2008年12月5日配信
◎聞け、帰還兵の生の声を! ―― 現場の記録
TUPは現在、イラク戦争またはアフガニスタン戦争を体験した兵士たちによる体験・目撃証言の翻訳に取り組んでいます。
反戦イラク帰還兵の会が今年 3月に開催した「冬の兵士」公聴会における証言です。この歴史的イベントに立ち会った日本人ジャーナリストと TUPの出会いから、新たな映像作品が生まれようとしています。田保寿一氏の取材記録を紹介します。 (TUP/向井真澄)
ウインターソルジャー(冬の兵士)傍聴記 ――田保寿一 (映像ジャーナリスト)
桜のつぼみが春の訪れを告げるワシントンDCを、私は今年、「ウインターソルジャー」に参加するため、訪れた。「ウインターソルジャー」とは冬の厳しい時代に戦う愛国兵士という意味で、ベトナム帰還兵たちが戦争終結を訴えて 1971年に開いた公聴会の名前だ。その公聴会で帰還兵たちは、米兵がベトナム人を残虐に殺害している体験を証言した。
そして今回、2008年3月13日から16日、イラク・アフガニスタン戦争の帰還兵たちが、この戦争を終結させるために同じ名前の公聴会を開いた。
☆ウインターソルジャーの前に ―― プレスクラブにて
3月13日木曜日午後 1時、ホワイトハウスや議事堂にほど近いビルにあるプレスクラブでは、20代の青年たちが緊張した面持ちでプログラムを配っていた。キラキラとした目の若い女性も多いが、彼女たちも帰還兵だ。若者たちは「反戦イラク帰還兵の会」のメンバーで、この会は、米軍のイラクからの即時撤退、帰還兵の福利厚生、イラクへの賠償の三つを要求するために結成された。
70ほどの記者席の後ろに私は三脚を立て、ビデオカメラを設置した。他にも一人、日本人がいてビデオカメラを立てていたが、大学でメディアを研究している女性だという。日本の記者クラブでは、所属しない者が入って取材することは禁止されている。
ましてビデオカメラを設置することはできない。私はイラクで取材中に米軍に機関銃を向けられて撮影を禁止されたことが何度かあり、自殺攻撃現場で一時拘束されたことさえあったが、定例の記者会見は自由に取材できた。アメリカでは報道取材の自由が日本よりも認められているようだ。
三脚を置く場所を確保している時、ジェイソン・ハードさん(28歳)が彼女と一緒に会場に入って来た。彼は衛生兵としてバグダードに派遣された若者で、こういうお医者さんだったら安心して任せられると感じさせるような、やさしい顔立ちの青年だ。彼はワシントンDCから車で 8時間あまりのノースカロライナ州アッシュビルに住んでいて、私は、記者会見の約 1ヵ月前の 2月16日に彼の自宅を訪れている。当時、イラクの情勢が厳しくなり、現地での取材が困難になったので、私はイラクを離れてアメリカにやって来た。そして、米兵たちから戦争の現実を聞きたいと思い、反戦イラク帰還兵の会の存在を知って取材を申し込むと、ジェイソン・ハードさんが応じてくれることになった。その時、ウインターソルジャーの開催を聞いたので、一度帰国した後、この集会のために再訪した。
ハードさんが記者会見でスピーチした時、その表情がとても厳しかったので少し驚いた。彼の話は、米軍がイラクで市民に対して十分な理由も無いのに無差別射撃をしているという内容で、公表するのは勇気のいることだったろう。一人の記者が彼に、それはいつ、どこでなどとその詳細や、そんなことを公表して自分の部隊から文句を言われないかと質問していた。
ハードさんの真剣な表情を見て、かれらの話すことは一言もおろそかにはできない、公聴会がいよいよ始まるのだと感じた。
☆ウインターソルジャー初日
記者会見の後、プレスセンターから地下鉄とバスを乗り継いで2時間あまり、ワシントンDCとの境界の少し北にあるシルバースプリングの全米労働大学に向かった。午後3時、大講堂の入口に200人以上の人々が集まり、集会参加の手続きが始まる。入場は無料だが、名前や連絡先を書き、私の場合は報道関係という身分証をもらって入場した。
精悍な20代の青年たちは、ほとんどがイラク帰還兵だ。年齢が上の人たちは、ベトナム帰還兵や反戦運動をしている市民、そしてマスコミ関係者のようだ。
会場の後ろには、三脚に乗せられた10台以上のカメラがあった。半数ほどが『デモクラシーナウ!』という独立系放送局のもので、この集会を実況放送している。どこからかフランス語が聞こえてくるし、ドイツからビデオの取材チームも来ていた。しかし、大手マスコミの記者はほとんどおらず、結局、この集会は米国でろくに報道されなかったという。日本人の若い女性がいたので声をかけると『赤旗』紙の記者だった。日本の大手マスコミは取材に来なかったが、新聞としては『赤旗』だけが、この公聴会を報道した。
300ほどの椅子に相対し、「ウインターソルジャー」と書かれた大きな青いたれ幕の下に机と椅子が並べられ、そこに証言者たちが 5人から 10人ほど座り、一人ずつ順番に話をしていく。
13日は午後 7時から、ベトナム戦争に従軍した兵士たちなどが、ウインターソルジャーの由来や兵士たちの反戦運動の歴史を語った。
☆ウインターソルジャー第2日
翌14日金曜日、朝 9時からイラク帰還兵による最初の証言集会が行われた。テーマは「Rules of Engagement」となっていた。最初、私は意味がわからなかったので知りあったばかりのアメリカ人女性に聞くと、「どんな時に銃を撃っていいのか、敵とどう戦うべきなのかを決めた戦闘のルールのこと」だという。日本語では「交戦規定」となるが、戦争がルールのもとで行われているとは知らなかった。
元海兵隊軍曹、アダム・コケシュさん(26歳)が、大きな目を見開きながら傍聴席に向けて手のひらほどの大きさのカードを見せ、「これが、イラクに行く時に渡された交戦規定のカードだ」と説明した。そこには「法的な軍事目標だけを正しく判別して攻撃すべし」と書いてあるという。しかし、米軍は、これに反して軍事目標だけではなくて、一般市民を無差別に殺害しているという証言が続いた。
もっとも多い「交戦規定」違反行為の事例は検問所での無差別射撃で、コケシュさんも自分の体験を証言した。米軍は検問所をイラクの道路のあちこちに作っているが、ここを通る車が減速しない場合は敵とみなして射撃していい事になっており、多くの市民が射殺されている。これは、「法的な軍事目標」ではない市民を「正しく判別」しないで攻撃しているので、本来の交戦規定からは逸脱した行為だ。
このような行為がまかり通っていることを、私は、実は前回、アメリカに来たときにすでに聞いていた。イラク戦争が始まってから、この問題を最初に告発したのはジミー・マッシーさんで、彼を取材したからだ。彼は 2003年4月、バグダードで検問所を警備中に走ってきた乗用車が減速しないので射撃し、乗っていた三人の市民を射殺してしまった。その時、一人生き残ったイラク人運転手が彼を指差して「お前が兄弟を殺した」と叫んだという。
同じ月に、デモ隊に対する射撃によって多数のイラク人を殺傷した事件も起き、精神的に耐えられなかったジミーさんは、帰国後の2004年、ジャーナリストたちにそれらの事件を語った。
2005年9月にはフランスで彼の戦争体験記が出版された。本の題名は『Kill、Kill、Kill!』で、スペイン語にも訳され出版されることになる。
ジミーさんは、イラク人無差別殺傷事件公表で、軍から苦情を言われたり告発されたことはなかったそうだが、あるジャーナリトが噛み付いてきた。従軍していたというその記者は、「自分はそんな事件は見ていない。ジミー・マッシーは嘘をついている」という記事を書いた。しかし、ジミーさんによると、その記者は事件当日、彼の部隊にいなかったという。このようにして、ジミーさんが、米軍はイラク市民を無差別に殺戮しているという事実を 4年前に公表したのに、マスコミは、その証言は嘘だと攻撃の論陣を張るか黙殺し、米軍はその後もイラク市民の無差別殺戮を繰り返している。
そして 2008年3月14日、何人もの帰還兵たちが「ウインターソルジャー」で、ジミーさんが公表したような事件が、実は日常的に起きていると証言することになった。
ウインターソルジャーにジミー・マッシーさんの姿はなかった。彼は、自分の体験を証言する一方、2004年、仲間と共に反戦イラク帰還兵の会を創立した人物なので公聴会に参加するのが自然だ。しかし、「殺すという脅迫が来ているのでウインターソルジャーへの参加をひかえた」と私にメールで書いてきた。これをジェイソン・ハードさんに話すと、「反戦イラク帰還兵の会のメンバーに対する脅迫は日常茶飯事です。それでも私たちは、戦争を終わらせるために命を賭けて戦っているのです」と誇らしげに語った。
ウインターソルジャーでは、ジェイソン・ウエイン・レミューさん(25歳)が交戦規定の問題を、一番まとめて証言した。彼は海兵隊歩兵部隊で 4年10ヵ月働き、イラクに 3回派遣された。
「交戦規定を守ることによって、軍は、抑圧ではなく、被占領住民を守るというイメージを作り、占領を成功させることができるのに、アメリカはそれをしなかったためにイラク占領を失敗させてしまった」と彼は告発する。彼によると「クウェートからバグダードに進軍するときは、カードに書かれているような交戦規定を守ることを命じられたが、バグダードに着くころには、危険と感じたら誰でも撃ってかまわないと上官から命じられることになった」という。そして、それがエスカレートし、結局、市民を無差別に射殺するようになっていく。
他の帰還兵たちも同じ内容の証言をした。米軍の「交戦規定」はジュネーブ条約に準じ、「法的な軍事目標への攻撃」だけしか認めず、市民を攻撃してはいけないことになっている。しかし、司令官が、ことあるごとに市民を無差別攻撃するような命令を出し、「交戦規定」違反の攻撃が繰り返された結果、事実上「交戦規定」はないも同然になったという。
例えば、「重そうな荷物を持って近づく人は射殺することになっていた」とジェイソン・ウオッシュバーンさん(28歳)は証言した。彼らは実際に、荷物を抱えてやってきた女性を大口径の機関銃で射殺したが、粉々になった遺体や荷物を調べると中身は食料品で、彼らに運んできただけだったという。
サダムの軍隊がなくなった後、ゲリラ的に攻撃してくるイラク人が米軍の敵となった。彼らは、爆弾を荷物に見せかけて持って来たり、爆弾が仕込まれたジャケットを着て攻撃したりするケースもある。そうなると、もはや住民と区別できなくなり、司令官は「危険と感じれば近づく市民を射殺してもいい」と口頭の「交戦規定」を命じることになる。
日本では「サマワは非戦闘地域」として自衛隊が派兵されたが、米軍にとっては、サダムの軍を敗走させた占領開始時期(2003年3月〜4月)を過ぎても、戦争状態が続いているという認識だった。「野菜をいっぱい担いだ老婦人を射殺しろ」と上官から命じられたケースもあり、さすがに断ると「上官自ら、老婦人を射殺した」と話す兵士もいたという。自分たちが誰に攻撃されるかもわからないという恐怖の中で、市民を無差別殺戮する事態が生まれていく。
また、ジミーさんが市民殺害を証言した時にも、従軍記者が「そんな事件は見ていない」と反論したことでもわかるように、従軍記者のいないときを見計らって無差別攻撃は行われていたともいう。しかも、ウォッシュバーンさんによると、市民を間違って殺害した場合には、被害者は敵だったと言い抜けるために偽の証拠として使用する武器やシャベルをいつも用意しておくよう、上官から勧められていた。シャベルを遺体の上に置いて「交戦規定」どおり合法だ、シャベルを持っていたから射殺したと言い訳をするためだ。爆弾が地面の中に仕掛けられるケースが多数あり、シャベルを持ったイラク人は、即、射殺してもいいことになっているからだ。「交戦規定」をごまかすための嘘が米軍に蔓延している。
ジェイソン・ウエイン・レミューさんは「交戦規定は頻繁に書き換えられ、その内容は矛盾するものになりました。規定を強化しても現場では守られないし、市民を射殺しても誰もそれを報告しないのです」と語り、こう続けた。「私達は自分を守ることで精一杯でした。解放したはずの国で、市民の誰が爆弾で攻撃してきても不思議ではない状況になっていました。
そのため誰が敵かわからず、しかも命をかける使命もないので、海兵隊員は交戦規定を冗談か、あるいは、無事、故郷に帰るためには誤魔化すものと考えていたのです。このように交戦規定がでたらめになったのは戦略が間違っているためです」。そして、「モラルがなくなったことを恥じ、交戦規定を乱用しているイラクから直ちに軍を撤収すべきです」と証言を結んだ。
ウインターソルジャーでは 14日、15人の帰還兵がこの「交戦規定」というテーマで、2時間ずつ 2回に分けて証言をした。
1回目の証言の後の 11時から12時半は「帰還兵の健康の危機」、ランチタイムの後、2時から3時半まで「軍の契約業者と組織的な略奪」というテーマでの証言が行われ、その後に 2回目の「交戦規定」に関する証言が行われた。それに続いて「世界的な戦争とテロの目的、イラク、アフガニスタン戦争の政治的、法的、経済的な事情」というテーマで研究者やジャーナリストの講演があり、この証言集会を中継している『デモクラシーナウ!』のキャスターであるエイミー・グッドマンさんも出演した。
この日の証言がすべて終わったのは午後 8時半だった。その後、まとめの記者会見があるとプログラムにはあったがキャンセルされた。プログラムの証言者と実際の証言者とが違っているケースがあったのをみると、事前の打ち合わせが十分にされておらず、大雑把な枠だけが決められていたために、証言直後にそれをまとめることができなかったのかもしれない。午後9時半からフォークやヒップホップの催しがあったようだが、翌日の証言集会も早い時間から始まるので、残念ながら、私はエンターテインメントをパスしてワシントンDC市内の宿泊先に帰った。
☆ウインターソルジャー第3日
15日土曜日。朝の 9時から「分割と征服、性差、性行動と軍」というテーマで、米軍内におけるセクシャルハラスメントやレイプなどの問題に関する証言が行われた。日本では基地周辺で、米兵による性的な犯罪事件がしばしば起きているので、米軍の性の問題を考えるために、この証言は重要だと思う。
現在までに 16万人以上の女性兵士がイラクとアフガニスタンに派遣されていて、その71〜90パーセントの女性兵士がセクシャルハラスメントを受けたと証言している。そのうち、約三分の一の女性帰還兵が軍隊にいるときに性的な暴力を受けたり強姦されたと言っているという。このような証言は感情的にならざるをえないが、若い女性たちが、軍隊での忌まわしい体験を話す姿は痛々しかった。
この日は性に関する証言から始まり、米軍の持つ暴力性の深層を考えさせる証言が続いた。帰還兵たちが一番力を入れて企画していたのは「人種差別と戦争、敵の人間性を剥奪する」というテーマの証言で、午前11時から午後 3時半まで 2回に分けて行われた。ここでのキーワードは「ハジ」だった。
反戦イラク帰還兵の会ワシントンDC支部長のジェフ・ミラードさん(27歳)は、「911以降、米軍内部では、自分たちと違う人たちのことをハジと呼ぶようになった」と言う。「ハジ」とは本来はメッカを巡礼したイスラム教徒のことで、イラクに行くと、ターバンを巻いた人を指して「あの人はハジだ」と尊敬をこめて話す場面にしばしば出会う。ハジは地域の長老が多い。しかし、米軍は、その言葉に差別と軽蔑の意味を込めて使っていると言う。
ミラードさんの証言によると、ある検問所で射撃手が、夫婦と二人の幼い子供を乗せた車を撃って一家全員を殺害した事件が起きたとき、その報告会議で司令官が、「ハジの馬鹿が運転の仕方を知っていたらこんなことにはならなかった」と言い捨てたという。ミラードさんはそこに露出した、被害者を悼む気持ちも責任感もない軍人の姿にショックを受けた。そして彼は「人種差別と非人間化を最高司令官が命じ、最下層の兵士までそれに従っている」とし、米軍のイラク人無差別殺戮の背景には人種差別があると断言した。
「人種差別と戦争」の後、午後 4時から「イラク、アフガニスタン戦争の損害」というテーマで証言が行われ、ジャーナリストなどの話があった。午後 7時からは「家庭への戦争の被害」というテーマで証言があり、戦争で亡くなった兵士の家族や、戦争から帰国後に自殺した兵士の家族が証言した。
ジェフリー・マイケル・ルーシー伍長の母親、ジョイス・ルーシーさんは、イラク軍兵士の認識票を二つ手に取って傍聴席に見せながら、彼女の息子が帰国後、自殺した経緯を話した。「ジェフが帰国して以来、毎日のように吐いていたことに気づきました。そしてそれは亡くなる日まで続きました。クリスマスイブの日、娘はジェフの様子を気にして早めに帰ってきました。ジェフはお酒を飲んでいて、冷蔵庫の横に
立っていました。認識票を握りしめ、それを娘に放って、『自分は人殺しだ』と言ったそうです。」
ジェフリーさんが妹に打ち明けた話によると、彼は、米軍の捕虜だった二人のイラク軍の兵士を射殺するように命じられたという。無抵抗のイラク兵士を殺したことが心の重荷となり、それに耐えられなかったようだ。ジェフリーさんは、自分が殺害したイラク兵士に敬意を表するため、彼らの認識票を身に着けていたという。
米軍が捕虜を射殺していたことは国際条約違反で告発されるべきだが、この話は、戦争が「良心」あるものを追い詰めていくのを感じさせる。ウインターソルジャーで証言した帰還兵たちのように、自分の良心を根拠に行動を始める人たちがいることは人間の未来にとって、唯一の希望ではないだろうか。
また、この日、2004年8月にナジャフの戦闘で頭を撃ちぬかれて戦死したアレキサンドル・アレドンドさん(享年18歳)の父親、カルロス・アレドンドさんも、その無念の思いを語った。彼は、息子の戦死を知らせに来た海兵隊員の車にガソリンをかけて火をつけ、自らそこに飛び込んで瀕死の火傷を負った父親だ。彼の無念さは、子供を戦争で亡くした親たちに共通する気持ちだろう。アレドンドさんとはいろんな場所で何度も出会ったが、いつも帰還兵たちと抱き合っていた。彼にとって帰還兵たちはみんな息子や娘であり、反戦イラク帰還兵の会のメンバーにとって彼は父親だった。また、メンバーたちはお互いを兄弟、姉妹と呼びあってもいる。15日も証言が終わったのは 8時半だった。
☆ウインターソルジャー最終日
翌16日、日曜日はウインターソルジャーの最終日。
この日の証言が始まったのは午前10時で、午後1時までの3時間、「軍の瓦解」というテーマで証言が行われた。クリストファー・ゴールドスミスさん(27歳)は最初に子供時代の写真を見せ、「自分は国を守る気持ちでいっぱいのボーイスカウトだったが、そういう自分はイラク戦争の現実を見て死んでしまった」と言い、その写真を自分の前に立てた。そして、派兵された当時の軍服姿の写真を見せるや、それをバタリと倒して、なぜ過去の自分が死んだのか語り始めた。
彼はニューヨーク在住で、911の時に貿易センタービルが倒壊するのを見た。次の日、ピザレストランで人々が、「中東の人間をみな殺しにしろ」と言っているのを聞いたという。そして、彼も「中東を核爆弾で溶かしてしまえ」と思い、人を殺すためにイラク戦争に参加した。彼はバグダードのサドルシティに配備されたそうだが、そこは 2003年10月から私が何度も取材した町だった。
2004年4月、ここでマフディ軍=民兵と米軍が激しい戦闘を開始した。当時は毎日のように夜間、米軍がこの町を爆撃していた。朝、訪れると、町のあちこちに戦車に踏み潰されてペシャンコになった車や、砲撃されて金属の塊となり、まだくすぶっている乗用車やバスが放置されていた。また、集合住宅のあちこちに砲弾による大きな穴が開いている。中に住む市民は当然、女性や子供も含めて殺害されていた。瓦礫の中に哺乳瓶が落ちていたこともあった。生まれて間もない赤ん坊を含めた家族のほとんどが戦車の砲撃で殺害されたと、被害者家族のおじさんが話してくれた。町では毎日葬儀が行われ、多数の女性たちが集まっては、胸を叩いて泣き叫んでいる。
私は、ここで取材中に車に轢かれて脳挫傷となり、命からがら帰国したので、その後のことはよくわからなかった。だから、ゴールドスミスさんの証言を興味深く聞いた。
彼がここに派遣されたのは2005年1月から8月までで、私が帰国してから 1年ほど後のことだった。その時も米軍はマフディ軍=民兵と戦闘を続けていた。私は、マフディ軍や、それを創設したムクタダ・サドルを何度も取材したが、ムクタダ派は独自のコミュニティを形成している、住民による一種の相互扶助組織だった。マフディ軍も、血気はやった男たちがそれぞれの思いで武器をとっている統制のない集団に過ぎず、サドルの命令で戦っているというよりもそれぞれ勝手に米軍を攻撃し、それをサドルが追認するような事例が多かった。
ムクタダ・サドルは、イラクで最初に占領反対闘争を公言し、一貫してそれを主張し続けている人物で、占領という現実に対するイラク人の集合的無意識を背景に指導者となっていった。米軍はマフディ軍と戦車などの戦闘用車両、戦闘用ヘリコプターなどを使って全力で戦ったが、サドルシティではほとんどの住民がムクタダ派で、マフディ軍は、結局は住民の一部だから、米軍はマフディ軍と住民を区別できず、女子供を含めて無差別に殺害することになる。
同じようにムクタダ派が多いナジャフにある病院に行った時に、戦闘機からのミサイルによって爆撃された家にいた 10歳ほどの姉妹が、目を含む顔面や胸を包帯で巻かれ、ベッドに並んで寝ているのを見た。兄弟の少年も全身を負傷してその横のベッドにいた。彼らの母親が、その病院で治療できないほど重症なので転院のために運ばれる姿を目撃したが、自分の子供全員を傷つけられた親が、無残な表情で空を睨んでいたのは痛々しかった。
ウインターソルジャーの証言によると、砲撃でなくても、米軍の使う50口径の機関銃の破壊力はすさまじく、人間の首を吹き飛ばし、体には大きな穴が開くという。そういう高度な武器に対してイラクの住民は、カラシニコフ機関銃や携帯ロケット砲、手製の爆弾を武器に米軍と戦っている。彼らは、家族や友人を殺害する米軍と戦うことは正義だという確信を持っており、女性や子供たちも同じ思いを共有していた。私はサドルシティでたまたま、棒切れを振り回しながら行進する 10歳前後の男の子たち数十人の群れを目撃したことがあった。かわいい顔の少年たちは大人の真似をして「神は一つ。ムクタダ・サドル万歳、占領反対、アメリカは出て行け」と叫んでいた。
ゴールドスミスさんはウインターソルジャーで、サドルシティでの戦闘中に、機関銃のマークをつけた棒切れを持った男の子がビルの上から自分たちを撃つまねをしていたので、照準を合わせて射殺しようとしたことがあったと話した。「銃を向けながら数分間、私は考えた。イラク人は嫌いだ。石やレンガを投げてくる子供は嫌いだ。この子を殺せば手柄になる。数百万の中のたった一つの命じゃないか。考え抜いたすえ、引き金は引かなかった。私は 6歳の少年を、誰かの息子を殺そうとした」。子供までを殺そうとする自分は、いったい何のためにイラクを占領しているのだろうか? ゴールドスミスさんは、自分たち
のしている戦争に疑問を持つようになって精神的に苦しみ、帰国してからは酒浸りの日々を過ごしたという。
ファルージャの武装勢力を描いたとしてイラクで配布されているCDの映像の中に、機関銃を持つ 7歳くらいの子供の姿が映っている。そのあどけない表情は忘れられなかったが、今年2月、たまたま、独自に取材した帰還兵のマイク・ロビンソンさんは、少女が攻撃して来た事件があったと話した。彼の友人のジェイソン・ハードさんが「自分たちはイラクで罪を犯した」と語ったとき、彼の話を遮って、私にも罪の話があるとマイクさんは話し始めた。彼が、バラドにある基地の入り口を警備中、7歳の少女が門に近づいてきた。止まれと言っても止まらなかったので射殺命令が出て、射殺されたという。調べると胸に
爆弾が括り付けられ、服で隠されていた。マイクさんは、「それ以来、気になってしかたがないのだが、父親が、なぜそういうことを娘にさせたのか、わからない」と苦しい表情で語った。彼はほとんど泣きそうだった。
私は、彼のこの言葉を考えているうちに、イラクで出会ったある少女を思いだした。バグダードでホームレスの子供たちを取材していたとき、その中に 7歳くらいの少女がいて、アシュアと呼ばれていた。彼女は、私の宿泊していたホテルのあるカラダという商店街に連れて行ってくれと、しきりに頼んだ。言葉の壁もあり、なぜそう言うのか理由もわからなかったので、結局、彼女の望みをかなえてあげられなかった。
帰国後、日本人のNGOの人から、2003年の占領直後、カラダにフランス人NGOの作った施設が作られ、アシュアちゃんは一時、そこに保護されていたことを教えてもらった。しかし、自殺攻撃などが始まり、外国人が標的になってきたのでフランス人たちは安全が確保できないとして活動を停止し、アシュアちゃんも施設を追い出された。彼女は、そのフランス人の施設に帰りたかったのかもしれない。少女の身で路上生活は苦しかっただろう。
イラクは、イラン・イラク戦争、湾岸戦争、そしてイラク戦争と戦火が絶えない。戦争で親を殺害された子供たちを親戚が引き取るケースもあるだろうが、親戚も生活が苦しい場合、行き場がなくなることも多い。イラクでは多くのホームレスの子供たちが路上にあふれ、黒いイスラム衣装の女性が、子供たちの手を引いて路上で物乞いをしている姿も多く見られる。マイク・ロビンソンさんは、父親が 7歳の少女に自殺攻撃をさせた、と考えていたが、少女に必ずしも親がいたとは限らない。戦争が生み出したイラクの闇の深さは計り知れない。
3月16日、「米兵による抵抗運動の未来」というテーマでの証言を最後に、午後3時半、ウインターソルジャーは幕を閉じた。ウインターソルジャーを契機に、反戦イラク帰還兵の会に参加する帰還兵は大幅に増え、反戦運動に弾みがついたという。しかし、日本ではまだウインターソルジャーが開催されたことを知る人は少ない。
☆ウインターソルジャーの意味
私は、この証言集会を約50時間分、ほぼ全部をVTRで録画し、帰国して編集を始めた。しかし、彼らの証言を正しく理解することは語学力不足のために困難で、作業がなかなか進まなかった。
4ヵ月ほど過ぎた 7月、TUP=平和をめざす翻訳者たちがウインターソルジャーの翻訳を始めたことを知り、メンバーと連絡をとると翻訳などの協力をしてくれることになった。おかげで一気に編集が進み、11月、最初の編集版が完成を迎えた。ウインターソルジャーでの証言は本になり、9月に『WINTERSOLDIER-IRAQ AND AFGHANISTAN』という題名でアメリカで出版された。日本語版も出版されることになり、TUPがその翻訳を受け持っている。ウインターソルジャーの証言を検証し、分析する作業はこれからの課題だ。私もその意味の解読に参加したいと思う。
戦争に従軍した兵士たちが、まだその戦争が継続中に自らの任務を反省し、それを止めさせるために公聴会を開いた。その歴史的な意味が人々に理解され、人類の歴史の財産となる日が来ることを信じている。 (2008年11月22日)
田保寿一は 12月中にホームページを開設し、ウインターソルジャーに関する取材を公表し、DVD配布の告知を行います。今、米国の IVAW関係者とメールでやりとりしています。ホームページ開設後、そちらに IVAWやウインターソルジャーに関する質問が寄せられれば、IVAW関係者に問い合わせます。このホームページが、IVAWとウインターソルジャーの日本での窓口になれば良いと思っているものです。また、ウインターソルジャーの証言のほとんどを VTRで収録してあるので、もし希望があれば、いろんな手段で公開するつもりです。くわえて、まだ公表していない IVAW関係者やイラクの取材もあるので、そちらも順次公開していきたいと思っています。ウインターソルジャー関係の田保の Eメイルアドレスはtabojuichi@gamil.comです。