DATE: 2008年7月15日(火) 午前2時18分
「良き戦争」ってなんだ?
TUPエッセイ パンタ笛吹 著
2008年6月26日
イラン南東部で誘拐された中村聡志さんが8ヶ月ぶりに解放されたと聞いて喜ん でいる。
中村さんはパキスタン南西部、バルチスタンの山岳地帯を麻薬密輸組織に連れ回 されたという。もう33年前になるが、わたしはバルチスタンのクエッタに2ヶ月 以上も滞在したことがある。貧乏旅行の最中だったので、現地で出会ったハジと いう名の老人の土間に泊めてもらっていた。
もうとっくに時効になっているから書けるが、クエッタの警察に捕まったことが ある。親指の先ほどのハッシッシ(大麻樹脂)を持っていた罪だ。わたしは留置 場に入れられるなり、すぐに簡易裁判にかけられた。判決は、「1ヶ月の投獄、 または200ルピーの罰金」だった。
劣悪な環境で悪名高いバルチスタンの監獄に、1ヶ月も入れられるのは真っ平だ った。かといって200ルピーを持っていなかったわたしは、裁判官に1時間の猶予 をもらい、近所のホテルを走り回り、西欧人の旅行者からお金を借りまくった。 なんとか罰金刑ですませることができた。
当時、クエッタの町中に「サキハナ」と呼ばれるハッシッシ吸引用茶店が数軒あ った。サキハナの中は、壁沿いにコの字型に椅子が設けてあり、フロアーの真ん 中に数本の水パイプがあった。客たちは、店が推薦するハッシッシのサンプルを、 無料で水パイプから吸うことができた。客は、自分の気に入ったハッシッシを帰 りに少量買っていくというしくみだ。
クエッタで一番大きいサキハナの店主が、アブドゥラと呼ばれる町の名士だった。 りっぱな鼻ひげをたくわえ、貫禄たっぷりのアブドゥラは、麻薬密輸組織のキン グピンでもあった。サキハナの屋上では、ヨーロッパ人密輸業者が、おおっぴら にアブドゥラと商談している場面を何度も見かけた。アブドゥラほどにもなると、 警察幹部にまんべんなく賄賂をわたしているため、捕まることはない。
その麻薬王アブドゥラに、どういうわけかパーティーに誘われた。若気の至りと いえばそれまでだが、好奇心に溢れていたわたしは、ほいほいと誘いに乗って、 郊外にある瀟洒な別荘に行った。別荘は、かつてバルチスタン藩主の離宮だった という。
庭ではクエッタの名士たちが、大きなすり鉢を囲んで車座になっていた。長いす りこぎを器用に使って、汗を流しながらすっていた小太りの中年男性が、バルチ スタンの藩王子だった。藩王子はわたしに向かって言った。
「クェッタの住み心地はどうかね? これは大麻の葉っぱにナッツとミルクを加 えて作る『バング』という薬草ジュースだよ。LSDと同じようにトリップするから、 ヒッピーたちは『アシッド・バング』と呼んでるがね。ワッハッハ」
緑色のその液体をわたしもいただいた。たしかにトリップといえる酩酊状態にな った。まわりを見回すと、いい歳をした名士たちが庭で笑い転げていた。
ここ数年、クエッタから流れてくるのは、タリバーンの復活や車爆弾によるテロ のニュースだ。そんな記事を読むたびに、70年代中頃は、なんとのどかな時代 だったんだろう、と思う。
のどかな時代といえば、北パキスタンもそうだった。わたしは、ペシャワールか ら北の山岳地帯に向けて走るスワト渓谷がお気に入りだった。特にスワト谷の中 腹にあるマディアンという美しい村に惚れ込んだ。マディアン村では渓流沿いの 民家を借りて、そこでも2ヶ月ほど滞在した。
その村でわたしは断食をしてみたり、フルムーンパーティー(満月際)を主催し たり、幸せな毎日を過ごした。「桃源郷」という言葉があるが、素朴な村人と咲 き誇る杏の花、そして朝夕聞こえてくるコーランの名調子、わたしにとってマデ ィアン村こそ桃源郷のイメージそのものだった。
パキスタンで医療サービスを行っている中村哲医師は、ペシャワール会報2007年 12月号で、いまのスワト渓谷の現状をこう記している【1】。
「パキスタン北西辺境州では、先月のワジリスタンで大規模な反乱の後、今度は スワト渓谷で反乱の火の手が上がって国軍兵200名以上が捕虜となり、タリバーン 勢力の支配下に入りました。11月24日現在、米軍に押されたパキスタン軍1万数 千人が同渓谷を包囲、大規模な軍事作戦が計画されていると伝えられています」
今年2月18日に行われた総選挙のあと、暗殺されたブットー前首相が率いていた パキスタン人民党と、以前ムシャラフ大統領に追放されたシャリフ元首相が率い るイスラム教徒連盟シャリフ派が連立政権を樹立した。新政権が、スワト渓谷に 進出したタリバーン勢力と和平に合意したので、少しはほっとしていた。
・・・とこう書いている最中に、テレビのCNNニュースが速報を流した。パキスタ ン北西部のスワト渓谷にあるスキーリゾート地の国営ホテルが、イスラム教硬派 勢力に襲われ、略奪、放火などの甚大な被害を受けたという。6月26日の同ニュ ースはまた、最近の様子を以下のように伝えた【2】。
「この数ヶ月間、・・・北西辺境州では、イスラム教の原理主義的な法典、シャ リア法による統治を求める勢力が【3】、地域一帯で治安当局と武装衝突を重ね、 これまで数百人が死亡している。・・・武装勢力は女性にはスカーフをかぶるよ う、そして男性には髭を伸ばすよう要求し、テレビも音楽も禁止した」
わたしがマディアン村にいたころ、夕方になると村の広場に人びとが集まり、持 ち寄った楽器で即興の音楽会が催されていたものだ。大きな鍋をタブラのかわり にして叩く者、手製の3弦琴をつま弾く者、声高々に歌う者。それは素朴で美し い光景だった。その音楽も禁じられた今は、スワト渓谷を訪れる観光客は皆無に 近いという。
隣の国、アフガニスタンの状況はますます泥沼化している。6月中に死亡した外 国軍兵士の数は、21日時点ですでに32人に達している【4】。これは15万人以上 が駐留するイラク軍事作戦をも上回る死者数だ。また、1ヶ月間の戦死者数とし ては、2001年の開戦以来、最悪となった。
わたしはコロラド州ボルダー市に住んでいるので、米国人の知人とアフガニスタ ン戦争について話すことがある。そのときよく聞くのは、米国人がアフガン戦争 のことを、「別の戦争」または「忘れられた戦争」と呼んでいることだ。もちろ んイラク戦争がいつもメディアの話題になっているからだろうが、アフガンでの 戦死者がこれほど増えてくると、「忘れられた戦争」と無視しているわけにもい かない。
また、イラク戦争に反対している米国人でも、アフガン戦争のことを「良き戦争」 (グッド・ウォー)と呼ぶ人がいる。911同時多発テロを起こしたアルカイダと、 それを保護したタリバーンをやっつけるための正義の戦いというわけだ。
自国を初めて攻撃された米国人が持つその感情は分からないでもない。しかし、 旧ソ連によるアフガン侵攻以前に何度かアフガンを旅行し、その純朴で信仰心の 厚い人びとと交わったことのあるわたしとしては、「良き戦争」と言われると違 和感を禁じ得ない。もうアフガンに攻め込んで7年にもなり、すでに数万人が犠 牲になっているのだから、そろそろ外国軍は引き上げてもいいのではないか、と 思うのだ。
アフガニスタンは、タジク人やハザラ人など、さまざまな民族でなりたっている。 中でも主要部族のパシュトン人は、誇り高い民だ。彼らの多くは、祖国に外国軍 が居座り続けていることを好ましくは思っていない。それがNATO(北大西洋条約 機構)軍だろうが旧ソ連軍だろうが、どちらも同じ「占領軍」と受けとめる者も 多いという。NATO軍の誤爆で、一般市民が殺されるたびに、外国軍への反感が高 まっているとも聞く。
パキスタン系英国人の歴史学者、タリク・アリは、「NATOの見込みのない戦争」 という題の論評で、アフガニスタンの取るべき道筋を示した【5】。アリは、泥 沼から抜け出すための方策として、まず分割統治が考えられるが、それは最悪の 選択だとしてから、次のように述べている。
「もうひとつの方策は、米軍とNATO軍が撤退することである。撤退の直前か直 後に、アフガニスタンの安定を次の10年間保証する地域条約を結ぶことが必要だ。 そして、パキスタン・イラン・インド・ロシアは、アフガン政府が機能できるよ うに保証して支援する。アフガン政府は、さまざまな民族や宗派の違いを認め、 それを保護し、市民が日々それぞれ、食べ、考え、呼吸できるような空間を創り だすと約束する。国家を再建し、国民に生活必需品を供給するためには、社会的、 経済的計画に真剣に取り組まなければならない」
昨年、タリク・アリがボルダーで講演会を催したとき、わたしも聞きに行った。 地域問題に精通したパワフルな講演に強い印象を受けた。タリク・アリのような 人物が世界の世論を動かしてほしいものだ。
しかし現実はきびしい。アフガンとパキスタンの国境でのいざこざは、激しさを 増すばかりだ。6月11日には、米軍が主導する多国籍軍による空爆で、パキスタ ン兵士11人が死亡する事件があった。パキスタン軍は、「まったく不当かつ卑劣 なこの行為を非難する」と、米国に対して異例の緊急声明を発表した【6】。
数日後の6月15日、アフガニスタンのカルザイ大統領は記者団のインタビューに、 「彼ら[タリバーン]は、パキスタンから越境してアフガニスタンに侵入し、ア フガン人と多国籍軍兵士を殺害している。それならわれわれもパキスタンに越境 して攻撃を加える権利がある」と怒りを込めて語った【7】。
ブラウン英首相は6月16日、アフガニスタンへの英軍の増派を発表した。ブッシ ュ大統領も、2009年にアフガンへ米軍を増派すると表明した。またサルコジ仏大 統領も千人強の増派部隊をパキスタン国境の東部地域に送るとするなど、まるで ベトナム戦争のエスカレートを想起させるほどの戦争拡大だ。
では、多くの平和主義者が「救世主」として期待するオバマ上院議員が大統領に 当選すれば、争いの炎は鎮火するのだろうか? 残念ながら、答えは「ノー」の ようだ。昨年8月1日の演説会でオバマ候補は、自分が大統領になったら、アフ ガニスタンに少なくとも二個旅団(約7000人)を増派しタリバーンと戦わせるだ ろうと、以下のように語った【8】。
「わたしが大統領になったら、勝つ必要のある戦争に向かって戦いを進めるだろ う。まず最初に、間違った戦場であるイラクから手を引き、軍勢をアフガニスタ ンとパキスタンに移し、テロリストたちに戦いを挑む。
「911の同時多発テロで3000人の米国人を殺したテロリストたちが、まだ国境の 山中に隠れている。彼らは再び米国にテロ攻撃を仕掛けようと計画している。 ・・・もしわれわれが重要テロリストの居場所をつかんで、ムシャラフ大統領が 動かなかったら、わが軍が攻撃するつもりだ」
なんという好戦的な発言! これでは当分、アフガンに平和は訪れそうにない。
アフガニスタンとパキスタンの国境線は、元はといえば19世紀初めに、大英帝国 が勝手に線を引いたものだ。国境のトライバル・エリア(部族地域)をはさんで 両国にパシュトン人が住んでいる。国境を結ぶカイバル峠は、古くはアレキサン ダー大王の軍勢が進軍した標高1000メートルを超えて走る急峻な山道だ。
わたしは1975年から76年にかけて、アフガニスタンを3ヶ月ほど旅した。その間、 ビザの切り替えなどの理由から、カイバル峠をおんぼろバスで5回通った。道路 沿線には密輸品や麻薬を売るバザールや、カラシニコフ銃などの武器を売るバザ ールが繁盛していた。当時でも、トライバル・エリアに住むパシュトン人は、ア フガン人やパキスタン人という国籍よりも、パシュトン族としての部族意識や血 縁関係の方を大切にして生きていた。
国境地帯は政府の法律が及ばない地域だ。最初に峠越えをしたときは、他の旅行 者から「山賊」が出ると脅かされ、少しはびびった。実際には、カイバル峠の頂 上あたりで、銃を持ったパシュトン人がバスを止め、中に入ってきて乗客からひ とり1ルピーを集めてまわる、ただの通行料稼ぎのやからだった。
カブールでは民族楽器のラバーブに聞き惚れ、バーミアンではタリバーンが爆破 する前の大仏の頭の上まで登り、ラピズ色のバンデアミール湖では羊を追う騎馬 民族のポロ「ブズカシ」に魅せられ、カズニ村では惚れ込んだアフガン刺繍を買 いまくり、カンダハールでは絞り立てのザクロジュースをがぶ飲みした。
それらヒッピー旅行の思い出の地名が、今では「何人殺された」というニュース とともに、わたしの耳に届くばかりとなった。
【1】中村哲「迫りくる大凶作」ペシャワール会報94号(2007年12月5日発行)。 http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/kaiho/94nakamura.html
【2】"Pakistani militants set ski resort hotel on fire," CNN (June 26, 2008). http://www.cnn.com/2008/WORLD/asiapcf/06/26/paksitan.ski/index.html
【3】CNNに限らず、主流メディアや知識人のイスラム教に関する見識は無知と 偏見に彩られている。シャリア法は、世俗化された近代社会の目で見るなら、時 代錯誤と批判されるかもしれないが、けっして過激な思想を提唱する法典ではな い。
「原理主義」「過激主義」「復古主義」「歴史主義」などと呼ばれるイスラム教 の潮流は、アラブ・ナショナリズムと同じように、近代になって生まれた。欧米 諸国が、中東諸国をはじめとして、広大なイスラム文化圏を支配し、搾取し、差 別し、弾圧し、資源を奪い、西洋文化を押しつけた。あるいは独裁政権を支援し、 あるいはイスラエルの人種差別と植民地政策を援助してきた。イスラムの潮流は、 この不当な現実に対する反動である。だから伝統を尊ぶ呼びかけにみえても、か ならず新しい思想を内包している。
シャリア法に基づくタリバンの統治は極端に厳格なものとなった。その背景を説 明するものとしては、ここにイギリスのジャーナリスト、ロバート・フィスクの 鋭い洞察がある。
<引用はじめ>
<引用おわり>
ロバート・フィスク著、安濃一樹訳、「たったひとりの聖戦──オサマ・ビンラ ディン アフガンの荒野から孤独の荒野へ」、岩波『世界』誌、2005年12月号。
【4】"Afghanistan foreign troop deaths in June exceed those in Iraq," CNN (June 21, 2008). http://www.cnn.com/2008/WORLD/asiapcf/06/21/afghanistan/index.html?iref=24hours
【5】Tariq Ali, "Nato’s lost cause," The Guardian (June 11, 2008). http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/jun/11/pakistan.nato
【6】「アフガニスタン国境でパキスタン兵11人死亡、多国籍軍誤爆か」、 AFPBB NEWS(2008年6月12日)。 http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2403727/3023283
【7】"Karzai threatens to pursue militants into PakistanSun," Reuters (June 15, 2008). http://www.reuters.com/article/worldNews/idUSISL16749720080615?sp=true
【8】Dan Balz, "Obama Says He Would Take Fight To Pakistan," The Washington Post (August 2, 2007). http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/01/AR2007080101233.html