TUP BULLETIN

速報517 チャルマーズ・ジョンソン、軍国主義の災禍を論じる 050628

投稿日 2005年6月27日

FROM: minami hisashi
DATE: 2005年6月28日(火) 午前1時14分

☆元カリフォルニア大学教授のローマ史講義★
現代史と国際関係論の大家と世界的に評価されるチャルマーズ・ジョンソン
が、ローマの共和制から帝政にいたる壮大な歴史を簡潔に概観して、私たちを
古代の世界に誘います。そこに見る光景は、デジャビュの逆ケース、見慣れた
現代の状況に妙に似ていたりして……
私たちが生きるこの国は、帝国の周辺部だと考えられますが、いつまで従順
な属州の地位に甘んじているのでしょう? 古〈いにしえ〉のガリア植民地の
野蛮人のように帝国の終わりの始まりを告げるアジアの民として、私たちが目
覚める日が来るのでしょうか? 井上

凡例: (原注)(*または数字=リンク)《脚注》[訳注]〈ルビ〉
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トム・ディスパッチ回顧精選: チャルマーズ・ジョンソン
トム・ディスパッチ 2005年6月9日

まえがき
アメリカ共和政体の危機
――トム・エンゲルハート

わが国の大統領が米空母エイブラハム・リンカーン艦上で「遠征任務達成」
と大見得を切ってから4か月しかたたない2003年9月、あまねく地球上に
揺るぎないパックス・アメリカーナ[米国の覇権による平和]を構築するとい
うネオコンの夢はイラクの砂塵のなかに消える定めにあること――だが、それ
と同時に、私たちが知る形のアメリカの立憲政体が破壊されることは、そのこ
ろには私たちの一部に明白だった。米軍がユーフラテス川にかかる最初の橋を
占拠したとき、いったいどのようなルビコン川を私たちは渡ったのだろうか、
という問いが私の脳裏に――そしてチャルマーズ・ジョンソンの脳裏にも――
よぎっていた。ジョンソンは、その9月初めにシェークスピア劇『ジュリア
ス・シーザー』の舞台を観たばかりであり、じっくり考察を巡らし、共和政体
の崩壊について彼流の物語として書き下ろし、当時と同様、現在でもよく響き
わたる評論に仕立てあげ、「軍国主義の災禍」というタイトルを付した。これ
を2003年回顧トム・ディスパッチ精選集第2弾とする。

今、彼はこの間の2年近くを振りかえって、次のように書く――

「アメリカの政治制度はもはや本来あるべきようには動いていない。憲法理念
としての抑制と均衡[*]の見地からしても、建国の父祖が専制政治を未然に
防ぐために定めた政体構造においても、それは甚だしく損なわれている、と観
察眼が一流の多くの識者たちが考えている。米軍バグダード攻撃の司令官、ト
ミー・フランクス大将は、米国に対するテロ攻撃がもう一度繰り返されるなら、
『わが国憲法の骨組みの解体が始まるだろう』と予告し、『統治形態の軍事化
を優先するなら、憲法は廃棄しうる』と言ってはばからない。
[立法・行政・司法の三権分立により、相互抑制を通して、権限の均衡を図り、
政治システムの安定を期すこと]

「もうひとりの軍事論の筆者、歴史学者のケヴィン・ベイカーは、わが国の議
会が、紀元前27年のローマ元老院のように、意味のあるものとしては最後の
票決をおこない、権力を軍部独裁者に委譲する日はそれほど遠くないと危惧し
ている。『しまいには私たちはクーデターを乞い願うだろう』とベイカーは書
く。おまけに、アメリカの一般社会は鈍くなっているようだ。たいがいのアメ
リカ国民は国家がたいへんな難局にあると直感してはいるが、自分たちが陥っ
ている危機をどう考えてよいのか分かっていない。今日のアメリカ国民は、受
けた教育も貧弱であり、歴史上の共和政体の先例だとか、あらゆる形態の民主
主義国家における常備軍に関わる問題、それに(わが国が共和制国家として発
足してから最初の1世紀の間、実質的にすべてのアメリカ人が共有していた心
配の種だった)軍国主義の脅威について、初歩的な知識すら持たず、わが国の
軍部が完全に統制を外れていることを示す証拠が山のようにあるのに、ただぼ
んやりと見ているだけ。2003年を振りかえれば、拙論『軍国主義の災禍』
は、わが国のと同様な情勢に直面した過去の共和政体をみまった事態を素材に
して、わが国が現在かかえているジレンマに関する新しい考え方をいくつか提
起するためのひとつの試みだった。その後の推移を見ていると、残念なことに、
私たちのこの運命について楽観できる理由は見当たらない」

当時、私はジョンソンの作品に次のような「まえがき」を書いた――今にな
っても、一言も変更しようとは思わない――

「わが国は新たなローマになろうとしていた。右翼コラムニスト、チャール
ス・クラウトハマー( Krauthammer: アクセントはいつも “hammer”[銃の撃
鉄]にかかる)が、2001年3月のイダス[古代ローマ歴15日]間近のタ
イム誌に寄せた記事(『ブッシュ・ドクトリン、米国対外政策に新しい標語―
―求めるな。通告せよ』)に、『アメリカはただの国際市民ではない。アメリ
カは世界の支配勢力であり、ローマ以来のどの国よりも優勢である。したがっ
て、アメリカは規範を改め、可能性を転じ、新しい現実を創造する立場にある。
どのようにしてか? 弁解せず、断固として意志を現わすことによってであ
る』と書いたからだ。

「そしてこの記事は、9月11日のテロ集団が映像に飛びこんできたときより
以前のものである。わが国の大統領が宣言した『テロに対する戦争』、それに
アフガニスタンにおける安直な“勝利”を受けて、戦陣太鼓がふたたび響きは
じめ、ウォールストリート・ジャーナルからワシントン・ポストにいたる各紙
の社説面に、新時代のローマ帝国を思わす表現がただただ茂り、花盛り。『帝
国』は、かつての常用米国語便覧では汚い言葉にランクされていたが、突如と
して自尊心の標章となり、あるいは少なくとも(ニューヨーク・タイムズ・マ
ガジンのトップ記事の表現を借用すれば)わが国の軍服の幅広い肩に負うべき
キプリング[1]流の“責務”になった。わが国が『容赦なく意志を見せつけ
て』世界を形成しおえるあかつきには、私たちの世界はパックス・ロマーナ
[2]やパックス・ブリタニア[2]をまとめて顔色なくさせるだろう。これ
に比類するものは、他にないだろう。
[1.Ludyard Kipling (1865-1936)=英国の小説家。軍隊などに題材を採っ
た勇壮な小説で知られる。『兵営バラッド』『ジャングル・ブック』など]
[2.それぞれローマ帝国と大英帝国の覇権にもとづく平和]

「もちろん歴史は進行し、これには意外性が付きもので、わが国ネオコンの帝
国夢想主義者たちの、はなから眩〈くら〉んでいる眼の裏切った。9月11日
事件が起こってしまってから、驚くほど予言的であったと分かった書籍『アメ
リカ帝国への報復』(*)の著者チャルマーズ・ジョンソンは、現政権の帝国
夢想派が、ローマ帝国との比較を論じるにさいし、間違った側面を摘み食いし
ていると指摘する。適切な類推と言えるのは、パックス・ロマーナとパック
ス・アメリカーナとを比べることではなく、ローマの共和政体が帝国軍の軍事
優先主義者の猛襲を受けて崩壊したのと、アメリカ帝国が同じような状況で破
綻するのとを比較することであるとしたら、どうなるだろうか?

「アメリカ軍国主義に関しては徹底して報道が抑えられているが、ジョンソン
の最新著書『アメリカ帝国の悲劇』(*)が、甚だしく無視されているその問
題点を論じている。それでは、あなたにローマの歴史に関する彼の短期講習の
講義録をお渡しするので――お読みになりながら、この国の誰かが、わが国が
全盛期ローマ帝国のようになってほしいと願ったと想像してみよう」

-6029332-9877958

申し訳ないが、当時からほとんど何も変わっていない。今でもチャルマー
ズ・ジョンソンの書は手放せないと言わねばならないし、その時、彼が鋭く提
起した軍国主義の問題は、今日のわが国において(アンドリュー・ベイスヴィ
ッチの注目すべき著作 “The New American Militarism”(*)[『新時代のア
メリカ軍国主義』]が出版されたにしても)以前のようには無視されなくなっ
たと言えたものではないし、共和政体の崩壊は、アンチウォー[反戦]コム
(2)やルーロックウェル・コム(3)などのウェブサイトは別にして、アメ
リカで公表される数多くの課題リストのトップにあげられているわけでもない。
(ホアン・コールは、最近、彼の主宰ウェブサイト、インフォームド・コメン
ト[情報通評論]〔4〕において、グアンタナモにわが国が維持している監禁
総合施設は、まさしく「“アメリカ共和国”の終わりの始まりを思い起こさせ
るので」閉鎖すべきであると舌鋒鋭く論じた) 小さな変化がひとつはある―
―ブッシュ政権擁護の論者たちは、全地球的な戦場に向かって進軍するわが国
の“ローマ”軍団について、もはや誇らしげに話したり書いたりしなくなった
――が、それでもなお、2003年時点で、すでにズタズタになっていた共和
制は、嘆かわしくも絶滅寸前だ。なお、本編のトム・ディスパッチ初出は20
03年9月9日である。トム
1.
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/booksea.cgi?ISBN=019517338
4
2. http://www.antiwar.com/
3. http://www.lewrockwell.com/
4. http://www.juancole.com/2005/06/quran-splashed-with-urine-at.html

軍国主義の災禍
ローマとアメリカ
――チャルマーズ・ジョンソン

紀元前27年のできごとであるローマ共和政体の崩壊は、この古〈いにし
え〉の先達から政治原理の根幹を引き継いでいる米国にとって、今の時点で意
味深い。権力の分立、抑制と均衡、立憲政府、奴隷制容認[*]、公職任期制
といった考え方は、すべてローマの先例にならったものである。ジョン・アダ
ムス[米国第2代大統領]とその子息ジョン・クインシー・アダムス[第6代
大統領]は、ローマの大政治哲学者キケロの著作を繰り返し読み、彼から多い
に学んでいると語っていた。アレクサンダー・ハミルトン[初代財務長官]、
ジェームス・マディソン[第4代大統領]、ジョン・ジェイ[初代最高裁長
官]は、憲法の批准を推進するための文書「連邦主義者〈フェデラリスト〉論
集」を執筆するにさいし、ローマ共和政体の初代領事パブリウス・ワレリウ
ス・パブリコラの名で署名した。
[筆者によれば、アメリカが建国時に採りいれたローマ共和政体の遺産の負の
側面を示す例として、この項目を挙げる]

しかしながら、ローマの共和政体はその帝国政策の思いがけない影響に対処
できず、これが統治形態の根幹にかかわる改変に繋がった。ローマの帝国政策
と切り離せない関係にある軍国主義が、ローマの市民階級が享受していた大い
に注目すべき政治的権利や人権だけでなく、その政体をもなしくずしに蝕んで
いった。アメリカの共和政体は、もちろんまだ崩壊していないが、帝王的大統
領制――およびそれを支える軍団――が連邦議会と裁判所とを侵食するにつれ、
そうとうな試練にさらされている。だが、ローマの結末――軍団に支持され、
安定が期待できそうだとして一般市民に歓迎された権力の独裁政治への転換―
―が、ブッシュと彼の新保守主義一派が職務を離れた後の時期に何が起きるか、
考えるためのヒントになる。

言うにはおよばず、この道筋には決定論的なものは何もなく、ブルータスや
キケロを有名な例として、大勢の傑出したローマ人たちが命で贖〈あがな〉っ
てまで、この動きを封じようとした。それでも、これには完全に論理的な何か
がある。共和制の抑制と均衡のシステムは、どう転んでも大帝国および巨大な
常備軍の維持に不適切である。民主主義国家が時に帝国を獲得し、それを富や
国家的威信の拠り所として手放したがらないが、その結果、本国における自由
が危険に晒されることになる。

上記の比較論は特に独創的なものではないが、米国の現況を示す数かずの徴
候――諸外国に725か所を優に超えて置いた軍事基地の帝国の保持、増大す
る一方の支払いと増額する一方の予算を、職務怠慢で、意のままになる立法府
に要求する巨大で金のかかる軍事組織、(ローマ時代に絶え間なかった暗殺に
も似た)上院議員や報道人に対する未解決の炭疽菌攻撃事件、上院で76対1、
下院で337対79という票差をもって「愛国法」をパニック状態で採択し、
「権利章典」を骨抜きにした連邦議会、みずからが失おうとしているものに無
関心である国民――によって補強される。わがアメリカ政府の数多くの現下の
側面が、共和政体としての礼節を軽んじる、ローマ時代にも似た倦怠感を物語
っている。2002年10月、イラクに対する予防攻撃において、大統領が―
―そして彼ひとりが――“妥当”と判断すれば、武力と核兵器を含む、あらゆ
る手段をいつでも行使できる無制限の権限を彼に与える議案を連邦議会が採択
したときから、1787年制定の憲法は今でも国の至上法典であると論じるの
は難しくなったはずだ。

抑制と均衡

共和政体の終焉〈しゅうえん〉に関する私の思索のいくぶんかは、2003
年の夏の間に1冊の新刊書と古い演劇に触発されたものである。その本は、軍
事独裁制に反対したために首と両手を切断された人物について、アンソニー・
エヴェリットが著述した見事な書―― “Cicero: The Life and Times of
Rome’s Greatest Politician (Random House, 2001)”(*)[仮題『キケロ―
―ローマ最大の政治家の生涯と時代』ランダム・ハウス、2001年刊]であ
る。演劇は、カリフォルニア州サンディエゴ[筆者の居住地]のオールドグ
ローブ劇場で上演されたシェイクスピア劇『ジュリアス・シーザー』の舞台を
現代に置き換えたもの。幕が開くと、いかにもうさんくさい政治家といった風
情のユリウス・カエサルが描かれた巨大な背景幕がかかっていて、その顔の下
に赤ペンキで「暴君」と落書き風に殴り書きされていた。劇の終幕で、共和制
の確信的な支持者のひとり(「彼の徳に従いて、彼を用いん……」)、ブルー
タスの死を語る、オクタヴィアヌスの偽善的な言葉の後、カエサルの絵が消え
去って、軍服の正装をまとい、アーノルド・シュワルツネッガーそっくりに似
せた――まもなく、自称、神に等しいアウグストゥス・カエサルになる――オ
クタヴィアヌスの肖像に代わる。史実としては、オクタヴィアヌスの軍事支配
は、紀元前42年のフィリピにおけるブルータスとカシウスの自害の直後に始
まったのではないし、シェイクスピアもそうは言わない。だが、それが劇の―
―そして歴史の――本筋だ。紀元前44年3月イダス[古代ローマ歴15日]
のユリウス・カエサルの殺害は。もっと残忍で頑迷な後継者の出番を用意した
だけである。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htmy/037575895X.html

ロームルスによるローマ市街の建設は、紀元前753年のできごとと伝承さ
れているが、ローマ共和政体の時代を紀元前509年から紀元前27年までと
するのが定説である。共和国の最初の200年を含め、このほの暗い過去につ
いて私たちが知るのは、リヴィウスほかが遺した歴史書や近代考古学の知見に
よるものだけ。共和制成立の前の世紀、ローマは近隣のエトルリア国(現在の
トスカーナ[イタリア中部の州・地方])から出たエトルリア王たちによって
治められていたが、伝説によれば、それも紀元前510年、タルクイヌウス・
スペルブス王(「タルクイン王」)の息子セクストウスが、ローマの有力家門
の娘、ルクレーティアを陵辱するにおよんで一巻の終わり。この非道行為に憤
激した貴族のグループが、ローマ市民の支持を後ろ盾に蜂起して、エストニア
人たちをローマから追放したのである。反逆者たちは、いかなる者であれ一人
の人間がローマの至上権を握ることは二度と許されないと衆議一決し、その結
果、確立した制度は、4世紀間はどうやらうまくいき、一人物による権力の掌
握を未然に抑えていた。「これが、キケロの時代(紀元前106年から43年
まで)には不可解なまでに複雑なものになっていた憲法の約束事を支える中心
原則だった」とエヴェリットは書く。

ローマの不文憲法[慣例、判例、古法規などによる実質的憲法]の核心に元
老院があり、これは、紀元前1世紀初めには300人の議員で構成され、この
なかから、コンスル[執政官]と呼ばれる最高行政官2名が選出されていた。
二人のコンスルは1か月ごとの輪番制で職務に就き、いずれも1年を超えて在
職することは許されなかった。このみごとな“抑制と均衡”の仕組みが、時間
が経つうちにいよいよ発達したので、コンスルにしろ、他の行政官にしろ、役
職により主権――軍団を指揮し、法律を解釈して執行し、死刑を申し渡す権限
――を賦与された人物が、威光の幻影をもてあそび、在職期間を延ばすのが不
可能になるほどだった。これらの制限条項の中心に、対等な権限と期限つきの
任期といった原則があった。このうちの初めのものは、それぞれすべての官職
に、現職が少なくとも二人はいて、どちらも他方に対して先任権や優位性を持
たないということである。現職の任期は通常1年に限られ、同じ職責にふたた
び選ばれるためには、10年待たなければならなかった。元老院議員たちは、
コンスルを含む上位職の資格を得るまで、2年ないし3年間は――財務・審問
官、護民官、造営官、法務官といった――下位職を務めなければならなかった。
すべての在任者は同位の在任者の行為を拒むことができ、高位者は下位者の決
定を拒否できた。これらの規則の主要な例外が、軍事的危機にみまわれたとき、
コンスルたちが指名する「独裁官」の職権だった。独裁官は常に一人だけであ
り、しかもその決定は却下を免れていた。憲法の定めによって、独裁官の任期
は六か月または危機の期間に限られていた。

コンスルや、その次の役職であるプラエトル[*]が任期を終えると、属州
や植民地の統治者としてイタリアや外地に配置され、プロコンスル[属州総
督]の肩書が与えられた。今日、米軍の提灯持ちに堕したジャーナリズムが、
中東(Centcom 中央軍司令部)、ヨーロッパ(Eucom 欧州軍司令部)、太平洋
(Pacom 太平洋軍司令部)、中南米(Southcom 南方軍司令部)、米本国
(Northcom 北方軍司令部)各方面の最高司令官をローマの属州総督に譬〈た
と〉えるのは笑止千万。《1》 ローマの総督は、国内最高の行政官職を経験
した老練の元老院議員であり、他方の米方面軍司令官たちは、一般社会の関心
事から遠い世界で全経歴を勤めあげ、目立つ過ちを避けえた才覚のおかげで現
在の地位に昇りつめた将軍や提督なのだ。

例えば、キケロは、紀元前63年(オクタヴィアンの誕生年)にコンスル職
を辞した後、現在のトルコ南部、キリキア植民地に統治者として派遣され、そ
の地で民事・軍事両面にわたる職責を担った。この複雑な体制は、時とともに
ローマ社会に内在した階級闘争のためにますます複雑になった。共和制初期の
2世紀の間、外見は参加民主主義であっても、元老院で優勢を誇る貴族家門の
寡頭政治という実態があった。これでは誰もが満足というわけにはいかない。
紀元前287年、憲法が多少なりとも公的に整備されたとき、平民または民衆、
つまり貴族身分を持たない一般のローマ市民の権利を擁護するための新しい制
度が導入された。すなわち、平民身分の生命や財産の保護に任ずる、下層民の
護民官の制度である。護民官たちは、職権による議席を元老院に占め、元老院
による選挙、法令、布告など、どんなものでも拒否することができたし、(独
裁官は除くが)すべての役職者の行為に対する拒否権を持っていた。また、護
民官たちはおたがいの拒否決定を拒否することもできた。「きっと彼らの生き
がいは人びとを困らせることにあったので、その人品はきわめて神聖だった」
とエヴェレットは記す。後に、ユリウス・カエサルなど、自分の軍団にプラス
して、貴族身分に対抗する平民身分の支持を権勢の基盤とする将軍たちにとっ
て、護民官の選定を左右する権限は非常に重要になった。

元老院のすべての議員たちが、何をするにしても歩み寄りと合意が唯一の方
策であると理解しているかぎり、この体制は良好に機能し、ローマの市民に比
類のない自由をもたらしていた。エヴェレットはこのことをカエサルとキケロ
との方向性の違いとして論じている。カエサルは、ローマ史上最大、おそらく
は世界史上最大の将軍であり、他方のキケロはローマ憲法の最も思慮深い擁護
者だった。両者ともコンスルの経歴を持っていた。「ユリウス・カエサルは、
果てしのない抑制と均衡を求める憲法が効率的な統治の妨げになっていると、
天才肌の冷徹な洞察をもって理解していたが、キケロは、政治を考えるうえで、
数多くの同時代人と同じく、構造ではなく人間の要素に着目していた。カエサ
ルにとって、正解はまったく新しい統治機構の構築にあった。キケロにとって
の正解は、国政を委ねるに足る人物――そして当の人物に道理をわきまえさせ
るための正しい法律――を見つけることにあった。

「汝、人間であることを忘れるなかれ」

帝国主義が、ローマの共和政体を破壊する危機を招いた。共和国はイタリア
全土を勢力圏として少しずつ固め、ギリシャのシチリア島植民地を征服した後、
ギリシャ本土、北アフリカのカルタゴ、現在の南フランス、スペイン、さらに
は小アジアへと占領地を拡大していった。紀元前1世紀には、ローマは、ガリ
ア全域[現在のイタリア北部、フランス、ベルギー、オランダ、スイス、ドイ
ツにまたがる属領]、リベリア半島の大半、北アフリカ沿岸地帯、(ギリシャ
を含む)マケドニア、バルカン半島諸国、現在のトルコ、シリア、レバノンの
大部分を支配していた。「帝国からの略奪のおかげで、共和国はとてつもなく
富裕になった」とエヴェリットは書く。「そのため、紀元前167年以降、イ
タリアのローマ市民は個人税を一銭も払わなかった」 おまけに共和国は尊大
になり、おごりたかぶる一方で、われらが任務は劣等な諸民族に文明を伝える
ことなりと信じたり、地中海をマーレ・ノストラム(われらが領海)と命名し
たりしたが、この態度は、20世紀にいくばくかのアメリカ人がしゃしゃりで
て、太平洋を「アメリカの湖」と呼んだのとどこか似ている。

問題は、ローマ憲法の存在が邪魔して、これほど拡大し、変化に富む占領地
の支配管理を円滑におこなうのがしだいに困難になったため、譲歩と合意を旨
としていた規範や調整が巧みに捻じまげられたことにある。この危機にはいく
つかの側面があったが、最も重要だったのは、ローマ軍の職業軍人集団への変
容、そして軍国主義の高まりだった。共和政体の前・中期におけるローマ軍団
は、小地主の徴集兵たちが参加する、真の意味の市民軍だった。アメリカの共
和政体とは違って、17歳から46歳までの市民はすべて軍務に招集されると
されていた。ローマの制度でかなり賞賛に値するもののひとつに、ある程度の
資産(つまり、馬1頭と土地)を持つ市民のみが兵役につくことができたこと
がある。国家の恩恵に最も浴する者が、国防の責任を負うわけだ。(対照的に、
アメリカの連邦議会議員535名のうち、全志願制の軍隊に服務する子どもが
いるのは7人だけ) ローマの平民は、陸軍の小戦闘要員として従軍するか、
あるいは桁違いに名誉が劣るとされた海軍に配属されるかした。コンスルたち
は、それぞれの任期の初めに護民官を選任し、国勢調査で選別した有資格市民
から成る2軍団を組織させた。

会戦が終わると、兵士たちは、時に前よりも豊かになり、手柄に満足して、
速やかに自分の農地に戻された。たまには帰還農民たちは将軍を先頭に“凱
旋”行進をおこなったが、これはローマのカレンダーに特記される最高に輝か
しい儀式であり、勝利の行列は最大功績をあげた征服者のみに許されていた。
将軍ご本人は、パレードの経費を自分で負担し、神がみの王ジュピターを象徴
する赤い鉛顔料を顔全面に塗って、戦車に乗りこんでいた。将軍の背後に少年
奴隷が立ち、頭上に月桂冠を捧げもち、耳に「汝、人間であることを忘れるな
かれ」と吹きこんでいた。紀元前61年のポンペイウスの大勝利にさいし、ご
当人はアレクサンドロス大王から伝わるマントを身にまとった。将軍に続いて、
鎖に繋がれた捕虜たちの列が進み、最後尾に行進する軍団兵士たちが、古来の
伝統にのっとり将軍をからかう卑猥な歌を高唱していた。

エヴェレットの言葉を借りれば、紀元前2世紀の末には「帝国としての責務
をまっとうするために、兵士たちは、それぞれの戦闘期間が終わっても動員解
除を許されなかった。兵士たちを長期兵役に縛る常備軍が必要になった」 大
将軍ガリウス・マリウスが軍制改革の任にあたり、古い徴集兵軍団に代えて長
期志願兵のプロ集団を組織した。志願兵たちは、契約が満期になると、個人的
に忠誠をつくしてきた指揮官に土地を賜ることを期待した。だがあいにく、当
時のイタリアでは、土地は、その大半が貴族身分を中心とする富裕家門の所有
地になり、奴隷労働に支えられた羊・牛の大牧場に囲い込まれ、不足をきたし
ていた。優勢な保守派として元老院に陣取る地主階級は、土地改革のあらゆる
試みに抵抗した。ローマが征服戦争を重ねた結果、上流階級の人びとは富を得
て、安全な投資先としては唯一の資産である土地を買いあさり、小地主たちを
所有地から追いだした。(平民出身の)チベリウス・グラッシスが新しい土地
利用に関する法律を唱道したために、紀元前133年、地主階級は彼の殺害を
お膳立てした。ローマの社会は土地なし退役軍人であふれていた。「ローマの
次なる戦争に送りこまれ、老いて戻される兵士たちに賜る土地を、どこで探せ
ばいいのだろう?」とエヴェレットは問いかける。

崩壊前の最後の1世紀間、共和国は度重なる将軍たちと軍団の反乱によって
攻撃され、その結果、憲法が著しく侵害され、いくたびかは内戦になった。こ
の例として、マリウス[将軍・執政官]やスラ[将軍・独裁官]、それに失墜
した革命児カティリナの蜂起がある。また紀元前73年にはスパルタクスの奴
隷反乱があったが、途方もない金満家マルカス・リキニウス・クラッススによ
って鎮圧され、将軍の命令で6000人の生き残りが縛り首になった。クラッ
ススは、ポンペイウス、カエサルとともに第一次の三頭政治を担った。これは
将軍たちが直に手を結ぶことによって状況の掌握を図ったものである。エヴェ
レットはこう記す――「キケロは、少年期・青年期をとおしてローマが自己解
体しはじめるのを恐怖の思いで見つめていた。成人になったあかつき、彼に使
命があるとすれば、それは共和政体をあるべき秩序に戻すことだった……(彼
は)共和政体の政治生活を特徴づける無制限の弁論の自由が、社会的な集いや
食事の席で警告を発する手段を提供すると気づいた……元老院はローマの問題
に解答を持たず、探してもいなかった。元老院の存在目的は、ただ憲法を維持
し、その権威に対する絶えまない攻撃に抵抗することだけ……平民階級はカテ
ィリナの敗北とともに徹底的に打ちのめされたが、蛇は気を失っていたにすぎ
ない。カエサルは、元老院の大物たちの裏をかく機会をうかがいつつ背後に潜
みながら、政治の階梯〈かいてい〉を登っているところであり、事故さえなけ
れば、2、3年のうちにコンスルになろうとしていた」

紀元前59年、カエサルは初めてコンスルになり、一般大衆の人気を一身に
集めた。任期を終えると、彼は褒賞〈ほうしょう〉としてガリア総督に任じら
れ、その地位に58年から49年まで留まり、その間、おおいに軍功をあげ、
莫大な富を得た。北イタリアを流れる小川が、首都に接近する軍団を足止めさ
せる境界になっていたが、後の世に有名な故事になったように、49年、彼は
傘下の軍団にこのルビコンの渡河を許し、そうして国土を内乱の地となし、か
つての同盟者、今は敵のポンペイウスと対決した。カエサルは勝利して、エヴ
ェレットの筆によれば「戦場で、カエサルに戦いを挑む者はひとりも残ってい
なかった……彼の主だった敵は死んだ。共和政体も死んだ。彼は国家になっ
た」 ユリウス・カエサルは紀元前48年から44年まで独裁政治をおこない、
3月のイデス[ローマ歴15日]の1か月前、わが身を「終身独裁官」に任ず
る手はずを整えていた。ところが、元老院において、二人のプラエトル[法務
官]、ブルータスとカッシウスが主導する議員8名の共謀によって、彼は刺殺
された。歴史に名高い「道義ある暴君殺し」である。

それに続く場面のシェイクスピアによる娯楽的な描写は、サー・トーマス・
ノースによるプルタルコス英雄伝の翻訳にもとづくが、暗殺事件そのものと同
様に不朽になった。ブルータスは大広場で平民身分に向かって演説し、みずか
らの行為を自己弁護した。「この集会にカエサルの親しい友がいるなら、彼に
こそ、カエサルに寄せる私の愛は、彼のものより大きかったと私は言おう。も
しその友が、ブルータスがカエサルに刃向かったのはなぜかと問うならば、私
はこう答える。私のカエサルを愛する気持ちが劣るからではなく、私のローマ
を愛する気持ちが勝るからである。諸君は、カエサルが死んで、皆が自由の民
として生きるのよりも、カエサルが生きて、皆が奴隷として死ぬのを選ぶのだ
ろうか?」 だが、同じ聴衆に語りかけたカエサルの第一副官、マルカス・ア
ントニウスは決定的な一語を持っていた。彼は人心をブルータスとカッシウス
に対する悪感情に転じ、群衆がカエサル殺害の仇を討たんと殺到するとき、
『ハボック[大惨事]!』と叫べ。戦争の災禍を解き放て」と皮肉を込めて言
った。

誰が監視人を監視するのか?

カエサルの敵を討つために形成された第2次三頭政治は、第一次と同じよう
にして終わり、勝ち残ったのはただ一人だった。だが、その人物、カエサルの
甥の息子、弱冠18歳のカイウス・オクタウイアヌス(オクタヴィアン)は、
共和政体を皇帝独裁制に転換することにより、ローマの統治形態を決定的に改
変してしまった。エヴェレットはオクタヴィアンの性格を「略奪的な若造の海
賊船長」と描写するが、紀元前43年8月19日、彼はローマ史上で最も若い
コンスルに就任し、憲法に違反して、独自の私兵軍団を創設した。「少年は、
ローマの民衆、除隊した古参兵、常備軍団の間に煮えたぎる憤激の焦点に立つ
ことになるだろう」 キケロは、オクタヴィアンに代表される類の権力を阻止
するために身を捧げてきたが、もはや法の支配を見限って、現実的政治を支持
するようになった。彼は「闘い空しく、憲法は廃れ、権力は兵士たちと指揮者
たちの手にある」と認めた。キケロの分析では、ただひとつ希望が残された道
は、「基本的にカエサル派である一般民衆の意見を荒立たせ」ないためにあら
ゆる手を尽くしながら、オクタヴィアンを推挙し、もっと憲政に則した立場に
導くことだった。キケロは、この最後の絶望的な賭けに命をなげだす覚悟だっ
た。オクタヴィアンはマーク・アントニウスと手を組み、少なくとも130人
の(おそらく300人もの)元老院議員たちをカエサルに対する陰謀を支持し
た嫌疑で告発し、処刑と財産没収を命じた。マーク・アントニウスは独断でキ
ケロの名を処罰リストに加えた。キケロが死に向きあったとき、この偉大な学
者にして雄弁家は、かねてから読んでいたエウリピデス[紀元前5世紀、ギリ
シャの悲劇詩人]の『メーディア』を携えていた。彼の首と両の手は大広場で
晒しものになった。

キケロの死の1年後、ブルータスとカッシウスが自害したフィリピの戦いに
続いて、オクタヴィアンとアントニウスは既知の世界を二人の間で分割した。
オクタヴィアンは西を取り、ローマに留まった。アントニウスは東を受けいれ、
エジプトの女王にしてユリウス・カエサルの元愛人、クレオパトラと同盟した。
紀元前31年、オクタヴィアンはこの不安定な状態の解消に乗り出し、ギリシ
ャ西岸アンブラキア湾内、アクティウムの海戦でアントニウス=クレオパトラ
艦隊を撃破した。翌年、アレクサンドリア・マーク・アントニウスは愛用の刀
剣に身を投じ、クレオパトラは乳房にエジプトコブラを押し当てた。この時ま
でに、アントニウスとクレオパトラは、アントニウスはカエサルの末裔〈まつ
えい〉であると主張したり、カエサルによってもうけたクレオパトラの子ども
たちのローマ市民権を求めたりしたとして、徹底的に貶〈おとし〉められてい
た。勝利に続いて、オクタヴィアンは、紀元前14年に物故するまでの45年
間、ローマ世界を支配することになった。

紀元前27年1月13日、オクタヴィアンは元老院に乗りこんだ。それまで
にも元老院は、権限の大部分をオクタヴィアンに譲ることにより、その自己解
体を合法的に進めてきたが、今度は、初代ローマ皇帝、アウグストゥスという新
しい称号を彼に贈った。元老院議員の過半数は、彼のお手盛りで選ばれた絶対
的な支持者だった。紀元前28年、アウグストゥスは終身護民官に任じられ、こ

地位により、元老院が何をするにしても、それに対する究極の拒否権を与えら
れ、さらに大きな職権を認められることになった。彼の権力の拠り所は、なん
と言っても軍隊を完全に掌握していたことだった。

アウグストゥスの権力への上昇には――テキサス州クロウフォードから出てき
た、わが国の少年皇帝の場合に似ていなくもなく――いつも憲法蹂躪〈じゅう
りん〉の汚名がつきまとっていたが、彼はローマの体制と代議制の弱体化を推
進した。彼は昔ながらの共和制官庁を閉鎖するようなことはなく、ただ単に一
人物――彼自身――の下に統合しただけだった。皇帝による任命は、権威と言
うより、威光と社会的地位の標章になった。元老院は古い貴族家門の社交クラ
ブになり、元老院による勅令承認は儀礼以外のなにものでもなくなった。ロー
マ軍団は相変わらずSPQR――senatus populus que Romanus「元老院と
ローマ人民」――を謳う旗印の下に行進していたが、アウグストゥスの権威は絶
対だった。

最大の深刻な問題は、軍隊があまりにも膨れあがり、ほぼ統制不能になって
いたことだった。ローマ軍は、今日の米国におけるペンタゴンに似ていなくも
ないが、国家のなかの国家を形成していた。アウグストゥスは軍の規模を削減し
たり、従軍12年を超える兵士たちに気前よく現金を支給しては、これは上司
の軍指揮官からの給金ではなく、彼からの恩賜金であると説明したりしていた。
彼はまた、すべての軍団をローマから遠ざけ、遠隔の属州や帝国の境界域に配
属し、軍部が政治に干渉する意図を未然に摘んだ。やはりこれと同じように抜
け目ないことに、彼は、彼個人を防護する任務を帯びる精鋭9000人の部隊、
近衛軍団を創設し、ローマに配置した。近衛兵たちは、遠い属州からは徴用さ
れず、イタリアからだけ選別され、正規軍の兵士たちよりも高額の給金をもっ
て優遇されていた。当初、軍団はアウグストゥスの身辺警護部隊として発足した
のだが、彼の死後、時間の経過とともに新しい皇帝の選定を左右する勢力にな
っていった。これは独裁政治にまつわる古い矛盾を絵に描いたような初期の実
例のひとつだった。ひとつの官僚組織、正規軍を統制するために、もうひとつ
の官僚組織、近衛軍団を創設したのはいいが、ほどなく次のような疑問が生ま
れる―― Quis custodiet ipsos custodes? (誰が監視人を監視するのか?)

アウグストゥスはローマの平和(パックス・ロマーナ)を築いた功労者とさ
れ、
歴史家たちは平和が200年以上も続いたと好んで言う。しかし、この平和た
るや軍部独裁であり、全面的に在位の皇帝に依存するものだった。そしてここ
に問題が内在する。ティベリウスは西暦14年から37年まで君臨し、彼の性
的な好みにかなう若い男たちを引き連れてカプリ島に隠退した。彼の後を継ぎ、
37年から41年まで在位したカリグラは、軍隊の寵児〈ちょうじ〉だったが、
41年1月24日、近衛軍団が彼を暗殺し、さらに皇帝宮殿の略奪におよんだ。
現代考古学が提示する証拠が、歴史が常に証言していたように、彼が常軌を逸
した狂人であったことを強く示唆している。《2》

41年から54年まで在位したローマ第4代皇帝、クラウディウスは事実上
の軍事クーデターにより近衛軍団の手で権力の座に据えられた。ロバート・グ
レーブスが著書(1934年刊 “I, Claudius”[『我、クラウディウス』])
で、また後にはデレック・ヤコビがテレビ番組で基本的に好意をもって描く人
物像とは違って、カリグラの叔父、クラウディウスは剣闘士の果たし合い見物
に病みつきであり、敵方の剣闘士が敗れ、殺されるのを喜んで見つめていた。
子どものころ、クラウディウスは話がつかえ、よだれを垂らし、どもり、いつ
も病弱だった。彼は最初の妻を人に殺させ、叔父と姪との結婚を許すように法
律を改定したうえで、カリグラの姉妹の娘、アグリッピナを娶〈めと〉った。
54年10月13日、おそらく妻に供されたのだろうが、クラウディウスはド
クキノコで殺され、実に当日の午後、注意深く整えられた政治劇場の舞台で、
アグリッピナの息子、ネロが喝采を浴びて皇帝に即位した。54年から68年
まで君臨したネロは、近年、芸術のパトロンとして評価がいくらか見直されて
いるが、64年にローマに火を放ち、何人かの高名な初期キリスト者たち(パ
ウロとペテロ)を迫害したとされていて、おそらくは正気を失った暴君だった
のだろう。

アメリカ共和政体の短く幸福な命

アウグストゥス以後のローマ帝国を開明政府の見本としてたたえる人はそう多

ないが、ワシントン・ポスト紙のチャールス・クラウトハマー、ロサンジェル
ス・タイムズ紙のマックス・ブート、ウィークリー・スタンダード誌のウィリ
アム・クリストルといったジョージ・W・ブッシュ政権のネオコン応援団が
ローマ帝国に寄せる熱狂は格別だ。筆者がこの古代の歴史をひととおり論じた
理由は、わが国の少年皇帝は第二のオクタヴィアンであると言いたいからでな
く、彼が去った後、何が起こりうるか示唆したいためである。ローマ共和政体
を滅ぼしたのは、帝国主義と軍国主義だったと――当時の保守的政治指導者た
ちは皆ほとんど理解していなかったが――ユリウス・カエサル時代以降の共和
制の歴史が教えている。軍国主義と、大規模な常備軍の職業化は国家組織内に
抵抗しがたい新しい権力の源泉を生みだす。政府は大衆を動員しては大砲の餌
食にしなければならず、このため、傘下の部隊や退役軍人たちの不平不満を知
る平民派の将軍たちの台頭を招く。

1973年からこのかた、アメリカの軍隊における兵役は国民男子すべてに
課せられる義務ではない。今日のわが国の軍隊は、各個人ごとの理由、一般的
には、アメリカ社会のあれやこれやの袋小路で行き詰まった挙句の果て、上昇
するために入隊する男/女たちの就職先軍団になっている。普通の場合、彼ら
は自分が撃たれるなどとは考えてもおらず、国家雇用のありとあらゆる恩典―
―確実な賃金払い、よい住居、無料の医療給付、人種差別からの救済、世界旅
行、それに“軍務”に対する世間の感謝――を疑うことなく期待している。現
代アメリカの市民生活が提供する選択肢は、難儀な職探し、雇用保証なしの仕
事、経営者やお抱え会計士による日常的な退職基金の横領、“私営”医療、お
粗末な公的初等教育、正気の沙汰でない高額の高等教育費であることを彼らは
よく知っている。筆者が思うに、彼らは、アンドーヴァー、イェール、ハーヴ
ァードの経営学大学院経由で富と権力への道を歩む貴族的な政治家たちの政治
レトリック[美辞麗句]ではなく、ユリウス・カエサル、ボナパルト・ナポレ
オン、ホアン・ペロン――皇帝に任命されることだけが望みで、共和制の機微
に無関心な革命的平民派軍人――を待望している。

次期大統領選挙の結果がどうなろうと、新任大統領は、ペンタゴン、軍産複
合体、わが国の基地の帝国、それに軍事施設の経費とそれが与えうる国土の荒
廃がどんなものであるかを国民に知らしめない50年の伝統に対処しなければ
ならなくなる。歴史は、ものごとが悪化する程度は無制限であると教えている。
アメリカ共和政体の短く幸福な命は深刻な難局にある――そして、軍事帝国へ
の転換は、控えめに言っても最良の答ではない――と、ローマ史が示唆してい
る。

[脚注]

1.例えば、Dana Priest, The Mission: Waging War and Keeping Peace
with America’s Military (New York: Norton, 2003)[ダナ・プリースト『任
務――戦争遂行、米軍との和平維持』(ニューヨーク、ノートン出版、200
3年刊]参照のこと。

2.Shasta Darlington, “New Dig Says Caligula Was Indeed a Maniac,”
Reuters, August 16, 2003.[ロイター通信2003年8月16日、シャス
タ・ダーリントン「カリグラの狂気は本物、新出土品で判明」]

[筆者]チャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)は、第二次世界大戦
後の占領下日本に滞在後、カリフォルニア大学バークレー校・国際関係論講座
の教授を経て、現在はカリフォルニア州カーディフの日本政策研究所(the
Japan Policy Research Institute — www.jpri.org )代表。著作「帝国シ
リーズ」三部作の既刊2巻『アメリカ帝国への報復』(鈴木主税訳・集英社刊。
1)『アメリカ帝国の悲劇』(村上和久訳・文藝春秋刊。2)はいずれも国際
的ロングセラー。特に9・11の前年に出版された1冊目・原題『ブローバッ
ク[対外謀略戦の自国内への跳ね返り]』は、帝国的政策の「しっぺ返し」を
予言していたとして反響を呼ぶ。目下、3冊目を執筆中。
1.

2.

6029332-9877958

[原文]The Best of Tomdispatch: Chalmers Johnson
The Scourge of Militarism — Rome and America
By Chalmers Johnson, posted at TomDispatch on June 9, 2005
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?emx=x&pid=3178
Copyright 2003 Chalmers Johnson TUP配信許諾済み
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[翻訳]井上利男 /TUP