TUP BULLETIN

速報728号 リバーベンドの日記 国境なきブロガー団・・・

投稿日 2007年10月26日
私たちは難民になってしまった、私は突然ただの番号になってしまったのだ。

シリアに逃れたイラクの人々は150万人にのぼると言われている。住み慣れた 故国を離れ、リバーベンド一家も国外での新しい暮らしがはじまったようだ。し かしそれは安定とは程遠く、シリアでの滞在許可を一ヶ月のばせるか、2ヶ月の ばせるか・・・、行く当てのない不安と葛藤の日々を過ごしている。

(この記事はTUPとリバーベンドブログ翻訳チームの連携によるものです)

2007年10月22日 月曜日

国境なきブロガー団・・・

シリアは美しい国だ。少なくとも私はそう思う。「私は思う」と書くのは、この 国を美しいと感じる時、自分は安全や安心や安定を「美」と取り違えているので はないかと思ったりもするからだ。ダマスカスは本当にいろいろな点で戦争前の バグダードに似ている。賑やかな通り、時折起きる交通渋滞、いつも買い物客で 混みあっているように見える市場・・・。でもまた多くの点で違う。建物はより 高く、通りは一般により狭く、そしてカシヨン山が遠くにそびえ立っている。

私は山に心をかき乱される。多くのイラク人、とくにバグダードから来た人たち はそう。北部イラクは山がちだけれど、イラクの他の地域はまっ平らだ。夜にな ると カシヨン山は真っ暗な空に溶け込み、その存在を示すのは、無数にまたた く小さな光だけになる。この山に数々の家やレストランが建っているのだ。写真 を撮るとき、私はいつもカシヨン山を画面に入れようとする。カシヨン山を背景 に人を写そうとする。

ここに来てすぐの数週間はちょっとしたカルチャーショックだった。この3ヶ月 間ずっと、戦争後のイラクで身につけたある種の習慣から抜け出そうとしてき た。通りで人の視線を避けるとか、渋滞に巻き込まれた時は熱心に祈りを唱える とかいうようなしぐさを身につけてしまい、自分が奇妙なことをしていると気づ きもしないのって、おかしなことだ。またきちんと、つまり、顔を上げて、 しょっちゅう後ろを振り返ったりせずに歩けるようになるまでに少なくとも3週 間はかかった。

いま、シリアにはイラク人が150万人以上いると言われている。そのとおりだ ろうと思う。ダマスカスの通りを歩くと、いたるところでイラク訛りが聞こえて くる。 ジャラマーナとかクディシーヤといった地域はイラク難民でいっぱい だ。この二つの地域にはシリア人がほとんどいない。ここでは公立学校さえイラ クの子どもばかりだ。私のいとこは今クディシーヤの学校に通っているが、クラ スにいるのはイラクの子ども26人とシリアの子ども5人。時に信じ難い気がし てくる。ほとんどの家庭は蓄えに頼って暮らしているが、その蓄えは家賃と生活 費ですぐに底をついてしまう。

ここに着いて一月も経たないうちに、他のほとんどの国のようにシリアもイラク 人にビザを求めるようになるという噂が立ちはじめた。どうやら権力を持った我 らのご立派な操り人形たちがシリアとヨルダンの当局と会い、イラクの人々にわ ずか2つだけ残された安全な避難場所、ダマスカスとアンマンを取り上げること に決めたらしい。この噂は8月末に流れ始めたが、つい最近、10月初めまでは 噂にとどまっていた。今ではシリアに入国するイラク人たちは、シリア領事館か、 一時滞在している国の大使館発行のビザを得なくてはならない。まだイラクに留 まっているイラク人の場合は、イラク内務省からの許可も必要だという(まさに その内務省の私兵集団から逃げようとしている人々にとっては大変なことだ)。 今流れている噂は、国境でビザを得るには50ドルかかるらしいというものだ。

ビザが必要になる前にシリアに入国したイラク人たちは、国境で1ヶ月間の訪問 ビザを受け取っている。その月が終わったらすぐにパスポートを持って地域の入 国管理局に行く。運がよければ1〜2ヵ月の追加ビザをもらえた。シリア領事館 発行ビザの噂が始まった頃、初期の国境ビザが延長されなくなった。私たち家族 は素晴らしいことを思いついた。ビザのごたごたが始まる前、そして私たちが更 新しなくてはならなくなる前に国境検問所に行ってイラクに渡り、それからシリ アに戻ってこよう―みんながやってることだ。そうすればいくらか時を稼げる― 少なくとも2ヶ月は。

9月始めの暑い日を選び、6時間かけて北部シリアの国境の町、カミシュリまで 車で行った。おばとその息子も一緒だった―彼らもビザを延長する必要があった のだ。カミシュリにはヤーアルビーヤという国境検問所がある。ここはもっとも 楽な検問所のひとつ。イラクとシリアの国境がたった数メートルしか離れてない からだ。シリア領土から歩いて出て、イラク領土に歩いて入る―簡単で安全だ。

ヤーアルビーヤの国境警備局に着いた時、私たちの素晴らしいアイディアを何千 人ものイラク人が同時に思いついたことがわかった―国境警備局へと続く列は果 てしなく長かった。何百人ものイラク人が長い列に並び、パスポートにスタンプ を押してもらい、出国ビザをもらうのを待っていた。私たちも列に加わり、待っ て、待って、待って・・・

4時間かかってシリア国境を出ると、こんどはイラク国境への列だった。この列 はもっと長かった。 疲れきり、イライラしたイラク人たちの列の一つに私たちも加わった。「ガソリ ンを買うための列みたいだね・・・」いとこが冗談を言った。このあとさらに4 時間、太陽の照りつける中を待ち、よちよちとわずかずつ前に動き続けた。列の 先ではイラクに入国するためにパスポートにスタンプが押されるのだが、ある地 点までくると、列の先頭も最後尾も見えなくなった。少年たちが列の脇を行った り来たりして、水やチューインガムやタバコを売っていた。おばは、私たちの横 を駆け抜けていこうとする少年の腕を捉え、「私たちの前にいったい何人くらい いるのかしら」と尋ねた。少年は口笛を吹き、数歩下がって様子を見て言った。 「100人!1000人!」商売をしようと駆けていく少年は、ほとんどはしゃ いでいるかのようだった。

私はひどく複雑な思いを持ちつつ列に並んでいた。故国を切望する思い、時たま 妙な瞬間に襲ってくる一種のホームシックと、重苦しい不安との両方に捉えられ ていたのだ。もし再出国することを認めてもらえなかったら?そんなことは実際 あり得ないことだけれど、でも、もし、そういうことが起きたら?もしこれがイ ラク国境の見納めだとしたら?なんらかの理由でイラクに入ることを許されない としたら?イラクからの出国を決して許されないとしたら?

4時間の間、列に並んで、立ったり、かがんだり、座ったり、もたれかかったり した。太陽はどの人にも等しく照りつけた―スンニ、シーア、クルドのだれにも 同じように。E.は、自分たち家族の順番を早くしてもらえるように、気を失っ てみないかとおばを説得したが、おばは厳しい目で私たちをにらみ、かえって身 体をしゃんと真っ直ぐにした。人々はただその場に立っておしゃべりをし、文句 を言い、あるいは黙っていた。これもまた一種のイラク人の会合となった。悲し い物語を伝えあい、遠い親戚や知り合いについて尋ねあう絶好の機会だった。

順番を待っている間に、知り合いの2家族に会った。私たちは、ずっと音信不通 だった友人のように挨拶をかわし、電話番号とダマスカスでの住所を教えあい、 訪問する約束をした。一方の家族に23歳の息子のK.が欠けていることに気づ いた。好奇心を抑えこみ、彼がどこにいるか聞くのをやめた。母親は私の記憶に あるよりも老けていたし、父親はずっともの思いに沈んでいるようだった。悲し みに沈んでいたのかもしれない。K.の生死を知りたくなかった。彼は生きてい て、どこかでうまくやっていて、国境だのビザだののことなんか気にかけていな いと信じるしかなかった。時には、知らないほうが幸せということが本当にあ る・・・

シリアの国境に戻ると、疲れ切り、お腹をすかせた大集団とともにパスポートを 渡し、スタンプを押してもらうのを待った。シリア入管の職員は数十冊のパス ポートを次々に持ち換え、名前を呼び、パスポートを手渡す際に辛抱強く顔を確 かめた。「後に下がってください―下がって」。私たちのいた混雑するホールに 声が響いた。誰かが倒れたのだ。倒れた人が引き起こされてみると、息子に付き 添われ、杖をついて家族と一緒にいた老人だとわかった。

シリア国境から再入国し、カミシュリへ行くタクシーに戻る頃には、自分たちは 難民であるという事実を受け入れざるを得なくなっていた。私はインターネット や新聞やテレビで毎日難民について読んだり聞いたりする。推計で150万人以 上のイラク難民がシリアにいると聞いて頭を振ったりする。私自身や自分の家族 がそのうちの一人だなんてまったく思いもせずに。だって、難民ってのは、テン トで寝起きして、飲料水ポンプも給水設備もない人たちじゃないの?難民は、持 ち物をスーツケースじゃなくて袋で運ぶんでしょ?携帯もインターネットのアク セスもない人たちでしょ?生命がかかっているかのように、あと2ヶ月シリアに 滞在できるスタンプが押されたパスポートを手に握り締め、自分の思い違いに気 づいた。私たちはみんな難民だ。私は突然ただの番号になってしまった。どんな にお金持ちでも、教育があっても、快適に暮らしていても、難民は難民だ。難民 というのは、いかなる国でも本当には歓迎されない人のことをいうのだ。自分自 身の国を含めて・・・いや、特に自分自身の国で。

私たちが住んでいるアパートには他に二組、イラク人家族が住んでいる。上の階 にいるのは北部イラクからきたクリスチャンの家族で、ペシュメルガ[クルド人 の私兵組織]に村を追われたという。同じ階にはバグダードの家を私兵に取られ てしまったクルド人の家族がいて、スウェーデンかスイスか、そういったヨーロ ッパの難民避難所に移住できるのを待っている。

私たちがスーツケースを引きずり、消耗しきって、気力を少々くじかれ、ここに たどり着いた初めての夜、クルド人の家族が代表を送ってきた―前歯が2本欠け た9歳の男の子が、ちょっと傾いだケーキを手にして言った。「ぼくたちはアブ ー・ムハンマド家です。みなさんのお向かいです。ママが、もしなにか要ること があったら、なんでも尋ねてくださいって。これがうちの電話番号です。アブー ・ダーリアさんちは上の階に住んでます。これが電話番号です。ぼくたちはみん なイラク人です・・・この建物にようこそ」

その夜私は泣いた。長い間で初めて、こんなに遠く家から離れたところで、20 03年以来私たちが奪われていた一体感を感じたからだ。

午前1時42分 リバー

(翻訳:いとうみよし)

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