冬の兵士 ジェイソン・ハード
交戦規則 (5)
訳 寺尾光身 / TUP冬の兵士プロジェクト
今こそ魂が問われる時である。夏の兵士と日和見愛国者たちは、この危機を前に身をすくませ、祖国への奉仕から遠のくだろう。しかし、いま立ち向かう者たちこそ、人びとの愛と感謝を受ける資格を得る。トマス・ペイン、小冊子「アメリカの危機」第1号冒頭1776年12 月
メリーランド州シルバースプリング公聴会
2008年3月13〜16日
ジェイソン・ハードといいます。米陸軍兵士として、またテネシー州兵として、あわせて10年におよぶ軍務を最近無事に終えました。2004年11月から2005年11月まで、バグダード中心部で任務に就いていました。わたしは、テネシー州東部の山間にあるキングズポートという小さな町の出身です。ですから髭面の山男です。その町では、きれいに髭をそっていると、なかなか信用してもらえません。キングズポートは典型的なアメリカの田舎町と言えるでしょう。町角ごとにバプテスト教会があり、高級レストランでさえビスケット・アンド・グレイビー[アメリカ南部のお袋料理]が出てきます。
父、カール・C・ハードは2000年に亡くなりました。76歳でした。第2次世界大戦では海兵隊員でした。わたしは父の遅い子で、父が50代も後半になってからもうけた子です。実は、父が死んで少ししてから、第2次世界大戦で父が参加した2つの戦闘の名を腕に刺青してもらいました。父も同じ刺青をしていた。太平洋方面作戦に加わっていた父は、タラワ島戦とガダルカナル島戦に参加しています。どちらも先の大戦で最も血なまぐさい戦闘に数えられるものでした。
わたしが軍隊に入ろうと決めたのは1997年のことです。17歳でした。ちょうど高校を卒業したときで、人生で何をしたいのかはっきりわかっていなかった。わたしが軍に入ると言うと、父は頑なに反対しました。父自身はめったにお目にかかれないほどの戦争マニアで鉄砲好きでしたが、息子のこととなるとそんなふうには考えなかったようです。戦務が精神に及ぼす悪影響を知っていましたから。振り返ってみると……いま振り返ってみると、父がPTSD[心的外傷後ストレス障害]を抱えていたことは確かです。心に怒りを秘め、悪夢にうなされ、繰り返し蘇る過去の記憶に苛まれていました。
チグリス川を見下ろす監視所のひとつから、旧政権の共和国防衛隊兵舎が向こう岸に見えました。その中に壊れかけた兵舎が1棟ありました。ですが、この棟を無断居住者が占拠していることは知っていました。コカイン密売所みたいだなとか、やつらあそこを根城に麻薬を密売してるぞとか、冗談を言っていたものです。証拠なんてありません。ただの冗談でした。
ある日、その棟の周りでイラク警察が正体不明の数人と銃火を交えたことがありました。流れ弾が数発チグリス川を越えて飛んできて、わたしたちのハンビー[多用途軍用車両]の防弾板に当りました。ハンビー上部の銃塔にいた射撃手が50口径機関銃の弾丸をその建物に撃ち込むことにした。1ケース半ほどの弾丸を撃ち切りました。 わたしは武器の専門家ではありません。衛生兵です。でもついこの間の夜、何人かの同僚から話を聞いたので、みなさんにもわかりやすいように説明しましょう。50口径弾のケースには約150発の弾が入っています。50口径弾を200発も撃てば、おそらくこの会場にいるみなさんを皆殺しにすることができます。わたしたちは、必要もないのに、見境なくこの建物に向かって発砲しました。結局、何人死んだかわかりませんでした。あとで死傷者数を調べることもなかった。ほかの部隊がやってきて、惨劇のあとをきれいに片づけて行きました。
みなさん、これに類することがイラクでは毎日起こっています。わたしたちは恐怖心に駆られて反応します。殺されるのではないかという恐怖です。その結果、わたしたちは徹底的かつ全面的な破壊を行います。
この地域での監視所詰め任務を終えて、わたしたちは次の任務に移りました。わたしの小隊は、二つの爆破物処理隊の護衛に専任するように命じられました。ひとつは米海軍の、もうひとつはオーストラリアの処理隊です。第一日目に、米海軍の処理隊がわたしたちの小隊を呼び出し、全員に特殊訓練を受けさせました。わたしたちは呼び出され、こう言われました。
「いいか、爆発物処理隊はイラクでもっともよく狙われる攻撃対象のひとつだ。理由はって言うと、ほら、おれたち出動しては、車に仕掛けられた爆弾を解除しちまうだろ。抵抗勢力の戦術や作戦を台無しにしているわけだ。だから、おれたちは非常によく狙われる。お前たちがおれたちを護衛するには、もっと果敢な戦術をとる必要がある」
それから、こんな説明をされました。お前たちの任務は、それぞれのトラックを中心として半径50メートルの円を想定し、その円周に防衛線を張ることだ。トラックが走行中でも停車中でも、絶えず半径50メートルのドームですっぽりと覆っていなければならない。そしてそのドームの中に何か入り込んできたら、すぐにそれを追い出す。出て行こうとしなかったら、いわゆる攻撃性のレベルというやつを使うことになる。第1段階では、手振りで離れるように促す。次の段階では、地面に向けて威嚇射撃をする。それから、だんだん着弾点を問題の車に近づけてゆく。最終段階では、車を運転しているやつを撃つ。これは自分たちを守る手段です。イラクでは車輌爆弾は本当に危険です。実際のところ、わたしがバクダードで見たことの大半が車両爆弾でした。わたしたちの部隊は、それから数週間、この指針を厳密に守りました。
ですが、時間がたつにつれて戦争の狂気が入り込み、やることが度を越すようになりました。何の罪もない一般市民が自分たちの街の道で車を走らせているところに、わたしの部隊の兵士たちは、無差別に、必要もなく、銃弾を浴びせました。わたしの部隊は、わたしの小隊の兵士たちは、車のフロントグリルに銃弾を撃ち込んでは、任務を終えて夕方帰隊してから、よく自慢話をしていたものです。こんなふうに。「おいみんな、俺が撃った車を見たか? ラジエーター液をそこら中にピューピューやってたぜ。すっげーながめだったよな」って。あとで思い返して、そんなことを自慢して笑っている自分たちに、ぞっとしたことを覚えています。でも、これが戦場で行なわれていることです。これが現実です。これがあの苦境と何とか付き合う方法です。
爆発物処理隊の護衛を終えたあと、わたしたちは別の任務に移りました。キンディ通り地区のパトロールでした。そこはグリーンゾーン[アメリカがバクダード市内に防護壁で囲って作った安全地帯]のすぐ外にあります。キンディ通りは比較的高級な住宅街でした。住宅のなかには、アメリカでは価格がゆうに百万ドルを超えるようなものもあります。事前に聞いた話によると、この地区では暴力沙汰は一切なかったとのことでした。わたしたちがこの地区をパトロールし始めるまでは、です。定期的に巡回するパトロールとしては、米軍ではわたしたちが初めてでした。で、わたしたちは地区に入って行き、通りのパトロールを始めました。わたしたちは出かけて行って、地区住民に会って挨拶を始めました。住民がどんな問題を抱えているのか、どうしたら問題を解決できるのかを探ろうとしました。
ある日のパトロールのことを覚えています。徒歩でパトロールに出ていて、ある婦人の家の前を通りがかったときのことでした。婦人は庭で何か作業をしていました。わたしたちの連れていた通訳が、手を上げて言いました。「サラーム アレイクム」。イラクでの挨拶です。「神の平安があなたと共にあらんことを」という意味です。すると婦人が言い返したことを通訳がわたしたちに教えてくれました。「いいや、お前たちには神の平安などありませんように」と言っていた。婦人は怒って、イライラしていました。それで、わたしたちは立ち止まり、通訳が言いました。「あの、何かありましたか? 何をそんなに怒っているのですか? わたしたちはここであなた方を守っています。あなた方の安全を確保するためにここにいるんですよ」
その婦人は話し始めました。数カ月前、婦人の夫が米軍の車両部隊に射殺されたことを。隊列に近づき過ぎたのが原因です。彼は抵抗分子ではありませんでしたし、テロリストでもありませんでした。ただ家族のために生計を立てようと働いていたひとりの男に過ぎません。さらに悪いことに、数週間後に、特殊部隊のチームがキンディ地区で作戦を展開した。ご存じのように、特殊部隊は秘密作戦を行う部隊です。ですから、ここはわたしたちの部隊の作戦地区でも、特殊部隊のチームがここで実際に何をやっていたのか、わたしたちには知るよしもありません。
特殊部隊は、キンディ通り地区のあるビルを占拠し、根城に変えた。婦人の夫が死んだ数週間後に、特殊部隊は婦人が抵抗勢力を支援しているとの情報をつかみました。そこで婦人の家に急襲を掛け、婦人とその二人の子どもに簡易手錠をかけ、床に放り投げました。息子さんは年齢的に抵抗勢力予備軍たり得ると見なされたのだと思います。部隊はその子を拘束して連れ去ってしまった。それから2週間、婦人には息子さんが生きているのか、死んでいるのか、もっと悪いことになっているのか、まったくわからなかった。2週間が過ぎて、特殊部隊チームが車で乗りつけ、息子さんを降ろして、謝罪らしい言葉もなしに、走り去りました。つまり彼らは、自分たちが誤った情報に基づいて行動していたことに気付いた、ということです。みなさん、似たようなことがイラクでは毎日のように起こっています。わたしたちはイラクの人びとを苦しめている。わたしたちはイラク人の生活を破壊しています。
わたしのごく個人的な話をしたいと思います。どうか辛抱してお付き合いいただきたい。このことを、わたしはいつもうまく話せないので。ある日のことです。わたしたちはその日もキンディ通りの歩行パトロールに当たっていました。わたしたちは、「ガーデンセンター」というその名のとおり、柵で囲まれた庭を通り過ぎようとしていました。方針通り、わたしたちは人や車を一切隊列に近づけてはなりません。そこへ、1台の車が前方から近づいてきました。わたしは衛生兵なので隊列の後ろの方にいました。衛生兵は小隊軍曹とともに後方にいて、前方で何か起きたときに対処することになっています。車が隊列に近づかないよう、前方にいた隊員たちが手を振ってその車を脇道に追い払いました。
わたしがその脇道まで追いついたとき、脇道に入ったその車がUターンして、われわれの方に戻ってきました。向こうの出口がコンクリート製のT字型障壁で塞がれていたからです。それで、わたしも攻撃性のレベルというものに従って対応し始めました。手を上げて車を止めようとした。すると車はスピードを上げた。そこで思いました、なんてこった! これだな。こいつ、俺たちをやろうとしている。そして、方針に従って銃を構えるという、やるべきことをやりもせず、代わりに、決してやってはならないことをしてしまいました。武器から完全に手を離し、手を前後に振りながらジャンプを繰り返しました。その車が止まって、わたしを見てくれるように。車は近づくのをやめません。それで、銃を向けましたが、車はなお近づいてくる。わたしは銃の安全装置を解除しました。車はまだ止まりません。
わたしは引き金に力をかけ、その車を撃つ体勢をとりました。そこにいきなりひとりの男が道路脇から出てきて車に止まるよう合図し、止めさせました。男は運転席側のドアの方に回って、ドアを開け放ちました。ひょこっと出てきたのは80になる老婦人でした。あとでわかったことですが、この婦人はその地域でとても尊敬されている人物で、もしこの女性に向けて発砲していたらどんなことになっていたか、想像もつきません。暴動にでもなっていたでしょう。
みなさん、わたしは銃を憎みます。10年間を軍隊で過ごし、イラクでは2丁の銃を携えていました。しかし銃は溶かして宝飾品にしてしまうべきだと思います。今日に至るまで、あの事件は、人生でやったことの中で最悪のことでした。わたしは平和を好む人間です。それでもイラクでは、わたしに気がつかなかった80歳の老婦人に銃を向けてしまった。彼女が気づかなかったのは、わたしがカーキ色の迷彩服を着て、カーキ色の車、失礼、カーキ色のビルの前にいたからなのに。
もうひとつ、わたしの個人的な体験をお話ししましょう。次にわたしたちに与えられた任務は、グリーンゾーンの入り口の主検問所に詰めることでした。わたしたちはこの検問所を第11屠畜場と呼んでいた。というのは、わたしたちがイラク入りしたまさにその日に、この検問所で車両爆弾が爆発したからです。わたしたちはあのとき、数ブロック離れたところにいました。何が起こったのか誰にもわからなかった。それで聞いてまわりました。さっきのは何だったんだ? 何だったんだ?」って。ああ、あれは車両爆弾で、第11検問所で毎朝爆発するのさ。それが第11屠畜場という名前の由来です。毎日、車両爆弾の爆発で、時計を正しい時刻に合わせることもできるくらいでした。
派遣も終わりに近づいた頃、その検問所を引き継ぐという任務が与えられました。わたしの部隊はこう訴えた。「あなた方、どうかしてませんか? われわれはもう2〜3カ月で帰国するんですよ。どうして第11屠畜場の任務が回ってくるんですか? わたしたちを死なせたいんですか?」
その検問所を引き継いで自分たちで運営した最初の日、爆弾を仕掛けた車が乗り入れてきて爆発しました。あとでわかったのですが、その車に積まれていた爆薬は450キロを超えます。運よく、仲間はだれもけがをしませんでした。みんな身を隠す場所を見つけられたので、爆弾にやられずにすんだ。しかし、検問所に入るために列を作っていた数多くのイラク市民が命を奪われた。何人死んだかわからない。さらに大勢が負傷しました。その日、わたしが自分で手当てをしたのは5人。さらに救助しようとしたときにはすでに、20人から30人が民間の救急車に運び込まれていたと思います。
ですが、今日この日まで、心に焼き付いている光景があります。検問所の前にいたわたしに向かって、ひとりの男が、痩せこけ真っ青な顔色をした17〜18歳の若いイラク人を抱えて走ってくる様子を覚えています。男は、抱えてきた若者をわたしの足元に横たえました。見下ろすと、腕がここからここまで[と言いながら、肩の少し下から肘の上までを示す]ないのです。ひじから先は皮膚の切れ端でつながっていた。骨が突き出し、ひどく出血していました。胴のいたるところに弾の破裂片による傷があった。背中に傷がないか調べようと、脇が下になるように身体を回すと、左の尻の肉が完全になくなっているのに気がついた。出血も激しく、血だまりが広がっていました。今でもこのときの様子が心の目に焼き付いています。ほとんど2〜3日おきに、心の目に赤い閃光が走ります。形らしいものは何もなく、ただの赤い閃光です。そしてそのたびに、わたしはあのときのことを連想するのです。この占領で、わたしたちはイラク市民の生活を滅茶苦茶にしているばかりでなく、帰還兵の生活も破壊しています。
みなさん、控えめの統計データでも、イラク人の大半が連合軍に対する攻撃を支持しており、イラク人の大半がわたしたちの即時撤退に賛成で、イラク人の大半がイラクにおける暴力の主要因はわたしたちだと思っています。これは、イラクの人びとの一般的な感情がどんなものであるかを示しています。わたしはそれをみなさんにこんなふうに説明したいと思います。特に南部のみなさんにです。というのも、これは南部人には真実味のある話だからです。もし外国の占領軍がここアメリカに来て、わたしたちにどんなことを言ったとしても、ここに来たのはわたしたちを解放するためだとか、自由にするためだとか、民主主義を与えるためだとか言ったってですよ、散弾銃を持っている者ならだれでも、隠れていた丘から出て、自決権のために闘うに違いないとは思いませんか。
ではこのようにまとめてみたいと思います。イラクにおける国民感情はこうです。キンディ通り地区にパトロールに出ていた別のときでした。お話ししましたように、わたしたちの任務のひとつは、地域住民に会って挨拶を交わし、彼らがどんな問題を抱えているかを探り出すことです。それで、通訳を連れて、道路脇にいた一人の男に近づき、こう尋ねました。「すみません、わたしたちがここにいることで、あなた方の生活は良くなっていますか? より安全になっていますか? 以前より安心感がありますか? わたしたちがあなた方を解放していると感じますか?」 するとその男は、わたしの目を真っ直ぐに見て言いました。「わたしたちイラク人は、あなた方が善意を持ってここにいることはわかっています。ですが、事実はこうなんです。アメリカが侵略してくる前は、このあたりで車両爆弾の心配をする必要などありませんでした。学校に歩いて通うわが子の安全を気にする必要もなかった。自分たちの町の道路を車で行き来するときに、米兵に撃たれる心配をする必要もありませんでした」
みなさん、イラクは苦難に苛まれ、国がずたずたになっています。その苦難を終わらせるための第1歩は、まずわたしたちの軍隊がすべて、今すぐに撤退することです。どうもありがとうございました。
凡例: [ ]は訳文の補助語句。
2008年9月、反戦イラク帰還兵の会(IVAW)、冬の兵士の証言集を全米で刊行。
仮題『冬の兵士証言集──イラク・アフガニスタン帰還兵が明かす戦争の真相』
編集アーロン・グランツ
Winter Soldier: Iraq and Afghanistan: Eyewitness Accounts of the Occupations, by Iraq Veterans Against the War, edited by Aaron Glantz,
(Haymarket Books; September, 2008).
>>Haymarket Books
>>amazon.com
★岩波書店より刊行予定。現在、TUPにて邦訳作業中。
イラク戦争を追いつづけてきたジャーナリストが『証言集』の書評を書いている。
- 速報785号「ダール・ジャマイルが解説する冬の兵士証言集」& lt;/li>
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- TUP冬の兵士プロジェクト 証言の一覧
- ジェイソン・ハードの証言ビデオ
http://ivaw.org/wintersoldier/testimony/rules-engagement-part-1/jason-hurd/video
http://warcomeshome.org/content/jason-hurd - 反戦イラク帰還兵の会 公式サイト
Iraq Veterans Against the War
http://ivaw.org/ - 反戦イラク帰還兵の会「冬の兵士」特集ページ
Winter Soldier: Iraq & Afghanistan
Eyewitness Accounts of the Occupations
http://ivaw.org/wintersoldier - KPFAラジオ プロジェクト"The War Comes Home"
http://www.warcomeshome.org/ - 田保寿一 ドキュメンタリー
イラク帰還兵の証言集会
Winter Soldier 冬の兵士 良心の告発
http://wintersoldier.web.fc2.com/wintersoldier.html