DATE: 2003年5月4日(日) 午前2時03分
エルサルバドルの大司教、人間の盾に殉じた若いアメリカ人女性、イスラエル の若い占領地兵役拒否者たち、そして19世紀に戦争目的税に抵抗した、森の 賢者ソロー――「すべての闘いは、地球規模で共鳴しあっています」
講演者スーザン・ソンタグは、地球規模の闘いの精神的風景を鮮やかに描き、 現場での具体的な運動の心構えを語ります。
井上 利男/TUP
オスカル・ロメロ賞 授賞式基調スピーチ: 『平和と公正を称える』
―スーザン・ソンタグ 2003年4月27日
【原文】ZNet | Mideast Honoring Peace And Justice/A Keynote Speech by Susan Sontag; April 27, 2003 http://www.zmag.org/content/print_article.cfm?itemID=3527§ionID=22
まず、ここで故人を偲ぶことをお許しください。ひとりではなく、お二人の故 人です。お二人だけです。彼らはヒーローでした。何百万ものヒーローのなか の二人でした。彼らは犠牲者でした。何百万、何千万の犠牲者のなかの二人で した。
最初の一人は、サンサルバドルの大司教、オスカル・アルヌルフォ・ロメロで す。23年前、1980年3月24日、ミサ執行のさなか、祭服着用のまま、 殺されました。(本日、イシャイ・メヌチンに授与されましたオスカル・ロメ ロ賞の記載内容を引用しますが)彼が「公正な平和の唱導者」となり、「暴力 と抑圧を旨とする勢力に公然と反対を唱えた」からです。
二人目は、ワシントン州オリンピア出身、23才の学生のレイチェル・コリー です。2週間前、2003年3月16日、ガザ地区南部の(エジプトと境を接 する)ラファフで、ほぼ日常化しているイスラエル軍による住宅破壊の現場で、 『人間の盾』たちが安全性の向上を期して、被視認性を高めるために用いる、 反射材の縞模様を入れた、発色性蛍光オレンジのジャケットを着用していたの に、殺害されました。取り壊しの矛先が向けられていたパレスチナ人医師の住 宅の前で、アメリカとイギリスから来た8人の若い人間の盾ボランティアの一 人として、コリーは、迫ってくるD-9装甲トラクターのオペレーターに向き 合い、手を打ち振り、メガホンで叫びかけていましたが、減速もしないで迫る 超大型ブルドーザーの前に膝を折り、崩れました。
彼ら二人の人物は犠牲の象徴であり、非暴力で、理に適う、だが危険である異 議申し立てをなした、当の暴力と抑圧の勢力に殺害されたのです。
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先ず、リスクから始めましょう。罰せられるリスク、孤立させられるリスクで あり、傷害、あるいは殺害されるリスク、はたまた嘲笑されるリスクです。
私たちはある意味ですべて召集兵です。私たち皆にとって、列を乱すのは困難 なことです。忠誠心について考えが違う多数派の感情を害し、批難の的になる のは苦しいですし、酷評されるのも、暴力を蒙るのも大変です。だから、私た ちは正義、平和、融和といった類の標語の下に逃げ込み、こじんまりしていて、 力もそれほどないが、現代的ではある、似た者同士の共同体に巻き込まれるの です。そうしたものが、練兵場や戦場でなくとも、いわゆるデモ、抗議行動、 市民的不服従パーフォマンスに私たちを動員するのです。
自己の帰属集団から足を踏み外す行為は、疎外感を伴います。あなたにとって、 疎外感と違和感が慣れ親しんだ、あるいは喜ばしい心的状態でないならば、自 分の仲間たちから別れて、精神的には広大だが、人数としては小規模な世界へ 赴くとすれば、錯綜し、困難な旅路を辿ることになります。
集団メンバーの生命の価値を、すべての他者のそれよりも上位に置くという知 恵、すなわち帰属集団の知恵を否定するのは困難です。他集団の人命の価値は、 自分たちのそれと同等であると発言すれば、どんな時でも不評を買うでしょう。 どんな時でも非国民扱いされるでしょう。
私たちが見知っていて、交際もあり、心寄せ、分かち合いもする人々――言わ ば、恐怖を共有する共同体に忠誠を誓うほうが楽なのです。
私たちが対抗する勢力を見くびらないでおきましょう。多数者の恐怖によって、 正当であると考えられた残虐行為と弾圧に、あえて異を唱える人々に加えられ うる報復の力を過小評価しないでおきましょう。
私たちは生身の存在です。銃剣で貫かれもしますし、自爆テロでバラバラにも なります。ブルドーザーで潰されますし、大聖堂の中でも銃撃されます。
恐怖が人々を結束させます。また、恐怖が人々を分断します。恐怖と同様に、 勇気は伝染しますので、手本となる勇気が共同体を奮いたたします。しかし、 その勇気でも、ある種の勇気は勇者を孤立させるのです。
道義の本質は永続です。誰もが道義をわきまえていると公言しますが、都合し だいで、道義はいとも簡単に棄てられます。一般的に言って、道義は人を慣例 と衝突させるものなのです。社会が言行一致して道義を本当に守ることを願う あまり、共同体が抱える矛盾を突くようなことがあれば、その人は報復の憂き 目に遭いますし、衝突は因果をもたらすものであり、時に面白くない結果にな ります。
社会なるものは、自ら公言する道義を現実に具えてしかるべきであるという価 値基準は、人の道が現実に状況と相反しているのですから、ユートピア的幻想 に過ぎませんし、これからもずっとそうでしょう。物事の現実は、絶対悪でも、 絶対善でもなく、不完全で、矛盾していて、粗雑なのですし、これからもずっ とそうなのです。道義は、矛盾の泥沼のただなかで正しく生きるために、なん らかの行動をなすようにと誘っています。道義は、私たちの行いを清めるよう にと、だらしない素行、妥協、臆病を認めず、不和混乱の種に近寄らないよう にと誘っています。私たちの行いは正しくないと告げる、心に秘めた痛みがあ り、考えないでいるほうが楽だよと、そっと囁くのです。
人の道に外れた人たちは、「できる限りの最善を尽くしているのだ」というもの です。もちろん、与えられた状況での最善です。
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さて、道義とは何でしょう――世人を威圧したり、恥じ入らせるのは、間違っ ています。世人の住居と適正な食事を組織的に奪ってはなりません。世人の居 住地、生活手段、教育、医療機関への交通手段、たがいに交際する能力を破壊 してはなりません。
どんなに怒っていても、このようなことをするのは間違っています。
そして怒りはあるものです。怒りも否定すべきではありません。
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私たちの倫理生活と私たちの倫理想像力の核心に、抵抗の偉大な模範、すなわ ち、嫌だと言った人たちの偉大な物語があります。嫌だ、私は忍従しない。
どんな模範であり、どんな物語なのでしょうか? モルモン教徒であれば、一 夫多妻禁止令に抵抗するでしょう。中絶反対論者であれば、中絶容認法令に抵 抗するでしょう。彼らにしても、世俗社会の命令に抗して、宗教(または信仰) と道義に訴えるでしょう。国法に反抗するための絶対的根拠として、より上位 の法に訴えるのは、正義のためのもっとも崇高な闘いを擁護するためにも、犯 罪的な破戒行為を正当化するためにも用いうるのです。
勇気なるものは、それ自体では、道義としての善ではありませんので、勇気自 体に倫理価値があるのではありません。卑劣な悪党、殺人犯、テロリストが勇 敢であるかもしれません。勇気を徳目として定義するためには、形容詞が必要 です。私たちは、「真の勇気」のことを語ります。没道徳の勇気というものもあ るからです。
レジスタンス自体にも、価値はありません。抵抗の真価を決めるのは、その内 容であり、倫理上の必要性なのです。
例えば、犯罪的な戦争に対する抵抗と言ってみましょう。他国民の土地の占領 と併合に対する抵抗と言ってみましょう。
さらに、レジスタンスに生得的に備わる美点などはありません。正当な抵抗で あるとする私たちの主張は、すべて、抵抗活動家たちが正義の名の下に行動し ていると言う申し立ての正当性に依拠しているのです。そして、動機の正当性 は、主義主張を申し立てる人たちの美徳に宿っているのでも、美徳によって膨 れ上がるものではありません。正当性は、ものごとの始まりから終りまで、偽 りなく、不公正で不必要な状況があると言う認識の真実性にかかっているので す。
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ここに、私が真実であると信じている状況があり、これを認識するために、長 年にわたり、私は不安、無知、苦悶を潜り抜けねばなりませんでした。
傷つき、怖れている国であるイスラエルは不穏な歴史を歩んできましたが、 1967年の中東戦争で勝ち取った領域での、入植地を拡大強化する政策を止 むことなく推進してきたために、最大の危機に直面しています。イスラエル統治 の継続決定が、西岸地域とガザ地区の支配を固定化することによって、隣人で あるパレスチナ民族の独自国家を否定することになり、双方の民族にとって、 倫理的、人道的、政治的に破局的状況をもたらしました。パレスチナ人には主 権国家が必要です。イスラエルにも、パレスチナ主権国家が必要です。外国に いる私たちは、イスラエルの存続を願うとしても、イスラエルが生存するため に、手段を選ばないことまでは願えないし、願うべきではないのです。イスラ エル軍の制圧下で、また入植地占領下で、苛酷になる一方の束縛を課せられて いるパレスチナ人の苦難を、記述し、記録し、異議を唱えてきた、イスラエル の勇気あるユダヤ人証言者、ジャーナリスト、建設家、詩人、小説家、大学教 授に対して、私たちには格段の恩義があります。
私たちは、1967年当時の国境の外での兵役を拒否したイシャイ・メヌチン に代表される、勇敢なイスラエル兵士たちに最大の賛辞を贈らねばなりません。 すべての入植地は最終的には撤退しなければならないことを、これらの兵士た ちは知っているのです。これらの兵士たちはユダヤ人であり、1946年の ニュルンベルク裁判で提唱された原則を忠実に遵守したのです。すなわち、兵士 には、戦時国際法に違反する不当な命令に従う義務はなく、この場合、不服従 こそが確かな義務なのです。
占領地域での兵役を拒否しているイスラエル兵士たちは、特定の命令を拒絶し ているのではありません。違法な命令が間違いなく下される地域、言い替えれ ば、パレスチナ民間人に課せられている抑圧と屈服の固定化のための任務遂行 を命じられるのが確実な土地への立ち入りを、彼らは拒んでいるのです。家屋 は取り壊し、果樹園は根絶し、村落マーケットの露店はブルドーザーで潰し、 文化センターは略奪し、今や、ほぼ毎日、あらゆる年齢層の民間人を射撃し、 殺しているのです。将来のパレスチナ国家が樹立されるはずの、元英領パレス チナ領域の22パーセントに当たる土地での、イスラエル占領政策の残虐性の 深まりには論争の余地もありえません。私と同じように、彼ら兵士たちは、占 領地から無条件に撤退すべきであると信じているのです。「一国民全体を支配 し、駆逐し、飢えさせ、屈服させるために」、1967年時国境を越えて、戦 い続ける意志はないと、彼らは集団宣言したのです。
入植地は解体されなければならないという、掛替えのない最終的な要求に比較 すれば、拒否宣言者たち(現在では、1100人ほどであり、そのうち250 人以上が入獄)の行動でさえも、イスラエル人とパレスチナ人との和平を達成 する方法として、私たちを納得させうるわけではありません。パレスチナ自治 政府の改革と民主化が強く求められていますが、この英雄的な少数派の行動が 役立つわけではありません。彼らの姿勢が、イスラエル社会にはびこる宗教的 敵対感情と民族優越感の支配力をやわらげるのでもありませんし、虐げられた アラブ世界で繰り広げられる、憎しみに燃えた反ユダヤ扇動の宣伝を減らすわ けでもありません。それが、自爆テロを防ぐこともないでしょう。
それは、単純に、もうじゅうぶんだと宣言しているのです。言い替えますと、 ものごとには限度がある、と……。イェシュ・グヴル。
それは、抵抗、不服従の手本になっています。抵抗、不服従には、いつでも罰 則があります。
私たちの誰れひとりとして、彼ら勇敢な新兵たちが耐え抜いたような試練に直 面していません。監獄に入った者も多いのです。
現時点で、この国で、平和のために語れば、(今年度のアカデミー授賞式会場 でのように)嘲られ、攻撃され、(ディキシー・チックスが最有力ラジオ系列で 放送禁止されたように)ブラックリストに名が載るだけです。早い話が、非国 民の悪口が広がるだけです。
私たちには、『我ら一致団結して(United We Stand)』とか、『勝てば官軍 (Winner Takes All)』気質があり、合衆国は、愛国心を国民総和と等しいもの とした国家なのです。今でももっとも卓越したアメリカ観察者であると言える トクヴィルは、当時、新生国家だったアメリカのいまだかってない画一性に着 目しましたが、168年の時の流れは、彼の観察の正しさを追認しているだけ です。
アメリカの外交政策が急激に動き、新しい局面にさしかかると、時に、アメリ カの偉大さについての国家的合意が欠かせないかのようなのです。ともすれ ば、それが途方もなく活性化して、勝利至上主義者の国家的自己愛にまで沸騰し、 やがてこの度のような戦争の形に昇華して、世界を統治するのがアメリカの権 利であり、義務でさえもあると説得された国民大多数の協賛を得るのです。
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道義に基づいて行動する人々の到来を告げる通常の方法は、彼らは不正行為に 対する反乱の最終勝利の前衛であると言うことです。
だが、そうでない場合には、どうしましょうか?
実際には、悪が不滅であれば、どうしましょうか? 少なくとも、当面はで す。 そして、その当面が、ずっと続き、実に末永く存続するのです。
占領地での兵役を拒否する兵士たちへの私の賞賛の念は、彼らの良識が勝利す るまでには長い時が必要であるという私の確信が強ければ強いほどに、深まる のです。
力のバランスを目に見えて変える見込みもなく、平和の旗印の下ではなく、治 安確保のスローガンの下での行動を要求する政府方針の、目にあまる不公正と 残虐行為を改める見通しも立っていない時に、道理に従って行動していること が、それ自体の自明の理により、今この瞬間、私の脳裏にしっかり刻まれるの です。
軍事力はそれ自体の論理を持っています。他国に侵略されて、抵抗する時に は、 銃後の国民に、戦闘継続が必要であると納得させるのは容易です。ひとたび前 線に軍が出動すれば、兵士たちは支持されなければなりません。そもそも軍が 前線にいるのは何故かと問題にするのは、お門違いになります。
『我が国』が攻撃され、脅かされているので、兵士たちは前線にいるのです。 我が国の側から先制攻撃を開始したことなどは、決して気にしないのです。敵 が反撃に打って出ていて、死傷者が出ているのです。『適正』な行為など平然 と無視して、振る舞うのです。世界の私たち側の人たちが、世界のあちら側の 人たちを名指すのに、好んで使う言葉ですが、『野蛮人』のように振る舞うの です。そして、敵の『野蛮』で『無法』な行為が、新たな侵略のさらなる口実 を与えるのです。さらに、勢いが新たに勢いを呼んで、政府が手を染めた侵略 に反対する市民を抑圧し、検閲し、迫害するのです。
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私たちが反対する勢力を見くびらないでおきましょう。
ほとんど万人にとって、世界は実質的にコントロールがまったく及ばない場で す。世人共通の感覚と自己防衛意識が、自分に変えられないものには巻かれろ と囁きます。
正義について、戦争の必要性について、どのように私たちの一部が説得される のかを、いとも簡単に目撃することができます。とりわけ、小規模で限定的な 軍事行動であり、実際に平和と安全保障の構築に貢献する戦争であると説明さ れると、侵略が武装解除(もちろん、敵の武装解除)のための作戦行動であると 声明に謳われると、さらに、遺憾なことに圧倒的な軍事力の投入が必要になれ ば、その侵略は解放戦争と公式に呼ばれることになるのです。
戦時のいかなる暴力も、報復として正当化されます。私たちは脅かされている のです。私たちは自国を防衛しているのです。他国の敵が私たちを殺害したが っているのです。私たちは敵を阻止しなければなりません。
ことここに到れば、敵が計画を実施に移す前に、私たちは阻止しなければなり ません。私たちを攻撃しかねない敵が非戦闘員の背後に潜んでいるならば、市 民生活のいかなる側面も我が方の略奪行為から逃れる術はありえません。
軍事力、経済力、火力、あるいは単なる人口の格差など、けっして気にするこ とはありません。イラクの人口が2400万であり、その半分が子ども年齢で あることを、果たして何人のアメリカ人が知っているのでしょうか?(アメリ カの人口は、もう忘れないでしょうが、2億9000万です) 敵の砲火を浴び て、逃げてくる人々を支援しないのは、大逆の罪にも匹敵するように思えま す。
ある場合には、脅威が現実的でありえます。
そのような状況では、道義原則の持ち主は、「止まれ! 止まるのだ!」と叫び ながら、疾走する列車の動きを追いかけているようにも見えます。
列車を止められるでしょうか? いいえ、止められません。少なくとも、今は 止められません。
列車に乗っている人々が飛び降りる気になって、地上の人々に加わるでしょう か? たぶん、何人かはそうするでしょうが、大多数の人たちはそうしないで しょう。(少なくとも、新たな恐怖が一通り出揃うまでは、そうしないでしょう)
『道義に基づく行動』のドラマツゥルギー(上演法)に即して言えば、私たちは、 道義に基づいて行動することが方便であるかどうかを考える必要はありません し、私たちが始めた行動の結果としての成功が期待できるかどうかを考える必 要もありません。道義に基づいて行動すること自体が善であると、私たちは聞 かされてきました。
それでも、あなたが自分のためにそれを実行するのではないという意味で、そ れは政治的行為であることには変わりありません。あなたが正しくあるために、 あるいは自分の良心を満足するために、行動するのではありません。いわんや、 自分の行動がその目的を達成する確信があるからでもありません。 あなたは 連帯行動として抵抗するのです。ここでも、どこでも、道義を抱き、屈服しな い人々の共同体との連帯なのです。現在もそうです。将来もそうなのです。
1846年に、ソローがアメリカの対メキシコ戦争に抗議して、人頭税納入を 拒否し、入獄しましたが、戦争を止めたとはとても言えません。しかし、(よ く知られた話ですが、獄中一晩という)非罰的で最短の刑期が、共鳴現象を引 き起こして、不公正に対する道義的抵抗を鼓舞しつつ、20世紀後半を通して 鳴り響き、私たちの新しい紀元まで届いているのです。核軍拡競争の中心地で あるネバダ核実験場の閉鎖を求める1980年代の運動は、目標を達成しませ んでした。核実験場の作戦行動は抗議行動に動じませんでした。だが、この抵 抗は、遥かかなたのアルマアタの抗議行動の形成を直に促し、そこの活動家た ちはカザフスタンにあるソ連の主要実験場の閉鎖に成功しました。彼らはネバ ダの反核活動家たちをインスピレーションの源泉と考え、ネバダ核実験場が立 地している土地の先住アメリカ人への連帯を表明していました。
あなたの抵抗行動に訴えても、不当行為を阻止できそうにないとしても、あな たの共同体にとって最善であると、誠実、内省的に確信している行為から、逃 げているわけにはいかないのです。
従って、イスラエルにとって、迫害者であることは、最善の利益に沿うもので はないのです。
従って、アメリカにとって、今、自ら選んだ路線に沿って、自分の意志を世界 のあらゆる国にも押し付ける能力を持つことは、すなわちハイパーパワーであ ることは、最善の利益に沿うものではないのです。
現代社会共同体にとって、真の利益にかなうのは、公正さなのです。
近隣国民を組織的に迫害し、幽閉するのは、公正でありえません。殺戮、追放、 併合、壁の構築は、すべての人々を従属、貧困、絶望に投げ込むのに役立つだ けであり、これらによって迫害者に安全と平和を約束できると考えるのは、確 かに間違っています。
アメリカの大統領が、地球の大統領として、施政権を委任されていると信じて、 アメリカの味方でなければ、『テロリスト』の味方であると公言するのは、正 しいはずがありません。
パレスチナ国民の窮状と人権を代弁して、自国の現政権の政策に対し、誠意あ る、積極的な異議を申し立てている、あの勇敢なイスラエルのユダヤ人たち は、 イスラエルの真の利益を擁護しているのです。アメリカの現政権の世界覇権を 追求する計画に反対している私たちの同胞は、アメリカの最善の利益のために 発言しているのです。
私たちが誠心誠意から堅持するに価する、これらの闘いを超えて、覚えておか なければならない大切なことがあります。政治的抵抗の道筋において、因果関 係はたがいに入り組み、絡み合っています。すべての闘いは、すべての抵抗は、 具体的であり、明確であらねばなりません。すべての闘いは、地球規模で共鳴 しあっています。
ここでなければ、あそこなのです。ここと同じく、どこでも、今でなければ、 間もなくなのです。
オスカル・アルヌルフォ・ロメロ大司教に、レイチェル・コリーに、そしてイ シャイ・メヌチンと彼の仲間たちに。
[当スピーチの初出メディアはネーション誌であり、初掲載ウェブサイトは TomDispatch: http://www.tomdispatch.com ネーション協会の同サイトは、長年の出版編集経歴があり、『勝利絶対主義の 終焉The End of Victory Culture』の著者であるトム・エンゲルハートが編集 するオルタナティブ情報、ニュース、意見を絶え間なく提供している。日本語 翻訳許諾は、エンゲルハート氏を通じ、ソンタグ氏より取得済み]
(翻訳: 井上 利男/TUP翻訳スタッフ)
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