FROM: hagitani ryo
DATE: 2006年9月15日(金) 午前0時00分
【標題】ラシャ・サルティ「爆弾の下の生活」
☆イスラエルによる攻撃が一変させたレバノン人の日常★
戦争のさなかの人びとの悲劇は、時にメディア報道でも伝えられてはいます
が、それはあくまでも情報の断片であり、戦場から遠く離れた私たちが想い
を馳せるには程遠いふじゅうぶんなものでしょう。本稿では、ベイルート在
住のレバノン人女性が、彼女自身の思い、悲しみ、決意、別れを織り交ぜな
がら、包囲攻撃下の人びとの暮らしや心情、破壊された国土の風景を自分の
目で見たままに克明につづります。井上
凡例:(原注)〔編集者注〕[訳注]〈ルビ〉《リンク》
トム速報: ラシャ・サルティ、爆弾の下の生活を語る
抗メディア毒・常設サイト=トムディスパッチ 2006年8月23日
[編集者、トム・エンゲルハートによるまえがき]
レバノンの停戦はからくも実現したが、ちょっとした事件ならほぼ連日続
き、中東ではお決まりの危なっかしい毎日。33日間戦争はとりあえず終
わったかもしれないが、おそらく終息したのではなく――レバノンの破壊の
規模は忘れるわけにはいかない。このことを念頭に置いて、トムディスパッ
チは、ラシャ・サルティが33日間の戦争体験をつづったオンライン日記
《*》から11か所の抜粋をお届けする。熟達の書き手がしたためた実況記
録は、いま中東現地に身を置くとはどんなことなのかを雄弁に伝えている。
http://rashasalti.blogspot.com/
レバノンのフリーランス記者兼キュレーター[学芸員]である37歳のサル
ティは、過去数年のあいだ、ベイルートとニューヨークの間を行き来してい
る。2005年4月、彼女が凄惨なレバノン内戦の30周年にあたって書い
た日記は、元首相ラフィク・ハリリ暗殺という状況を背景にしたもので、ミ
ドル・イースト・レポート・オンライン《*》に掲載されている。その年の
後ほど、中東映画フェスティバルの理事を務めたのち、アメリカに戻った。
7月11日には再びベイルートに赴いたが、それは、ヒズボラが2名のイス
ラエル兵士を捕虜にし、彼女の祖国の大半を荒廃させた全面戦争が始まる前
日だった。この日記は米国内にいる友人たちにあてて書かれたものである。
http://www.merip.org/mer/mer236/salti.html
「メディアは当然ながら最新ニュースを探します。彼らはネタを探していま
す。しかし、彼らが見つけるのは、普通の話ではなく、人目をひく話です。
私が書くのは普通のこと、日常的なことです」と、サルティは戦争のさなか
にロイター通信に語っている。「読者が見るのは人間です。仕事をしている
記者や、思想を擁護しているイデオロギー信奉者を見るのではありません。
私への読者の反応は好意的です。レバノンの惨状を平気では見ていられなく
なったという人たちからのものです」
というわけで、先ごろ刊行された“The Lemon Tree: An Arab, a Jew, and
the Heart of the Middle East”《*》の著者サンディ・トランの編集によ
る、包囲攻撃についてのサルティのオンライン日記の抄録をここにお届けす
る。トム
[仮題『レモンの木――ひとりのアラブ人とひとりのユダヤ人、そして中東
の心』]
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1582343438
包囲攻撃ノート
――ラシャ・サルティ(ベイルートより)
1
私はいま、西ベイルート、ハムラ地区にあるカフェから書いている。店内は
24時間報道番組の焦点となった現実から逃れようとしている人たちで満員
だ。私もそう。ここしばらく電力が遮断され、街は発電機を頼りに生きのび
ている。発電機に停止時間が設けられるという、戦時にお馴染みの古いシス
テムが戻ってきた。カフェの店内は暗く、暑く、むしむししている。エスプ
レッソ・マシーンやミキサーは動かない。会話、うわさ話、欲求不満が店内
いっぱいに漂っている。
自宅にいて、私たちの窮状を生中継する断片的なニュースを見たりしている
よりも、ここにいるほうが楽である。
時おりイスラエル戦闘機の轟音に空気が圧倒される。「心理」戦争遂行のた
めのチラシを投下するのだ。昨日、彼らはその心理学教練を実戦に移して、
夜間はきっと「戦闘が激化する」から逃げろと市街南部郊外住民に勧告して
いた。今日のチラシは、ベイルートのすべての残った橋とトンネルを爆撃す
る計画であると警告している。人びとは食品を買いだめするためにスーパー
マーケットに殺到している。
今朝私は、安否を問いあわせてきた人たちのEメールへの返事に、私は安全
だ、標的は厳密にヒズボラの本拠地と支持基盤の地区に限定されているよう
だと書いた。今はそう書いたことを後悔している。攻撃はエスカレートする
だろう。
数時間前までは、空港滑走路に限って爆撃していて、打撃を「限定」してい
るようすだった。数時間前になると、わが国の新築ピカピカの空港建屋群に
4発の爆弾が投下された。
夜は痛ましかった。南部郊外と空港は海と空から爆撃されていた。私の住む
アパートはベイルート湾の壮大な眺望に臨んでいる。私はイスラエルの軍艦
が暇つぶしに砲を発射しているのを見ることができた。
2
いま、ベイルートは夜である。日中は、空と海からの爆撃・砲撃が激しく、
いっときも途絶えなかったが、夜は、いままでのところ静かだ。今の段階で
は、情勢分析はさまざまで、どれも確実なものではないが、夜間の爆撃には
備えておけとの警告が出されている。
現在の紛争では、私のような無宗教、平等主義の民主主義者は、政治の場で
代表を持つことも、工作をする可能性もない。私も私の仲間も自分たちのた
めの場の確保に成功しなかったし、主だった勢力(両極端の)も私たちに場
を与えることに同意しなかったためだ。これが私たちの敗北であり、私たち
の失敗だった。レバノンで私たちは、総崩れと十字砲火の情況のうちに捉え
られている。私はヒズボラ支持者ではない。しかし事態はイスラエルとの戦
争になってしまっている。イスラエルとの戦争では、私をIDF〔イスラエ
ル国防軍〕やイスラエルの側に立たせる勢力は世界のどこにも存在しない。
昨夜のイスラエルの攻撃の「見本」は、南部郊外のハッサン・ナスラッラー
〔ヒズボラ指導者〕の自宅を狙ったイスラエルの空爆ではじまった。爆弾が
炸裂するや、メディアはそれを報道し、彼とその家族の安否を確認しようと
待ち受けた。約30分後、ニュースキャスターは、ハッサン・ナスラッラー
が国民とアラブ世界に電話で呼びかける予定だと伝えた。
私は彼をカリスマだと思ったことがないが、国民の圧倒的多数はそう思って
いる。彼は、いまのように指導者の地位を握るにしては、非常に若い。彼は
直截にものを言い、それほど雄弁ではないが、レバノン国内の直接の支持者
に訴えかける言葉で語る。同時にそれは、イスラエルを倒してアラブの尊厳
を回復するというアラブ民族主義の公約が破綻したことに幻滅と失望と無力
感を抱くアラブ世界の人びとの心をも捉えるのだ。彼は腐敗せず、質素に暮
らし、スパルタ人もかくやという禁欲主義をだれの眼にも明らかに見せてい
る。
彼はまずイスラエルの攻撃に対する全面戦争を宣告した。ヒズボラは全面戦
争を恐れないと繰り返した。ヒズボラはこの衝突にずっと前から備えていた
のだと語った。興味深いことに、ヒズボラはハイファに届くミサイルをもっ
ていると彼は言う。しかも「ハイファよりはるか遠く、はるかはるか遠くま
でだ」と言うのだ。つまり、ハイファにミサイルを撃ちこんだのはヒズボラ
だと認めたことになる(その時までミサイルを発射したのは自分たちではな
いと言っていたのだが)。彼の言う「ハイファよりはるか遠く」がどういう
意味なのかは、ハッキリしない。テルアヴィブだろうか?
3
今日はひどい一日だった。爆撃は朝から全国で始まり、いまも止まない。夜
になって、ふたたび南郊のハレト・フレイクとビル・エル=アベドに爆撃が
集中している。ハレト・フレイク界隈には、ヒズボラの本部がある。そこは
何度も標的とされ、被害甚大だ。指導者たちは危害を被っていない。大変な
数の住民が退避したが、この午後、爆撃は住宅地を標的に行われた。私は起
きていて、不安な気持にかられて、これを書いている。それがなにかの役に
でも立つかのように。
外国の大使館では、自国民のための脱出計画を立てている。海からの退避が
考えられていたが、今日の港湾爆撃で、戦略を練りなおさなければならない
かもしれない。私は避難すべきだろうか? アラブ=イスラエル紛争におけ
る「歴史的な」持ち場に背を向けて。今朝、そんなことを考えて、私は恥ず
かしい気持に襲われた……そしていま、午前1時30分、イスラエル機が頭
上の空を埋めつくしているこの時、改めて同じことを書いている。
4
情勢はますます熱を加えていくようだ。ミサイルがハイファに命中し、〔レ
バノン〕南部と〔ベイルート〕南部郊外への爆撃は勢いが衰えない。
ミサイルのハイファ命中を受けて、エフド・オルメルト〔イスラエル首相〕
はレバノン南部の焦土化を約束した。南部地域住民には、イスラエルが「焦
土作戦」でヒズボラに応酬してくるから村から避難するよう、警報が発せら
れた。主要道路は破壊され、南部の村や町はたがいに隔絶され、孤立状態だ
というのに、どうやって逃げろというのか、わからない。それに、どこへ避
難するのかも。
つまり、ヒズボラは、私たちの意見も聞かずに、私たちを地獄に引きずり込
んだのだ。私たちはこの地獄に身を置き、ともに十字砲火のうちに捕らえら
れている。私たちは生きのびて、できるだけ多くの人命を救う必要がある。
イスラエルはいまレバノンの内部崩壊に賭けているが、そんなことは起こら
ない。イスラエルの対応は、完全に、完全に「正当化不可能」だという「全
員一致の見解」があるのだから。私たちは、内部の意見の相違と国民の結
束、社会的多元主義を両立させ、見解がばらばらであっても、アラブ=イス
ラエル紛争の新たな不吉な章に向かい合うことは可能だということを、アラ
ブの指導層に示すだろう。
5
私たちはいま次々と跳びこんでくる「緊急ニュース」から「緊急ニュース」
へと移りながら生きている。私がカフェに入って、1時間経過。これまでに
耳にしたことは、次のとおり――
(1)友人の携帯電話に転送されたメール――イスラエル軍司令部発の緊急
ニュース。ヒズボラがガリラヤと北部の町へのロケット砲攻撃を止めない場
合、イスラエルはレバノンの全送電網を攻撃する。
(2)ヒズボラが、ハイファ、サファド、ゴラン高原南部入植地を砲撃。
(3)別の友人に届いた携帯メール――ダマスカスに向けて発ち、ロンドン
に戻る便に乗ろうとしていた国外居住者から。「ダマスカス発の全便が欠
航。なにか知らないか?」
(4)イスラエルの爆弾がバーテンの自宅近くに落下。彼の家族はハダトの
瓦礫〈がれき〉のなかで途方にくれている。彼はカフェから跳びだし、山岳
地帯に向かう家族の逃げ道を確かめるために必死になって電話。
(5)ヒズボラが、イスラエル軍F16を撃墜して、(ハダト近くの)ク
ファルシマに落下させた。あるカフェでちょっとしたお祝い騒ぎがあり、撃
墜を否定する声を圧倒した。
「緊急ニュース」は時間の経過を刻む時計になった。気がつくと人はこの上
なくおかしなふるまいをしている。一片の緊急ニュースをキャッチして、別
室に跳びこみ、家族に話すと、皆もすでに知っているので、他の人たちに携
帯メールで伝える。この伝言ゲームのある段階で、自分が「緊急ニュース」
のメッセンジャーになるのだ。そうしていくうちに、別の「緊急ニュース」
をいくつか集め、それを送り返す。2組の緊急ニュースのあいだで、いくつ
かの事実を拾い集め、ひとつのシナリオに沿うように組み合わせる。そこで
前に描いたいくつものシナリオを思い出す。すると、どれも成り立たないこ
とがわかる。ため息をつく。ボツだ。次の緊急ニュースが来るのを待とう。
だが次のはもっとひどくなるばかり。あなたは夜が恐くなる。どういうわけ
か、夜になれば爆撃はひどくなると思っているから。視覚が損なわれ、何も
かもが闇に包まれる時だからと。だが、これはちがう。爆撃は、日中も夜間
も変わりなく熾烈なのだ。
昨日から今日にかけ、外交活動は「さかん」だった。国連特使や、大使、E
U〔ヨーロッパ連合〕特使など、ありとあらゆる類の男女が、「国際社会」
や「イスラエル側」からのレバノン政府向けのメッセージを携えて行ったり
来たり。彼らは公式に無駄骨折りをしたのである。
この日録を書きはじめたのは、正気を保ち、私の消息をレバノン国外の友人
たちに伝えるためだった。私は率直に、自分の感情をすべて包み隠さずに書
いた。自分の抱いた感情も、抱かなかった感情も。3番目の日録を送るまで
に私は、日録を読んだ未知の人たちから返信、喝采と反論を受け取るように
なっていた。
イスラエル、チャンネル2の記者が私にEメールでインタビューを依頼して
きた。最初、私はその提案を歓迎できなかった。自分の言葉が歪曲された
り、自分の率直で正直な言葉が自分の承認しない主張に都合よく引用された
りすることを恐れたのだ。その記者は感じのいい人だと思ったが、信用する
理由はなかった。彼女のほうでも、私の懸念をわかってくれた。彼女は、次
のような一連の質問を私に送ってきた。私の答えをテレビで放送するなり、
なんらかのレポートで使うというのだった。そこで私は、それをすべての人
びとに伝えようと心を決めた。
1. 一日をどう過ごしていらっしゃるのか、朝からご説明ください。今
日、あなたはなにをしましたか? コーヒーを飲みましたか? なにから
ニュースを得ていますか? テレビでしょうか? ラジオでしょうか? イ
ンターネットでしょうか?
私たちの日常のパターンはすっかり変わってしまいました。いまは包囲攻撃
のなかで生き残るための非常体勢です。私たちのうち、まだ負傷もなく動け
る者は、翌日まで生き延びるために必要なことはなんでもしています。もち
ろん、コーヒーは、朝、昼、晩といただいています。たぶん私はコーヒーの
飲みすぎ。時間の過ごしかたは、すべてニュースの監視、全員無事の確認、
災難にあっている人たちを助けるためにするべきことはなにかと考えるこ
と。ニュースはいつも流しっぱなしです。
いま私は家にいて、一方でラジオを聴きながら、他方でEメールを打ってい
ます。エアコンはオン。私は市街中心部に住んでいます。後でオフィスに出
向くつもりです。市内の日常の活動は続いていると思いますが、低下してい
ます。以前あたりまえのものだったベイルートの生活、あるいはあたりまえ
だと思っていた生活は停止しています。トレーニング・ジムのクラスはお休
み。私は皮下脂肪を蓄え、おかげで2番目の夫を見つける見込みは薄くなり
ました(イスラエル国防軍に賠償金を払ってもらえないかしら?)。空調は
電力会社の送電か自家発電機しだいです。いまでは停電が普通で、発電機は
予定通りにしか作動しません。ですから、空調がなく、停電となれば、私の
「セム系人らしい」[*]カールした髪は手に負えないモジャモジャになり
ますから、正直に申しあげて、ひどいヘアースタイルのまま包囲攻撃に耐え
ているのです。
[セム系人種はアラブ人もユダヤ人も含む]
2.あなたがお住まいの地域のようすを教えていただけますか?
そうすると、ここに爆弾が落ちるのですか? まっぴらです。私のいる地域
は、南部郊外から遠い、たいした特権的地区ですが、ここでも外国籍の人た
ち(それに二重国籍者たち)の避難が完了したあと、だれもが破滅を予期し
ています。イスラエル軍が、南部郊外でしたように、私たちにたっぷり愛の
鞭を振るおうと決めるなら、私や私の家族、そしてここに残ろうと決めた人
はみな、重大な生命の危険にさらされるでしょう。
3.ご自身についてお話しいただけますか? 暮らしのためのお仕事と
か……。
私はカルチャー・イベントをプロデュースしたり、フリーのライターをした
りしています。ニューヨーク市に住んでいましたが、7月11日にベイルー
トに移ってきました。いまの時点で暮らしなどというものはありません。い
くつかのことをインターネットでやってみようとしていますが、それもます
ます難しくなるばかりです。
4.わが国の指導者は、ヒズボラとレバノン各地とを攻撃すれば、現地の人
びとがヒズボラに離反すると考えています。これは正しいですか?
まったくばかげた考えですが、それが仮に真実をついているとしても、ひど
い戦略です。内部崩壊したレバノンは、誰にとっても悪夢です。レバノン人
だけでなく、ほかの誰にとっても悪夢です。イスラエルはすぐ隣にイラクが
あればいいとでも思っているのですか? いまのイスラエルには軍事攻勢に
ついて国内でコンセンサスがあるかのようです。それというのも、イスラエ
ル国民が政治家や軍部をきちんと問いたださないからです。レバノンから
シーア派を排除できるとほんとうに思っているのか、この地域で、そんなこ
とが簡単に認められると思っているのかと。アメリカが助言しているのな
ら、身を守るか、行動するかです。アメリカの見識と先見性がどの程度のも
のかを示す最近の記録をあげましょうか? ヴェトナム、中央アメリカ、ソ
マリア、アフガニスタン、イラクです。帝国主義者の言うことを聞く必要が
あるにしても、もっと頭のましな、少なくとも歴史感覚のある者を見つける
ことです。あなたがたの生活の安寧までラムズフェルドに引き受けさせてい
るなら、大変なことになりますよ。この戦争は皆を破滅に陥れます。誰に
とっても損失になるようなことは、やめてください。戦争は、死亡者数が
「許容限度を超える」前に、全土が瓦礫に帰す前に、止めることができるの
です。
5.ベイルートの街の雰囲気はどうでしょうか? ご説明いただけますか。
ベイルートは沈黙し、活動を停止して、ちぢこまっています。私たちは檻に
入れられていますが、ここには粘り強い連帯があります。私たちが正当性の
ないイスラエルの攻撃のもとにあるということを、あなたがたは理解しなけ
ればなりません。兵士2名が拉致されたことではイスラエルの対応は正当化
できません。
6.あなたのお友だちの間の雰囲気は、どうですか?
一致した意思は連帯にあります。私たちの国が攻撃にさらされているのです
から。こんな状況でなければ、この国は各自がそれぞれの意見や見方をも
つ、多元的すぎるくらいの社会で、それでなお私たちは共存しているので
す。たがいに折り合いをつけながら。
あなたがたが、私たちをどんな悪夢の中に引きずり込んだかを自覚してくれ
ることを望んでいます。戦闘を停止させる必要性をできるだけ早く感じてく
れたらと思います。私たちの人間性もあなたがたの人間性と同じく貴重なも
のと見なしていただきたいと思います。
心をこめて、ラシャ
6
午後11時30分。発電機が止まるまで約30分ある。ベイルートの大半は
暗闇に包まれている。国土がどんなありさまか、想像したくもない。
私は、明朝、この国を発つ機会を与えられていたのだが、それだけに今日は
格別に奇妙な一日だった。車でシリアへ、次いでヨルダンへ行き、そこから
はどこへなりと行くべきところに飛行機で行くこともできたのだ。何日もの
あいだ、私はこの国を出たくて、うずうずしていた。仕事のうえでの責任を
はたし、締め切りに追いつき、自分の生活を取り戻したかった。私は何日も
のあいだ、この戦争が周囲の人びとに引き起こした激情とも、それに抵抗す
るという大義への参加とも切り離されて、この戦争に対する自分の矛盾する
気持と戦っていた。それでも、電話が来て、翌朝午前7時の出発に備えてお
くように言われたとき、私は、考えさせてくださいと答えた。私の心は引き
裂かれた。この人間的、物質的状況、破壊の深さ、250人近い死者、80
0人以上の負傷者、そして40万人もの難民という被害の大きさが、私を義
務の感情に縛りつけた。それは愛国心でさえもなかった。実をいえば、イス
ラエルに立ち向かう意志だった。彼らにこんなことをさせてならない、彼ら
に追い出されるままになっていてはならない。彼らが私を追い出すようなこ
とがあってはならない。
私は踏みとどまることにした。次の出発するチャンスがいつ来るか、それは
わからない。
7
いちばん親しい友人のひとりで、ほんとうに私の最愛の姉妹というべきマリ
アは2日前に出国した。英国大使館の指示に従って退去するはずだった刻限
の数時間前まで、彼女には出発する決心がつかなかった。彼女には、9歳と
5歳、ふたりの息子がいる。彼女と夫は長いあいだロンドンに住み、英国の
市民権を得ている。彼女の人生にとって大切な人びとのだれもが彼女に電話
して、英国人たちと一緒に脱出するようにと説得した。彼女は包囲攻撃の2
日目にベイルートを離れ、山間部に移っていた。私たちの電話による会話
は、「心身の栄養」としての得がたい効能をもっていた。私たちはそれぞ
れ、これによって充電され、本来の自分を取り戻し、本来の私たちの生活を
思い出すことができたのだ。私たちは同じ問を何度も何度も繰り返した。
「私は出なければならないのかしら?」「あなたは出なければならないのか
しら?」……彼女にとって、出国は不本意だが、子どもたちのためには、そ
うしたほうがいいとわかっていた。
彼女が屈服したのは2日前だった。息子たちふたりと波止場で待機している
ところに私は訪ねていった。彼女の夫は出国したくなかったのだ。「つら
い、つらいわ……」と彼女は言いとおしだった。「つらい、つらいわ……」
と私も返していた。「これでよかったのかしら?」と彼女は許しを求めるよ
うに言った。「もちろんよ」と、私はみじんもためらいを見せずに言った。
だが、あなたがいなくなれば寂しくなるけど、と言わずにはいられなかっ
た。まるで子どもにしか許されない自己中心性と依存性で、勝手な甘えたこ
とを言っている自分がいた。正直いって、この包囲攻撃を彼女なしに生き抜
くことは私には恐ろしかったのだ。いまこの時、二人の子どもたちと一緒に
波止場で船を待っているのが、私の心の大きな一部分、少なくともベイルー
トにいるという事実に愛着を持たせるものの大部分なのだと、そういう思い
だった。
8
2日前のこと、私は報道記者たちに同行してハレト・フレイクに行った。あ
の破壊の光景を見た衝撃から、私はいまだに立ち直れていない気がする。あ
のような破壊はそれまで一度も見たことがなかった。欧米人ジャーナリスト
たちは「世界終末後」の光景という言葉を連発していた。アメリカ人の記者
たちはグラウンド・ゼロを想わせると言った。地面にぽっかり開いた穴はな
く、地区全体がペチャンコに潰され、瓦礫になっていた。くすぶる瓦礫の山
また山。コンクリートの塊や金属棒が、調度品や住民たちの暮らしの名残、
写真、衣類、食器、CD、パソコン・ディスプレイ、ナイフやフォーク、
本、ノート、テープ、目覚まし時計などと混じりあっていた。何百もの家庭
を構成していた中身が、燻〈くすぶ〉っている瓦礫の間に堆積していた。そ
の朝早く、2棟のビルが被弾し、このときもまだ煙をあげ、ゆっくりと崩れ
ていく途中だった。
私は死ぬほど驚いた。クリニックや社会福祉関係の事業所が入居しているビ
ルのひとつの前で立ち止まると、あたり一面、無数のCD-ROMやDVD
が散乱していた。ヒズボラの宣伝機関に関係したなにかでもあるのか(それ
ならたいしたものだ)と思いながら、一枚拾いあげた。最初のものには
「サーフ・エル=ノム1」と書いてある。二枚目は「サーフ・エル=ノム1
7」だ。「サーフ・エル=ノム」というのは、1960年代にシリア・テレ
ビが制作し、とても人気があったホームコメディである。
ハレト・フレイクは、ヒズボラがいくつか事務所を持っていた場所でもあっ
た。アル=マナル・テレビ局は、“保安区域”(または“保安区画”)とし
て知られるようになっていた街区にあり、そこの調査・政策研究センター、
その他の施設は党に所属していた。その人口密集市街地で、35棟以上のビ
ルが完全に破壊されたという。
ビルのひとつはまだ燃えていた。その日の明けがたに爆撃されたビルだっ
た。荒廃のただなかから大量の煙が立ち昇っていた。瓦礫は非常に温かく、
コンクリートや金属を踏んでみると、足に熱を感じた。
9
私の包囲攻撃ノートが流布しはじめている。私はとりとめなく書いている
が、毎日書くよう自分を律することはできない。世界はどこへ行ったのか、
生はどこへ行ったのか、私自身はどこへ行ったのか。周りの人たちもこの浮
き沈みを生きている。だが、概して私よりも立ち直りが早く、動揺せず、強
いと思う。私は他の人たちの絶望によって消耗している。あまり賢明なこと
ではない――生き残り戦略としては。
私に取り付いて離れないのは、瓦礫の下に取り残された、名も知らず顔も知
らない人たち。破壊されたビルの地下に、あるいはただ単にその瓦礫のただ
なかに。しかるべく埋葬されるときを待ちながら。
10
以前の生活から続いている仕事を遅れずにこなそうと、これまで能力のかぎ
り努めてきた。ほとんど不可能に近い。しかし立ち止まれば自分が完全にバ
ラバラになってしまうことがわかっている。あとからあとから続く仕事のな
かでEメールを打っているとは現実離れした話だ。外部の世界は、とてつも
なく遠い。私のニューヨークのアパートのイメージがほとんど思い浮かべら
れない。Aアヴェニュー、街角のデリカテッセン、オーナーのイエメン人一
家、すべて消えうせている。包囲攻撃にさらされていると、人はこうなるら
しい。友人のクリスティーヌは正気を失うのを避けようと無理して事務所に
出勤しているが、包囲攻撃が始まる前の仕事をなにひとつ思い出せなくなっ
たと言っていた。イスラエルの空襲の音はたびたび恐怖と驚きの震えを広げ
るに十分な低さになる。それでも毎日到来する避難者の群れは、この都市の
空間を一変させてしまった。彼らの惨状がこの戦争の本質を痛ましく物語っ
ている。
昨日の午後、私はカルム・エル=ゼイトーンにいた。そこはアシュラフィー
フ(直訳すれば「オリーブ園」)〔ベイルート東部のキリスト教徒居住地
域〕の一区域で、学校のいくつかを開放し、南部地方やベイルート南郊から
の難民の一部を収容している。片腕の肘にギブスをはめ、いたずらっぽく眼
をキラキラさせた6歳の子とトランプをして遊んだ。年配の太りすぎの女性
が訪ねてきて、自分と姉妹のために部屋を見つけてくれないかとRに頼ん
だ。老齢と健康状態のために、彼女は暑さや蚊の襲来に耐えられなかったの
である。彼女はRに懇願した。死ぬにしても、学校のマットレスのうえと
いったそんなのではなく、尊厳のうちに死にたかったのだ。彼女は涙をこら
えるのがやっとだった。
私は、後ろ髪ひかれる思いで彼らに別れた。
11
この戦争と爆撃と包囲、嘆きと悲しみの間にも、ブーゲンビリアは満開の壮
麗な姿を誇ってきた。紫がかった赤、豪勢なフクシア・ピンク、まぶしいば
かりの白、そして時にはカナリア・イエローと、その強烈さは目がくらむほ
どである。それは客観的に見れば、水と陽光と熱、それにたぶん風といった
「自然」の要素に恵まれていることの成果だが、たいていの場合、私は見る
とイライラした。この戦争時にすべてが一変してしまったなかで、このブー
ゲンビリアだけが別。他の花木は、しおれるか、引き抜かれていた。いつも
頼んでいる植木職人や持ち主が以前のように決まって世話をできなくなった
り、二重国籍者の船で逃げたりしてしまったためだ。
サイダへの路上で、私は満開のブーゲンビリアに圧倒され、苛立ち、気が動
転さえした。豊かな葉の茂みと花の間に、破壊の光景が現れる。まん中で断
たれた橋を、ブーゲンビリアの紫とフクシア・ピンクの花が縁取っている。
私たちは旧道を走った。道は無傷ですんでいなかった。中央部に小穴が開
き、岩のかけら、セメント、残骸が転がっていた。曲がりくねった内陸側の
道路から、新しい幹線道路が見え、大きな爆弾クレーターも目についた。
夏のこの時季、本来なら海岸道路は、海外駐在員たち、二重国籍者たち、夏
休みの学生たち、そして観光客たちでにぎわっていたことだろう。この一帯
は、南部で客足が一番の海岸が続く。ビーチは極上から格安までいろいろ。
夏のこの時季、町のハンサムなビーチボーイたちが肌を焼き、これ見よがし
に海水浴のトランクス姿で歩き、地元の名士を気取って、道は混みあってい
ただろう。すべて不気味なほど跡を払ってしまった。見たところなんの理由
もなく配置されている兵士でさえ、用心深く、いつでも遮蔽物の陰に逃げ込
める構えで歩いている。生活のあらゆる面で、逃げ出す準備が整っている。
道沿いは閉鎖した家が続く。扉は鍵かけられ、窓は閉められ、シャッターは
下りていた。そこに住んでいた人たちの、わが家に向けた最後の一瞥が、い
まなお玄関のあたりに貼りついているかのようだ。気の進まない別れを告げ
た視線は、すばやくチェックリストの上を走り、すべてのものが安全にしま
いこまれたことを確認し、万事がうまくいくことを願っただろう。そしてお
そらく、祈りの言葉か、神かキリストに慈悲を願う言葉もつぶやいて、大急
ぎで車に乗り込み、いっときの安全な避難所めざして走り去ったのだ。
サイダ湾が見えてきた。沿岸の崖道へと通じる湾岸の幹線道路は車がまった
く見られない。幹線道路と崖道をつなぐ橋が連続爆撃を受けたためだ。両側
に車の残骸が並ぶ。コンクリート塊の下に埋まっているものもある。周辺を
まわってから、進路を変え、後方の折れ曲がった道路からサイダに入った。
オレンジの果樹園はクラクラするほどの芳香があふれる。市内の交通は混ん
でいた。通行人の往来もにぎやかだった。
サイダは2日前までに10万人以上の避難者を受け入れていた。
避難者はビルの玄関や車庫を夜の寝場所にしていると聞いた。古い監獄と裁
判所ビルのほか、いままでに85校の学校が避難者を収容している。
そのビルはサイダ旧市街と砦を見下ろす丘の上に建っていた。柔らかなそよ
風がやさしく吹き、その丘のうえのほうが、すべてもっと静かだった。
役員の一人が私たちを案内してくれた。その階は自然光があふれている。廊
下でさえ明るかった。各部屋は広く、ベッドを4床備えていた。そのフロア
はまだ人を収容する余裕があった。
隣の部屋に、二人の女性が横になっていた。ひとりはかなり高齢だった。横
に息子さんが座り、世話をしていた。その向かいは、年配の女性で、身体が
不自由で歩けなかった。アバシエフの人だった。彼女は置き去りにされた。
村長が彼女を車から降ろして去ってしまったのである。彼女は口をきかな
かった。だれも彼女についてなにひとつ知らなかった。身元証明書はなかっ
た。ベッドに横たわり、庭を見つめていた。その眼は焦点が定まっていな
かった。だが、視線は強烈だった。あれほど鋭く、純粋な、思い定めた悲し
みを、私は滅多に見たことがない。病院の役員が彼女に挨拶した。返事はな
かった。
アハマドと私は同じ道を戻った。自分の心をそれほど重く感じたことはな
かった。しっかり捉えておくべきことが、たくさんあった。オレンジの花の
芳香を期待して、いまでは、壮麗な花盛りのブーゲンビリアを許す気持ちに
なっていた。
〔筆者〕ラシャ・サルティはレバノン国籍のキュレーター[学芸員]であ
り、「ロンドン・レビュー・オヴ・ブックス」その他に寄稿している著述
家。ニューヨーク市とベイルートの2か所で暮らす。7月11日にベイルー
トに戻り、いまも同地に留まる。ここに掲載する11本の抜粋は、彼女のブ
ログ《*》から再録したものであり、レバノンの最近の戦争の33日間を全
期間にわたって伝えている。
http://rashasalti.blogspot.com/
[原文]
Tomdispatch: Rasha Salti on Life under the Bombs
posted August 23, 2006
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?emx=x&pid=115409
Copyright 2006 Rasha Salti
[翻訳]井上利男 /TUP
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