TUP BULLETIN

速報747号 ジェン・マーロー「包囲攻撃下、ガザ住民の日常」

投稿日 2008年3月12日

FROM: tup_bulletin
DATE: 2008年3月12日(水) 午後7時13分

☆イスラエルによる包囲攻撃と内部暴力に翻弄されるガザ住民★
シナイ半島北東部、東地中海に面した約360平方キロメートルのガザ地区
は、イスラエルがパレスチナ人約150万を押しこめる収容所であるといわ
れてきましたが、昨年6月のイスラム原理主義派ハマスによるガザの実権掌
握以来、イスラエル軍は封鎖を強化して、人の出入りだけでなく、物流を厳
しく制限し、中世戦国時代の城攻めを思わせる、さながら現代の兵糧攻めの
観を呈しています。おまけに、地区内からのロケット攻撃への報復を名目
に、イスラエルは連日のように空爆を繰り返し、最近では地上軍による侵攻
がこれに加わり、女性や子どもら、民間人多数を殺戮しています。本稿は、
国際社会から孤立し、内部も分断したガザ地区における“日常”生活の一端
を女性のこまやかな感覚で伝える貴重なルポですが、筆者も言うように、小
さな希望は、苦境にあるガザ住民に寄せる心ある人びとの連帯によってのみ
培われるのでしょう。井上

凡例:(原注)[訳注]《リンク》

トムグラム:
ジェン・マーロー、包囲攻撃下、苦闘するガザを語る

[トム・エンゲルハートによるまえがき]

近ごろのトムディスパッチは、メキシコのチアパス州《1》、ヴェトナムの
メコン・デルタ《2》から西アフリカ(目下、女性たちに対する戦争《3》
が進行している土地)へと、地球上の傷の深い土地をいくつか渡り歩いてき
た。今回は、ドキュメンタリー映画作家にして人権活動家(そして“Darfur
Diaries: Stories of Survival”《4》[仮題『ダルフール日記――生き残
りの物語』]の著者)ジェン・ マーローが、包囲攻撃下にあるガザ地区の
すさまじい人間悲劇に分け入る旅を報告してくれる。
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/764 《1》
http://www.tomdispatch.com/post/174885 《2》
http://www.tomdispatch.com/post/174895 《3》
http://www.amazon.co.jp/dp/1560259280 《4》

マーローは、イスラエル・パレスチナ両国民平和構築プログラムのために動
いていた時期、エルサレムで暮らしていた2002年から、定期的にガザ地
区を訪問してきた。彼女は、パレスチナ人の土地を貫き、一部はいまも建造
が進むイスラエルの分離壁《*》とヨルダン川西岸地区に構築が進むイスラ
エル人専用道路網とに反対するために、パレスチナ人、イスラエル人、ほか
の国ぐにからの活動家たちの非暴力デモに参加した。目に見える、この世の
地獄、無慈悲な包囲攻撃のもとで生きるガザ住民の深まる荒廃――それが、
彼女が私的なレベルで鮮やかにとらえる現実である。トム
http://www.tomdispatch.com/post/1285

締めつける絞首のロープ
ハマス支配下のガザ、包囲攻撃下のガザ
――ジェン・マーロー

私のコンピュータ画面にラファフ発の映像がちらついている。ガザ住民らが
自分たちとエジプトの間に立ちはだかっていた壁のかけらを吹き飛ばし、世
界最大の青空監獄の壁に穴を開け、途切れなく国境を越えている。信じがた
いような屈服拒否。

私の友人カレド・ナスララーがエジプトからガザ地区へ食料や医薬品を運び
こむためにトラックをレンタルしたことを私はEメールで知った。彼は、べ
つに人道主義団体の活動をしているわけではなかった。エジプト国境、パレ
スチナの町ラファフの一住民にすぎず、人の助けにならなければという切な
る思いがあり、せっかくの機会を見逃すわけにはいかなったのだ。

私たちのメディアが、ガザ地区の日常になってしまった鳥肌立つような絶望
がこれほどあふれる映像を流すのは実に稀なことである。2000年10月
の第二次インティファーダ勃発から状況は絶望へと近づいて、ガザ住民はも
はやイスラエルで就労できず、イスラエル国防軍(IDF)による攻撃と侵
攻とが常時のできごととなった。地区封鎖が刻一刻と強化されていった。

2006年1月25日におこなわれたパレスチナ自治政府の議会選挙で、ハ
マス(“Hamas”は「イスラム抵抗運動」の頭文字)が勝利し、支配権を
握っていた世俗民族主義のファタハは一敗地にまみれた。イスラエル、米
国、ヨーロッパ連合はこぞってハマス新政府の承認を拒否し、ファタハ諸派
の多くも、あらゆる手を使って、その不適格性を言いたてた。

パレスチナの党派間に緊張と武力衝突が拡大し、2007年6月にそれが極
まって、ハマスがガザ地区を掌握するにいたった。イスラエルの町スデロッ
トを標的に、ガザ北部、ベイト・ハヌン近郊から粗雑なカサム型ロケットが
繰り返し発射されたのを受けて、9月19日、イスラエル政府はガザ全土を
「敵対地域」に指定することに衆議一決した。それ以来、IDFによる人や
物のガザ入域規制はいっそう厳しくなった。いまのご時勢、ガザ住民の窮状
を証言する目撃者はそう多くない。私は運がよかった。1月初め、私は、か
つて関わっていた平和構築プログラムの参加者たちを訪れるためにガザに
入った。

短期の訪問だったので、私は、あらかた空っぽになったスーパーマーケット
の棚を見てまわったり、入手不能な必需品の検分をするために病院を訪問し
たりはしなかった。その代わり、国際包囲網やそれを招いたガザの内部危機
への対応に関わるガザ住民らと対話することに時間をかけた。

ラファフで、カレド・ナスララー、その兄ドクター・サミル・ナスララー、
彼らの妻子たちと一緒にコーヒーを飲んだときなど、二重の危機が遠い世界
のできごとのように思える瞬間すらあった。2003年3月16日のこと、
彼らの家の前で、米国ワシントン州オリンピア出身の平和・公正運動活動
家、23歳のレイチェル・コリーが、イスラエル軍ブルドーザーによる家屋
取り壊しを阻止しようと立ちはだかり、殺されていたのだ。2000年10
月から04年10月までに、IDFはガザ地区で2500棟の住宅を破壊し
た。ナスララー家のもそうだが、その3分の2近くがラファフの避難民住宅
だった。

とても多くのラファフ住民と同じく、いまや二度も重ねて避難民になった彼
らは、2004年の自宅破壊時から借りているアパートの居間に私を招きい
れた。家具類は乏しかったが、家族の心意気はそれを補ってあまりあった。
例えば、痩身で物静かなドクター・サミルが機会をとらえては、幼い娘らや
姪らをにっこり笑わせると、ご当人の顔もパッと輝いた。写真撮影のときな
ど、彼はおどけてまわり、女の子たちをあおって、もっと無邪気なポーズを
誘いだそうとした。

私が辞去するときになって、はじめて包囲攻撃の現実を思い知らされた。私
は、「このごろ、こういうのを見つけるのは難しいわね」と言いながら、何
本かのチョコレート・バーと1カートンのラッキー・ストライクをバック
パックから取りだした。

ドクター・サミルは場違いに厳粛な態度で土産の品を受けとった。次いで、
1本のチョコレート・バーの包みを開き、それを小さなかけらに注意深く割
り、幼い女の子たちひとりひとりに一かけずつ配った。女の子たちは、同じ
厳粛さの感覚を漂わせて、部屋に並べられた薄手の発泡マットレスに座り、
小さなかけらをゆっくり噛みくだき、チョコレートが口のなかで溶けるにま
かせた。私がグッバイを言ったときも、女の子たちはまだ最後のかけらを
しゃぶっていた。

ガザ入域

ガザ入域許可を得たとはじめてわかったとき、なにを持っていくべきか、あ
れこれ迷った。どれぐらい持っていけるだろう? 包囲攻撃されている人た
ち、なにがいちばん要るだろう? 私は、バックパックに米、コーヒー、砂
糖、豆の袋をいっぱい詰めこもうかと思っていた――それも、ベイト・ハヌ
ンにいる友人ラエドに電話するまでのことだった。

「ねえ、ラエド。私、水曜日にガザへ行くのよ。あなたになにを持っていっ
たらいい?」

一瞬の沈黙があった。「タバコを持ってきてくれるかい? ラッキー・スト
ライクはどうだ?」

ほかの友人たちからもリクエストが届きはじめた。マールボーロを1カート
ン持ってきてくれるかい? ヴァイスロイ・ライトはどうだ? ラニアは
チョコレートをリクエストした。アフマドはシャンプーを頼んだ。

これらのリクエストには、悲劇ではあっても、どこか喜劇じみた感じがあっ
た。これは、状況が心配したほどではない印だろうか? あるいはおそら
く、ガザ住民が耐えていた絶え間ないストレスのもと、心の慰めを得るため
に必要な品が、生存必需品さえにも優先されたのだろうか?

ラエドが電話をかけなおしてきて、リクエストを追加した。「例の充電式の
蛍光灯をひとつ持ってきてくれるかい? いま連続8時間の停電で、ぼくの
子どもたちは試験なんだ。明かりなしに、勉強できない」

エレズ境界は、外国人がガザ地区に入域するために残された唯一の越境地点
である。ハマスによる実権掌握以来、ラファフとエジプトの境界は封鎖され
ている。私は、ふくれあがったバッグ3つと充電式照明器具2つを相手に四
苦八苦しながら、エレズに到着した。前回、1年前に私が訪れてから、ター
ミナルはすっかり建てなおされていた。兵士数名とコンピュータを収容して
いた質素な建物はなくなって、その跡に、おしゃれで染みひとつなく清潔な
総ガラス張りの複合ビルが建っていた。まるで数百万ドル企業の本社アトリ
ウム[吹き抜けホール]に入っていくかのような感じだった。

パスポートにスタンプが押され、私は一方通行の回転ゲートが続く迷路を進
んでいった。最終ゲートを抜けると、私はガザにいた。おしゃれなガラスの
ビルと、そのイスラエル占領の毒消し版とは、突如としてシュールリアルな
記憶でしかなくなった。私は亀裂の走ったセメントの通路にいた。石や瓦礫
以外なにもない打ち捨てられた広場のただなか、屋根はボロボロのプラス
チックである。たとえ小さなことでも、現実は、ここでは、かくも急激に、
かくも容赦なく変わってしまう。

包囲攻撃

ほどなく私は、ガザ包囲攻撃の終結をめざすパレスチナ国際キャンペーンの
世話人、ラニア・カルマと一緒に、ラファフへ南下するラエドの車に乗って
いた。私は、頼まれていたチョコレート・バーを彼女に手渡した。「ありが
とう、ハビビティ(親愛なあなた)。女にとって、チョコレートがどんなに
重要でありうるか、ご存知ですわね」と彼女は言った。もともと並外れて情
熱的なラニアだが、いまは湿気た毛布にくるまったような物言いと素振りを
している。

私たちはバナナやオレンジが満載の荷車を追い越した。「あら、ここに果物
だわ。どんなものがじっさいに入ってくるの?」と私はたずねた。

包囲攻撃以前には、9000品目がガザ持ち込みを許されていたと彼女は説
明した。いま、イスラエル側は、ガザに搬入できる品目数、ある場合には物
品類別数を20に減らしている。150万近くの人たちの必需品として、2
0品目。まるで現実離れしたテレビのサバイバル番組。絶海の孤島に行くの
だが、持ち込めるのは20品目だけ。さて、あなたなら、なにを持っていく

医薬品は許可リストに入っているが、イスラエル厚生省に登録された事前承
認済みの薬品のみである。冷凍食肉は許可されるが、生鮮食肉はだめ(おま
けに、ガザでは家畜が不足)。果物や野菜は許されるが――ここでラエドが
急いで口をはさむには――住民の必要量に足りず、品質も粗悪だ。イスラエ
ルは自国消費や対外輸出には不適格な製品をガザに捨てているみたいだと彼
は思っていた。

「先週、アボカドを割ってみると、なかは完全に腐っていた」と彼は言いそ
えた。

オムツとトイレットペーパーは搬入を許され、砂糖、塩、小麦粉、牛乳、卵
もそうだった。石けんはオーケーだが、洗濯用洗剤、シャンプー、そのほか
の洗浄用製品は不許可。

「粉ミルクのことはよくわからない。見つかることもあるし、見つからない
こともあるわ」とラニアは言った。

エジプトとの国境の下のトンネルは、かつて主に武器のガザ向け密輸に使わ
れていたが、いまは繁盛する闇市場取引に活用されている。ハマスはトンネ
ルを支配していて、ガザ住民がタバコ1パックに支払う10ドルから大した
儲けをせしめているといわれている。チョコレートは、闇市場でも見つから
ない。セメントは、かつて1袋10ドルだったのが、75ドルまで値上がり
し、私の滞在時には、まったく手に入らなくなっていた。あらゆる建設、ほ
とんどの補修作業はたちまち中断してしまった。

ラマダンの断食は、昔から乾燥デーツを食して終わる。デーツ搬入許可の特
別要請がイスラエルになされ、認可された。ただし、「塩の代替品として」
という条件付き。ガザ住民は、ラマダンのデーツを手に入れるために、ほか
のものを犠牲にしなければならなかった。

車がラファフに近づいたとき、ラニアは「イスラエルは私たちを飢えさせる
つもりはないと言うわ」と注釈した。「彼らは、私たちに実にきついダイ
エットをさせているのね」

私がラファフに赴いたのは、女たちの公正取引集団、女性ユニオン協会から
手作り刺繍製品を仕入れるためだった。私は、オリンピア・ラファフ間姉妹
都市提携プロジェクトのために刺繍製品をアメリカに持ち帰る計画を立てて
いた。このプロジェクトは、レイチェル・コリーの死後に創始され、双方の
地域社会の相互理解を促したいという彼女の遺志を実現するために活動して
いた。

エネルギッシュな協会の企画担当サミラによれば、かつてラファフの経済は
農業とエジプトからの商品の再販売にもとづいていた。しかし、これまでの
7年間に、町にあった果樹園と温室のほとんどはイスラエル軍のブルドー
ザーに根こそぎにされた。次いで、包囲攻撃が現実に開始されたとたん、ラ
ファフの商人たちはエジプトからの商品仕入れができなくなった。私が到着
したときには、人口の15パーセントだけが就労し、そのほとんどは政府省
庁に雇用されていた。

サミラは、刺繍作品で膨れあがった大きなビニール袋を運びだした。私は美
しいショールや壁掛けを手に取った。その間にも、彼女は、昨年5月、カイ
ロで開催された女性の手作り刺繍製品展示会について熱心に説明していた。
展示品は最後の一品まで売り切れた。そこで女性たちは、2007年9月に
ウィーンで予定されていた展示会に向けて、新しい枕カバー、バッグ、ベス
トを熱狂的な勢いで縫った。だが、ガザ地区は6月に封鎖された。女性たち
も刺繍製品も出られなくなった。そのビニール袋は、ウィーンに行くはず
だったものを容れていたのだ。必要な原材料、主として着色した糸がもはや
入手できなくなったので、プロジェクトはすでに中断に追いこまれていた。
これらの品物を売ってしまえば、なにも残らない。

サミラは、目を見張るような優美さで縫い合わされたジャケットを試着して
みてはいかがとラニアに勧めた。その楽しげな色の輝きは、あの家具のない
事務所のなかで奇妙にも場違いな感じだった。これは完成するのに1年か
かったのよ、と彼女は誇らしげに言った。私は、それを買うのをためらっ
た。あの色のきらめきを破壊されたラファフから持ち出すのは、なぜか間
違っていると感じられた。だが、公正取引集団で仕入れるために、近い将来
にラファフに来る人はほかにいるだろうか? 私に買ってほしい品物の優先
順位をつけてもらえないか、と私はサミラに頼んだ。彼女は例のジャケット
を包み、私に買えるだけの品物をタップリ、あの同じビニール袋に詰めこ
み、それを私に手渡した。

ガザ市への帰り道、ラエドとラニアがアラビア語で精力的に議論しているあ
いだ、私は、緑色のハマスの旗や横断幕がすべての街角や交差点に飾ってあ
るのに気づいて、窓の外を見つめていた。目的地に近づいたとき、今夜、私
と一緒に過ごさない、とラニアを誘った。

「そうしたいのはやまやまだわ、ハビブティ。でも、6時半前にはアパート
に戻らなければ。それをすぎると、停電になってしまうの。エレベータが使
えなくなるわ。私は9階に住んでいるし、何年か前に傷ついた膝のせいで、
あの階段を上りきるのは、ほんとうに苦痛なのよ」

暗闇のなかのガザ

緑色の鋭い眼の青年、マフムード・アボ・ラフマは、アル・メザン人権セン
ターの彼のオフィスで、長い時間を割いて、ガザの深刻な電力危機について
私と議論してくれた。イスラエルによる燃料搬入制限が彼の最大の関心事
だった。燃料が制裁品目になって困るのは、運輸だけではないと彼は説明し
た。ガザにただひとつある発電所で燃料がなければ、電力不足になって、医
療や教育といった公共サービスを圧迫し、深刻な人道危機を招く。

マフムードは、小さな粘着メモ用紙に数字や矢印を書きこみ、状況を分析し
た。ガザは日量237万メガワットの電力を必要とし、そのうち120メガ
ワットはイスラエルから直接送電される。ガザ発電所はかつて90メガワッ
トを供給していたので、「よき時代」とみなされた時期でさえ、日量27メ
ガワットの電力不足ということになる。さらに2006年6月、イスラエル
兵ギラド・シャリト誘拐後、イスラエルは発電所を爆撃し、その発電能力を
低下させた。包囲攻撃と深刻な燃料不足のせいで、発電実績はさらに低下し
た。マフムードは、発電所が全面停止する事態を恐れていた。おまけに、イ
スラエルは電力供給を削減すると脅している、と彼は付け加えた。

制裁の結果、すでに68人が死亡したと彼は言った。たしかにほかの人たち
も包囲攻撃関連の原因で死んだが、こちらはさまざまな要因が絡まってい
る。だが、この68人の死と、包囲攻撃――生死にかかわる公共サービスの
混乱、あるいはガザで治療不可能な患者らがイスラエルやエジプトに辿り着
けないという単純な事実――との間は、明瞭な赤線でじかに結ぶことができ
る。

マフムードが数字を走り書きし、矢印を引いていたとき、私の心は、68件
の極端な事例からそれて、ガザ住民にとって生活様式の一部になってしまっ
た何千もの日々の小さな苦しみへとさまよった。電気ヒーターが使えず、毛
布のなかに身を寄せ合って暖を取ろうとするナスララー家の人たち、あるい
はロウソクや懐中電灯のあかりで試験勉強するラエドの子どもたち、あるい
は痛む膝を使って、9階分の階段を上るラニアを思い描いたのだ。

ハマスによる実権掌握

スハイルは、ラファフのレイチェル・コリー青少年文化センターおよびジャ
バルヤ難民キャンプにあるその姉妹センターの所長である。両センターと
も、医療保健労働組合の傘下にある。「時おり、なぜ子どもたちのセンター
が医療保健団体の傘下にふさわしいのかという質問を受けます」とスハイル
は私に語った。「だが、関連は非常に明白です。世界保健機構によれば、健
康は病気の不在だけで評価されるものではありません。健康な子どもは、社
会的、情緒的、精神的にも健全であること――これが私たちの担う役割なの
です」

自分たちの仕事に対する障害は大きいと彼は言い切った。「私たちの活動
は、子どもたちを精神的・情緒的に支える手助けをすることを意図していま
すが、子どもたちは家から出たがりません。子どもたちは落ちこんでいま
す。だれもが意気消沈しているのです」

ダブケというパレスチナのフォーク・ダンスがあるが、10代の若者たちが
センターのダブケ巡業団を結成して、2005年、英国の15都市で巡回公
演をした。いま、巡業団はガザ地区から出ることができない。「彼らが地域
の祝典行事で公演するのを、アル・ジャジーラが放送してくれればいいので
すが」とスハイルは言った。「若者たちは自分たちの映画も制作し、彼らの
日常の現実を見せています。包囲を破るのに、いろいろな方法があります」

彼らの問題は全面的に国際的な孤立に由来するのではないとスハイルは明言
した。「そうです。包囲攻撃はなにもかもずっとずっと困難にしています
が、内部の危機がさらにもっと問題をこじらせているのです。宗教保守主義
が支配力を強めています」

そばかすのある若い女子学生ボランティア、ヌジュドが、一例として「かつ
て私たちは男女混合の共同体をもっていました。参加する女子のほうが男子
よりもむしろ多かったのです。現在、逆になりました。男子らや女子らはハ
マスによる攻撃を恐れて、同室することさえためらっています」と話した。
彼女は男子ボランティアを指差した。「私たちはおたがいの付き合い方にと
ても気を遣わなければなりません」

私たちの会見の終わりに、スハイルは次のような所感を述べた。「文化の変
革を成しとげるには、ずいぶん時間がかかります。しかも、大勢の敵がいま
す」

サミラもまた、ハマスによるガザ掌握の影響を間接的に話題にしていた。
「今日、あなたがお帰りになったあと、きっとだれか来て、あなたのことを
聞きだそうとするでしょう。あれはどういう女だったのか? ここでなにを
していたのだ?」

プラスチックのコップの甘いお茶をすすりながら座っていた私は、一瞬、彼
女の言葉を反芻した。「今日の私たちの訪問が、あなたを危険な目にあわせ
たのでしょうか?」

「私たちにはなにも起こりませんよ」と彼女は答えた。「あの人たちは聞く
だけです」

サミラは何気ない口ぶりだった。私はそれほど平気ではなかった。目に見え
ないにしても、人の出入りは注意深く監視されているようだった。

暴力の新しい水準

ガザ地域社会精神衛生プログラム(GCMHP)の質素なオフィスで、フサ
ム・アル=ヌーヌーとドクター・アフマド・アブ・タワヒナは、ハマスによ
る実権掌握がガザの暮らしにもたらした影響について明確に語った。プログ
ラムの広報担当フサムはソフトな口調で話し、事務局長ドクター・アブ・タ
ワヒナは活気に満ちていた。両氏とも、自信と尊厳の気配をかもしだしてい
た。

そのころには、ハマスとファタハの民兵同士による血なまぐさく大規模な政
治的武力抗争は終息していた。街角の銃撃戦はもうなかった。だが、ファタ
ハに関わりをもつ個人に対する武力行使はつづいていた。ドクター・アブ・
タワヒナは、人びとが家から出てみると、身内の遺体が路上に打ち捨てられ
ていたり、家族が“失踪”したので、半狂乱になったガザ住民が警察署に問
いあわせると、「通報がない」と言われたりした事例を説明した。

言論の自由の余地は、もとよりガザで大きくなかったが、ずいぶん狭まった
とフサムが私に語った。脅迫や強要を含む伝言が、いまでは常時、直接また
は人を介してジャーナリストや人権活動家に届く。ファタハ構成員らは、殴
打されたり、拘束されたり、車に放火されたりした。ファタハ関連団体は壊
滅させられた。ガザ住民に対する人権侵害を暴くというアル・メザン人権セ
ンターの職務遂行力は、ハマスが実権を掌握してから影響を受けたかとマフ
ムード[前出、センター職員]に質問したときの返答を私は思い出す。

彼は、時間をかけて言葉を選びながら、「私たちは務めをまったく変えてい
ません。私たちは威嚇に屈しているわけにはいきません」と言った。

ドクター・アブ・タワヒナは慎重な態度でこう説明した――地域的な要因も
さることながら、運動間のイデオロギー的・政治的相違が内部抗争の主因に
なっている。アメリカ政府はファタハを支持し、ハマスはシリアとイランに
支援されている。だが、フサムが指摘するとおり、ほかの要因も無視すべき
でない。「パレスチナ社会には、民主主義や権力移譲の伝統がありません」
と彼は言った。「ファタハには、2006年1月の選挙で敗退したり、権力
をハマスに引き渡したりする用意がなかったのです」

この混乱状況をさらに助長したのが、ブッシュ政権とイスラエルのエフード
・オルメルト政府とによる、民主的に選出されたハマス政府を対する断固た
る承認拒否であり、ハマス政権樹立を妨害しようとしたファタハの企てに対
する支持だった。

「最初の段階で、じっさいに統治する機会がハマスに与えられていたら、ど
うなっていたのでしょう?」と私は質問した。

フサムは、長い時間を置いてから、「確かなことを知る術がありません。だ
が、ハマスが変わる見込みはじゅうぶんあったと私は思います。当初、ハマ
スが変わろうとしていたことを示す兆候はたくさんあります」と答えた。

次いで、ドクター・アブ・タワヒナが議論の幅を広げた。ファタハ当局者ら
の多くは何年もイスラエルの監獄で過ごし、イスラエルの尋問官らや兵士た
ちの手のうちで拷問に耐えてきたと彼は解説した。1993年のオスロ平和
合意に署名したあと、(ファタハが最強の構成勢力である)パレスチナ解放
機構のメンバーらは、パレスチナ自治政府(PA)と称する自治組織の樹立
を認められた。イスラエルは、PAに対し、特に敵対勢力がイスラエル国内
で攻撃を仕掛けたとき、オスロ合意の実施に反対する分子を逮捕すべきだと
圧力をかけた。

その結果、何千ものハマス構成員らが、その大半は暴力に関与したこともな
いのに、PA監獄で拘置されることになった。すると、ファタハの尋問官ら
は、かつてイスラエル官憲らが彼らに用いたのと同じ手法を、囚人らに対し
て採用した。しかも、その手腕を一段と向上させたのだ。

「心理学で、それを『加虐者との同化』と申します」とドクター・アブ・タ
ワヒナは私に言った。

いま、ファタハが監獄で虐待していた当の人間たちがガザ地区で実権を握
り、ファタハのもとでひどい目にあった10年の復讐を求めている。こうし
た現象は、ガザの市民社会にも同じように見受けられる。かつて10万のパ
レスチナ人労働者らがイスラエル国内で就労し、エレズ検問所のイスラエル
兵らの手のもとで日常的に屈辱の憂きめにあっていた。加虐者たちに怒りや
欲求不満をぶつけようものなら、イスラエル国内で職を得る許可を失うこと
になった。その代償に、多くのものたちは、自宅で妻子に対して怒りを爆発
させ、新たな犠牲者を生みだした。

しかし、ガザにおける現在の内部暴力の水準には、前例がない。ハマスは、
かつてイスラエルのもとで、後にはPAのもとで、パレスチナ人の暮らしの
本質的な一部になっていた拘留と拷問とを採用し、さらに以前には想像を絶
していたもの――アルジェリア風の処刑と失踪――を加えた。これらは、パ
レスチナ人のあいだの行為として、なにか新しいものだった。

これまでの数か月のうちに何人が失踪したのか、また、彼らの拷問の詳細は
どんなものか、だれにもわからない。かつてガザ地域社会精神衛生プログラ
ムの職員らは定期的に監獄を訪問していたが、ハマスはそれを許可しようと
しない。人権にかかわる諸団体が失踪者の名簿を作成しようとしているが、
包括的な統計はない。

その間にも、圧力鍋そのものであるガザ内部の欲求不満と怒りは嵩じる一方
である。家庭内暴力を含み、社会全体の暴力は増加傾向にある。新たな犠牲
者が生みだされつづける。

「私たちは、実権をもっていたころのファタハ政府に対して働きかけを試み
ていました」とフサムは言った。「彼らの拷問がもたらしかねない長期的影
響について警告しようとしました。彼らは聴く耳をもちませんでした」

ドクター・アブ・タワヒナは、いつの日か、だれが権力者であっても、真正
な民主主義と法の支配とを享受する社会を築くという、彼の熱い希望を説明
しようと試みた。だが、あのオフィスのなかで、彼の夢は、せいぜい言っ
て、実現まで道遠いように思えた。

「なんとかイスラエルと米国がハマスを打倒し、ファタハを復権させるとし
ます」と彼は付け加えた。「そうなると、ファタハは和解政策を実施する、
とあなたはお考えですか?」

ドクター・アブ・タワヒナは、その質問を部屋中に発したが、答えはなかっ
た。だが、ほとんど感知できないほどの彼の頭の震えから、彼の意見がどん
なものか、私は察知した。

分解する社会

心に未曾有の傷を負う住民のために、精神衛生プログラムのサービス事業は
切実に求められている。職員らは、ガザそのものである惨事に対応しうる新
しい手法の開発を試みて、必死に働いている。だが、電話相談も、ほかのN
GOを引き入れることも、より多くの人たちに対処法を伝授するための地域
集会を開くことも、一切合財が社会に拡大する必要性に見合うことができな
い。

「平和が、精神衛生サービス事業のために不可欠です」とドクター・アブ・
タワヒナは断言した。「私どもの職員らは、患者を助けるにしても無力を感
じています。人の心的症候の根本原因が満たされない身体的欲求にあると
き、心理療法にできることはほとんどありません」

現時点で、最も決定的な社会資源――そのもの――が消耗している。パレス
チナ人の社会では、拡大家族が、常に支援・保護ネットワークの中心として
機能してきた。以前には、精神衛生プロジェクトは家族がたがいに癒しあう
方法の教育に格別な努力をつくして、この信じがたいほどに強力な社会ネッ
トワークを外部資源の一端として活用していた。

ファタハとハマスの対立がかつてなく深まるにつれて、政治党派への忠節が
家族への忠節よりも強くなっているのかもしれないとドクター・アブ・タワ
ヒナは示唆した。多くの家族で、亀裂があらわになっている。兄弟のひとり
が忠実なハマス派であり、活動的なファタハ派であるもうひとりの兄弟に関
する情報をハマス指導部に渡して、その拘束にいたったといった家族の例を
フサムは私に話した。私は兄弟殺しの流言さえも聞いた。これが意味するも
のごとは、一精神衛生機関の働きをはるかに超えている。民族としての強
み、社会的絆が解体しはじめるにつれ、いまやパレスチナ人の持久力と生存
の基盤そのものが脅かされている。

私たちの対話が終わりに近づいたころ、フサムが唐突に新しい話題を持ちだ
した。「包囲線の背後にいるものたち――イスラエル人とアメリカ人――に
対する憎悪のレベルが高まっています。私たちには、米国から来る人たちの
人間的な顔を見せる必要があります」

私は、彼の所感を聞いて思い起こした。サミラとスハイルも、ラファフの青
少年と、レイチェル・コリー出身の町、ワシントン州オリンピアの10代の
若者たちとを結ぶインターネット・プログラムを立ち上げたいという願いに
ついて話していたのだ。アメリカの政府は包囲攻撃を強力に支持し、加えて
ガザの骨肉相食む紛争のさなかでファタハの後ろ盾になっているので、アメ
リカ人に向けられた憎しみが募っているという事実そのものには、ショッキ
ングなことはなにもない。それどころか、ビックリするし、いじらしく、人
間的なことは、少数者であってもパレスチナ人が示す、あの憎悪に対処する
ために、アメリカ人の人間的な側面を見せたいという思いである。

ドクター・アブ・タワヒナは、理のある警告をもって話しおえた。「実証研
究によれば、集団に対する処罰は、処罰の直接対象になる人たちに限定され
ません。それは国際社会にもやはり影響をおよぼします。いまガザで起こっ
ていることは、あとでヨーロッパやアメリカで起こるようになるということ
も、いつの日か、じゅうぶんありえます」

小さな希望

いま、私は米国に戻って、つい何週間か前のあのエジプトに殺到したガザ住
民の映像を見つめている。私は、無力感と希望――あの壁の破壊を招いた終
わりのない絶望を見る苦しみと、それでいて、つかの間であれ、みずからの
包囲を破ったガザ住民の生きざまを目にするよろこび――のあいだ、いわば
境界線上にいる自分を感じる。

私が思うに、ドクター・アブ・タワヒナは正しい。私たちがガザで起こるが
まま放置している――捨ておくだけでなく、後押ししている――できごと
は、やがてわが身にふりかかって、私たちを苦しめることになる。それで
も、青空監獄に閉じこめられて、暴力に屈し、ひょっとすると和解の限界点
を超えて内部的に寸断された社会のあらゆる兆候にもかかわらず、私は小さ
な希望を捨てない。あの監獄の外にいる私たちは、たぶん、150万の人間
を集団的に圧迫し、屈従に追いこむような営為が必然的に助長する爆発性の
怒りにとどまらないものにさらされるだろう。たぶん私たちは、内部者であ
れ外部者であれ迫害する者らに屈服することを拒むガザ住民に襲われるだろ
う。つまるところ、私たちが彼らと連帯する側に立つことを選ぶと私は期待
したい。

[筆者]
ジェン・マーローは、ドキュメンタリー映画作家、人権活動家であり、
“Darfur Diaries: Stories of Survival (Nation Books)”《1》[仮題
『ダルフール日記――生き残りの物語』(ネーション・ブックス)]の著
者。目下、彼女はスーダン南部に関する新作映画“Rebuilding Hope”
《2》[仮題『希望の再建』]の監督・編集をし、パレスチナとイスラエル
に関する本を執筆中。彼女の最新作映画《3》は“Darfur Diaries:
Message from Home”[仮題『ダルフール日記――母国からのメッセー
ジ』]である。彼女は、「ジェニンの友・自由劇場」《4》の理事を務め、
「レイチェルの言葉イニシャティブ」《5》の創設メンバーである。彼女の
Eメール・アドレスは次のとおり―― jenmarlowe@h…
http://www.amazon.co.jp/dp/1560259280 《1》
http://www.rebuildinghopesudan.org/ 《2》
http://www.darfurdiaries.org/ 《3》
http://www.friendsofthejeninfreedomtheatre.org/ 《4》
http://www.rachelswords.org/ 《5》

[原文]
Tomgram: Jen Marlowe, Gaza Struggling under Siege
TomDispatch.com., posted February 24, 2008
http://www.tomdispatch.com/post/174898/jen_marlowe_gaza_struggling_under_siege
Copyright 2008 Jen Marlowe

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[翻訳] 井上利男 /TUP

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