TUP BULLETIN

速報786号 イラク・アフガニスタン帰還兵の証言 No.6 ジェフリー・ルーシーの両親

投稿日 2008年10月23日

DATE: 2008年10月24日(金) 午前0時12分

冬の兵士 ジェフリー・ルーシーの両親ジョイス&ケビン・ルーシー 帰還兵保健医療の荒廃 (1)

訳 荒井雅子 / TUP冬の兵士プロジェクト


今こそ魂が問われる時である。夏の兵士と日和見愛国者たちは、この危機を前 に身をすくませ、祖国への奉仕から遠のくだろう。しかし、いま立ち向かう者 たちこそ、人びとの愛と感謝を受ける資格を得る。

トマス・ペイン、小冊子「アメリカの危機」第1号冒頭 1776年12月


メリーランド州シルバースプリング公聴会 2008年3月13〜16日

[ジョイス・ルーシー]

ルーシー夫妻 画像出典:IVAW 証言ビデオジョイス・ルーシーと申します。ジェフリー・マイケル・ルーシー伍長の母親 です。ジェフは最後の数カ月、この懐中電灯をベッドの脇においていました。 キャメル・スパイダー[砂漠にすむ10本足の節足動物]が部屋を走り回る音がす ると言って、これで探していたんです。

このコインは、イラクへ発つ日に息子から渡されました。毎日このコインを手 に握っていてほしい。そうすれば無事に帰ってこられるからと言って。息子が 帰ってきてからも、しっかり握りしめていればよかった。こんなことになると は思ってもいませんでした。

ジェフリーの死は決してあってはならないことでした。息子は、自分が支持し ない侵攻に加わるため、2003年1月にクウェートへ送られ、7月に帰ってきたと きには別人になっていました。海兵隊員だった息子の体は私たちのもとに帰っ てきたのに、心はイラクのどこかで死んでしまいました。みんなで帰宅祝いを しているときも、ジェフは、怒りと罪悪感、混乱、苦しみ、心の闇を押し隠し ていました。笑顔の下に隠された戦争の傷跡でした。

ジェフはクウェートで第6輸送大隊に所属し、輸送車の運転をしていました。 3月20日の日誌にこう書いています。これがその日誌です。「午後10時半、ス カッドミサイルが近くに着弾した。ちょうど眠ろうとしたとき、衝撃波がテン トを揺るがして通り抜けた。鼓膜が破れそうな音だった。みんな一瞬心臓が止 まった。自分たちがどこにいて何が起こっているか、思い知らされた」。最後 の日誌はこうなっています。「毒ガス警報が出されたところだ。午前0時を少 し過ぎている。みんな眠れないだろう。神経がぴりぴりしている」。イラク侵 攻が始まっていたので、以後日誌をつける時間はまったくなくなりました。

帰国してから何カ月か経ったころ、息子は日誌を終りまでつけてしまいたいと 言いました。その時間が残されていないなんて誰も考えもしなかった。ジェフ が向こうにいる間ずっと、家族は、けがをしないかと体のことばかり心配して いて、心の傷が同じくらい命にかかわるものとは思いもよりませんでした。

ジェフから来た手紙は短くて、当たり障りのないことしか書かれていませんで した。でも2003年4月に、6年越しのガールフレンドには、倫理に背くことをし てしまった気がすると打ち明け、ここ何カ月かを消してしまいたいと書いてい ました。「君にも両親にも言いたくないことがある。心配させたくないから。 それに、言ったって、たぶん話を大げさにしてるとしか思わないだろう。戦争 にはもう絶対行きたくない。一生頭にこびりついて離れないようなひどいこと を見たし、自分でもやった」。明るい夏の日に、コネチカット州ニュー・ヘイ ブンのフォート・ネイサン・ヘイルでバスから降りてきたとき、息子はこんな 重荷を背負っていました。

帰宅してから何週間か、ジェフが苦しんでいることに私たちは気づきませんで した。私たちはまったく知りませんでしたが、ペンドルトン基地での派遣後講 習で、[健康状態]調査結果が示している傾向に気をつけるように言われたよう です。それができないなら、2週間から4週間も余計にそこにいることになると 注意されました。それでその後ずっと、気持ちを表に出さないようにしていた んです。

7月にガールフレンドとコッド岬に行きましたが、彼女はジェフにどことなく よそよそしいところがあるのを感じたようです。ビーチを歩きたがらなかった ということでした。あとで大学の友達に、砂はもう一生分見たと話したそうで す。8月にあった姉の結婚式で、祖母にこう言いました。「人がいっぱいの部 屋にいても、ほんとに独りぼっちだと感じることもある」。2003年秋から大学 にもどりました。そのころになって初めて私たちは、帰国して以来ジェフが毎 日のように吐いていたことに気づきました。そしてそれは亡くなる日まで続き ました。

クリスマスイブの日、娘はジェフの様子を気にして早めに帰ってきました。ジ ェフはお酒を飲んでいて、冷蔵庫の横に立っていました。認識票を握りしめ、 それを娘に放って、自分は人殺しだと言ったそうです。後でわかりましたが、 認識票のうち二つはイラク兵のものでした。その人たちの死に責任を感じてい たようです。本当に責任があったのかもしれません<注>。

亡くなる7週間前から個人的にかかっていたセラピストの話では、認識票は戦 利品としてではなく、その人たちに敬意を示すために身につけていたそうです。 2月にはうなされていたことがありました。路地でその人たちに追いかけられ る夢を見たと言っていました。ジェフの死後、退役軍人省の病院の記録を調べ ましたが、路地から路地へ逃げ回る夢を何度も見たことがあると話していたよ うです。

2004年の春休みになり、それから3カ月のあいだ、私たち家族は、息子であり 兄や弟である若者が変わり果てていくのを見ることになりました。ジェフはふ さぎこみ、お酒を飲んでいました。学期が始まると、授業に出席するのは無理 だと自分でも思ったようです。パニック発作のために、見られていないと頭で わかっても、周りの視線が気になってしかたがないんです。出席できるように と、クロノピンとプロザックを処方されましたが、状態が悪くなっただけでし た。よく眠れず、うなされて、食欲もなく、部屋に引きこもっていました。勉 強に集中できずに、期末試験を受けられませんでした。スポーツ万能だった体 も、クロノピンとアルコールでぼろぼろになっていました。

ジェフは妹には、ロープを用意していること、家の裏を流れる小川の近くに木 を選んであることを話していました。でもこうも言ったそうです。「心配しな くていいよ。絶対やらない。母さんや父さんを悲しませることはしない」。精 神的な問題で除隊になることを恐れていたジェフは、海兵隊には絶対に知らせ てほしくないと言い張りました。PTSDと診断されて、それが烙印のように一生 ついて回るのに耐えられなかったからです。

退役軍人省の病院は軍の一部ではないし、本人の承諾なしに情報が他へ伝えら れることはないと保証されて、ようやくジェフは行くことに同意しました。父 親が電話して、ジェフの様子を説明すると、典型的なPTSDだからなるべく早く 来るように、ということでした。でも実際に行かせるのは大変でした。毎日、 「明日にするよ、明日。疲れてるから」って。起きる気力がなかったんです。

ようやく行った日に、アルコール検査の結果、血中濃度0.328%で倒れてもお かしくない泥酔状態とわかり、入院が必要と判断されました。そのときは6人 がかりで押さえつけなくてはいけませんでした。部屋を飛び出して、駐車場ま で走っていってしまったからです。

4日間収容されましたが、施設に放り込まれたとジェフが感じただけでした。 入院のときに精神科医の診察を受けたきりで、退院の日まで診察はなかったよ うです。その診察で、自分を傷つけることを考えていると答え、薬・窒息・首 つりの三つの方法をあげていたのに、家に帰されました。2004年6月1日火曜日 でした。後でわかったことですが、入院した金曜日にも、首をつるためのホー スを用意していることを話していました。こういう話は病院から私たちにはま ったく伝えられていません。

ジェフの入院中に病院から、アルコールをやめない限りPTSDかどうかの診断は できないという話がありました。でもお酒はジェフにとって、自分で処方でき る薬だったんです。飲まなければ夜眠れないとよく言っていました。病院はま た、ジェフを家から出すことを考えるべきかもしれないとも言いました。どん 底まで落ちて、自分には助けが必要だと悟るように。私たちは、そういう選択 肢を考えたことはありません。

退院前の診察の間に、医者に3回電話がかかってきたとジェフは言いました。 そのうち1回は、ちょうど話を始めようとしたときでした。道路に障害物、つ まり子どもたちが道にいても車を止めるな、振り返るなと言われていた話です。 医者が電話を受けた後、ジェフは話すのをやめました。真剣に向き合ってもら っていないと感じたからです。

6月3日、病院から帰された2日後でしたが、ダンキン・ドーナツへ行く途中で、 家の車をぶつけてめちゃめちゃにしました。自殺しようとしたのかどうか、今 となってはわかりません。お酒は飲んでいませんでした。私は大事な息子がい なくなってしまいそうで怖くてたまらなくなりました。どこかに行ってしまっ たのと息子に聞くと、ジェフは自分の胸に手をやって、「ちゃんとここにいる よ。母さん」と言いました。

6月5日、ジェフは通っていたホリヨーク・コミュニティ・カレッジに行きまし た。期末試験を受けなかったので、卒業はできませんでしたが、妹の卒業式を 見に行ったんです。本人もこのとき卒業するはずでした。どうやってそこまで 運転して行けたのかわかりません。それほどだめになっていました。何とか家 に連れて帰りましたが、悪くなる一方で、ひどい抑鬱(よくうつ)状態でした。

私の両親はよくジェフに会っていましたが、孫のこんな様子を見たのは初めて でした。娘たちと娘の夫、それに私の父とで、もう一度、退役軍人省の病院に 連れて行きました。ジェフは夫のケビンが行くのを嫌がりました。また収容さ れると思ったからです。

病院に着いても、ジェフは建物の中に入ろうとしませんでした。頭のいい子で すから、また先週のように収容されたくなかったんです。病院は、収容するか どうかを責任者に相談もせず、自殺・殺人の恐れなしと判断しました。それだ けです。娘たちはパニックになって電話をしてきて、受け入れてもらえそうも ないと言いました。病院の記録によれば、私の父は、誰かジェフを助けてくれ る人はいないかと頼み込んだそうです。帰還兵や家族が、当然受けられるはず のケアを受けるのに、施しを求めるように頼むようなことがあってはなりませ ん。[拍手]

父は第2次大戦でたった1人の兄を亡くしています。22歳でした。今また別の戦 争で、たった1人の孫息子が23歳で自分を破壊するのを見ることになりました。

ジェフが戻ってくるとわかったとき、ケビンと私は部屋を見て回りました。ナ イフや瓶など、自分を傷つけるのに使うかもしれないと思ったものを全部片付 けました。犬の引き綱も踏み台も、何かきっかけになりそうだと思ったものは 全部です。ジェフの車は、本人を守るためだけでなく、ほかの人を守るために も使えなくしました。

ケビンは行政当局に電話しましたが、「管轄が違う。息子さんは飲酒をしてい るから」と言われただけです。息子は必死で生きようとしていたのに、私たち は誰に助けを求めたらいいかもわかりませんでした。退役軍人省の病院からそ の後の様子を尋ねる電話はなく、何の連絡もありませんでした。でも病院はジ ェフがぎりぎりの状況にあるのを知っていたはずです。私たちには何のアドバ イスもありませんでした。息子に何を言ったらいいのか、どう接したらいいの か。部隊を支援するという話はよく聞きますが、でも私は申し上げたいと思い ます。私たちは頼るあてもなく、見捨てられ、孤独でした。

他の人たちがディズニーワールドに行ったり、買い物をしたり、ふつうの生活 を楽しんでいる間、私たちの毎日は、たえまない恐れと不安と無力感でいっぱ いでした。目の前で息子が、心をむしばむガンに侵されていくのですから。私 は、人が変わったようになっていく息子といっしょにデッキに座って、彼がイ ラクでの様子を断片的に話すのを聞きました。しばらくすると彼はこぶしをも う片方の手のひらに強くこすりつけて、「絶対にわからないよ」と言うんです。

6月11日金曜日の真夜中ごろ、同じ通りに住む女の子から娘に電話がかかって きました。「息子さんはどこですか」と聞かれたので、私は「部屋よ、デブス。 寝てるわ」と答えました。そうではなかったようです。部屋の窓から出て、彼 女の車を使っていました。ビールがほしかったんです。彼女は小さいころから ずっとジェフのことを知っていましたが、少しおびえていました。

ジェフが車から降りてくるのを見て、私は立ちすくみました。迷彩服を着て、 戦闘用ナイフ2本と改造エアガンも身につけていました。エアガンは、警察が 見たら本物と見分けがつかないでしょう。そして6本パックのビールをもって いました。それがほしかっただけでした。魂をなくした人のような悲しそうな 微笑みを浮かべていました。どんなに心配したかと私が言うと、「心配しなく ていいよ、母さん。何をしたって、きっと帰ってくるから」と言いました。

[ケビン・ルーシー]

その日[6月21日]の夜遅く、出かけてみたらどうかという話になりました。息 子が家に閉じこもりがちになっていたからです。翌日の晩にステーキ・ディナ ーに行くことにしました。11時半か12時15分前ごろ、この10日で2度目でした が、ジェフリーが私のひざに座ってもいいか、そして[声が詰まる]、しばらく ゆすってくれないかと言ったので、そうしました。45分くらいゆすっていたで しょうか。二人とも黙ったままでした。セラピストが言ったように、私のひざ の上が息子にとって最後のよりどころ、最後の慰めの場所でした。

翌日、7時15分ごろに帰宅した私は、最後にもう一度ジェフを抱きました。息 子の体を梁からおろして、首からホースをとったときです。


<注> ジェフが妹に打ち明けた話によると、二人のイラク兵は米軍の捕虜だっ たという。ジェフは、無抵抗の捕虜を射殺するように命じられたらしい。事件 の詳しい経緯や日時や場所は、ジェフの話が断片的だったために、確かめるこ とができない。

2004年7月27日、ルーシー夫妻は、アメリカの独立系メディア「デモクラシー ・ナウ!」に出演し、エイミー・グッドマンのインタビューを受けた。TUPは、 番組のトランスクリプトを翻訳し速報として配信している。


凡例: [ ]は訳文の補助語句。


2008年9月、反戦イラク帰還兵の会(IVAW)、冬の兵士の証言集を全米で刊行。

仮題『冬の兵士証言集──イラク・アフガニスタン帰還兵が明かす戦争の真相』
編集アーロン・グランツ

Winter Soldier: Iraq and Afghanistan: Eyewitness Accounts of the Occupations, by Iraq Veterans Against the War, edited by Aaron Glantz,
(Haymarket Books; September, 2008).
>>Haymarket Books
>>amazon.com

★岩波書店より刊行予定。現在、TUPにて邦訳作業中。

 イラク戦争を追いつづけてきたジャーナリストが『証言集』の書評を書いている。

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  • TUP冬の兵士プロジェクト 証言の一覧
  • ルーシー夫妻の証言ビデ
    http://ivaw.org/wintersoldier/testimony/crisis-veterans-heathcare/kevin-and-joyce-lucey-eugene-martin-tod-ensign/vid
    http://warcomeshome.org/content/joyce-and-kevin-lucey
  • 反戦イラク帰還兵の会 公式サイト
    Iraq Veterans Against the War
    http://ivaw.org/
  • 反戦イラク帰還兵の会「冬の兵士」特集ページ
    Winter Soldier: Iraq & Afghanistan
    Eyewitness Accounts of the Occupations
    http://ivaw.org/wintersoldier
  • KPFAラジオ プロジェクト"The War Comes Home"
    http://www.warcomeshome.org/