FROM: minami hisashi
DATE: 2005年9月28日(水) 午後11時43分
☆災害のなかに『暗闇のなかの希望』の作家が見る光明★
災害報道では、とかく暗い側面が強調されて伝えられるのが、当然ですが、レ
ベッカ・ソルニットは、今回のニューオリンズのカトリーナ災害に併せて、1
906年のサンフランシスコ地震、1985年のメキシコ・シティ地震、20
01年の9・11を振り返り、惨禍に遭遇した民衆の行動のうちに未来への希
望を見つめます。本稿は同じ筆者によるTUP速報543号「カトリーナが残
した疑問」《*》の姉妹編と言えるでしょう。なお、筆者の勧めにより、追記
部分を雑誌掲載記事の抄録の前に置きました。前者をカトリーナ災害のドキュ
メントにもとづく考察、後者を災害の一般論的な考察としてお読みください。
井上
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/588
凡例: (原注)[訳注]〈ルビ〉《リンク》
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災害の効用:
悪天と善政についての覚え書き
――レベッカ・ソルニット
ハーパーズ・マガジン・サイト 2005年9月9日
[サイト編集者注]災害と権力、および人間性理解との相互関係について考察
する本稿のオリジナルが小誌の印刷に廻されたのは、ハリケーン・カトリーナ
が湾岸に襲来したのと時を同じくしていた。ここに本文の抄録に加えて掲載す
る追記は、ウェブだけで読めるものであり、ニューオリンズの惨事に絞って具
体的に論じている。オリジナル作品はハーパーズ・マガジン2005年10月
号に掲載される。
【追記】
災害の物語で問われるのは、私たちが人間性のどのような側面を受け入れるの
か、そしてこの選択で問われるのは、どのように治めるのか、またどのように
将来の災害に対処するのか、ということ。ニューオリンズが破壊されてから1
週間以上経過した今まで、私たちは、貧しく、たいていは黒人の“度しがたく
なった”連中の話しを聞いてきた。語られたのは“暴動”や殺害された赤ん坊
たち、人肉食の例。与えられたイメージは、人命の危機に対してでなく、無認
可ショッピングに対する必要な力としての権限や規制――権力――であり、自
由なテレビ報道は、まるで脅威の根源であるかのよう。ルイジアナ州軍統合作
戦部隊のゲイリー・ジョーンズ准将は「当該地域はリトル・ソマリアの様相を
呈しようとしている」とアーミー・タイムズ[陸軍機関紙]に語った。「われ
われは出動し、この市街を奪還する。これは同市を支配下に置くための戦闘作
戦になるだろう」
もちろん、ニューオリンズはかねてから暴力の巷〈ちまた〉だった。殺人事件
の対人口比発生率は全米最高の部類に入る。昨年「ニューオリンズの街中で、
特定の午後のうちに警察が空砲を700発撃つという実験を大学の研究チーム
が実施した。発砲を通告する電話は皆無だった」とAP通信は伝えている。こ
れは、ほんとうに不幸な事態だ。だが、本稿を執筆しているうちに、災害後の
ホッブス学説[*]的な殺戮〈さつりく〉は、風聞の域をたいして出るもので
はないことが明らかになってきた。「私はニューオリンズ地域に住んでいます
が、土曜日に自宅に戻りました」と、一住民がハリー・シアラーのウェブサイ
トに書いている。「私たちは、略奪がおおげさに伝えられていること、多くは、
食料や水、あるいは電池などの緊急用品を調達する人びとによるものであるこ
とを知っています。実際の略奪行為がいくらか発生していたことじたいを否定
するわけではありません。じっさい、いくらかはありました。でも、きわめて
例外的です。街中での発砲などの暴力行為もそうです」
[英国17世紀の哲学者、トーマス・ホッブスによる人間性悪説。無制限の闘
争による無政府的混乱を避けるために君主への絶対服従を説く]
水が治まり、真実が濾過されれば、人間性の別の側面が残るかもしれない。私
は、医者たち、地元住民やよそもの、それに、自分のボートやヘリコプター、
バスやトラックで駆けつけたボランティアたちによる救助、援助、介護の話し
――実名と本人の顔によって証明される物語――を数多く聞いた。カトリーナ
災害の混乱からの避難民に対する自宅のベッドの提供を呼びかけるハリケーン
避難所サイト(hurricanehousing.org)に、これまでに全米の市民たちが20
万床分の登録をすませているし、赤十字、その他のハリケーン被災者救済募金
に未曾有の金額が寄付されている。この危機の最中の最も偉大な略奪者は、た
ぶん、スクールバスを拝借して、ニューオリンズの近隣住民70人をヒュース
トンに避難させた20歳のジャバー・ギブソンだろう。
ひとつには、施政権者は災害から国民を護るとされているので、もうひとつに
は、災害時の著しく多岐にわたる必要施策は、最良の政府の手にすらもおえな
いので、また、統治権の政府による執行には、しばしば武力による強制が伴う
ので、災害はほぼ本質的に失政である。だが、あたりまえなら、当局はこれほ
ど見ごたえのある失敗はしない。このレベルの失敗をするためには、不断の努
力が必要だ。持てる者と持たざる者との格差の拡大、公共サービスの剥奪や社
会基盤整備予算の停止が、この――天災ではなく人災としての――災害は、ボ
ンヤリ見ただけでは、それほど明確でないかもしれないが、多少なりとも故意
に実現が図られたものであることを示している。
ニューオリンズの最も凄まじい地獄のような映像は、ポンチャートレイン湖の
叩きつける波ではなく、あるいはハイウェイ高架部をうろつく家をなくした子
どもたちでさえもなかった。それは、スーパードーム[競技場]の悪臭がする
奥底に詰めこまれ、見捨てられた数千人の人びとの映像だった。そして、たい
がいの報道機関が見逃したものは、これらの地獄図は中にいる人たちが招いた
ものでも、牙や爪を赤く染めた自然の猛威の結果でもなかったことだ。これは
権力が創造したものである。内部の人間たちは立ち去るのを許されなかった。
コンベンション・センター[大公会堂]やスーパードームは開放方式の牢獄に
なった。「関係者たちは彼らの徒歩による退出を許していません」と、フォッ
クス・ニュースのアンカーマン、シェパード・スミスは原稿から著しく逸脱し
て伝えた。「彼らはそこに閉じこめられています。しかも、あの街から歩いて
出る人はみな引き返させられています。ルイジアナ州のニューオリンズからル
イジアナ州のグレトナに行くのを許されていないのです。向こうには、希望が
あります。向こうには、電気があります。向こうには、食べ物と水があります。
だが、ここから向こうに行けないのです。政府はそれを許していません。これ
は事実です」 ジェシー・ジャクソン[*]はスーパードームを奴隷船の船
腹にたとえた。人びとは、グレトナ橋で、武装した当局者たち、膨れあがる群
集に向けて威嚇射撃をする男たちに追い返された。管理する男たち。会議のた
めにニューオリンズに来た医療補助員、ローリー・ベス・スロンスキーとラ
リー・ブラドショウは、取り残された数百人の旅行者たちが同じようにして追
い返されるのを目撃したとEメール記事に書いた(現在、カウンターパンチ・
サイト〔CounterPunch〕に掲載)。「私たちは、一日中、別の家族、個人や集
団が橋を渡ろうとして同じように坂道を上ってきて、ただ追い返されるのを目
撃しました。発砲により追い払われた人たちもしましたし、単にダメだと言わ
れた者もいましたが、罵られたり侮辱されたりした人たちもいました。何千人
ものニューオリンズ住民が市内から徒歩で自主的に避難するのを阻止され、禁
止されたのです」 これは無政府状態ではなかったし、市民社会でもなかった。
[Jesse Jackson=牧師、公民権運動活動家。1988年大統領選挙、民主党
予備選に立候補]
これは、ロナルド・レーガンが大型減税を引っ提げて街に乗りこんできて以来
の25年間、私たちの社会が実現を期して努めてきた結果としての災害だ。私
たちが突発的な自然災害について聞いている物語の多くは、生き残りは、市場
原理と同じで、協力ではなく競争の問題であるという概念に表された、勝ち組
の情け容赦のない利己的な人間性についてのものだ。どっちみち、協力は花開
く。(スロンスキーとブラドショウは、文明的な独立キャンプを設営した大き
なグループに属していた) カトリーナを回顧するとき、最悪の未開状態は、
わが国の公的機関の役人たち、社会基盤や公共サービスの整備を怠り、ハリ
ケーン襲来前のニューオリンズの無防備ぶりを大きく改善したはずの機会を見
逃しただけでなく、災害の発生時に、被統治民の前に自分たちのイデオロギー
を晒けだした人たちのありさまだった。
レベッカ・ソルニット
2005年9月8日
【ハーパーズ・マガジン10月号記事の抄録】
社会学者、チャールス・フリッツは、1961年の論文 “Disasters and
Mental Health: Therapeutic Principles Drawn from Disaster Studies”
《*》[「災害と精神衛生――災害研究から見た治療原則」]において、次の
ような興味深い疑問を提示している――「大災害がこのように健康な精神状態
を生みだすのは、なぜか?」。ひとつの答は、災害が私たちを揺さぶり、日常
的な時間から解き放つこと。「日常生活において人間が抱える問題の多くは、
人びとが現在ではなく過去や未来のことを思いわずらうことから派生してい
る」とフリッツは書いた。「災害は、その瞬間ごとの、その日ごとの必要に対
する完全な注意力の集中を人びとに迫るので、過去や未来にかかわる気苦労や
抑圧、不安からの一時的な解放をもたらしてくれる」 このような意識の転換
が「意志決定過程を促進し」、また「変化を受け入れることを容易にする」と
彼は付け加えた。
http://dspace.udel.edu:8080/dspace/handle/19716/1325
フリッツが記述する精神状態は、さまざまな宗教的系譜において追求されるも
のに似ている。それは、仏教が重んじる、今の瞬間を生きること、執着を離れ
ること、生きとし生けるものへの慈悲、そしてキリスト教の修道の系譜が重ん
じる、免れられない死と命のはかなさの認識を思い起こさせる。このような観
点から見て、災害は意識の特訓コースとして理解することができる。
だから、災害の直後に発生する状況が、一般に信じられているそれと少しも似
ていなくても、私たちは驚くべきではない。人びとは、滅多なことで、パニッ
クになったり、暴走したりしないし、ただちに略奪に走ったり、その他の火事
場泥棒みたいなことをしたりしない。スコットランド生まれの数学者、エリッ
ク・テムプル・ベルは、1906年のサンフランシスコ地震・大火に遭遇し、
人びとが「街を走りまわったり、金切り声をあげたり、そういう類のことはい
っさいしない」、それどころか「あちらからこちらへと静かに歩き、ほとんど
無関心な風情で、さらにはジョークを飛ばしながら、火を見つめ、これがまた
強いられたのではなく、完全に自発的な」人びとの行動であったのを目撃して
いる。もうひとりの体験者であり、サンフランシスコの編集者、チャールス・
E・セグウィックは「利己主義者、卑しい人、欲張りでさえも、あの日――そ
して試練の時期を通して――変貌し、真実な人間性が支配した」と――たぶん、
いくらか誇張して――記した。“ビックリするような”人間の優しさと良識を
示す、このような現象は何度も繰り返し現れる。
それなのに、災害対策の公的シナリオの多くは、人間はパニックになるもので
あり、警察力が必要であるという前提にもとづいている。この筋書きによれば、
ホッブス学説的な真の人間性がむきだしになって、人びとはたがいに踏みつけ
あって逃げようとしたり、あるいは略奪や強奪に走ったり、そうでなければ、
哀れに救助を待っていたりするだけ。これが映画になると、ジョン・ウェイン
やハリソン・フォード、または角張った顎〈あご〉の兄貴分が窮地を脱し、見
せ場を作るために欠かせない状況設定になる。政府の立場で言えば、これこそ
私たちが政府を必要とする理由。例えば、1906年には、まったくだれも戒
厳令を宣言しなかったが、兵士、警官、それに軍学校生の一部が、略奪者を見
つけしだい撃つように命令され、サンフランシスコの街の探索パトロールに就
いていた。燃え落ちようとしている建物から食料を取り出すことさえ、犯罪と
して扱われた。所有権と命令が生存よりも重んじられ、あるいは理性さえも超
越していたのである。だが、“当局者”はあまりにも数が少なく、また集権化
されすぎ、災害時の分散的なおびただしい数の緊急事態に対処しきれない。そ
の代わり、被災者に分類される民衆は、一般的に自分たちやお互いを助けるた
めにできるだけのことをやる。そうしているうちに、人びとは、市民社会の潜
在的なパワーにだけでなく、既存の職務権限構造のもろさにも気づく。
* * *
2001年9月11日の一連の事件は、反自然的なものでありながら、すべて
の災害の本質を浮き彫りにした。あの日、中央集権的な権力のほぼ全面的な失
敗を見た。米国は、世界で最大、最先端テクノロジーの軍隊を保持しているが、
乗っ取られた飛行機が爆弾になるのを防ぐための試みで、ただひとつ成功した
ものは、ユナイテッド航空93便に搭乗していた無名の乗客たちの行為だった。
彼らは家族との携帯電話によって事件の全貌を知り、ハイジャック機をハイジ
ャックするための協力体制を組み、搭乗機をあのペンシルベニアの平原に強制
的に墜落させたのである。
世界貿易センター双塔ビルとペンタゴンの爆撃にさいし、警察と消防は立派に
対処したが、事件に遭遇して生き残った人たちも、自分たちをお互いに助けた
ので、やはり立派だったと言える。ヨットやバージ[荷船や遊覧船]、フェ
リーが、救助の必要がある人たちを探すために、マンハッタン南端に大挙して
接岸したので、こうしたボランティア行為によって何十万もの人びとが避難で
きた。これらの船艇を操船していた人たちの利己心が勝っていたなら、災害地
に向かうのではなく、現場から離れるように舵を切っていたはずだと考えるの
が合理的だ。野次馬に混じって災害現場に寄り集まる大勢のボランティアと協
力することが、事実として、災害対策実務の一環なのである。
9・11に続く日びは、国民に開国の気分がみなぎり、まるでドアの錠前が外
されたかのよう。災害の余波は、しばしば奇妙にも希望を伴うものであり、平
凡な日常性の裂け目のなかに、しばしばほんものの変化が生まれる。だが、こ
れは、災害が、人身や建物、財産を脅かすだけではなく、現状維持をも脅かす
ことを意味している。災害復旧は、被災困窮者の救済で終らず、権力と正統性
とを奪還する闘争でもあり、この場合、通常は――だが、必ずというわけでも
なく――現状維持派が勝つ。9・11後のブッシュ政権の対応は、あまりにも
活気のある市民社会の火を消し、市民社会がやり遂げたことを、唯一われわれ
だけができると主張する統治機構を再建するための死にもの狂いの闘争の極端
な形だった――そして、悲しいかな、極端な上首尾に終った。政権にとって、
危機は、根本的に死と破壊のそれではなく、権力の危機であった。ドアは開け
放たれたが、心配性の政権が大急ぎで乱暴に閉じた。
その心配性の根拠は、メキシコのPRI[制度的革命党]による一党支配の終
わりの始まりのきっかけになった、1985年のメキシコ・シティ地震の余波
に見ることができる。マグニチュード8.0を記録した、その地震は、9月1
9日の早朝にメキシコ・シティを襲い、国家を象徴する心臓部である中心街を
壊滅させた。翌朝にも、ほぼ同じ規模の余震が襲った。約1万人が死亡し、2
5万人もの多くの人びとが住み処を失った。
最初の対策が動きだすと、政府は、人間が構成する社会としての都市よりも、
建造物と財産が集積した物質としての都市を重視していることが明らかになっ
た。悪い意味で評判になったひとつの例では、被災地の搾取工場のオーナーた
ちが、警察に金を払って、破壊された工場からの機材の回収を図った。生存者
を探索したり、夜勤の女性裁縫工たちの遺体を回収したりするための努力はま
ったく払われなかった。地震が、政府の腐敗と冷血を覆っていたベールを剥ぎ
取ったかのようだった。国際救助隊は門前払いをくらい、援助資金は他の用途
に横流しされ、援助物資は警察や軍に横取りされ、あげくの果て、難民化した
膨大な人数の貧者たちは多年にわたりテント生活を余儀なくされた。
これがメキシコ政府の対応のしかただった。だが、メキシコの民衆には違った
対応法があった。「瓦礫と廃虚のただなかで、旅団と救助隊が、みずからの行
動を律する必要性、それに目に飛びこんでくる他所の街に対する責任を自覚し
た、あの4、5日間のできごとの文化的・政治的・心理学的影響は、国家権力
でさえ、どうにも払拭できなかった」と、政治評論家、カルロス・モンシフは
書いた。1906年のサンフランシスコの状況と同じように、建築物と財産で
構成された都市の廃虚になかに、民衆が連帯感や期待感そのものをもって構築
する、もうひとつの都市が姿を現わした。市民たちは公正さや説明責任、そし
て敬意を要求しはじめた。彼らは、公定賃貸料住宅の跡地が、もっと儲かるプ
ロジェクトとして再開発されるのを防ぐために闘った。彼らは近隣住民グルー
プを組織した。そしてついには――メキシコにおけるPRIの権力独占の打破
に向けた重要な一歩として――彼らは左派系の市長を選出した。
* * *
今ではアメリカ人は工業諸国のどの国民よりも長時間の労働をしている。つい
最近の2、30年前のアメリカ人よりもずっと働いているほどだ。この変化は
――レーガノミクス[レーガン流経済政策]であろうが、あるいはシカゴ流の
“自由主義”であろうが、はたまた“グローバル化”であろうが――経済的な
ものではあるが、同時に社会的なもの、労働組合や社会的セイフティ・ネット、
ニューディール政策や偉大な社会に対する、私たちはたがいに世話しあうべき
であるという考え方に対する、社会共同体の概念に対する異様な反動である。
この変化の提唱者たちは、フロンティア流儀の“独立心”やプロテスタントの
労働倫理、成功はすべて君しだいと言うホレイショー・アルジャー[*]風の
考えを善とする。
[Horatio Alger(1832-99)=米国の聖職者・児童物語作家。成功は独立心と
勤勉とによって得られるとする作風]
この観点から見て、“私営化[1]”の概念は、政府発注の契約が成立するた
めの事務処理よりもずっと広い意味を持つ社会現象であることが分かる。市民
は消費者と定義されなおす。選挙にもとづく政治への国民参加は行き詰まり、
それに伴って、いかなる意味の集団または個人の政治力もつまずいてしまう。
公的空間――憲法修正第1条が謳う「人民が平穏に集会する権利」を行使する
場――そのものがなくなってしまう。自由連合[または、精神分析用語として
「自由連想」= free association]とはよく言ったものだ。それにはなんの
ご利益〈りやく〉もない。それに取柄がないので、その代わりに偉大なメディ
アや広告イド[衝動の源泉]によって、お互いを怖がり、公共生活を危険でわ
ずらわしいものと見なし、安全が保障された空間で暮らし、電子的手段で交信
し、お互いからよりも、あのまったく同じメディアから情報を得るようにと奨
励されている。わが国のえげつない“オーナーシップ社会[2]”にようこそ、
と声を張り上げて勧誘する客引きたちは、わたしたちを強くするのは、共有財
産として所有するものであると認識することを拒んでいる。だが、私たちの相
互依存は、避けられない事実であることにとどまらず、祝うだけの価値のある
事実であることを――市民社会の創造は愛の働きであることを、じっさい、私
たちの多くがいちばん願っている働きであることを――明らかにする。
[1.日本で言う「民営化」は privatization の意識的な誤訳]
[2.ブッシュ政権が政策として提唱・推進する、だれもが持てる者になると
いう株式などの所有者だけで構成された社会]
[筆者]レベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit)は、最新刊の “A Field
Guide to Getting Lost”《*》[『迷子実戦教本』]をはじめ、”Hope in the
Dark: Untold Histories, Wild Possibilities” [*]など、数冊の書籍の著
者。サンフランシスコ在住。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-
bin/booksea.cgi?ISBN=0670034215
[『暗闇のなかの希望――非暴力からはじまる新しい時代』
井上利男訳、七つ森書館、2005年3月刊――
http://www.pen.co.jp/syoseki/syakai/0596.html
朝日新聞「読書欄」、増田れい子氏による書評――
http://book.asahi.com/review/TKY200504260233.html]
[原文]
The Uses of Disaster
Notes on bad weather and good government
By Rebecca Solnit.
Harper’s Magazine, September 9, 2005
http://www.harpers.org/TheUsesOfDisaster.html
Copyright 2005 Rebecca Solnit TUP配信許諾済み
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[翻訳]井上利男 /TUP
[お知らせ]本稿の姉妹編、TUP速報543号:レベッカ・ソルニット「カ
トリーナが残した疑問」が、月刊誌「自然と人間」10月号(10月1日発
売)に掲載されます。同誌HP―― http://www.n-and-h.co.jp/
転送メッセージ終わり —
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配信担当 萩谷 良
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