DATE: 2005年9月1日(木) 午後0時59分
息子の命を奪った崇高な使命とは何なのか? 全米を揺るがすシーハン No7
オーストラリア人女性ドナ・マルハーンは、2003年春イラクでの「人間の 盾」に参加し、2004年春には米軍包囲下のファルージャに入り、その帰路地元 レジスタンスによる拘束を経験、2004年冬から翌年春にかけてイラク・パレス チナを旅して現地から報告してくれました。そのドナが、今度はアメリカか ら、2004年4月にバグダッドのサドルシティで戦死した米兵の母親、シンディ ・シーハンのことを報告しています。シーハンはなぜ息子が死んだか答えて欲 しいと、今月6日にテキサス州クロフォードのブッシュ大統領私邸に向かい、 ブッシュの牧場の外で警察に止められ、ならば大統領が会うまで帰らないと キャンプを張り続けて面会を要求しています。全米から支援者が続々とかけつ けるなか、日本のマスコミも報道するようになりました。ドナからの報告第7 弾です。 (翻訳:福永克紀/TUP)
ステイシー・ブランデンを選ぶ ドナ・マルハーン 2005年8月19日
ステイシー・ブランデンを選んだのです。
なぜだか分かりませんが、キャンプケーシーの道端の草地に長々と整列して立 てられた白い十字架のひとつ、そのひとつの小さな十字架に惹かれました。
ステイシーの十字架には、他の十字架のいくつかのようには特別な花輪や花束 などはありません。質素で、名前だけが黒い字で丁寧に書かれていました。
私は、緑色の茎が細い紫色の花を、その十字架に供えました。
今夜、キャンプケーシーでの儀式に集まってきた大集団から少し離れて歩きま した。私が今まで参加した中でも、とりわけ最高に感動的なヴィジルでした、 本当に。イラクでのヴィジルを除けば、こんなにも多くの、戦争の被害を直接 受け息子や娘や夫などを亡くした人たちと隣り合って立つのは初めてでした。 深い悲しみが重苦しく漂っているようでした。
それは厳粛な儀式でした。太陽が暗いピンク色の雲に隠れいく黄昏時に、大集 団の一人一人が蝋燭を持ち、国旗に巻かれた棺の周りに静かに集まりました。 両端に不動の姿勢で立っているのは、イラク戦争に従軍した二人の若い帰還 兵、ハートとチャーリーです。
もう一人のイラク戦争帰還兵で良心的兵役拒否者のエイデンが、戦争の代償に ついて深い思いを語り、重苦しい沈黙を破りました。「戦争に勝者などはあり ません。どちらの側も、どれだけ多くの命が失われたか判定しなければならな いのです」。小聖歌隊が穏やかに歌う中、全体が一列に並びキャンプサイトの 三角形の中心点の周りをゆっくりと行進し始めました。
陸軍ジャケットを着たハートは、シンディと手をつないで歩いていました。大 勢の特派員たちがフィルムを回しシャッターを切っていましたが、戦死した各 人の名前が一人一人読み上げられると、誰もが深く心を揺さぶられ、涙を見せ ない人などほとんどいませんでした。
「今夜、ハートが私と手をつないでくれました」と、シンディがあとで皆に報 告しました。「歩いている時、息子のケーシーと歩いているように思いまし た。
「しかし、二度と再びケーシーの手を握ることができないのは、分かっていま す。だから、ハートは今や私の息子、チャーリーもエイデンも、国中の他の子 供たちも私の息子です。
「しかし、百万人の息子がいたにせよ、やはりケーシーに取って代わることは できないでしょう……これは、生身の人間のことを言っているのです、人の命 に関することです、それが私たちがここに来た理由です。 「これ以上どんな棺も帰国してくるのを見たくはないのです。飛行機から歩い て降りてきて、家族から喜びの歓迎を受けるのを見たいのです」
それから誰もが棺に花を添えるように招かれましたが、私は花を手向けに前に 進むことができませんでした。このヴィジルの重々しさが私を孤独に追い込ん だのです。この夜は人前で悲しみを表すことができませんでした。私の中の何 もかもが、独りぼっちを望んでいました。独りで考え、独りで嘆くことができ るように、背中に付きまとう歌声を聴きながら、大集団から離れ一人で十字架 の方へ歩いていきました。
十字架の列を歩き、どれかひとつを選んで一個人から一個人への気持ちを込め て、そこに花を供えることにしました。
選んだのは、ステイシー・ブランデンのものでした。
彼の十字架に花を供え、その前に跪きました。ステイシーはどんな人だったの だろうと考え、彼の家族への祈りを小声で唱え、しばらくそこにいました。
その夜、あとでステイシーのことをもっと知ろうとインターネットで彼の名前 を探しました。
彼は、2004年4月に迫撃砲の攻撃で死亡したアーカンサス出身の兵士4人の一人 でした。2004年の4月には、私はイラクにいました、ステイシーと同時期で す。
彼は、バグダッド北方タジで亡くなりました。私もまたタジにいたことがあり ます。戦争中人間の盾としてイラクにいた当初、数週間そこにいました。
ステイシーと私にわずかながら共通するものがあると知って、身震いしまし た。それに彼は私と同い年でした。
ステイシーには妻がいました。エイプリルという名で教師をしています。ステ イシーはまた4歳の息子と17ヶ月の幼い娘の父親でもありました。新聞記事に は、非常な愛妻家だったと書かれています。週に3回教会に通い、カントリー ミュージックを聴き、フライフィッシングが好きでした。
刑務所護衛官の彼は、友人しかも最愛の親友として記憶され、教会の聖歌隊の 歌い手で、額に入った子供たちの写真がたくさんありすぎて浴室にまで溢れる ような家族思いの男だったそうです。
彼の写真も見ました。愛想の良い丸顔で、温かい目をして大きなえくぼがあり ました。彼と知り合いになっていくような感覚でした。
そのあとはずっとステイシーのことが心から離れず茫然としていました。それ で、今夜は彼のことだけを考えようと決めました。イラクや英国やポーランド やイタリアなど、他のすべての人々のことを考えようとすれば、一瞬でも一人 一人に思いを巡らせようとすれば、私は圧倒され、今宵だけではなくおそらく 永遠に茫然としていることになったでしょう。
だから今夜は、ステイシー・ブランデンを選びました。
皆さんの巡礼者
ドナより
追伸:昨夜、全米の都市や町で約1600のヴィジルに10万人以上の人が参加し、 シンディ・シーハンとキャンプケーシーでの彼女の行動への支持を公に示しま した――これはシンディと私たち全員に対する大きな大きな励ましです。
追追伸:ニュースでお聞きになっているかもしれませんが、シンディのお母さ んが倒れました。お母さんを見舞い、様子を見るため、シンディはロサンジェ ルスに行っています。キャンプケーシーは通常通りの活動を続けています。毎 日、駆けつける軍人家族が増えてきていて、俳優のマーティン・シーンも明日 参加する予定です、また私たちはもう少しブッシュの牧場に近い新しい場所に 移動する予定です。
追追追伸:シドニーのお友達へ、今夜チャンネル7をチェックできますか、今 日衛星インタビューを受けました。
追追追追伸:「母親の損失、国民の痛み」――キャンプケーシーに掲げられて いる言葉
原文:I chose Stacey Branden URL: http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/168