DATE: 2006年1月15日(日) 午後2時45分
さようなら青空、さようならアラン
戦火の中のバグダッド、停電の合間をぬって書きつがれる若い 女性の日記『リバーベンド・ブログ』。イラクのふつうの人の暮らし、 女性としての思い・・・といっても、家宅捜索、爆撃、爆発、誘拐、 検問が日常、女性は外へ出ることもできず、職はなくガソリンの行列 と水汲みにあけあけくれる毎日。「イラクのアンネ」として世界中で 読まれています。すぐ傍らに、リバーベンドの笑い、怒り、涙、ため 息が感じられるようなこの日記、ぜひ読んでください。(この記事は、 TUPとリバーベンド・プロジェクトの連携によるものです)。 http://www.geocities.jp/riverbendblog/ 転送転載大歓迎です。 (TUP/リバーベンド・プロジェクト:池田真里)
2006年1月12日 木曜日
音楽に捧ぐ・・・
一週間前、米紙クリスチャン・サイエンス・モニターの記者ジル・キャロル さんが拉致されたことを聞いたとき、なによりも悲嘆を感じた。それは、これ までに他のジャーナリストが拉致されたり殺されたりするたびに感じた重苦し い気持ちと同じもの。知人が現在のような状況において苦悩していることを聞 いたときにほとんどのイラク人が心の内に重く沈ませている気持ちとたぶん同 様だと思う。
このニュースをテレビの字幕放送で読んだ。ここ数日インターネットに接続 が不可能で、詳細について読むことができなかった。私が知り得たすべては、 あるジャーナリストが拉致され、彼女のイラク人通訳は殺害されたということ。 今月初旬アル・アディル地区でジル・キャロルさんを拘束する際、通訳は非情 にも撃ち殺された・・・彼は即死には至らず、警官に事情を話すまで生き延び そして事切れたという。
つい最近、殺された通訳が親しい友人の-「アランのメロディ」のアラン、で あることを知ったのだ。私はこの2日間泣き暮らした。
彼は皆に「アラン」またはイラク風アラビア語で「エリン」として通っていた。 イラク戦争前、彼はバグダードでも好立地のアーラサットにミュージックショッ プを営んでいた。アラビア音楽やインストルメンタル曲を売る他に、彼には彼の 顧客-洋楽を渇望する欧米化したイラク人がいた – 私たちのようにロック、オル タナティブ、ジャズなどを聴く者。彼の商売敵はほとんどいなかった。
海賊版のCD、カセット、DVDも扱っていた。彼の店は単なるミュージッ クショップではなく- 癒しの場だった。彼の店で買ったCDやカセットを抱え、 音楽が与えてくれる現実逃避への期待を胸一杯にして家路につくのは、私の至 福の時に数えられる。
彼のところには、アバからマリリン・マンソンまでなんでも揃っていた。彼 はすべて扱っていた。とにかく彼のところに行って「アラン、ラジオでいい曲 を聴いたんだよ・・・探して!」って頼むだけ。そうすれば、彼は忍耐強く対 応してくれる。「だれが歌ってた?分からないって?じゃあ、男だった女だっ た?よし、なんか歌詞を覚えてる?」彼が聴いたことがあり、歌詞の一部を覚 えていればチャンスありだ。
経済制裁の間、イラクは文字通り外の世界と隔絶されていた。たしか4〜5 のテレビ局しかなく、インターネットが一般的になったのはこれより後のこと。 アランは他の世界に通じるリンクの一つだった。アランの店に立ち寄るのは、 まるで一時的に外の世界を訪れるようなもの。店に足を踏み入れればいつだっ て、すばらしい音楽が彼のスピーカからあふれ、そして、彼と店員のモハンマ ドがジョー・サトリアーニとスティーヴ・ヴァイのどちらがすばらしいか議論 していた。
ドアの側にはビルボードの最新ヒットチャートを貼りだしてあり、彼はお気 に入りの曲を集めた「コレクション」CDを編集していた。また、わざわざ最 新のグラミーやアメリカン・ミュージック・アウォード、オスカーなどの授賞 式の録音を手に入れに出かけていた。彼のところに二度訪れれば、三度めには、 あなたの好みの曲を覚えていてくれ、関心を持ちそうな曲を薦めてくれる。
彼は電気技師だった – でも情熱は音楽にあった。彼の夢は音楽プロデューサ ーになること。インシンクやバックストリート・ボーイズなどのいわゆる若手 男性バンドを見下していたけど、「無名の」バンドを見いだしたと言ってイラ クの若手男性バンドをいつも売り出そうとしていた。「やつらはすごい、アラ ーの名にかけて彼らには可能性がある」と彼は言う。そこでEは「アラン、や つらはひどいよ」と返答する。そうするといわゆるイラク人の誇りたっぷりに アランのレクチャーが始まる。いかに彼らがすごいか。なんてったって彼らは イラク人だからなのだ。
彼はバスラ出身のクリスチャンで彼のことが大好きな愛らしいFという妻が いる。彼が結婚し家族をもったら音楽に対する興味が薄れるのではないかと、 かつてからかったことがある。そんなことにはならなかった。アランとの会話 は相変わらずピンクフロイドからジミーヘンドリクスを中心にしていたが、だ んだん妻のFや娘M、小さな息子のことにも話が及ぶようになった。彼の家族、 妻や子供たちに私の心は痛む。
彼の店に立ち寄るとレジカウンターに誰もいないことがある – みんな別の部 屋にいてプレステで次から次へとFIFAサッカーゲームで遊んでいるのだ。 彼は、レコードの蒐集もしていた。古ければ古いほどいい。最新の技術を取り 入れる一方、彼はいつも年代物のレコードに勝る音質はないね、と言っていた。
私たちはアランのところにただ音楽を買いに行っていたのではない。いつも 団欒のひとときになった。彼は椅子を勧め、最近のお気に入りのCDを聴かせ てくれ、飲み物をいれる。そして彼が知っている最新のうわさ話になる。どこ でパーティが開かれ、誰がベストDJか、誰が結婚しまたは離婚したかなど。 地元から世界のゴシップまで通じているが、アランには意地の悪さは微塵もな い。いつも楽しい話題だ。
もっとも大切なことは、アランは決して期待を裏切らないこと。絶対。あな たの望みが何であれ、最大の努力を払ってくれる。彼の友達になったら、音楽 のことだけでなく、いろいろ大変だった週の後で、ただアドバイスするか耳を 傾けるかだったとしても、ともかく彼はいつも喜んで困った人々に助けの手を 差し伸べていた。
イラク戦争後、彼の店の界隈は物騒になった。車両爆弾や銃撃、バディル旅 団が数棟の家屋を占有した。危険すぎるので人びとはアーラサット地区にだん だん足を踏み入れなくなった。彼の店は開いているより閉まっていることが多 くなった。殺しの脅迫の後、手榴弾を窓から投げ入れられて彼は店を完全に閉 めた。ある時、彼の車はカージャックされ彼は撃たれた。それ以来彼はお父さ んのくたびれたトヨタクレシーダの後部にシスターニの写真を貼って乗り回す ようになり「狂信者除けにね・・・」とウインクをしてにんまり笑った。
戦後、閉店する以前にEと私はよく彼の店に立ち寄っていた。ある日、店は 停電していて、ジェネレータもなかった。店内はランプでぼんやりと照らされ、 アランはカウンターでCDをより分けていた。私たちを見て狂喜してくれた。 音楽を聴く手段がないため、彼とEは彼らのお気に入りの曲を、歌詞を間違え たりでたらめに作ったりしながら歌い継いだ。さらに様々な着信音を聴いたり、 最新の本日のお薦めジョークを言い交わした。気づかないうちに外界とは隔絶 した2時間が経過していて、散発的な爆発音が私たちを現実に引き戻した。
その時、「音楽」がアランの店を安らぎの場- そこは、やっかい事や気がか りを忘れさせてくれるところ – にしているのではない「アラン自身」だと気づ いたのだ。
彼は、ピンクフロイドが好きだった。
怯えおののく人びとを見たかい? 空爆の音を聞いたかい? なぜ僕らがシェルターに逃げ込まなければならなかったか考えたことが あるかい? 真っ青な空の下素晴らしい新世界が来ると約束されていたというのに 怯えおののく人びとを見たかい? 空爆の音を聞いたかい? 戦火はすでに消えたけど、痛みは消えない さよなら、青空 さよなら、青空 さよなら、さよなら
(Goodbye Blue Sky - Pink Floyd)
さよなら、アラン
午後10時5分 リバー
(翻訳:リバーベンド・プロジェクト/山口陽子)