TUP BULLETIN

速報788号 在日米国人記者コバート氏、アメリカと9条を語る

投稿日 2008年10月28日

◎「戦争する国」アメリカと、日本の憲法9条



日本在住のアメリカ人ジャーナリスト、ブライアン・コバートさんのスピーチをご紹介します。去る9月20日の「九条の会・かわにし」結成3周年記念の集いで日本語で行われたものです(渡辺玲子さん訳)。コバートさんは、アフガニスタンとイラクでのアメリカの戦争に反対する立場をとっておられ、TUPと志は同じ。70年も前にシステムとしての戦争に反対したアメリカ軍高官がいたことや、カナリア諸島に日本国憲法9条のモニュメントがあることなど、多くの日本人が知らない重要な事実も明らかにされます。(TUP/川井孝子)

DATE: 2008年10月29日(水) 午前2時35分


於 川西市中央公民館

「戦争する国」アメリカと、日本の憲法9条 —「我々は解放者として歓迎される」
ブライアン・コバート

皆さん、おはようございます。ブライアン・コバートと申します。本日は、土曜日の朝にも関わらず、お集まりいただきありがとうございます。皆さんが、貴重なお時間をさいて、憲法9条のために来て下さったことを、本当にうれしく、また心強く思います。

はじめに

ご存知のとおり、アメリカで911事件が起きたのは、7年前の9月でした。その頃と比べて、世界は、ますます、安定しない状況になっています。今日、こうして皆さんと、より安定した未来の世界を築くために憲法9条がどう役立つかを話し合うのは、時期的にとても適していると思います。とは言え、私は憲法学の専門家でもありません。きっと、ここにおられる皆さんの方が、日本の憲法9条がいかに大事か、私より良くご存知のことと思います。そこで私は、アメリカ人として、憲法9条のような素晴らしい条項を持たない、戦争をする国アメリカから来た人間として、憲法9条を持つ日本の皆さんにご紹介できることをお話したいと思います。

まず、今日の会の開催にあたってご尽力いただきました「九条の会・かわにし」の皆さんに、お礼を申し上げます。お招きいただき、ありがとうございました。私は時々、日本の各地で憲法9条や「アメリカの軍事帝国」について話をするように頼まれます。もちろん、世界の財産としての憲法9条について深く考える人々と、日本のあちこちでお会いする機会はうれしく思います。しかし、自分自身が住んでいる町で、話し合う機会を持てるということには、特別に大事な意味があると思います。ですから、「九条の会・かわにし」の皆さんとご一緒させていただくのは今回がはじめてではありますが、地元での皆さんの活動に今後も参加させていただくのを楽しみにしています。

今日の私の話のタイトルは、「『戦争する国』アメリカと、日本の憲法9条 —『我々は解放者として歓迎される』」です。物議をかもしそうなこのタイトルが何を意味するか、またこの言葉が各国が戦争を進めるためにどう使われたかは、またすぐ後で説明します。

しかし、まず最初に、疑いをお持ちの方があったらいけないので、私がアフガニスタンやイラクでアメリカが起こした戦争に、完全に反対する立場だということを、はっきりさせておきたいと思います。私は、米軍、またアメリカの石油その他の多国籍企業が、アフガニスタンやイラクから出て行くようにと要求する世界中の人々の仲間です。また、私は米軍が日本から、特に沖縄から、世界中の米軍基地の周りで起きている「暴力の文化」も引き連れて、出て行くべきだと思います。

戦争と軍国主義がもたらす「暴力の文化」

戦争と軍国主義がもたらす、この「暴力の文化」というところから、ある若者の話を紹介したいと思います。戦争が若い人々に何をするのかについての、とても悲しい事実を代表するような話です。アメリカや日本の大手メディアにとって、「暴力の文化」についてのこの話は、人々に伝えるにはあまりに恥ずべき話題なのかもしれません。でも、私は皆さんに聞いていただきたいと思います。

アフリカ系アメリカ人のラヴィーナ・ジョンソンは、ミズーリ州の高校の優等生で、2003年に高校を卒業するとすぐ、米軍に入隊しようと決めました。入隊に強く反対したラヴィーナの母親によると、ラヴィーナは、祖国のために何かをしたい、愛国心を示したいと感じたのだということです。成績が悪かったために苦労するアメリカの若者の多くと違い、ラヴィーナの将来は明るく、求めればどんな仕事でも選べたでしょう。しかし彼女は、長く軍とつながりを持った父親と同じ道を進みたいと、本当に願ったのです。

基礎訓練の後、彼女はイラクに送られ、バグダッドの北にあるバラド市に駐屯しました。ここはイラクにおける最大の米軍基地で、2万人の米兵が駐屯しています。そしてたった8週間後の2005年6月19日、ラヴィーナが死んでいるのを発見されました。20歳の誕生日を迎える1週間前のことでした。米軍は調査を行い、公式に「非戦闘死」と確定しました。これは自殺だと軍は言ったのです。この件は終了とされ、ラヴィーナの遺体は故郷へと送られました。

しかし、故郷ミズーリで、ラヴィーナの父親、ジョンソン博士は、ラヴィーナの遺体を調べ、たくさん痣があるなど、いくつかの疑わしい点を見つけました。ジョンソン氏はもっと情報を得ようとしましたが、軍は何も伝えようとしません。後日、確認された事実からすると、ラヴィーナ・ジョンソンは軍の基地内でレイプされ、単数か複数かの犯人によって証拠隠滅のために殺されたと考えられています。

ジョンソン一家はこの2、3年というもの、ラヴィーナの死について、何らかの公で独立した調査を求めて奮闘していますが、米軍は協力を拒んできました。米軍の上層部がラヴィーナの死をごまかそうとしていると、一家は強く信じています。ジョンソン一家と共に運動をしているのは、元、陸軍大佐の国務省当局者で、今は反戦活動をしているアン・ライトさんです。最近、千葉と大阪で行われた「9条世界会議」で講演するために来日されたので、覚えておられる方もあるかもしれません。しかし、これはたいへん苦しい闘いで、ジョンソン一家には解決の糸口は見えていません。

戦争を始めるための口実 「自由と解放」

さて、次に「自由と解放」という考え方が、戦争を始めるための口実として、どのように利用されていくか、一つの例を挙げたいと思います。あえて、最初にはいつのことか、言いませんので考えてみてください。

そう遠い昔でもない、ある年の1月、アメリカ政府の内外から集った極右派の大物著名人からなる「ネオコン」のグループが、アメリカ大統領に手紙を送りました。この手紙でネオコンは、サダム・フセインがアメリカ、ひいては世界にとっての大きな脅威であると警告し、即刻、排除されるべきだと強く要請しました。

イラクについて感情的な公聴会が何ヶ月も行われた後、アメリカ議会の上下両院は政府に対し、サダム・フセインの打倒を要請しました。理由は、フセインが国際的な人権侵害をしているということ、そして国連の兵器査察官に協力しないということです。10月、米国下院は二大政党の圧倒的な支持により、「イラク解放法」なる法案を通過させました。賛成者には著名な民主党の自由主義者、例えばケネディ一族のエドワード・ケネディ氏やデニス・クシニッチ氏も含まれています。二日後、上院も、全員一致でこの法案を通過させました。

米議会は間もなく、一致して「イラク解放法」をアメリカ大統領に提出しました。そして予想どおり大統領はこの法案に署名し、法案は法律となりました。いよいよアメリカ政府は、公に、イラクのいわゆる「政権交代」を支持する政策を打ち出したのです。アメリカ大統領は、夫人からの支持もあり、この新しい法律はアメリカがサダム・フセインを倒し、イラクの人々がいわゆる「民主化」の道を開くのに役立つ、と述べました。それから2ヶ月しか経たないうちに、大統領は米軍によるイラクへの爆弾攻撃を承認しました。さらにその2ヶ月後、大統領はアメリカ国民に、いわゆる「アメリカの国益、さらには自由を愛する世界の人々を守るために、我々がしなければならないこと」への理解を求めました。

さて、このシナリオにおける大統領が誰か、そしてこれが何年のできごとかを言っていただける方はありますか。

もし、ジョージ・W・ブッシュという答えなら、残念ながら間違いです。大統領はビル・クリントンで、時は1998年、そして当時の大統領夫人はヒラリー・クリントンです。大統領が承認した軍によるイラク攻撃は、「偶然にも」クリントン大統領とモニカ・ルインスキーとのスキャンダルが米議会と人々の前に明らかにされたのと同時期でした。「1998年イラク解放法」に署名することでブッシュが数年後に不法にもイラクを侵攻する法的根拠を与えたのは、実のところ、クリントン大統領なのです。ブッシュはまさにこの法律をイラク侵攻のために引用したのです。

私がここで強調したいのは、破壊的な軍の力と政治介入で他国の「解放」を援助するということが、アメリカの政党のどちらか一方ではなく、いわゆる「二大政党制」による政策だということです。この実例はアメリカの歴史に多く見ることができます。実際、アメリカに限らず他の国の歴史にも、強国や帝国が他の国に侵略し、「解放」の名の下に慈悲深い親切な仮面をかぶって、人々を占領下においたり植民地化するという例は、いくつもあります。

911事件直後のアメリカを考えると、報復を求める声がアメリカの社会を駆け巡ったことを思い出します。あのとき私はアメリカにいました。そしてジャーナリストとして、いかにアメリカのニュースメディアがブッシュ大統領を急かし、即刻何かをするよう要求したかをよく覚えています。多くの人々が911を「第二のパール・ハーバー」と呼んでいました。クリントンその他の過去の大統領の元で、こうした経緯がどうなるかを見てきた人々には、その後の予想がつきました。そして予想に違わず、間もない2001年10月7日、アメリカはアフガニスタンに侵攻したのです。オサマ・ビン・ラディンとその仲間を捕まえるのみならず、イスラム原理主義タリバンの支配下で奴隷のような生活を送っていたアフガニスタンの人々、特に女性を解放するという名目でした。

アメリカはアフガニスタン侵攻の中で、明瞭に「解放」という言葉を使用しました。そして、アメリカ政府がイラクに目を移すに従って、「解放」という言葉は、ニュースメディアというメガフォンを通してブッシュ政権から人々へ送られるメッセージの中に、体系的に組み込まれました。アメリカ政府のイラク「解放」について、時間を追って簡単に見てみましょう。

2003年3月16日に、チェイニー副大統領は人気のあるテレビネットワーク、NBC(これは大手の軍事請負業者、ゼネラル・エレクトリック社が所有しているのですが)、このNBCで、全国の視聴者に向けて、こう述べました。「我々は解放者として歓迎されると信じている。・・・私たち(大統領と私)は、イラクの人々がサダム・フセインの排除を望んでいると読み取った。その目的のために米軍が行くならば、解放者として歓迎されることに疑いはない」。その3日後、アメリカはイラクに不法侵攻しました。このチェイニーの信じがたい傲慢な言葉、「我々は解放者として歓迎される」こそ、私が今日のスピーチのタイトルとして借用したものです。

2003年3月のイラク侵攻から数ヶ月後に行われた、アメリカ国内で成人を対象にした世論調査で、「イラク人の多くは、イラクにいる米軍を解放者あるいは、占領者、どちらと見なしていると思いますか」という質問がありました。約40%の回答者は「占領者」と答え、36%が「解放者」と答えました。24%は無回答でした。また、同じ調査の別の質問「もし、イラク人のほとんどが望んでいない場合、米軍はイラクに駐屯すべきだと思いますか」への最多の回答は、45%で、「現地の人々が望むと望まざるに関わらず」米軍は駐屯すべき、でした。多くのアメリカの一般市民が、アメリカがイラクの民主化のために、解放者として駐屯していると思っています。

スメドリー・バトラー元海兵隊幹部 「戦争はいかがわしい商売だ」

さて、ここまで、私は皆さんに、アメリカの軍や政府の高官がいかに人々にウソをつき、誤った道に導いてきたかについて話してきました。しかし、歴史をよく見ていけば、アメリカ史の「隠れた」側に、時折、注目に値する例外を見つけることができます。実は20世紀のアメリカに、高い地位に昇った軍人でありながら、「システムとしての戦争」を強く批判した人物がいました。そして、その発言は現在でも耳を傾ける価値のあるものです。彼の名は、スメドリー・バトラーといいます。彼は海兵隊の少将で、1940年に58歳で亡くなった時点で、アメリカの歴史上、最も多くの勲章を受けた人物でした。

沖縄県内の海兵隊基地の総司令部の名称、「キャンプ・バトラー」は、このスメドリー・バトラーの名前から付けられているのです。彼が、米軍と軍需産業界とのショッキングな真実を当時、明らかにしたことを考えると、米軍が、今も日本で彼の名前を使っているのは皮肉なことです。

数年前、私はカリフォルニアに住んでいまして、週に一度放送されるラジオ番組の共同プロデューサーとして働いていました。リスナーが電話をかけてきて、その日のゲストと話ができる、生放送の1時間番組でした。私は、有名な言語学者でアメリカの外交政策の評論家である、ノーム・チョムスキー教授に、アメリカ同時多発テロ2年の特別ゲストとして電話出演を依頼するメールを送りました。チョムスキー教授は、快く引き受けて下さり、その夜の放送で、彼の出演はリスナーに温かく迎えられました。

番組に電話をかけてきた地元リスナーに、モーリーンという女性がいたことをよく覚えています。彼女は、10代の子供たちが問題を起こさないようにする、放課後プログラムの責任者でした。モーリーンは、以前このプログラムで世話をしていた子供で、今は20歳になる若い女性が、海兵隊に入るつもりだと言ってきた、と言うのです。それを聞いて本当に落胆してしまったと。モーリーンは、チョムスキー教授に、アドバイスを求めました。確実な収入があって、教育が受けられ、保険にも入れるなど、とても魅力的に見えるから軍隊に入ろうと思う、そんな状況にあるアメリカの若者に何と言いますか、と。

チョムスキー教授の答えの、一部分をご紹介します。

「私たちが心配しなければならないのは、そんな選択を若者にさせてしまうような状態だと思います。それには、あなたがおっしゃったことも含まれます。恵まれない状況にある人には多くのチャンスがない社会構造であるという事実です。またイデオロギー的側面もあります。つまり、海兵隊員になって自分が今、何をしているのか、認識できないようなことです。私は、海兵隊に入隊する者全員が、スメドリー・バトラーの海兵隊の体験の本、その中で「ウォールストリートのための強盗」だとバトラーは言っていましたが、この本を必ず読むようになればいいと思っているんですよ。彼は、たくさんの経験をしましてね・・・。長年にわたって、世界中で海兵隊はいったい何をしてきましたか。振り返ってみれば、本当に悲惨なものです。」

チョムスキー教授のアドバイスには幾分驚きましたが、数日後、私は地元の大学の図書館でスメドリー・バトラーとはどういう人物だったのか調べてみました。そこで分かったことは、とても意外な事実でした。

バトラー氏は、兵士として20世紀初頭に幾度ものアメリカの戦争に参加し、出世街道を歩み、第一次世界大戦では、重要な将校として頭角を現しました。戦闘中の勇敢な行為に対し、何度も勲章を受け、1931年には少将という高い地位で退役しました。しかし、退役後の平穏な暮らしを始めてわずか数年後の1934年、彼は、米国議会で証言し、全米を震撼させました。ニューヨークのウォールストリートの、ある裕福なエリート実業家から、接触を受け、当時のルーズベルト政権を転覆させる武力クーデターを持ち掛けられた、と証言したのです。

その裕福な実業家は、バトラー氏に、強力な軍事支援と財政支援、さらに、好意的なマスコミ報道を約束するとして、ルーズベルトへのクーデターを率いるよう持ち掛けました。その人物とバトラー氏の、この内密の話し合いは1年ほど続けられましたが、ついにバトラー氏は、そのような国粋主義的クーデターに対する、現実的な危機感から、その計画と計画者の名を議会に公表する決意をしたのです。議会はバトラー氏の証言を信じましたが、誰も起訴されず、捜査も進められませんでした。この事件はアメリカのマスコミも、すぐに報じなくなりました。

それでもバトラー氏は、自分の最大の義務は米国憲法を守ることだと感じ、クーデター計画について知っていることを公的に発言し続けました。また、アメリカが海外で起こしている戦争の真実についても語り始めたのです。1935年に「War is a Racket、戦争はいかがわしい商売だ」という、彼が戦い率いてきた戦争の裏で、汚い金融取引があったことを暴露した本を上梓しました。それがノーム・チョムスキー教授が私のラジオ番組の中で、海外で戦おうと海兵隊に入隊する決断をする前に、全ての若者が読むべきだ、と話した本だったのです。この本の中で、バトラー氏は「自分は33年間海兵隊に勤務したが、その間、ほとんどは大企業、ウォールストリートの銀行家の高級用心棒、もしくは資本主義に雇われた暴力団であった。」と書いています。

また、本の中でアメリカのトップ企業が実際に戦争から利益を得ていること、アメリカの納税者がどのように戦争のたびにその費用を払わされているか、に焦点を当てていました。企業の実名も出ていました。そして、彼は、そんな腐敗したシステムをどのように打ち砕けばいいのか、いくつかの提案で締めくくっていました。

バトラー氏の提案の一つは、「武器を取って戦いに赴く若者に、戦争をすべきか否かを決定させるべきである」というものです。彼は、開戦前には投票権のある若者に、いわば「限定的国民投票」を行わせるような法制度を作るべきだ、と述べていました。若者こそが戦闘に加わり、海外の戦争で命を落とすかもしれないのだから、そんな若者が投票し、今から宣戦布告すべきかどうか自ら決断できるようにするべきであると主張しました。

バトラー氏はこういった考えをまとめた著書を出した、わずか5年後に亡くなりました。パール・ハーバーも、広島も長崎も起きる前のことです。彼の言葉は、今の時代のアメリカには無邪気であるようにさえ、捉えられるでしょう。さらに、多くのアメリカ市民にとって、日本の憲法9条の理念は、現実として受け入れることは難しいし、そもそも、9条について一般のアメリカ市民はほとんど知識を持っていません。

アフリカ カナリア諸島 「憲法9条のモニュメント」

しかし、幸い、世界の全ての人が日本の憲法9条に無知、と言うわけではありません。ある所では実際に、日本の憲法9条のモニュメントが建てられ、人々がいつでも目にすることができるのです。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、それはカナリア諸島という、モロッコや西サハラ砂漠に近い、アフリカ北西沖にあるスペインの植民地です。人口約200万人の島嶼国に、小さいけれども輝かしい、日本国憲法9条のモニュメントが今なお存在しているのです。

実は、私も最近まで、このことを知りませんでした。去年、私が英語版の編集をしている、雑誌「デイズ・ジャパン」に寄稿をされている朝日新聞の伊藤千尋さんのお話を聞く機会があり、そこで伊藤さんから初めて聞いたのでした。

カナリア諸島のグラン・カナリア島テルデ市にある、その名も「ヒロシマ・ナガサキ広場」に、その「憲法9条のモニュメント」はあります。幅2メートル、高さ3メートルのタイルに、現地の言葉であるスペイン語で9条の条文が書かれていて、中学生、高校生の平和学習にも使われているとのことです。

1996年、当時のスペインでは、NATOからの脱退と、米軍のスペイン国内からの撤退を求める、大規模な抗議行動が行われていました。テルデ市でも、NATO脱退を求める運動が盛んで、当時のサンチアゴ市長が、「ヒロシマ・ナガサキ広場」の建設とその広場に「憲法9条のモニュメント」を建てることを議会に提案し、全会一致で可決されたそうです。

このように、日本を遠く離れたアフリカの沖に浮かぶ島に「憲法9条のモニュメント」がある、というのは、感動さえ覚えます。

日本の若者へ

このモニュメントがあるカナリア諸島から1万2千キロ以上離れた日本では、カナリア諸島の人々のように、憲法9条は活かされているでしょうか。また、前向きな変化をもたらす時間はまだあるのでしょうか。もしあるなら、私たちにどんなことができるでしょうか。皆さんと同じように、私も、答えよりも、聞きたいことの方がたくさんあります。一つ、急いでやらなければいけないと、私が感じているのは、若者への働きかけです。

2010年の国民投票に、厳しい条件を課すことで、当時安倍内閣は明らかに前もって結果をこしらえておこうとしていました。9条を守る唯一の手段は、国民の、特に若者の意識を緊急に高めることだと、私は思います。日本政府が、若者の戦争の恐怖や現実に対する無知に付け込んで、国民投票を可決させようと狙っているのは明らかだからです。否定的な方法ではなく、正直でオープンな方法で、若者たちに対して、何かできることはないでしょうか。

春の9条世界会議の大阪会場でも、大学生たちが、メッセージを発信していましたが、私は彼らのメッセージを聞いて、おおいに感動しました。今の日本の大学生の世代は、「『戦争を知らない子どもたち』の、子どもたち」です。しかし、私は、実際に何らかの形で戦争を体験した人間が、現在の若者に、戦争の現実を伝えていくことの重要性を感じています。

この春、私は、同志社大学に高木静子さんを特別ゲストとして招待し、私の教えているクラスで話をしていただきました。高木さんは1945年の原爆投下のときには学生で、広島に住んでいました。現在80歳になる高木さんは、被爆者として長く国際的な活動をする傍ら、「大阪市原爆被害者の会」の事務局長も務めておられます。高木さんの広島での被爆体験、またそれ以降の人生についてのお話は、私のクラスの学生たちの心を深く動かしました。学生たちの多くが、私の講座の中で最もよかったものとして高木さんのお話を挙げたのは、私にはとても嬉しいことでした。

また、昨年は、ベトナム戦争の元アメリカ海兵隊員で、日本でも講演活動をしているアレン・ネルソンさんに来ていただき、大学で学生たちに話をしてもらいました。ネルソンさんの話を聞くために、80名以上の学生が集まり、講演が終わった後も、学生たちは彼を囲んで質問を続けていました。一昨年には、作家の小田実さんに私の講義に来ていただき、大阪大空襲の話などを学生にしてもらいましたが、そのときも同じような光景が見られました。学生たちは、教師がテキストで教えることではなく、このような実体験に基づいた情報こそを、本当に必要としているのだと私は思います。

世界のどの国でも、いつも社会的な運動の勢いに、必要なエネルギーやひらめきを与えてくれるのは、若者たちです。9条運動にかかわる私たちが積極的に今の日本の若者に手を差し出し、彼らのエネルギーと純粋な理想をプラスの方向に導く手助けをするには、何をしたらいいでしょうか。
我々が日本憲法9条を、今の、そして将来の世代のために、真剣に守る必要があります。9条は、日本の私たち自身のために平和で安定した社会を約束するのみではなく、他の国の平和を愛する人々が、その意に反して他国の軍にむりやり「解放」されることがないように保証するものです。これは、東アジアの日本の近隣諸国、またアメリカ大陸とカリブ地域のアメリカ近隣諸国、その他の多くの国々が、長い間、はっきりと理解してきたことです。そうした人々のために、そして私たちのために、今から共に手を取り合って、この先永遠に、9条を守り、9条が活かされる社会を築いていきましょう。

これで私の話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。


Brian Covert (ブライアン・コバート): アメリカ・カリフォルニア州生まれ。カリフォルニア州立大学ジャーナリズム学科卒業。来日後、毎日新聞社英文編集部などで記者・編集者として勤務。現在は、インディペンデントジャーナリスト、同志社大学社会学部講師。著書は『アメリカの市民生活』(共著ひつじ書房)。1999年には詩集「命」を出した詩人でもある。