FROM: hagitani ryo
DATE: 2006年12月20日(水) 午後9時47分
☆戦争の愚かしさを想う戦跡巡りの追憶★
すでに12月も下旬となり、今年も押し詰まってきましたが、先月11月の
11日は、アメリカの「復員軍人の日」――第一次世界大戦の休戦を記念す
るとともに、アメリカが参戦したすべての戦争に従事した米軍将兵たちに感
謝する休日――でした。この日を期して、本稿の筆者、今は「俗塵を離れた
オレゴン州東部の小さな町」に在住する元・土地管理局自然保護官は、かつ
て訪れたアメリカ各地の戦跡を追憶し、自身のヴェトナム戦争体験とご子息
が従軍したイラク戦争への思いを重ねて、時が移っても「時代は変わらな
い」戦争の愚かしさを想い、そして、10月17日にブッシュ大統領が署名
したジュネーブ条約無視の「特別軍事法廷設置法」の非人道性を告発しま
す。井上
凡例:(原注)[訳注]《リンク》〈ルビ〉
トム通信:ダグ・トラウトマン「復員軍人の日の追悼」
抗主流メディア毒・常備薬サイト「トムディスパッチ」
2006年11月11日
[トム・エンゲルハートによるまえがき]
1918年11月11日、この日の11時に停戦協定が署名されて、20世
紀最初の大量殺戮〈さつりく〉、第一次世界大戦を終結させたが、やがて、
この「すべての戦争を終わらせるための戦争」も第二次大戦の序章でしかな
かったことがわかった。今や21世紀も第6年目になって、11番目の月の
第11日を迎えたが、新手の大量殺戮が続行中であり、ブッシュ政権を見
舞った先日の選挙ショック《1》やドナルド・ラムズフェルド国防長官の辞
任を見たにもかかわらず、殺戮が終わる兆しは見えない。イラクでは、米兵
の2839人がすでに死亡《2》、数万人が負傷し、それにイラク人の側は
――軍人と叛乱勢力、民間人を含め――死者が何十万になるやら知りようも
なく、考えうるかぎりの残忍で血なまぐさい方法で殺されている。
1 http://www.whitehouse.gov/news/releases/2006/11/20061108-2.html
2 http://antiwar.com/casualties/
イラクの殺戮現場は、ここアメリカにいる私たちにとって、はるか彼方にあ
り、その追悼は、これまで、ほとんどまったくなされていない。殺戮が行わ
れているという認識を持つことさえ難しいが、ウエブサイトのアンチウォー
・コム《*》が、せめて毎日報道された分だけでも突き合わせをするとい
う、注目すべき、ただし気の滅入る仕事している。連日の死者数の逐次集計
を発表しているのだが、それには大量に発見される身元不明の遺体も含ま
れ、そうしたケースは特にバグダッドに多い。(「大バグダッド圏で、11
月7日遅くから8日にかけて、宗派間抗争の犠牲者と思われる29遺体が見
つかった……」)
http://www.antiwar.com/
それぞれ地味で控えめな表現の報告のひとつひとつが、悲痛である。8日の
記事の見出しは、「2米兵・199イラク人戦死、または死亡の報告。3米
兵・137[イラク]人負傷」《*》となっている。それでもやはり、これ
ら言葉による集計は――永久に報告されることもないこれらすべての死者に
は比べようもないのだから――死者を愛していた人びとの苦しみを伝えるこ
ともできなければ、半ばにして絶たれた貴い命の喪失が二つの国にとって意
味するものを数えあげることもできない。8日に「キルクーク州の同じ事件
で」戦死した米兵、あるいはバグダッドの広大なスラムでの死が「サドル・
シティで地区のサッカー試合中に飛来した迫撃砲弾により8人死亡、20人
負傷」という一文で片付けられた8人のイラク人、あるいは「イスカンダリ
アの住宅付近で路傍爆弾爆発、男性1人とその息子(13歳)死亡」という
記事にある氏名不詳の親子のことを、どう飲み込むというのか。
http://www.antiwar.com/updates/?articleid=9982
今日の復員軍人の日が、新たな終戦記念日であってほしかった。あいにくな
ことに、この11日にも、あの無惨なイラク発の遂次集計がアンチウォー・
コムに掲載されるだろう。ダグ・トラウトマンはヴェトナム戦争帰還兵(今
は、ご子息もイラク戦争帰還兵)であり、戦後は土地管理局に勤務し、わが
国の歴史に名を残す血なまぐさい戦闘の現場を数多く訪れた。ここに掲載す
るのは、今日の復員軍人の日、死者たちにたむける彼の追悼である。トム
戦争の再演
人間性を喪失する国を想う
――ダグ・トラウトマン
復員軍人の日にはどうしたらいいのか、私にはわかったためしがない。おそ
らく、ワシントンDCの黒い壁[*]に名が見える兵士たちを、あまりにも
多く知っているせいだろう。
[ヴェトナム戦没者記念碑。戦死または行方不明のアメリカ人5万8209
人の名を黒御影石の壁に刻む]
ヴェトナムでは、アメリカから手紙が届くのに何週間もかかることが多かっ
たが、テクノロジーは戦争に関する多くのことを変えてしまった。私の息子
は、バグダッドから私に電話したり、Eメールを送ったりすることが瞬時に
できた。
息子が休暇で帰宅したとき、私たちは体験を比べあい、時には母親が部屋を
出て行ってしまうような話題で笑いあったりもした。息子が家にいたとき、
私たちは、時には夜空の下、天の河を仰ぎ、われわれ人間がいかに小さく無
知であるか、静かに語りあったりもした。
私は人が戦争を「楽しむ」などとは信じない。おもちゃの鉄砲や棍棒を手に
する子どもたち――あるいは、ほんものの銃器やにせものの制服で「仮装す
る」大人たち――には我慢ならない。
私はヨークタウン[*]の防壁を見渡したことがある。私の目に浮かべるこ
とができたのは、独立戦争[1775-83]終結を印した、その地での閲兵や降
伏の光景だけではない。「勝利」に先立ってあった煙と火、そして死が私に
は見える。
[バージニア州の町。1781年、英軍のコーンウォリス将軍が降伏した土
地]
私は、オレゴン州東部、人里はるかな砂漠のヨモギと岩だらけの景色を眺め
渡したことがある。そこは今でも「悪霊」が棲みついている。1万年前、人
間が殺しあった場所なのだからである。
私はアラモの砦[テキサス州サンアントニオ]の前に立ったが、これはメキ
シコ軍のサンタ・アナ大将が「謀反人」の小集団を攻撃するために大軍を集
結させ、「このばか者たちは何をするつもりだったのか?」といぶかった場
所だ。モンテベロ断崖[カリフォルニア州ロサンジェルス郡]の上に立った
が、そこはピオ・ピコという名の人物がサンタ・アナの尻を蹴とばした場所
だ。シッティング・ブルがカスターの騎馬隊を待ち伏せしたのとまったく同
じように、その断崖で将軍の部隊を待ち伏せして、砲火を浴びせかけ、眼下
の川床の岩や砂地を血で染めたのである。
カスターの作戦計画は罠の中に馬を進めることになったが、「世界の全イン
ディアンたち」は彼に向かって殺到したのだ。サンタ・アナは同じ大失敗を
やってしまった。彼は「アラモを忘れて」いた!
私はフレデリックスバーグ[*]周辺の小道を歩き、南部連合軍の兵士たち
がバーンサイド大将麾下〈きか〉のブルーコート[北軍兵]たちを次々と狙
い撃ちにした、まさにその木立の後に立ったことがある。その地形と散在す
る木々のようすが私に物語を語っていた。それを私は、バージニアの銃声が
途絶えてから1世紀後に、遠く離れた別の場所で追体験することになる。
[バージニア州、南北戦争最大の激戦地。国立墓地に1万5000人を超え
る兵士が眠る]
ヴェトナムで仕掛け爆弾として使われ、あれほど有効な働きをした“クレイ
モア”地雷[*]は、人名に因んで名付けられたのではなく、かつて16世
紀のスコットランドで、文字どおり人間を頭から下へと両断するように製作
・使用された刀剣に由来する。
[地面にしかける対人指向性散弾地雷。直径1.2mmの鉄球700個を扇形に飛散
させて、敵の足を破壊する。クレイモアは、スコットランド高地人の両刃の
剣]
ヴェトナムのマンヤン峠で、私は細くうねる山道の端に立ち、眼下のジャン
グルのなか、私が参戦したのより前の戦争でフランス兵たちが集団死した地
点を示す十字架を見下ろした。それは軍事用語では「敗北」、実態は「壊
滅」だった。
同じ道のほんの数キロ離れた地点で、私も、同じような、もっと小規模な待
ち伏せに遭ったが、辛うじて逃れた。時代は変わらないものだ。
[ボブ・ディランのヒット曲『時代は変わる』のもじり]
十字架は、共同墓地に立てるべきでない。十字架は――リトル・ビッグホー
ン[第7騎兵隊全滅の地]やマンヤン峠でなされたのとまったく同じように
――じっさいに人びとが倒れた戦場にバラバラに立てるべきである。
ゲティズバーグ[*]やヨークタウンの草原は、あまりにも清潔、あまりに
もすっきりしすぎ、見た目によすぎる。広大な草原でも、潅木の続く野原で
も、森でも、ジャングルでも、そちこちに十字架が立っていれば、あるいは
ただの白い石でも、目に付くほどの大きさのものが散らばっていれば、必要
な物語をそれだけよく語ってくれるだろう。その十字架なり、石なりは、赤
色でなければならないかもしれない。血の赤だ。
[ペンシルベニア州、南北戦争最後の決戦場 (1863)]
私がこれまでに見たうちで最も印象的な「ものを語る現場」はジョージア州
アンダーソンヴィルのもので、往時、旧・南部連合監獄(公式名はキャンプ
・サムター)が建っていた場所だ。そこでは、塀の内側に並べて立てられた
杭の列が、そこを横切る兵士が看守に撃ち殺されてしまう「死線〈デッドラ
イン〉」を示していた。戦争捕虜の中には、懲罰として、仲間たちの手でそ
の線から無理やりに押し出された者たちもいた。虜囚生活の飢えと惨めさか
ら「逃れる」ため、わざと越えた者たちもいた。この柵囲い施設は1万人の
囚人を収容するようにできていた。一時、最大収容者数は3万2899人に
達し、1万2919人がそこで死んだ。悪臭があまりにもひどく、囚人たち
の多くは、門を入ったとたんにむかつき、嘔吐したほどである。
人間の人間に対する非人道的行為は、戦場で――あるいは戦闘とともに――
終わるものではない。
アメリカは道を見失っている。その証拠は2006年の特別軍事法廷設置法
[*]にある。この法令で合州国は、戦争捕虜の処遇に関するジュネーブ条
約を尊重しないと実質的に宣言しているのである。同法は、だれが「敵」ま
たは「テロリスト」であるか、彼らはどのように処遇されるべきかを、大統
領がみずから決定することを基本的に認めている。これは身体的拷問にも精
神的拷問にも適用される。私の息子は軍でSERE(Survive=生き延び
る、Evade=切り抜ける、Resist=耐える、Escape=逃げる)教練を修了し
ており、水責めがどんなものか知っているが、それも、「拷問する側」に殺
意がないことを妥当な理由によって確信できる場合に限る。
[Military Commissions Act=直訳では、軍事委員会法。参照サイト――
アムネスティ日本「グアンタナモにNO!」軍事法廷:
http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=763]
自分が生きようと死のうと、相手が気にかけていないとしたら、だれが水責
めをされようと思うだろうか。
頭脳は、消耗したり――あるいは洗ったり――すると大変な代物である。そ
のことについて、私にはヴェトナムでの個人的な体験があり、そこでは、一
部の部隊はジュネーブ条約遵守に努めていたが、それは必ずしも守られてい
なかった。条約に違反し、条約が強く要求する限られた範囲の制約すらもか
なぐり捨てるとき、私たちはもはや人間ではない。
わが子もそうだったが、わが国の兵士たちは、ポケットに「生命証票」を忍
ばせて多くの国ぐににおもむく。この小さな書類には、その所持者を捕虜に
した者が彼を無事に帰国させれば褒賞を出すと記されている。軍事法廷法に
よって、こうした証票は無価値になってしまったかもしれない。
2001年、連邦議会は一人のかなり狂った小人物に、私たちがヨークタウ
ン、アラモ、モンテベロ断崖、フレデリックスバーグ、アンダーソンヴィ
ル、マンヤン、あるいは「ハノイ・ヒルトン[北ヴェトナム米兵捕虜収容施
設の俗称]」から何も学んでいなかったことを示す証拠を手渡しはじめた。
今また、私たちはサンタ・アナやカスターのように盲目的にわれわれの運命
にまたがり、自分たちには力がある、自分たちは「正しい」と過信してい
る。そして、われわれの最近の行軍はまだ終わっていない。
私の息子は、今では私と同じ帰還兵である。戦争を最も憎むのは、戦争に熟
練した男女である。復員軍人??戦闘経験者??は、自分でそれを体験していな
い者には理解の「手がかり」すら得られない何かを知っている。
私たちは、過ちを繰りかえしたり、再演して美化したりしてはならない。
[筆者]ダグ・トラウトマンは、1966年から67年にかけてヴェトナム
で第一機甲師団に所属。後にヨセミテ国立公園のパークレンジャー[公園保
護官]、ついで土地管理局の原生自然保護および戸外リクリエーション立案
担当官。俗塵を離れたオレゴン州東部の小さな町に在住。
[原文]
Tomgram: Doug Troutman, A Veteran’s Day Memorial
posted November 10, 2006
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?emx=x&pid=138937
Copyright 2006 Doug Troutman
[翻訳]井上利男 /TUP