TUP BULLETIN

速報610号 チャルマーズ・ジョンソン 「デモクラシーの押売り」 060603

投稿日 2006年6月3日

FROM: hagitani ryo
DATE: 2006年6月3日(土) 午前10時52分

☆デモクラシーの移植にまつわるジョンソン元教授の国際関係論講義★
「米国モデルの輸出――市場とデモクラシー」と標題された本稿では、20
世紀後半部から現時点までのアメリカ対外政策の方針と実績が、主として日
本と韓国における事例を検証することにより、またイラクの現状を検分する
ことにより、論じられています。私たち日本国民にとっても耳に痛い内容を
含んだ論文です。ジョンソン氏は自国民に再考を求めていますが、私たちと
しても、教訓を汲みとり、日米軍事協力の推進、教育基本法の改訂、共謀罪
の新設、憲法改定の提起など、国の進路を変える重要案件が目白押しの今、
どうしてこうなったのか、ふたたび考えるべきでしょう。井上

チャルマーズ・ジョンソン、デモクラシーの押売りを論じる
トム・ディスパッチ 2006年5月2日

[トム・エンゲルハートによるまえがき]

例の大量破壊兵器はまったく出てこなかったり、サダムのアルカイダ・コネ
クションはネオコン(と副大統領)のあまりにも強烈なファンタジーによる
絵空事にすぎないと判明したり、こういう事態になって、ブッシュ政権は、
アメリカ製輸出品目の最高傑作、デモクラシーを前面に持ち出した。デモク
ラシー、これは1980年代の中央アメリカでロナルド・レーガンの役に
立った題目なのだから、イラクでも効き目があるはずではないのか? 実の
ある民主選挙なるものは、バグダード陥落の瞬間から、わが政府高官たちが
阻止しようとしたり、あるいは封じこめようとしたりしてきた代物だった
が、突如、礼式上の必須要件に浮上し、わが国のイラクにおける任務の核心
そのもの、われわれアメリカ国民がこの地球上に配属された真の理由になっ
た。米軍占領の金ピカの歴史、つまり、わが国の哀れなバグダード総督、L
・ポール・ブレマーが、それに彼が率いた盗っ人根性集団・連合国暫定当局
が、地方選挙を反故〈ほご〉にしたり、デモクラシーをないがしろにした
り、民衆意思の有効な表明を踏みにじったりと、やりたい放題に自分たちの
権限で仕切っていた、その歴史を憶えていた(あるいは、いまも憶えてい
る)人は、だれかいるのだろうか。

去る2005年のこと、ホアン・コールは、選挙民に向きあう当局のデモク
ラシーにかかわる意識が、あまりにも制限条項の多いものであるありさま
を、次のように描いている《*》が、これでは、サウジアラビアがさながら
自由の国に見えるほどだ――
http://www.juancole.com/2005/01/mixed-story-im-just-appalled-by.html

「当初、彼らは6か月以内にイラクを(ネオコンお気に入りのアーメド)
チャラビに引き渡そうとしていた。そのうえで、ブレマーは長年にわたりバ
グダードのマッカーサーとして居座るつもりだった。次いで2003年11
月15日、ブレマーは、2004年5月を期して評議会中心の選挙を実施す
るという計画を発表した。米国と英国は、どうにか地方や都市の行政評議会
の設置にこぎつけたのだが、その議員たちは親米派だった。ブレマーは、選
挙母体をこの少人数のエリート集団に限定しようとしていた」

その後、当然のことながら、アヤトラ[シーア派宗教指導者]・アリ・シス
ターニが口を挟んだので、ブッシュ一派は引っ込んで、イラク国民は胸を
張って大挙して投票に出かけ、ここにいたって、彼ら”パープル・フィン
ガーズ[1]”の存在は、アメリカの国内戦線で非常に使いものになると実
証された。これをデモクラシーの輸入と考えてみよう。残念なことに、選挙
で成立したシーア派主体政府は不適格この上ないと判明し、バグダードにい
る米国大使や飛行機で乗りこむ政権最高幹部たち《2》による、それに財力
や武力による“圧力”が、政府高官たちを抑えつけ、邪魔するために絶え間
なく加えられた。今ではイラクは混乱の極みにあり、国土分断の間際にある
ようであり、デモクラシーは、バグダードのグリーン・ゾーン内部に押しこ
められて、またもやブッシュ政権最高幹部たちが忌み嫌う存在になった今こ
そ、米国製“模範”の輸出という大命題の検討に取りかかるには最高の瞬間
である。それではここに、“The Sorrows of Empire” 《3》の著者にして
記憶力の人、チャルマーズ・ジョンソンにこの主題を解明していただこう。
トム
1.[訳注]purple fingers=投票済みの印として指を浸したインクの色か
ら「紫色の指」。当時、米国メディアに、誇らしげに指を掲げるイラク国民
の映像がデモクラシー成就の証しとして紹介された。
2.ワシントン・ポスト記事
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/04/27/AR2006042700895_pf.html
3.『アメリカ帝国の悲劇』村上和久訳、文藝春秋、2004年刊
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0104835088

米国モデルの輸出
市場とデモクラシー
――チャルマーズ・ジョンソン

ある国が自国の統治方式や経済制度を他国に押しつけようとする試みには、
どこか笑止千万、本質からして不誠実なところがある。このような企ては、
辞書にある帝国主義の定義に符合する。ことが“デモクラシー”である場
合、(民主化されるべき相手に対して戦争をしかけるといった)手段を正当
化するために目的を利用するという過ちを犯すことになり、こうしたことに
かかわるうちに、伝道国家の指導者たちは、うぬぼれや人種優越感、傲慢の
罪に逃れがたく染まることになる。

私たちアメリカ国民は、こうした罪で手を汚して久しい。わが国が第一次世
界大戦に参入する直前のこと、ウッドロー・ウィルソン大統領の最初の国務
長官、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは、米国をして「世界の進歩
に資する至高の道徳要因、世界の紛争に対する公認の調停者」と描写した。
時の移り変わりが有効にする歴史の総括というものがあるとすれば、アメリ
カ大統領がこのような大言壮語を信用しなかったなら、また米国が英国とド
イツの両帝国間戦争に介入しようとしなかったなら、世界はいっそう安穏に
なるしかなかったということ。私たちは、ナチスの出現やボルシェヴィキ革
命の勃発、さらには、欧米や日本の帝国主義諸勢力による、インド、インド
ネシア、インドシナ半島、アルジェリア、朝鮮、フィリピン、マラヤ、そし
てアフリカの実質的に全土からの搾取の30年ないし40年間を避けること
ができたということもじゅうぶん考えられる。

私たちアメリカ国民は、世界の国ぐにがわが国を見習いたがっている(ある
いは見習いたいと願って当然)と思いこむナルシスト的な先入見を脱却する
ほどまでに成長したとは言えない。イラクにおいては、喧伝されたイラク製
核・生物・化学兵器の脅威やアルカイダ支持にまつわるブッシュの嘘が溶解
してしまったとたん、デモクラシーの導入が、わが国の戦争屋たち――オサ
マ・ビンラディンが言いだしたことでさえなければ、“十字軍戦士たち”と
呼ぶに完璧にふさわしい人たち――に好都合な偽りの口実になった。ブッ
シュや彼を支えるネオコン一派が、「世界が中東の中心から自由の声を聞い
ている」状況について、とめどなくおしゃべりしてきたにしても、現実は、
ノーム・チョムスキーが、「デモクラシーの阻止」と、この言葉を標題に付
した1992年の著作で名指した状態にもっと近い。イラク国民が“自由で
公明な選挙”の機会を得ると、過半数を占めるシーア派が政権を握りかね
ず、イラクをイランと同盟させかねないので、そうした選挙の実現を阻止す
るために、わが国は全力をつくしてきた。2003年11月、連合国暫定当
局の法律顧問、ノア・フェルドマンが、「あなたがたが性急に動くと、間
違った人たちが選ばれることになりかねません」といみじくも言ったとおり
である。

2005年1月30日の選挙では、米軍は望む結果を得るための工作(「建
国の父祖作戦」)を試みていたが、結局、シーア派の勝利に終わった。一年
近くのちの05年12月15日に実施された国民会議選挙で、シーア派がふ
たたび勝ったが、スンニ派やクルド人、アメリカによる圧力のために、政府
の編成は当稿執筆時点にいたるまで妨げられている。ついに妥協の産物とし
て首相候補が選定されたのを受けて、ブッシュ政権の性悪この上ない傭兵隊
長のご両人、コンドリーザ・ライス国務長官と、ドナルド・ラムズフェルド
国防長官とがバグダードに飛び、候補に向かって、首相たるものは“デモク
ラシー”のために何をなすべきか――新しい首相は米国の傀儡であるという
鮮やかな印象を残しながら――説いて聞かせた。

経済勧告を後生大事に

東アジアは、ラテンアメリカのあと、世界で最も久しくアメリカによる帝国
主義的後見のもとに置かれてきた地域である。自国の経済・政治制度を輸出
してきたアメリカの記録のなにがしかを知りないなら、この地域は格好の検
証対象である。だが最初に、いくつかの定義から。

あるとき、政治哲学者のハナー・アレントは、デモクラシーはひどく手垢の
ついた概念なので、それが自分にとってなにを意味するのか、最初に明確に
しないで厳粛な文脈で用いる者はすべて山師として退けるべきである、と論
じた。だから、デモクラシーをもって、筆者はなにを意味したいのか、ここ
に表明させていただきたい。第一に、民意が大事という原則を社会の共通認
識にすること。スターリン時代のロシア、あるいは現在のサウジアラビア、
あるいはアメリカ軍支配下に置かれた日本の沖縄県に例を見るように、これ
が実行されない場合、選挙といったアメリカ型デモクラシーの儀式をどんな
に実行したとしても、ほとんどなんの意味もなさない。

第二に、指導者個人が独裁者にならないように、権力のなんらかの内部均衡
[*]、または[三権の]分立が図られなければならない。現在のわが国の
大統領の例に見るように、権力がひとつの職権に集中し、在職者が法律の制
約を超越すると主張するなら、デモクラシーは衰退し、あるいは名目になっ
てしまう。筆者は、特に行政法規――あるいは、デモクラシー保証条項に背
反する法律の無効を宣言する権限をもつ独立の憲法裁判所――の設置と施行
を求めたい。
[訳注]権力の一部門の暴走を抑止するための相互抑制と均衡を図る内部メ
カニズム

第三に、不適格な指導者を免職するための、なんらかの合意された手続きが
なければならない。期日を定めて実施される選挙、議会における不信任投
票、任期制限、それに弾劾は、この線に沿って用意された周知の多様な手段
だが、強調されるべきは、万民が認める制度でなければならない。

こうした点に留意しつつ、アジアに対する、アメリカの経済モデル、そして
さらには民主主義“モデル[模範]”の輸出について考察してみよう。かつ
てのアメリカ植民地、フィリピンは例外として、日本からインドネシアにい
たる国ぐには、今日の世界で最も繁栄した地域のひとつを構成している。こ
れらの国ぐにのなかには、生産力で世界第2位、一人当たり国民所得が米国
のそれを軽く超える国・日本が含まれているし、過去20年間にわたり年
9.5パーセントを上回る率で拡大し、世界一の高度成長を続ける経済大
国、中国も控えている。これらの国ぐには、アメリカの大学経済学部や経営
学大学院が説いたり、アメリカのさまざまな行政機関が提唱したりしてきた
知恵の実質的にすべての項目を無視することにより、経済的福利を達成して
きたのである。

日本は東アジアに適した地域モデルを築きあげた。高度経済成長を遂げつつ
ある他のアジア諸国は、どれひとつとして日本の軌跡を正確になぞってきた
わけではないが、日本の経済システムのもつ、すべてを包みこむ特性――つ
まり、絶対的な権利、法律で守られ、相続対象になるものとして私有財産の
制度と、経済目標・市場・成果におよぶ国家管理との結合――にこぞって惹
きつけられていた。ここで筆者が言っているのは、日本人の言う「産業政策
(sangyou seisaku)」のことである。(実践に裏付けられていないもので
はあっても)アメリカ経済理論においては、産業政策は禁句である。これ
は、レッセフェール[自由放任主義]の手に導かれ、自発性にゆだねられた
市場という理念に反している。とは言っても――アメリカの学説は、軍産複
合体にしろ、兵器製造業に対する経済依存にしろ、わが国の経済生活の重要
な要素であることを否認しているにしても――アメリカの軍産複合体や網の
目のような“軍事ケインズ主義”体制はペンタゴン主導の産業政策を頼りに
しているのだが。わが国が東アジアの高度経済成長諸国を相変わらず見く
びっているのは、私たちのイデオロギーという目隠しのせいなのだ。

経済政策に関して、ある特定の形態のアメリカからの影響が――端的に言え
ば、保護貿易主義と、高率関税やその他の形の国家的な外国製品差別政策に
よる競争の抑制とが――東アジア諸国の経済行動をきわめて大きく左右して
きた。これが、アメリカの建国時から1940年にいたるまで、米国本来の
経済政策だったのである。こういう政策がなかったなら、私たちが慣れきっ
ているようなアメリカの経済的な豊かさは想像もできなかった。東アジア諸
国はこの方面でアメリカを見習ってきた。これらの国ぐには、米国の説教で
はなく、行動に関心を寄せている。今日の中国は、もちろん、みずから認め
ることはないが、日本の発展基本戦略の中国版を追求している。

デモクラシーの輸出戦略

わが国が海外でデモクラシーを奨励する方策において、説得と自己欺瞞との
間に横たわる溝は、経済イデオロギーを売りこむさいのそれよりも、さらに
大きく開いている。たいがいの御用学者は事実をはぐらかそうとしている
が、わが国の記録は、絶え間ない(時には、思いがけない)失敗の連続であ
る。

アメリカ科学者連盟は、第二次世界大戦の終結時から2001年9月11日
にいたるまでの201件におよぶ、わが国が関与し、たいがいは先制攻撃を
しかけた、海外における軍事行動の一覧表をまとめた。(このリストは、ゴ
ア・ヴィダルの著書“Perpetual War for Perpetual Peace: How We Got To
Be So Hated”[仮題『恒久平和のための恒久戦争――われわれがこれほど
憎まれるようになった道筋』]の22頁から41頁にわたって再録されてい
る) アフガニスタンとイラクにおける現在の戦争はこの表に含まれていな
い。これらの軍事行動の直接の成果として、民主政府が実現した例は皆無で
ある。

米国は、イランのシャー[国王]、インドネシアのスハルト将軍、キューバ
のフルゲンシオ・バティスタ、ニカラグアのアナスタシア・ソモザ、チリの
アウグスト・ピノチェト、コンゴ=ザイールのセセ・セコ・モブツといった
独裁者を擁立し、後押ししたという困った記録を保持しているし、わが国が
インドシナからの撤退を余儀なくされるまで、後見していたヴェトナムとカ
ンボジアの歴代軍事政権のことは言うまでもない。しかも、キューバ《*》
とニカラグアに対しては、自国の独立をめざす闘争が、当方に不都合な結果
を招いたという理由により、わが国は史上屈指の規模の国際テロ作戦を決行
した。
Noam Chomsky on terrorizing Cuba 03/10/24
(ノーム・チョムスキー、キューバに対するテロ作戦を語る)
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=1027

その反面、わが国による介入に反対した結果として――例えば、ギリシャで
CIAが仕組んだ連隊長たちの政権が1974年に倒れたあと、ポルトガル
では74年に、スペインでは75年に、米国支援のファシスト独裁政権が相
次いで終焉したあと、86年には、フィリピンでフェルディナンド・マルコ
スが打倒されたあと、87年には、韓国で全斗煥〈チョン・ドウハン〉が放
逐されたあと、それに同じ年、38年間にわたる台湾の戒厳令が終結したあ
と――じっさいにデモクラシーが進展した重要な事例がいくつかある。

だが、日本の場合はどうなのだ? このように詰問なさりたい向きもおられ
るだろう。ブッシュ大統領は、この種の活動における米国の手腕を示す証し
として、いわゆる成功事例とされる、わが国による第二次世界大戦後の日本
に対するデモクラシーの導入について繰り返し言及してきた。この経験が実
証したのは、わが国がイラクにデモクラシーを移植するのはさほど難しくな
いということだ、と彼は言い張った。だが真相を明かせば、1945年から
51年にかけて敗戦国・日本に対する米軍占領を統率していたダグラス・
マッカーサー将軍には、ご本人が基本的に独裁者ということもあり、日本の
戦前体制から手摘みした操り人形や協力分子を庇護するために、下からの実
のあるデモクラシーを阻止することに第一義的な関心があった。

一国が太平洋戦争時の日本ほどに容赦なく敗戦するとすれば、戦時指導層に
対する民主革命が起こると期待してもいいはず。国務省は、マッカーサーに
対し、日本が降伏時に受諾したポツダム宣言の条項に従い、民衆革命を妨げ
ないように指示していたが、革命が具体的に動きはじめると、結局、彼は立
ちふさがったのである。彼は、戦時天皇、裕仁(1989年に逝去するまで
在位)の皇位継続を決定し、戦時体制下の日本を支配していた産業政策と戦
争政策の担当官たちが権力を回復するのを助けた。93年から94年にかけ
ての数か月は除くが、49年からこのかたずっと、彼ら保守派とその後継者
たちは日本を支配してきた。日本と中国では、両国の政権党――自由民主党
や中国共産党という、それぞれの中核――が同じ年に権力の座につき、今
日、世界最長のものに数えられる一党支配体制が続いている。

日本の事例において同程度に重要なこととして、マッカーサー将軍の総司令
部は、きわめて民主的な1947年憲法を起草し、それを受け入れるしか選
択の余地がない状況のもとで日本国民に授与した。ハンナ・アレントは、彼
女の63年の著作“On Revolution”[仮題『革命について』]において、
「政府によって国民に押しつけられた憲法と、国民がみずからの政府を定め
るための憲法との間に横たわる、力や権威の圧倒的な違い」を強調してい
る。第一次世界大戦後のヨーロッパで憲法が押しつけられた場合、実質的に
すべての事例で、独裁制に向かったり、あるいは権限・権威・安定の欠落を
招いたりしていたと彼女は指摘する。

日本では、世論は確かにものを言うが、民主主義制度が徹底的に試されたこ
とはまったくなかった。日本の一般国民は、自国の憲法が征服者により与え
られたものであり、民衆行動によって下から生みだされたものではないこと
を知っている。日本の安定は、いたるところに駐留している米軍に大きく依
存していて、これが国防を――したがって、語られることはないが、かなり
平等に分配される富も――賦与しているので、国民の側でも、体制に利害を
繋いでいることになる。だが、日本国民は、他の東アジア諸国民と同様、日
本が世界にふたたび独り立ちすることを恐れている。標準よりも穏やかな形
ではあるが、ひとつの大事な点で、日本の統治は米国の対外政策の記録の典
型である。アメリカの歴代政権は、広範な国民の発意――つまりアメリカ支
配からの民族主義的独立に向かう動き――の前に立ちはだかる寡頭政治をつ
ねに好んできた。第二次世界大戦後のアジアでは、わが国は、韓国、フィリ
ピン、タイ、インドシナ半島(カンボジア、ラオス、ヴェトナム)、日本
で、このような反民主的な政治を追求してきた。日本では、1950年代に
社会党が選挙によって政権につく可能性が取りざたされ、これを阻止するた
めに、わが国は自由民主党に巣食う旧体制の大物たちに資金を秘かに供与し
ていた。わが国は、戦時内閣の軍需大臣、岸信介を総理大臣として権力の座
に送りこむために一役買い、社会党の政敵、民主社会党を盛りたて、同党に
資金を供給することによって、社会党の分裂を図り、60年には、日米安全
保障条約の改定に反対する大規模な大衆的デモに臨んで、保守陣営の後ろ盾
になった。日本は、独立した民主国家として発展したのではなく、米国に従
順な冷戦期衛星国家――そして、それに伴い、きわめて硬直した政治システ
ムをもつ国――になった。

韓国の場合

韓国では、米国ははるかに荒っぽい手段に訴えた。北朝鮮では、日本支配に
抵抗した元ゲリラ戦士を礎として体制を築いていたが、わが国は、当初か
ら、対日協力者を好んでいた。1950年代には、わが国は、高齢の亡命
者、李承晩を傀儡独裁者として応援していた。(じっさいの話、20世紀は
じめのプリンストン大学において、李承晩はウッドロー・ウィルソンの教え
子だった) 60年になって、学生運動が李承晩の腐敗政権を倒し、デモク
ラシーの実現を企てたとき、わが国は手を貸すどころか、朴正熙〈パク・
チョンヒ〉将軍の権力掌握を支持したのである。

植民地時代、朴は満州国の軍官学校で教育を受け[後に日本陸軍士官学校に
留学]、1945年まで日本の占領軍の士官[満州国軍中尉]を務めてい
た。朴の韓国支配は61年にはじまり、79年10月16日、晩餐の席で韓
国中央情報局[KCIA]の部長によって射殺されるまでつづいた。朴は米
国による反対に抗して核兵器開発計画を企てていたので、アメリカ当局者に
“近い”と知られていたKCIA部長が米国の命を受け、彼を暗殺したのだ
と韓国民は信じていた。(この種の話はお馴染みではないだろうか?) 朴
の死後、全斗煥〈チョン・ドハン〉少将が権力を掌握し、さらに87年まで
つづく新たな軍事独裁政権を樹立した。

朴正熙暗殺から1年後の1980年、全斗煥は、南西部の都市・光州〈クワ
ンジュ〉で盛りあがり、首都・ソウルにおいても学生たちの間に湧きあがっ
た、デモクラシーを求める運動を粉砕した。米国大使は、全の政策を応援
し、「暴動に対処するために毅然とした方策が必要である」と論じた。当
時、米軍は、国土を北朝鮮による攻撃から守るために国連軍の指揮系統に組
みこまれていた韓国軍の指揮権を全に移譲し、彼はこの軍隊を光州の運動を
潰すために使った。何千人もの民主化要求デモ参加者たちが殺害された。1
981年には、全斗煥は、米大統領に選ばれたばかりのロナルド・レーガン
にホワイトハウスで歓迎される最初の外国からの訪問客になる。

戦後30年以上の歳月を経て、ついにデモクラシーは、下からの民衆革命に
より1987年に韓国に到来することになった。全斗煥は、88年オリン
ピック大会をソウルで開催する権利を獲得したことで、戦略的な失敗を犯し
た。オリンピック大会の準備期間中、ソウルにある数多くの大学の学生たち
は、そのころには、ますます裕福になりつつあった中産階級の公然たる応援
を受け、アメリカが支える軍事政権に対する抗議運動を開始した。支障がな
ければ、全は、7年前に光州でやったように、デモ参加者たちを逮捕、投
獄、あるいはおそらく射撃するために彼の軍隊を使ったことだろう。だが、
そうなれば、国際オリンピック委員会は大会開催地をどこか他の国に移すだ
ろうと知るだけの見識が彼の手を止めた。全は、そのような国辱ものの事態
を避けるために、79・80年における彼の共同謀議者、盧泰愚〈ノ・テ
ウ〉将軍に政権を委譲した。盧は、オリンピック大会を滞りなく開催するた
めに、民主改革政策に着手し、これが93年の国政選挙の実施、そして文民
である金泳三〈キム・ヨンサン〉の大統領選勝利に繋がった。

韓国デモクラシーの成熟を表すきわめて明確な実例のひとつとして、199
5年12月になって、政府は、全斗煥、盧泰愚が収賄――伝えられるところ
では、全斗煥は12億ドル、盧泰愚は6億3000万ドルをそれぞれ受領
――により韓国の巨大事業を歪めたとして、両将軍を逮捕、訴追した。さら
に金大統領は、79年の軍事クーデターによる権力の奪取、ならびに光州に
おける虐殺の容疑により両名の起訴を決定し、国民の大喝采を浴びた。96
年8月、韓国の裁判所は、全、盧両被告を騒乱につき有罪と認定した。全は
死刑、盧は禁固22年6か月の刑をそれぞれ言い渡された。97年4月の韓
国最高裁判所による判決では、少しばかり刑が減じられたが、このようなこ
とは、形式的な手続きで終わる日本の最高裁判所の場合では考えられないこ
とだった。平和活動家である金大中〈キム・デジュン〉は、大統領に選出さ
れた後の97年12月、全が彼の殺害を繰り返し謀っていたという事実があ
るにもかかわらず、両名に恩赦を与えた。

米国はこれらのできごとに常に深くかかわっていた。1989年、韓国の国
民議会が光州事件の真相を独自に調査しようと企図したとき、米国政府は協
力を拒み、在ソウル米国大使館の元大使や在韓米軍の元総司令官に証言する
ことを禁じた。アメリカのメディアは、(89年6月の北京における民主化
要求デモ参加者たちに対する弾圧については、集中的に伝えていたのに)韓
国情勢の報道を差し控えていたので、この件に関して、たいがいのアメリカ
国民の知識は無に等しいままである。韓国における軍事支配とデモクラシー
抑圧の代償を隠蔽したのはよいとしても、その影響は米国に跳ね返り、目
下、韓国で高まりつつある米国への敵意に一因になっている。

アメリカが他のどこかの国に導入したり、支持したりした“デモクラシー”
とは違って、韓国は正真正銘のデモクラシーを奉じる国に発展した。かの国
では、世論が社会の活力になっている。三権分立は制度化され、尊ばれてい
る。あらゆる官職について選挙戦が熾烈におこなわれ、有権者たちが高度な
レベルで参画している。これらのことは、下から、韓国の人びとみずからが
達成したものであり、彼らは自分たちの国をアメリカ後援の軍事独裁政権か
ら解放したのである。たぶん最も重要なことだが、韓国の国民議会――国会
――は民主的な討論をおこなうためのほんもののフォーラム[公論の場]に
なっている。筆者はたびたび同議会を訪問し、日本の国会や中国の全国人民
代表大会の原稿棒読み式の空虚な会議進行との違いが実に著しいと了解し
た。デモクラシーの活力という観点から見て、この議会の東アジアにおける
唯一の好敵手は、おそらく台湾の立法院である。時と場合によっては、韓国
の国民議会は粗暴になり、乱闘騒ぎも稀でない。それでも、これはデモクラ
シーの真の学校であり、米国からの妨害にもかかわらず、実現したものなの
だ。

デモクラシーを押売りする人たち

このような歴史を目にしていては、元駐イラク連合国暫定当局長官、ポール
・ブレマー3世、元駐イラク大使、ジョン・ネグロポンテ、それに現在の大
使、ザルメイ・ハリルザド、さらに言えば、アメリカン・エンタープライズ
国策研究所のパワーポイント[*]講義で一夜漬け勉強しては、ひっきりな
しに交代する米軍少将の一団といった人物たちが、バグダードで混乱を醸成
し、おそらくは内戦状況をもたらすとしても、どうして驚かなければならな
いのか? 彼らのだれひとりとして、高度に民族主義的なイスラム教国に
「デモクラシーを紹介」したり、アメリカ型資本主義を導入したりする資格
などはまったく持ちあわせていないし、仮にこれを実現したとしても、節度
のない軍事力を行使して、一国を恐怖に突き落とした責任は免れえない。
*[訳注]マイクロソフト社のプレゼンテーション用ソフトの名称である
が、「権力の要」といったような意味を暗喩しているようでもある。

ブレマーは、ヘンリー・キッシンジャー[ニクソン政権の国務長官]やアレ
クサンダー・ヘイグ将軍[レーガン政権の国務長官]の補佐官だったり使用
人だったりした人物である。ネグロポンテは、1981年から85年にかけ
て、ホンジュラス駐在の米国大使を務めていたが、当時、同国には世界最大
規模のCIA支局があり、彼は、ニカラグアの民主政府を抑圧するための汚
い戦争に積極的に関与していた。ハリルザドは、アフガン系としては最も頭
角をあらわしたブッシュ政権官僚であり、イラクに対する侵略戦争のための
ロビー活動を担当したネオコン圧力団体「アメリカ新世紀プロジェクト
(Project for a New American Century)」の構成員である。かの地におけ
るわが国の戦争で果たしている米軍の役割は、アブ・グレイブ監獄のような
場所に規律のない野蛮な部隊を配属するなど、あらゆる戦線における紛れも
ない惨事を引き起こすことであった。米国がなしとげた全成果と言えば、こ
れからの幾歳月、イラク国民が私たちを憎むようになると保証することだっ
た。今日のイラクの状況は、かつての日本や韓国の状況より以上に言語道断
であり、ヴェトナムにおけるわが国の駐留期間に比肩しうるものである。私
たちが一所懸命になって世界に輸出しようとしているものが正確にはなんで
あるか、再考するのは、たぶんやってみる値打ちのあることだ。

[筆者] チャルマーズ・ジョンソンは、最新刊“The Sorrows of Empire:
Militarism, Secrecy, and the End of the Republic” 《1》の著者。他
にも、“MITI and the Japanese Miracle “(1982)《2》 、“Japan: Who
Governs?” (1995)《3》など著書多数。
1.『アメリカ帝国の悲劇』村上和久訳、文藝春秋、2004年刊
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0104835088
2.『通産省と日本の奇跡』矢野俊比古監訳、TBSブリタニカ、1982
年刊
http://sugihara.koshoten.net/catalog/default.php/cPath/51_4521?osCsid=a8bfea3ce3d71ff7421589fac0a7cb0d [学術古書を扱う杉
原書店のサイト]
3.仮題『日本――統治者は誰だ?』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0393037398 [洋書販売サイト]

[解題] 本稿のオリジナル原稿は、カリフォルニア大学サンディエゴ校社
会学部の後援のもとに、2006年4月21日に開催された「制度移植」に
関する研究会の東アジア部会の「講評」として提示された。この研究会の座
長はリチャード・マドセン教授。

[原文]
Tomgram: Chalmers Johnson on Peddling Democracy
posted at TomDispatch on May 2, 2006
http://www.nationinstitute.org/tomdispatch/index.mhtml?emx=x&pid=81088
Copyright 2006 Chalmers Johnson

[翻訳]井上利男 /TUP