TUP BULLETIN

速報724号 リバーベンドの日記 9月6日 我が家を離れて・・・

投稿日 2007年9月7日
机にもカーテン、ベッド、片づけてしまった壁の写真にもさようならを言って・・

4月26日イラクを出ることを決意したと書かれて以後、音信がなかった リバーベンド。もうすでに国を出たのか、それとも何ごとかあったのか、心配していました。4カ月以上たって、届いたブログの発信地は・・・  (この記事はTUPとリバーベンドブログ翻訳チームの連携によるものです)

2007年9月6日 木曜日

我が家を離れて・・・

2カ月前、私たちはスーツケースに荷物を詰めた。私の一つきりの大きなスーツ ケースは6週間近くの間、寝室に置きっぱなしだった。着るものや身の回りのもの をぎっしりと詰め込んだので、スーツケースを閉じるのに、お隣りの6歳の子とE. に手伝ってもらわないといけなかった。

このスーツケースに荷物を詰めるほど難しいことは、これまでほとんどやったこ とがない。まさに「ミッション インポッシブル」。「R君、さて今回の君の任務 だが、30年近くの間に君がため込んだ品々を調べ、必要不可欠なものを決定する ことにある。この任務の困難な点は、選んだ品々を 1メートル×70センチ× 40センチ の空間に収めねばならないところだ。このなかには、もちろん、君が 今後数カ月着用することになる衣服や、写真、日記、ぬいぐるみ、CDなど、私的 な記念品も含まれる」

荷物を詰めては中身を出すのを4回やった。中身を出すたびに、どうしても必要 というわけじゃないものは排除すると自分に誓った。荷物を詰めなおすたびに、前 よりたくさんの「がらくた」を付け加えてしまった。一月半経ったところでE.が たまりかねてやってきて、私がしょっちゅう中身を更新したくならないように、か ばんをしっかり閉めてしまおうと主張した。

ひとり一つずつスーツケースを持っていくというのは、父が決めたことだ。みん なで準備しかけていた種々雑多な思い出の品々の入った箱を父が一瞥し、最終決定 が下された。同型の大きなスーツケース4つを買った。家族のみんなにそれぞれ一 つずつ。洋服ダンスから引っ張り出した5つ目のちょっと小さなスーツケースには、 卒業証明や身分証明書類など、家族全員に必要な書類を入れた。

私たちは待って・・・待って・・・待った。6月中旬から下旬に出発する予定だ った。その頃にはさまざまな試験もすんでいるだろうし、叔母と二人の子どもも一 緒に脱出するつもりだったから、全員にとって一番都合がいい時期だと思ったのだ。 最終的に「出発日」に決めたその日、2キロと離れていないところで爆発があり、 外出禁止令が出た。旅は一週間延期された。次に旅立つ予定の日の前夜、私たちを 国境まで乗せていくGMC[ゼネラルモーターズ社の車]を持っている運転手が旅 を断ってきた。兄弟が撃たれて亡くなったのだ。再び、出発は延期となった。

6月の終わりごろ、荷造りしたスーツケースに座りこんで泣いてしまったような 時もあった。7月初めになると、もう決して出発することはないだろうと確信して いた。私にとって、イラク国境はアラスカの国境と同じくらいはるか遠くにあるん だと思い定めた。飛行機でなく車で脱出すると決めるまでに2カ月以上かかった。 行き先をヨルダンではなくシリアに決めるのにもう1カ月かかった。出発日程を組 みなおすのに、いったいどれだけかかるだろう?

一夜にして事態が変わった。おばが胸躍るニュースを電話で伝えてくれた。おば の近所に住む家族が、息子が脅迫されているので48時間以内にシリアに向けて発 つというのだ。そして、別の車に乗って道をともにする家族を求めているという。 ジャングルのガゼルと同じように、集団で旅をするほうが安全なのだ。それから二 日間、あわただしく動き回った。もしかして先々必要となるかもしれないものが全 部ちゃんとそろって荷物に入っているかチェックした。うちに家族ぐるみで住んで くれることになっている母の遠戚の人に、出発の前夜に来てくれるように打ち合わ せた(他人に取られてしまうので、家を空けたままにして発つわけにはいかない)。

涙でいっぱいのお別れだった。旅に出る朝、おばとおじがさよならを言いにきて くれた。厳粛な朝だった。最後の2日間、私は泣かないようにずっと心の準備をし ていた。私は言い続けた。泣かないわ、だって戻ってくるんだもの。戦争の前にモ スルやバスラに行った時みたいなちょっとした旅なんだから、泣かないわ。無事に 戻ってこれると自分自身に請合ったというのに、出発前の数時間、喉の奥には大き な塊がつかえたままだった。そんなつもりはないのに、目は赤くなり、鼻水が流れ た。私はアレルギーのせいよと自分自身に言った。

出発前夜、私たちは眠らなかった。やっておかないといけないちょっとしたこと があまりにたくさんあるように思えたからだ・・・その上電気がまったくこないと きた。地域の発電機は動かなかったし、「国家の電気」は絶望的な状態だった。眠 るどころじゃなかった。

我が家で過ごした最後の数時間はぼうっと霞んでいる。旅立ちの時がくると、私 は部屋から部屋へと歩いてなにもかもにさよならをした。高校から大学の間ずっと 使っていた机にさよならと言った。カーテンとベッドとソファにさよならと言った。 子どものころ、E.と二人で壊してしまった肘掛け椅子にさよならと言った。食事 の時にみんなが集まり、宿題もやった大テーブルにさよならと言った。かつて壁に かかっていた額入りの写真の幻影たちにさよならと言った。額はもうとっくに壁か らはずされしまわれているからだ。でも、どの写真がどこにかかっていたか、私は 知ってる。いつもみんなが夢中で遊んだくだらないボードゲームにさよならと言っ た。アラブ版のモノポリーで、カードもお金も欠けているけれど、誰もが捨てるに しのびなかったものだ。

いまの私にわかっているように、その時だって、どれもただの物にすぎないって ことはわかっていた。人間のほうがずっと大切。だけど、一軒の家はひとつの歴史 を伝える博物館のようなものだ。カップ一つ、ぬいぐるみ一つを見ても、思い出の 詰まった一章が目の前に開かれる。私は突然、置いていってもいいと思えるものが 自分で思っていたよりずっとわずかしかないことに気づいた。

ついに午前6時がきた。外にGMCが待つなかで、私たちは必要なものをかき集 めた。熱いお茶を詰めた魔法瓶、ビスケット、ジュース、オリーブ(オリーブ?!) その他。オリーブを持って行こうと言ったのは父だ。おばとおじは悲しげに私たち を見守っていた。この表情をこれ以上何と言っていいかわからない。親戚や友人た ちが国を去ろうとしているのを見て、私が目に浮かべたのと同じ表情だった。怒り を帯びた無力感と絶望感。どうしていい人たちが出て行かなくちゃいけないの?

いざ出発という時になって、私は泣いた―泣かないと約束したのに。おばも泣いた・ ・・おじも泣いた。両親は冷静でいようと努めていたが、さよならと言う時の 声が涙で震えていた。いちばん嫌なのは、さよならを告げる時、この人たちと再び 会うことができるだろうかと思うことだ。おじは、私が頭に被ったショールをしっ かりとまきつけて「国境にたどり着くまではずしちゃだめだよ」ときつく忠告して くれた。車が車庫から出る時、おばが後ろから走り寄ってきて、鉢一杯の水を地面 にぶちまけた。これは、古くからのしきたりで、旅人が無事に帰ってこられるよう にと願って行うものだ・・・いつの日か。

旅は長く、単調だった。ただ、覆面をした男たちがやっている検問所が二つあっ た。男たちは身分証明を見せろと言い、パスポートをざっと見て、行き先を尋ねた。 後続の車も同じようにされた。検問所は恐ろしかったけれど、私は視線を合わせな いようにして質問に丁寧に答え、小さな声で祈りを唱えるのが最上の方法だと知っ ていた。母と私は念のため、宝飾品に見えるものを身に着けないよう気をつけてい た。二人とも長いスカートをはき、ヘッドスカーフをかぶっていた。

ヨルダンを除けば、シリアはビザを持たない人々を受け入れている唯一の国だ。 ヨルダン人は避難民に対して酷くあたるようになっている。多くの家族がヨルダン 国境で送り返されたりアンマン空港で拒絶されるのを覚悟の上でヨルダンに向かう。 たいていの家族にとってこれはリスクが高すぎる。

一緒にいた運転手が「コネ」を持っていたのにもかかわらず、何時間も待たされ た。「コネ」というのは、彼が何度もシリアに行ったり来たりしていて、国境を無 事に越えるには誰を買収すべきか、よく知っていたという意味だ。私は不安な思い で国境に留まっていた。バグダードを後にして1時間ほど経ったころから涙は止ま っていた。汚れた街路、廃墟となったビルや家、煙の立ち込める地平線を見るだけ で、より安全なところに行くチャンスがあることがどんなに幸運なことか、はっき りとわかったのだ。

バグダードの外に出た頃には、心はもう出発してしばらくの間のようには痛まな くなっていた。国境ではまわりの車に不安になった。いつ爆発するかわからない多 くの車に囲まれているのが嫌だった。私の内のある部分はまわりの人たちの顔を観 察したいと思った。ほとんどがふつうの家族だった。でも、私の別の部分、やっか いな事にかかわらないようこの4年間訓練された私は、目を上げないでと自分に言 った。もうすぐ終わるのだから、と。

ようやく私たちの番になった。金が手渡されている間、私は車の中で身体をこわ ばらせて待った。パスポートを調べられ、ついにスタンプが押された。私たちは通 過するよう誘導された。運転手は満足気ににっこりし、明るく言った。「楽な旅で したね、アルハムドゥリッラー[神さまのおかげで]」

国境を越えて最後のイラク国旗を見たとき、涙がまた流れてきた。国境を越えて いる間、車の中ではだれもが黙っていて、脱出の物語の数々を語る運転手のおしゃ べりだけが響いていた。隣に座っている母をそっと見ると、やはり涙を流していた。 イラクを離れる際に言葉はひとつも出てこなかった。泣きじゃくりたかったけれど、 赤ん坊のように見えるのは嫌だった。この4年半地獄のようになっていたところか ら抜け出せることを感謝していないと運転手に思われたくなかった。

シリア国境もほとんど同じくらい混雑していたが、ずっとリラックスした雰囲気 だった。人々は車の外に出てストレッチしていた。お互いに気づいて手を振ったり、 悲惨な話や噂話を車の窓越しにやりとりしている人もいた。なにより重要なのは、 私たちはみんな平等だということだった。スンニもシーアも、アラブ人もクルド人も・ ・・シリア国境要員の前では私たちはみな平等だった。

私たちはだれもが難民だった―金持ちも貧乏人も。難民はみな同じように見えた。 どの顔にも独特の表情があった。悲しみの混ざった、不安を帯びた安堵の表情。ど の顔もほとんど同じように見えた。

国境を越えてから数分の間、心は極限に達した。安堵と悲しみがいちどきにどっ と押し寄せて私を圧倒した・・・たった数キロ、たぶん20分くらい離れただけで、 こんなにもはっきりと生と死が分かれるとは。

だれひとり見ることも触れることもできない国境が、車両爆弾や民兵や殺し屋集 団と・・・平和と安全の間に横たわっているなんて。今も信じるのがむずかしい。 ここでこれを書きながら、どうして爆発音が聞こえないのかしらとふと思って しまう。

飛行機が頭上を通過する時に窓がガタガタいわないのが不思議だ。黒装束の武装 集団が今にもドアを破って入ってきて私たちの命を奪うのではという思いからなん とか抜け出そうとしているところだ。道路封鎖や早期警戒機[レーダーを取り付け た軍用機]やムクタダの肖像画などなどがない街路に目を慣らそうとしている。

車でほんのちょっと行った先には 、こういったものすべてがあるというのに。

午前12時6分 リバー

(翻訳:リバーベンドブログ翻訳チーム:いとうみよし)

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