しかも私の知る限り、最新のアメリカ人からの報告です。

追随している国々をUターンさせることも大事なら、大元のアメリカ政府・
軍を止めるのは私たちの究極の目的でもあります。その大きな推進力となる
可能性を秘めた「侵略当事国の国民による証言」を、日本からも広げていき
たいと思います。

千早/TUP翻訳メンバー

May Earth be Filled with Peace and Happiness!
*****************************************************************

——————————————
アメリカの映像作家、
マーク・マニングのファルージャ報告
——————————————

2005年3月2日 5:38:48pm

友人の皆さん、

おひさしぶりです。私はイラクに行っていたので、今日はその話を皆さんに
聞いていただきたいと思います。

イラクのファルージャ市内で難民とともに2週間あまりを過ごし、2、3週間
前に戻ってきました。私がファルージャに行こうと決めたのは、そこがイラ
クの問題の中心だと思えたのと、どこかでなんらかの意味をなすものや平和
をみつけられるとすれば、それはきっとファルージャだろうと思ったからで
す。私の政府が攻撃したとき、同市には25万人の市民がいたと聞きました
が、私たちの側には、彼らがどんな状況下にあるのかという報道は全然あり
ませんでした。アメリカ人として、私はこれに責任を感じ、自分で見に行こ
うと決めたのです。

2005年の2月10日、私は空路でイラクに入り、ファルージャ市まで車で向か
いました。2週間余、私は同市の住民かつ難民となりましたが、そこでの体
験を通じ、私は名誉と特権を授けられたと思っています。ファルージャの
人々は、私が彼らの話を聞きにきたこと、またその話を、帰国したらアメリ
カの人々に正直に伝えるだろうと信じて、私を自分の家に迎え入れ、面倒を
見てくれました。私は、軍の護衛もなんらの武装もせずにファルージャに出
向きました。それゆえに彼らは、私が気が狂っていると思ったようでした
が、彼らが勇気とみなす私のそうした行為を尊敬し、私を信頼してくれまし
た。そこでは信頼がすべてであり、あなたが何者であるか判断するとき、彼
らはあなたの目の奥深くをじっとみつめるのです。私は彼らとともに暮ら
し、彼らの話を聞きました。彼らは「アメリカのジャーナリストたちは、イ
ラクの話を正確に伝えていないと思う」と言いました。「アメリカの一般大
衆が、ファルージャで本当はどんなことが起こっているかを知らない」、そ
れに「もし知っていたなら、アメリカ人はこの戦争を違ったふうに見ていた
だろう」という確信が彼らにはありました。彼らはアメリカ人を自分の兄弟
姉妹と感じており、助けを求めているのです。そして私に、彼らの話をあな
たがたに伝えてほしいと望んでいました。

ファルージャの人々に、戦争の恐怖がもたらされました。同市の人口は、私
たちのメディアが伝えた25万人ではなく、50万人だったと彼らは言っていま
す。ファルージャを出るために与えられた猶予は一週間だった、と難民たち
は私に話しました。しかしその3日後には「車で移動してはいけない」と言
われ、歩いて出るしかありませんでした。難民用のキャンプなどは一切設営
されず、避難場所の指定もありませんでした。米国政府による彼らのための
なんらの計画もなく、食糧も避難所も、水すら用意されませんでした。彼ら
はただ「出て行け、さもなくば殺されるぞ」と言われたのです。一週間の猶
予のあと、同市に残った者はテロリストとみなされ、殺される運命でした。

5ヶ月ものあいだ、彼らは、いられる場所ならどこであろうと構わず暮らし
ていましたが、ファルージャの周辺地域には彼らのためのなんらの施設も作
られてはいませんでした。泥にまみれたテントや学校、見捨てられた鶏小
屋、焼き尽くされた建物、自動車、誰も使っていない建物や、皆が譲り合っ
て、他の誰かが入れるスペースを作ってくれた場所などで暮らしているので
す。天候は悪く、雨が多くてとても寒いです。彼らが「出て行け」と言われ
たときは夏でしたから、この寒さに耐えられる服装をしていなかったし、た
くさんの衣料を運ぶこともできませんでした。何人かのラッキーな子供たち
はテントの中の学校に通っていますが、授業は一日2時間に短縮されていま
す。食糧は不足していて、農家の産物や、周辺地域が分けてくれるものに
頼っています。再度言いますが、5ヶ月もたった今でも彼らは外部から――
米政府からもイラクの新政府からも、なんの援助も受けていないのです。

ファルージャ市自体は破壊されました。ほとんどの家が深刻な被害を受け、
65%ほどが全壊しています。劣化ウラン弾が使われた痕跡がそこら中に見ら
れます。これは半減期45億年の放射能汚染を起こすものです。

不発弾もよく見かけます。多くの住民は、アメリカが使った化学兵器、ナ
パーム、クラスター爆弾や燐爆弾について話しています。それらは皆違法な
兵器であり、(その使用は)国際社会からは戦争犯罪とみなされるもので
す。多くの家が焼け落ちており、それは、米兵たちが家々を捜索をしたあと
火を放ったことを意味しています。白旗を掲げたり、「子供がいます」とい
う表示のある家も破壊されていました。

避難する先の当てがなく、戦闘のあいだも同市に居残った家族連れが何人も
いましたが、彼らは大きな被害に遭いました。その場に居合わせた人たちの
多くにインタビューしましたが、彼らの話は、私の記憶にずっと、ずっと残
るでしょう。いくつか実例を挙げます。

*息子が劣化ウラン弾で殺された母親。劣化ウラン弾が壁をぶち抜いてきた
とき、彼はベッドで眠っていました。

*65歳の父親は、家宅捜索の際に撃たれました。そのとき息子は逮捕され、
それ以来、誰も彼の消息を知りません(父親は、「息子は戦士などではな
かった」と言っています)。

*家宅捜索のあいだ13歳の弟とともにベッドの下に隠れ、父親、いとこと18
歳、19歳の二人の姉が撃ち殺されるのを目撃した17歳の少女。彼女は、家族
の死体とともにそれから3日間隠れ続けましたが、ベッドの下にいる二人を
戻ってきた兵隊たちがみつけ、二人は撃たれました。弟は死に、生き残った
彼女がこの話を語ってくれたのです。

*すべての戦闘を生き延びた10人家族。子供たちは3歳、4歳、5歳、7歳、8
歳、10歳と12歳でした。彼らはメチャメチャです。この子供たちは、一生こ
の傷をしょっていくのです。彼らの顔には、まだポッカリ口を開けたままの
痛々しい生傷のあとが見られましたが、加えて、彼らが深刻な心の傷を負っ
たことが見てとれました。

現在、ファルージャの住民や難民にはホンのわずかな医療支援しか届いてい
ませんし、周辺地域にいる難民にいたっては医療支援もゼロです。ファルー
ジャ市の医療施設も破壊され、再建されてはいません。主たる病院は再開し
ましたが、救急車が米兵やイラク国家警備隊に銃撃されるので、病院へ行く
には歩いていくしかありません。医師たちはイラク国家警備隊によって暴行
を加えられ、命を脅かされています。そう、その国家警備隊とは、アメリカ
が訓練している治安部隊のことです。イラクの新政府は医師たちに、「ファ
ルージャの現状についてジャーナリストに話してはいけない」と警告してい
るのです。医師たちは、この脅しは本物で、彼らと彼らの家族の命がかかっ
ている、と理解しています。

病院に歩いていくには、ときに戦闘中の検問所を、しかも昼間のある一定の
時間内に通らなければなりません。検問所にはイラク国家警備隊員が配置さ
れているのですが、彼らはファルージャの住民を敵視しています。私たちが
病院にいるとき、検問所通過を許可してもらえなかった老人が心臓発作で死
亡しました。救急車の中で赤ん坊を産んだ妊婦もいたのです。それは(検問
所に着いたのが)夕方5時過ぎだったために病院へ向かうことを許されず、
陣痛が始まっていた彼女を乗せたまま戻らされたからでした。

あなた方のうち何人かがファルージャの病院のために用意してくれた医療支
援物資を、私たちは手で運んだのです。私と、一人のイラク人女性とで。
「私たち二人」がファルージャにおける「“国際的”医療支援」だったので
す。私たちは医療物資の入った箱を一度にひとつずつ、検問所を通り、橋を
渡って病院に届けました。車で運ぶことを許可してもらえなかったので、私
たちは歩いて運ぶしかなかったのです。私たちは一週間のあいだ毎日、一度
に一箱ずつ運びました。

私が話したすべての人々から、アメリカ人への伝言を頼まれました。彼らは
言いました。「私たちはあなた方を攻撃などしませんでした! 私たちはア
メリカ人に、何もしていない。どうしてこんなことを私たちにするんですか
?」と。

これらは私をもてなし、食べ物を与え、そして私の身の安全を心配してくれ
た人々です。私の世話をしてくれた彼ら、その寛大さ、思いやりの深さ、そ
して受け入れる心を私は決して忘れません。彼らはアメリカとの平和を望
み、戦闘の終結を望んでいるのです。彼らは、彼らこそが攻撃された側であ
り、アメリカ人がテロリストだと感じています。彼らはこの戦争になんらの
正当性も見出せないし、「どうしてアメリカ人は一般市民に対するこのよう
な行動を支持できるのか?」と、私は何度も尋ねられました。私は生まれて
はじめて、アメリカ人であることを恥ずかしく思いました。

あなた方に伝えたい話はほかにもたくさんあるので、私は映画を作るつもり
です。しかし今、あなた方に知っておいてほしいのは、私が「けだもの」の
真っ只中で2週間を過ごしたということ。私たちの政府とメディアが「抵抗
の、テロリストの、サダムの信奉者たちの中心地だ」と言った場所――でも
どうだったと思います? そこは一般人で一杯だったのです、あなたや私み
たいな普通の人々で。子供もそこら中にいました。ファルージャの平均的な
家族は一家10人です。ということは、各家庭に子供が約8人いるということ
です。同市の人口は50万人で、計算すればわかるでしょう。たくさん子供が
いるんです。

ファルージャに戦闘員はいます。それは事実です。でも彼らは49万人だかの
無辜の市民に囲まれているのです。その無実の人々の犠牲は、それがどんな
にひどいものであろうと「結果に見合うものだ」と、私たちは国として決め
つけたのです。しかしこれらの人々は、自分たちでコントロールできない深
刻な事態によって打ち砕かれています。彼らはこの戦争の、罪なき被害者な
のです。

皆さんに、何をどうしろとは言えません。これはイラクのごく一地域からの
話です。私たちが「スンニ・トライアングル」と呼ぶ地域では、こうした話
が溢れています。しかし、私はそこでこうした人々と暮らし、彼らは私に愛
を、許しを、そして真実と思いやりの心を教えてくれました。こうした悲劇
が彼らの身の上に起こったあとでも、彼らは「敵の行為」と、「その国の国
民」とを区別することができるのです。「この破壊行為をもたらした無知か
ら助け出してほしい」と、私たちに向け、叫んでいるのです。彼らは9/11の
33倍も苦しんできました。アメリカによる侵略のせいで10万人以上のイラク
人が死に、それでも尚、「アメリカ人に反感など持っていない」と言ってい
るのです。これは恩寵です。その彼らから、私は平和のみつけ方を学びまし
た。「敵」の声をしっかり聞くことで、真の敵とは無知、恐怖、または弱さ
から発した行動であることを学んだのです。

ファルージャの人々を、私は決して忘れません。

彼らの話を聞いてくれて、どうもありがとう。

あなたの友人、

マーク・マニング
ホームページ URL: www.conceptionmedia.net

(翻訳・千早/TUP)

<筆者より、TUP速報配信許諾済み>

原文URL:
これはメールの転送として受信したもので、著者のサイト(上述)にも掲載
がありませんでしたが、星川淳さんが、ブログの資料サイトにアップして下
さいました。
http://blog.melma.com/00126388/20050309224236