DATE: 2005年3月27日(日) 午後6時27分
今でもふと誰かが言うのだ「覚えてる? 2年前のあのとき・・・」
戦火の中のバグダード、停電の合間をぬって書きつがれる24歳の 女性の日記『リバーベンド・ブログ』。イラクのふつうの人の暮らし、 女性としての思い・・・といっても、家宅捜索、爆撃、爆発、誘拐、 検問が日常、女性は外を出ることもできず、職はなくガソリンの行列 と水汲みにあけくれる毎日。「イラクのアンネ」として世界中で読ま れています。すぐ傍らに、リバーベンドの笑い、怒り、涙、ため息が 感じられるようなこの日記、ぜひ読んでください。(この記事は、T UPとリバーベンド・プロジェクトの連携によるものです)。 (転載転送大歓迎です)
(TUP/リバーベンド・プロジェクト:池田真里) http://www.geocities.jp/riverbendblog/
2005年3月23日水曜日
2年間・・・
戦争の始まった日から丸2年が過ぎた。この2年間は20年にも感じられ る。しかし、戦争のことはすべて昨日のことのように思い起こすことができ る。
2003年3月21日、空は赤と白の閃光で照らし出され、地上は爆発で 揺らいだ。爆撃はすでに3月20日未明に始まっていたのだが、21日には すさまじく激しくなった。それまでにない激しい爆撃が始まったとき、私は たまたま2階にいた。我が家に2,3週間の予定で泊まりに来た叔母のため に、私の部屋から重い綿のマットレスを引きずり下ろそうとしていたのだ。 突然、遠くにヒューーーーという音が聞こえ、それはどんどん近づいてくる ようだった。
そこで私は動きを速めた。重いマットレスを引いたり押したり、階段から 投げ下ろそうとしてみたり、引きずり下ろそうとしてみたり。階段途中でに っちもさっちも行かなくなってしまったまさにその時、ヒューという音はも のすごく大きくなった。まるで頭の中から聞こえてくるようだった。私はふ たたびマットレスを突き落とそうとし、階段の下から引っ張ってとE(弟) を呼んだ。が、Eはいとこと外にいて、ミサイルがどこへ飛んでいったか見き わめようとしていた。そこで体勢を立て直し、重いマットレスを蹴っとばし 始めた。マットレスがどんな状態で下に落ちようがかまったことじゃない、 ただミサイルが命中したときには1階にいたい一心だった。
ようやくのことで、マットレスは身じろぎを始め残り10段をすべり落ち、 ついに階段の下にどさりと着地した。今にも大爆音がくるような気がして、 私はあわてて2段とばしでマットレスの後を追った。死にもの狂いで階下を 目指し最後の1段でつまずいて、地上の綿の塊に倒れ込んだ。同時に爆音が 轟いた。さらに大きな爆音が何発も続いた。それまで40何時間かの間に聞 いた並のミサイルの音とは違っていた。
その瞬間家中大混乱となった。両親は走り出した。父は電池式ラジオを探 して、母はストーブが消えているか確かめようとして。走りながら母は肩越 しに大声でさまざまな指示を与え、みんなに「避難部屋」へ入るよう命じた。 その部屋は強力粘着テープと数々のクッションで特製インテリアを施され、 いとこによると「防空処理済み」だった。泊まりに来ていた叔母は、金切り 声で叫びながら二人の孫娘を探して走り回っていた(もうその時には孫娘た ちは母親と一緒に避難部屋にいた)。いとこは大慌てで灯油ストーブを消し 回り、爆発の衝撃で割れないように窓を開けて回っていた。Eは、外から家の 中にとんで入ってくると平静を装おうとしたが、顔は血の気がなかった。
この大混乱が続く中、空爆はますます大きな音で止み間なく続くようにな り、爆音が轟くたび大地はうなり揺れた。Eが何か空について言おうとしたが、 上空から落ちてくるヒューッという音が大きすぎて聞こえなかった。マット レスから震えながら起きあがろうとする私を助けてくれながら、Eは大声で 言った。「空いっぱい赤と白の光だよ。外へ行って見たくはない?」。 私 は、気でも狂ったんじゃないのという顔でEを見て、マットレスを居間に引き ずり込むのを手伝わせた。それから避難部屋に駆け込んだ。その間も空爆は 大音響で絶え間なく続いていた。すぐ隣に爆弾が落ちた、つい2,3ブロッ ク先に落ちたと思っては、それより遠くだったと知るのだった。
避難部屋に集まった顔、顔は、緊張で蒼白だった。いとこの妻は部屋の隅 で、両脇に娘たちをしっかり抱き込んで小さな声でお祈りを唱え続けていた。 いとこはこわい顔で避難部屋の戸口を行ったり来たりし、父はいつも携帯し ている小型ラジオで聞くに値するラジオ局を見つけようとしていた。叔母は この時過換気症候群の状態で、母がそばに座って、バグダード猛爆について 話しているラジオから流れる男の声で気を紛らわせようとしていた。
永遠かと思えた40分が過ぎると、空爆は少し弱まった。つまり、この辺 りから離れたようだった。私はこのいっときの凪を利用して、電話のようす を見に行った。割れないように窓が開け放された家の中は寒かった。絶対切 れてると思って電話に手を伸ばした。するとなんと呼び出し音が聞こえるで はないか。私は、友人や親戚の番号をダイヤルし始めた。バグダード市内の 叔母と叔父につながった。電話線の向こうの声は心配げに震えていた。「大 丈夫? みんな元気?」。これだけ聞くのがやっとだった。みんな元気だっ た。しかし、空爆はバグダード全域で激しく行われていた。衝撃と畏怖が始 まっていた。
そのあとは、1カ月にも及ぶ激しい空爆だった。大混乱の第一夜は、終わ りの見えない大混乱の日々と眠りを奪われた長い夜々に続いていった。長期 間空爆が続くと、日にちの感覚が無くなるところまで行き着く。時間の感覚 も失われる。金曜日や土曜日や日曜日といった曜日の感覚も無くなる。日は、 1時間また1時間と過ぎていくものではなくなる。いつしか、落ちてくる爆 弾の数や、真夜中に発砲の音や爆音で起きる回数で、あるいは何分間恐怖に 捕らえられていたかで、時を計るようになる。
記憶からいくら払いのけようとしても、よみがえってくる。停電あるいは 昼食や夕食で集まって所在なく座っていることがある。すると、誰かが言い 出す。「2年前のこと覚えてる? ほら・・・」。 住宅地のマンスールが 爆撃されたときのこと覚えてる? 軍用ヘリコプターが通りの車を焼き払い 始めたときのことを? バグダードの町の半分が照らされるほどの爆弾で空 港が攻撃されたときのことを? 米軍の戦車がバグダードに押し入ってきた ときのことは?
まだ恐怖が生ま生ましくって(それもどちらかと言えば未経験の恐怖で)、 衝撃を受けたり畏怖を感じたりできた日々がイラクにあったこと、覚えてる?
午後5時36分 リバー
(翻訳:TUP/リバーベンド・プロジェクト:池田真里)