TUP BULLETIN

速報831号 感謝祭の真実の記録

投稿日 2009年11月26日

 ◎恥ずべき史実を自省することから始まる転換
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米国の多くの家庭では11月の第四木曜日を感謝祭として祝います。S・ブライアン・ウィルソンはこのエッセイで、私たちがあまり接する機会をもたない、感謝祭の真実の物語に光をあてると同時に、歴代の米国政権が連綿と引きついできた政策や米国社会の問題性は、米国史の出発点に存在した先住民に対する傲慢さにまで遡ることができるという見地を示しています。そのため、2005年に書かれたものでありながら2009年の今も多くの示唆を与えてくれます。このエッセイに出あって、他者に対してなしてきたことを思い返すべきは米国民だけではないと感じ、ブライアンの視点─恥ずべき過去に対する嘆きの共有が転換をもたらす─を世界の苦しみを再考するための普遍的に重要な足場として私たちも共有できるのではないかと考えました。ブライアンは反戦ベトナム帰還兵の会、平和をめざす退役軍人の会のメンバーで、特に中南米への米国の帝国主義的介入への抵抗で知られています。(前書・翻訳:向井真澄/TUP)
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凡例:
【原著者による強調】
<訳者補足>
[引用の出典] 
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我が「文明」の本質を規定し顕現化を導いた体験 ─ 感謝祭伝説の実体
S・ブライアン・ウィルソン

私たちはいわゆる「アメリカ人」が感謝祭と呼ぶものを再び祝おうとしているが、しばし立ち止まって反省のひとときを持とう。最初に行なわれた感謝祭についての物語は神話のようなものだということ、また、感謝祭は実は、私たちの傲慢な自民族中心主義を祝うグロテスクな祝日だということを認識しよう。

カリブ海域のアメリカ先住民は、1492年にヨーロッパから侵略者がやって来たとき、温かいもてなしの心で挨拶した。彼らはあまりにも無邪気であったので、ジェノヴァ出身のクリストフォルス・コルンブス<クリストファー・コロンブス>は日誌に次のように書いた。「...彼らは持っているものは何でも喜んで交換した...武器は携行していない。...彼らならいい召使になるだろう...キリスト教化させることもたやすくできそうだ...50人の要員で彼ら全員を征服して意のままに使役できるだろう。」この出会いから、500年にわたる西半球の強奪が始動し、それから地球上の残りの地域へと広がった。しかも、いまだに停止していない!

歴史家ハンス・コーニングは、西洋をほかから区別する特質はその執拗さ、いかなるものにもひるまず突き進む力にある、と結論づけている。文化歴史学者ルイス・マムフォードは次のように断言している。「西洋人が訪れる地にはどこであれ、奴隷制、土地の収奪、無法状態、文化の破壊、野生動物の殲滅および人間の従僕化がついてまわった」

129年飛んで、1621年、つまり「最初の感謝祭」を行なったとされる年まで進んでみよう。この出来事についての文書はあまり存在しないが、生き残ったインディアン<原典のまま>は俗説を信用していない。西洋から持ち込まれた疫病のため、アメリカ先住民はすでにハエのように死滅しつつあった。ピクォート族の人口は、<イギリスから渡った>清教徒たちが上陸したときには8,000人だったとされているが、疫病によって1637年までに1,500人まで減少した。公式に最初のものと宣言された、清教徒のみによる「感謝祭」が行なわれたのがこの年だ。その宴席で、ニューイングランドの白人たちはピクォート族の虐殺を祝った。マサチューセッツ湾総督ジョン・ウィンスロップの宣言には「これから、この日を、ピクォート族を征服したことを祝福し感謝を捧げる日とする」とある。生き残ったピクォート族はほとんどいなかった。

さらに158年先を見ると、私たちの聖なる革命戦争<独立戦争>中の1779年に、ニューヨーク中央部で無慈悲な作戦が展開されていたことに気づく。大陸議会は、イロコイ族(第七世代<七世代先を考えて生きる>哲学の始祖)の多数派が、急速に入植しつつあった植民地主義者に抗してイギリス側についていることに憤慨していた。セネカ国の首都はフィンガー・レイク地方にあるセネカ湖の先端に位置するカナデサガであった。1779年の夏、大陸議会は軍司令官にインディアン問題を処理するよう命じた。ジョージ・ワシントンはこの指示に従った。彼は、ジョン・サリヴァン将軍に、ニューヨーク中央部のイロコイ族に「恐怖」を吹き込んで「蹂躙せよ...国を滅ぼすのだ」と命じた。サリヴァン将軍は「インディアンたちは、自分たちを支える何もかもを破壊するほどの悪意が我々にあると考えるでしょう」と主張した。ワシントンは断言した。「我々の将来の安全は、こちらに危害を加える力が彼らに欠落していることで保証される...そして彼らが受ける厳しい懲罰に伴う恐怖が<無力さを>思い知らせるのだ」[リチャード・ドリノン、Facing West: The Metaphysics of Indian Hating & Empire Building(New York: Schocken Books, 1990), pp. 331-32]

クライマックスの「勝利」の日は1779年9月7日だった。4,500人の兵士、つまり、アメリカ大陸軍の全兵力の三分の一近くが、カナデサガとその他40のセネカの町の完全な破壊を遂行した。これは、その年のただ一つの主要な軍事行動であったが、史上最も邪悪な焦土作戦の一つとなった。すべての果樹園と作物が破壊され、すべての建物が略奪後に焼かれた。逃げ出そうとしたセネカ族の多くは頭皮を剥がれて虐殺された。「戦闘のあと、...インディアンの戦士は...頭皮を剥がれた。ウィリアム・バートン中尉は二人のインディアンの皮膚を腰から下へ剥いで二着のレギンズを作って楽しんだ。一つは自分のために、もう一つは少佐への贈り物として」[モリス・ビショップ、”The End of the Iroquois,” American Heritage, October 1969, p. 78]

162年先の、ジェニーヴァと改称されていたカナデサガで私が生まれた1941年を見てみよう。子どもの頃、セネカ族の矢じりを何百も集め、自分の寝室で鍵のかかる特別な箱に保管していた。七年生の歴史の教科書にある「イロコイ族は州のインディアン・マスターだった」という章には、「ワシントンは、辺境の入植地への破壊的攻撃により、軍隊をさしむけてインディアンたちを殲滅することにした...六部族連合はこの打撃から二度と回復しなかった」との説明があった。前方へも内陸へも突き進む欧州人!

新共和国は1789年に建国されたが、この国家の1787年憲法制定会議は厳重な秘密のうちに開催され、国民の投票は行なわれなかった。合州国第三代大統領トーマス・ジェファーソン(1801〜1809年)は拡大発展した企業と領土を備えた「自由の国」のビジョンを述べた。1807年にジェファーソンは、予防戦争を唱道した。「イギリスが、我々が求める満足を与えないときは、我々はカナダを我がものとする。カナダはユニオンに入ることを望んでいる。そしてカナダと共にフロリダを手に入れれば、隣接する連中と問題を起こすことはないだろう。【それが問題を予防するただ一つの方法だ】[ウィリアム・アップルマン・ウィリアムズ、The Contours of American History (Cleveland: The World Publishing Company,1961), p. 192]
。他の者は、新市場での植民者と商業の繁栄を求めてスペイン領アメリカおよびカナダへの領土拡大をおおっぴらに語り、愛国的で徳の高い「賢明な憲法起草者たち」は智恵があり余っていたので「自衛戦しかできないように議会を縛ることができなかった」のだと言った。[前掲書、 p. 194]

1800年代半ばのハンボルト、つまりカリフォルニアについて検討してみよう。1849年のゴールド・ラッシュによって、白人の鉱夫と入植者が大勢カリフォルニアに流入し、1865〜70年までに、カリフォルニアのインディアンはほとんどすべて事実上掃討された。1853年から1861年の間にカリフォルニアのインディアンに対して少なくとも14の戦争がしかけられ、準軍事行動が1860年代の終わりまで継続された。かつては700,000人ほどもいたと考えられている人口は、カトリックの必死の布教活動を通じた奴隷化も原因となって、1849年には推定100,000人となった。1849年から1860年までの間に、組織的殺戮によりその人口は65%減少して35,000人となった。[ラッセル・ソートン、American Indian Holocaust and Survival: A Population History Since 1492 (Norman: University of Oklahoma Press, 1987),p. 109]
現在のハンボルト・カウンティを含むカリフォルニアのインディアンに対する残虐行為の詳細なリストは、シャーバーン・F・クックのThe Conflict Between the California Indian and White Civilization [Berkeley: University of California Press, 1976] に掲載されている。

1857年から1860年まで、合州国の著作家・詩人であるブレット・ハートはノーザン・カリフォルニア紙とハンボルト・タイムズ紙に寄稿した。ブレットは、1860年2月25日にユリーカ近く、ハンボルト湾のインディアン島で発生した白人による188人のワイヨット族インディアン大虐殺の内情に通じていたが、この大虐殺で生き延びたのはワイヨット族の子どもが一人だけだと報告されている。「インディアンの無差別大虐殺、女、子どもの殺戮」と題されたハートの物語には次の記述がある。「幼い子どもたちや年老いた女たちが無慈悲に刺し殺され、その頭蓋は斧で打ち砕かれた。死体がユニオン[現在のアーケータ]に着いたとき、かつてなかったような衝撃的で不快な光景がキリスト教徒や文明を知る人々の目の前に繰り広げられた。皺だらけの老衰した女性たちが血まみれで横たわり、長い灰色の毛髪は押し出された脳漿にまみれていた。顔を手斧で割られ、体に恐ろしい傷を負った、両腕を広げた長さにも達していない幼な子ら。[Northern Californian, Vol. 2, Issue 9 (February 29, 1960), p. 1] 白人がリンチにかけようと捜索する中、ハートは逃亡した。

ほかの土地と同様にカリフォルニアでも、特に七年戦争が1763年に停戦を迎えた後、白人の開拓者、投機家、測量技師、その他日和見主義者が大挙して、大西洋岸の入植地から西へと移動しながら恒久的な居住地を建設しつつあった。「公式」の指揮系統外で展開している、すなわち、連邦軍の管轄外で、あるいは連邦軍と並行して活動している、今日の準軍暗殺団に相当する活動に関与した入植者や投資家・投機家が、何千人もの先住民を殺害したことを誇らしげに認めている。

政府の命令に従い、若年の男性兵士または準軍組織によって、【恐怖】を利用して実行された【市民】に対する【予防戦争】は、すべて「アメリカ的」価値にかなっている。そのような政策はアメリカ合州国史において何度も目撃されてきたもので、自らを特別な人民だとする感覚によって合理化されてきた。私たちは自らの人種差別主義的で傲慢な起源について今も否認し続けている。市民的不服従や進歩的政治運動の波などの、埋め合わせとなる、より多くの価値が提示されてきた。しかしながら、支配的な政治的経済構造には今も揺ぎなき寡頭制が貫かれている。要するに、私たちの社会は、膨大な数の従順な消費者と勤労者によって支えられている白人男性優位の金権政治家社会のままなのだ。

私たちの社会の秘密(利己的な搾取に奉仕する寡頭政治であること)を暴露することによって、また私たちの社会についてつくられたイメージ(平等な正義を約束する民主主義社会)に先行した現実の理解に到達することによって、意識革命の触媒作用を促すことができる。体制に対する服従は自らを殺すことだと悟ることは、地域的レベルで建設され育てられる持続可能な共同体を内包する、相互扶助に基づく社会をめざす迅速な動きを可能にするのに必要な想像力を始動させるための大きな始めの一歩である。

私たちの「文明」の本質を規定し、その顕現を支えた体験である最初のホロコーストに私たちが真剣に向き合うのはこれからだ。この「陰」を認知することにより、恥を隠すために無意識のうちに信じられないほどのエネルギーを費やす必要がなくなるので、根本的なシフトを即座に行なうことが可能になる。私たちが他者に対して、また結局は自らに対してなした行為についての嘆きを共有することは、大きな救いとして経験されるだろう。
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原文
S. Brian Willsonのエッセイサイト
“We are not worth more. They are not worth less.”
http://www.brianwillson.com/?q=node/23