ダニエル・エルスバーグ『人類を破滅させる米国製凶器』第1章
ここに掲載するエルスバーグ回顧録シリーズ序章は、TUP速報838号 ダニエル・エルスバーグ『ヒロシマの日――64年間、居眠り運転をしてきた米国』の続編であり、彼自身のウェブサイト ならびに、truthdig に掲載され、 翻訳文書は岩波書店発行の月刊『世界』2010年2月号に掲載された。
truthdig のウェブサイトによるコメントをここに紹介しておく。これは、月刊『世界』には載らなかった部分である。
「これは、ダニエル・エルスバーグが核時代を個人史的に回顧する連載、『米国の人類を破滅させる凶器』の第1弾である。このオンライン書籍では、国防総省並びに国務省そしてホワイトハウスのために、核戦力の指揮統制と核戦争計画および核危機問題を研究し、顧問を務めた6年間の重要な出来事を詳述することになる。さらに、ベトナム戦争問題に没頭していた途中の11年をはさんで、エルスバーグが主に核政策について研究と活動を続けてきた34年間についても語る。この連載の続編は、トゥルースディッグにも掲載される。筆者は、Nuclear Age Peace Foundation (核時代平和財団)の顧問委員でもある」
翻訳:福永克紀・宮前ゆかり、協力:山崎久隆/TUP
===================================
ホロコーストの100倍――政権中枢で見た米国核政策の内実
2009年9月10日
ダニエル・エルスバーグ
【1】
ホロコーストの100倍を企む米国の計画
1961年の春、30歳の誕生日からまもないある日、私は自分のいる世界がどのように終わるのかを見せられた。地球の終わりではなく、当時私の知っていた限りでは全人類や全生命の終わりでもなかったが、北半球の大部分の都市と人間が破滅するということだった。
ホワイトハウスの一室で私に手渡されたのは、いくつかの数字と線が書かれた一枚の紙だった。冒頭に「最高機密」、その下に「大統領以外極秘」とあった。
「誰々以外極秘」指定は、原理上は、明示された人物だけが目を通し、読むことができるという意味で、この場合は大統領である。実際は、何人かの長官や次官たちも見ることを通常は意味した。つまり、一握りの者たち、ときにはもう少しだけ多くが見るということであり、単なる「最高機密」文書のコピーが通常何百人もの目に触れるのとは違っていた。
のちに、国防次官補特別補佐官としてペンタゴンに勤めて、私や私の上司以外の人物に宛てた誰々「以外極秘」とあるメモや電文のコピーをしばしば読むようになった。国防長官室顧問としてこの一枚を読んだころにはすでに「最高機密」文書を読むことは私の日常業務だった。しかし「大統領以外極秘」とあるものを見たことはなく、その後も二度とない。
国家安全保障担当大統領副補佐官であり、友人で同僚でもあるボブ・コマーが、私にそれを見せてくれた。その表紙は、ジョン・F・ケネディ大統領が1週間前に統合参謀本部宛てに送付した質問書に対する回答であることを示していた。コマーが私に見せたのは私がその質問書を起草したからで、コマーが大統領名でそれを送っていた。
参謀本部への質問はこうだった。「諸君の全面(核)戦争計画が計画通りに実行された際に、ソビエト連邦と中国における死亡者数はいかほどになるか」彼らの回答はグラフで示されていた(下に表示しておく)。縦軸が死者数で単位は100万人。横軸が時間で月単位で示されていた。グラフは1本の直線で、横軸上の0時――縦軸上には攻撃数時間内に予想される即死者数――から始まり、右肩上がりに6カ月後まで伸び続け、そして初期の負傷と放射性降下物による放射能により時間経過とともに増える死亡者数の推計は、そこで打ち切られていた。
最少死者数は、グラフの左端の2億7500万人である。グラフの右端は、6カ月後で3億2500万人だ。
私は同日の朝に、コマーの承認のもと、わが国の攻撃で生じる死者数の、中ソ圏全体だけではなく放射性降下物の影響を受ける他国すべてを含む世界的な全明細を求めて、大統領署名付きで参謀本部宛てに送るもう一通の質問書を起草した。またも彼らの回答は素早かった。コマーが1週間後にそれを見せてくれたが、今回は表形式で下に説明書きが付いていた。
要約すれば、東欧でおおよそ1億人の死者の加算が推測される。(季節に大きく関わるが)風向きにより西欧で放射性降下物による1億人がさらに加算されるだろう。フィンランド、オーストリア、アフガニスタン、インド、日本などなどの、主に中ソ圏に隣接する中立国における放射性降下物では、季節に関わらず少なくともさらに1億人の加算が予想されていた。例えばフィンランドは、レニングラードのソ連潜水艦基地に対する米国による地上爆発型での攻撃から生まれる放射性降下物で壊滅するだろう(死者だけではなく負傷者を加えた「犠牲者」総数は、質問には含まれず推計されていなかった。もちろんソ連の報復攻撃による犠牲者数は全く考慮されていなかった)。
統合参謀本部の予測した、主にソ連と中国を狙った米国による先制攻撃で生じる総死亡者数は、おおよそ6億人だった。ホロコーストの100倍だ。
* * *
【2】
グラフが描かれた一枚の紙を手にしたときに考えたことを覚えている。この紙きれは存在するべきではない、と思った。決して存在してはいけなかったはずだ。米国にも、他のどこにも、絶対に。かつて人間の手によって存在した計画のどれをも超える邪悪が描かれていた。これが指し示していることは、決して地球上にあってはならない、決して現実であってはならない。
しかし、私にはそれが扱っているのはあまりにも現実的なことだと分かっていた。私自身、もう少し小型の水爆をいくつか見たことがある。それは、1.1メガトンの、すなわち110万トンの高性能爆弾に匹敵する爆発規模のある水爆で、それぞれの1発が第二次世界大戦で使用された全爆弾の爆発威力合計の半分に相当した。私が見たのは、沖縄の嘉手納空軍基地で、発令10分以内に出撃できる警戒態勢にあった一人乗りのF-100戦闘爆撃機の下部に搭載されていたものだ。あるとき、戦闘機に搭載される前の水爆の一つに触ってみたことがある。涼しい日だったが、その爆弾の滑らかな金属表面は、内部の放射能で温かかった。人肌のようだった。
私は1959年の秋、海軍研究事務所が組織した専門調査会の一員として沖縄にいた。調査会は、太平洋軍司令官ハリー・D・フェルト海軍大将の核戦力指揮統制を研究改善する目的で沖縄に派遣された。私は、前年の夏にコンサルタントを務めて1959年6月から常勤となったランド研究所からの出向組だった。特にこの研究ではその年と翌年、私たちはオアフ島からグアム島、東京、台湾、それに第7艦隊指揮艦まで、核戦力指揮統制の分野について「誰とでも話し、何でも見る」許可をフェルト大将から得て、太平洋のあらゆる指揮所に行くことになった。
嘉手納では、パイロットたちは警戒態勢をとる機内に待機したり、滑走路上で警戒任務に就いたりしているわけではなかった。彼らは基地内の売店であれ自分の兵舎であれ、どこにいることも許可されていた。各パイロットには専属のジープと運転手が常時付き添い、警報が鳴ると数分内で滑走路に戻れるからだ。少なくとも1日1回、警報訓練をしていた。担当士官が、その日のリハーサルの時間を私たち調査団が決めていいと言った。私たちの団長が「よし、今だ」と言うと、車の警笛が辺り一帯に鳴り響き、ほとんど瞬時に滑走路へ続く道すべてにジープが急カーブを切りながら現れ、滑走路に着くやパイロットが飛び降り、ヘルメットや飛行服のベルト類を締めながら操縦席に大急ぎで乗り込んでいった。10機のエンジンが始動した、ほとんど同時にだ。10分だった。
これらは、限定的な航続距離しかない戦術戦闘爆撃機だ。ソ連と中国を航続距離内に睨むこのような滑走路や、中ソ圏(1961年には私たちはまだそう考えていたが、その数年前に中国とソ連は実際は分裂していた)周辺の空母に、水爆を装備したこれらの戦術爆撃機が1000機以上配備されていた。そのどれもが1発の水爆で大きな都市を壊滅できた。もう少し大きな大都市圏だと、2発必要だったかもしれない。しかし、この爆撃機を指揮するわけではない米戦略空軍(SAC)は(爆撃機は戦域司令官の指揮下にあった)、全面核戦争における要因としてはこのような戦術戦域戦力をまったく脆弱で信頼できない重要性のないものとみなしていたため、戦略空軍の計画立案者たちはその年まで、全面戦争における攻撃結果の計算にこの戦力を含めてさえいなかった。
1961年以前、戦略空軍司令部の計画立案者たちは、潜水艦発射のポラリスミサイルに加えて自分たち戦略空軍の指揮下にある重爆撃機と中距離弾道ミサイルおよびICBM(大陸間弾道ミサイル)による攻撃だけを考慮していた。戦略空軍の飛行機の爆弾倉に搭載されているのは、私が沖縄で見たものよりずっと大きな熱核爆弾である。その多くが5から20メガトンの威力がある。ナガサキを破壊した核分裂爆弾の1000倍もの威力がある20メガトン爆弾の一つひとつが、2000万トンのTNT爆弾と同等の威力があり、米国が第二次世界大戦で投下した爆弾総トン数の10倍に相当する。兵器庫にある500ほどの爆弾各々が、25メガトンの爆発威力を持つ。これらの弾頭の一つひとつが、人類の歴史上すべての戦争で爆発した爆弾や砲弾全部よりも大きな威力を持っていた。
この大陸間爆撃機とミサイルはほぼすべてが米国本土に配備されるようになったが、危機の時には海外の前進基地に配置されるようになっていた。常にB-52の小規模な編隊が空中警戒任務に就いていた。残りの多くは警戒態勢にあった。私は信じがたい機動演習を撮影した機密扱いの記録フィルムを見たことがあるが、そこではB-52より小型だがまぎれもなく大陸間重爆撃機であるB-58が、一度に一機ずつではなく、同時に一列縦隊で滑走路を走行して離陸していた。要は、嘉手納でもどこでも、緊急攻撃の警告が出れば、敵のミサイルが到着する前にできる限り速くその場を離れ、空中に飛び立つことだった。通常一機の飛行機が離陸するのに必要な時間で、一個飛行中隊が飛び立ち指定された標的に向かえるためだ。
その映画では、大型旅客機ほどに大きいこれらの重爆撃機が縦一列に並んで加速して滑走路を疾走していき、各機体の前後が非常に接近しているため、ほんの一瞬でも一機が速度を緩めると、いくつもの熱核兵器を搭載する燃料満載の後続機が前機の後部に衝突してしまいそうだった。それから全機が同時に上昇した、まるで銃声に驚き飛び立つ鳥の群れのように。思いもかけない光景だった。美しかった。
この全戦力が狙う計画上の標的に含まれるのは、ソ連と中国の軍事拠点ばかりか、すべての都市だった。
航空母艦上ではもっと小型の戦術爆撃機が、巨大なパチンコ投石器のようなカタパルトに支援されて発進することになっていた。しかし私が知っていたように、全面核戦争計画では、核攻撃遂行命令が出された時点で準備の整っている米国の爆撃機とミサイルが、可能な限りほぼ同時に世界中から発進して、事前計画ですべて指定されている標的を攻撃するように定められていたのだから、この準備計画は全体として一つの硬直した全面戦争を想定していたのである。
まるで3000個以上の弾頭を搭載した爆撃機とミサイルすべてが、たった一つの投石器で発射されるようなものだ。ゴリアテめがけた一撃だ。
単一統合作戦計画(SIOP)と名付けられ、1961年には戦術爆撃機を含んでいたこの単一で組織的な計画の硬直性は、その基礎となる「戦略」が熱核弾頭を中ソ都市圏とその軍事拠点に移送する巨大な運搬作戦に他ならなかったことを意味した。全都市圏の破壊はほんのわずかな攻撃機で可能だったので、標的の大部分を占めていたのは軍事拠点だった。
この計画から予測される主な影響――ある部分は意図的なもの、ある部分は(同盟国、中立国、「衛星」国で)不可避的に生じる「付随的損害」――の一つが、1961年春のその日に私が手にした書面に要約されていた。5億人以上の抹殺だ。
(これは実際には、間違いなく死亡者数のとてつもない過小評価だった。核時代を通して現在に至るまで、戦略空軍と統合参謀本部の戦争計画立案者たちが、米国ないしソ連の核攻撃による破壊的影響の予測から火災による影響を意図的に完全に除外してきたという奇妙な事実を、スタンフォード大学国際安全保障協力センターのリン・エデン博士が『全世界が火の手に(仮題。Whole World on Fire)』(コーネル、2004年)で暴いている。計画立案者がそうしていたのは、自分たちの死亡者数予測がもっぱら依拠する爆発と放射性降下物の影響より、火災の影響の方が予測が困難だという根拠からだった。だが、熱核兵器に起因する火災が、核戦争における死亡者数の最大の発生源だと予測されることはよく知られたことだ! ほとんどすべての戦略核兵器では、火災による被害半径が爆発による被害半径より2倍から5倍大きくなることを考えれば、米国が計画する攻撃によって直接引き起こされる死亡者数のより現実的な予測は、私が手に持つ要約にあった数字の2倍に間違いなくなっていたはずだ。10億人かそれ以上だ。)
【3】
こういった配備や演習の計画意図として公に表明されていたのは、ソ連の侵攻の抑止だった。この頃には私は米国民にはほとんど明らかにされていない事実を知っていた。それは、これらすべてで抑止するべきものはソ連の核攻撃ばかりか、ソ連の通常兵器、非核兵器による侵攻までも抑止することになっており、とりわけ欧州ではそうだったということである。どちらの侵攻方法であれ、話はそのようなソ連による攻撃の発生を防止するために、全面的に設計されていたということだ。この世界的機構は、発動なきを期待して、つまりしばしば言われるように、決して使われないように構築された機構だ。戦略空軍の基地すべてに掲げられている公式の標語は、「平和こそ我らが任務」だった。
ソ連による通常戦力での欧州侵略――たとえば、西ベルリンの軍事占領――への抑止は、必要ならばソ連に対して米国は核先制攻撃を命じるという大統領の確約に、最終的に依存することだった。公式標語にある戦略空軍の職務は平和維持から戦争遂行へ瞬時に変わるものだ。戦略空軍が日々即応訓練をするのは、その命令を確実に遂行できるようにしておくためだった。だが、核の脅威によってNATO(ベルリンが最も攻撃を受けやすい要素)を守る、必要ならば戦略的な先制核攻撃も辞さないという米国の姿勢は、事実上、前述の攻撃を米国が開始する引き金をソ連に手渡すことになってしまった。
ソ連が本当にその引き金を引く可能性は、わが国のすべての核計画および準備の中心部に存在していた。わが国の核態勢の主な目的は抑止であったけれども、それが確実でないことは理解されていた。失敗するかもしれない。それは欧州でのソ連の通常兵器による攻撃への抑止と核攻撃への抑止の両方に当てはまった。どちらの場合でも、攻撃を思いとどまらせようとするわが国の最善の努力や威嚇にかかわらず、ソ連が攻撃することはありえないことではなかった。
そのときどうするかは、何年もの間、高度に機密保護された議論の内容であった。しかしこの問題でドワイト・D・アイゼンハワー大統領の承認した公式の極秘計画は明白であった。中ソ圏の破壊である。
これら既存の計画には、深く隠されてきた際立った特徴があった。それは全面戦争が起こりうるまったく別々の三つの場合それぞれに対して、本質的に同じ戦略的対応および標的リストを掲げている点だ。一番目の場合、そして統合参謀本部の判断として最も可能性があるのは、おそらくベルリンでの衝突または東欧での叛乱が原因となり、米国とソ連との通常兵力の衝突が発生、エスカレートした結果それが米国による先制核攻撃につながることだった。二番目は、ソ連による米国への核攻撃が切迫したときにそれを封じる米国の先制攻撃、または私がペンタゴンで耳にした説明の言葉を借りれば「攻撃される前に反撃すること」だ。三番目は、統合参謀本部の視点からするとほとんどありえないことだが、ソ連の奇襲攻撃が成功したことに対応する報復攻撃だ。
攻撃に即応する米軍の規模はそれぞれの場合で異なるはずなのに、アイゼンハワーが承認した計画では、軍事標的と共に151カ所の「市街地・産業標的」すなわち都市を含む同一の標的リストを要求しており、その標的はあらゆる状況で攻撃されることになっていた。
開戦状況は戦力の規模を左右し、標的リストの適用範囲にのみ影響を及ぼす。第一次攻撃は可能な限り大規模で、ほぼ同時に到達する。続いて、警戒態勢にない全戦力による攻撃が発動可能な限り速やかに行なわれる。どの戦力も意図的に温存されることはない。戦争計画の歴史ではおそらく前例がない。
そして三つの開戦状況のどれでも、ソ連と中国(たとえ中国がこの計画の実行の引き金となる危機や交戦に一切関与していない場合でも)両国のすべての大都市は、最も優先度の高いソ連のミサイル基地、空軍基地、防空基地および司令部と共に、第一次同時ミサイル攻撃と爆撃機による第二次攻撃の対象としてリストの上位を占めた。
1961年1月にホワイトハウスで私は新任の国家安全保障担当大統領補佐官マクジョージ・バンディに対し、ほとんど知られていないいくつもの事実や問題について伝えていた(これらの知識をどのようにして得たかは、このシリーズの後のほうで話す)。そのうちの一つは、ソ連との旅団規模以上の戦力を伴う軍事衝突においては、どんな紛争でも米国の準備態勢は先制攻撃計画が中心だということだった。二番目は衝突がどのような形で始まったかに関わらず、軍事基地標的と「最適に混合された」住民標的を破壊するというアイゼンハワーが承認した作戦計画についてだった。
三番目に私が話題にしたのは、戦略軍の出動が「間違って」引き起こされてしまう様々な状況に関することだった。例えば、誤警報、計算間違い、通信の不良、また大統領からもおそらくどの高位指揮官からも直接権限を得ていない行動などだ(戦場におけるこのような可能性について考察することが、米太平洋軍の専門調査会、その後は核兵器「指揮、統制」に関するランド研究所の専門家としての私の特別な任務だった)。
私が最後に報告したもう一つの点が特にバンディの注意を惹いた。太平洋地域で私が学んだ、指揮系統内で最も機密性の高い極秘事項の一つについてだった。ソ連のワシントン攻撃によって、または大統領の就労不能により、反撃態勢が麻痺状態に陥る可能性を事前に防ぐために、アイゼンハワー大統領は1958年の時点で密かに、大統領が物理的に動けなくなる――アイゼンハワー自身、任期中に脳卒中と心臓発作に襲われていた――か、またはワシントンとの通信が途絶えるか、どちらかの危機に直面した場合、核作戦を発動する権限を戦域司令官たちに委任していた。
私はさらに、太平洋軍司令官フェルト大将も同様の状況下で麾下の司令系統に権限を委譲していた事実をつかんでいた。これは、例えばワシントンとハワイまたはハワイと西太平洋間の通信が途絶した場合には、多くの指に核発射ボタンを委ねることを意味する。何年もの間、この通信系統の各々で機能停止が日に平均一回発生していた。つまりこの措置で、上記に挙げた「意図に反した偶発的」核戦争勃発の可能性が肥大化し、例えば1958年の台湾海峡(金門島)での武力衝突などのような潜在的な核危機が起きている最中に機能停止が発生した場合には、なおさらだった(この情報に対するケネディおよびジョンソン政権の反応については、次の連載で説明する)。
これらの報告内容をまとめると、わが国の戦略応答システム全体が、巨大な熱核爆発を一触即発の罠にしかけている様相を呈していたということだ。システム発動を誘発する様々な状況で、明らかにソ連による先制核攻撃や切迫した核攻撃威嚇がなくても、またほとんどの場合それと何の関係もなくても、ソ連や中国はもとより多くの同盟国や中立国の多大な数の市民を全滅させる、融通の利かない設定になっていた。
【4】
バンディが着任して早々の数週間に私が一対一で行なったこの説明は、国際安全保障問題担当の国防次官補ポール・ニッツが取り計らったものだったが、この説明をしたことが、この後すぐに私がホワイトハウスのために質問文案を作成する立場になる理由の一つとなった。たまたま私は、統合参謀本部が全面戦争によって生ずる死者数を予測していないと確信し、その点に関する質問を起草していた。統合幕僚であろうと空軍幕僚であろうと、誰一人として自分たちの計画が遂行された場合の全体的な人的被害を計算したことがないと、私が一緒に仕事をしていた計画担当の空軍士官たちは確信していた。それで私は、統合参謀本部が迅速に回答できないと認めざるを得ず面目を失うだろうと期待して、ある高官の名において統合参謀本部に予測数を質問する気になったのだ。
当初私が考えていた高官は国防長官だった(私の給与を含むランド研究所に対する出資は、当時主に空軍から出ていたが、1961年の大部分、私は事実上国防長官室に出張していた)。しかし、すでに書いたように、この質問はホワイトハウスに採用され、大統領の名前で送られた。私は当初、世界規模や中ソ圏ではなく、意図的に質問をソ連と中国だけに限定していた。それは、例えばアルバニアとか南半球などの被害者数を計算するには時間が必要だと統合参謀本部が言い訳して、どんな死傷者数予測も完全に欠如していることを隠そうとするのを防ぐためだった。
そうでなければ、総合参謀本部が予測数を即席に作り上げ、非現実的に低いと簡単に暴露されて恥をかくことを期待していた。こうした期待に沿う反応を引き出す目的は、国防長官のために私が同じ月に書いていた指導書の方向に沿って参謀本部の計画を変更させようという官僚的かけひき(後で説明する)において、長官の交渉力を高めるためだ。
しかし、私の期待は外れた。統合参謀本部は、質問によっても自分たちの回答によっても恥をかくことはなかった。これは驚きだったし、回答自体もまた驚きだった。回答が示していた結果は、私が見る限り、私たち人類という種の本質と未来に関わる、文字通り、私たちの存在に関わることだった。
その当時、私自身は平和主義者でもなければ、抑止論の明白性や正当性の批判者でもなかった。それどころか、ソ連が米国に対し最も成功裏に核攻撃を仕掛けたとしても、報復として受け入れ難い損害を被ると明確に威嚇できる米国の反撃能力を確実に温存するために、同僚たちと共に緊急な作業を進めていたのである。しかし、民間人6億人の計画的殺戮、第二次世界大戦での合計死者数の10倍、ホロコーストの規模の100倍とは。そんな目標を達成しようとは、それはわが国の核計画とその機構の心と魂に宿る目も眩むような理性の欠如、精神錯乱、狂気を暴露するものだった。
その日私は北半球の文明世界がどのように終わるのかを見たと、前にも述べた。このように終わる可能性があるとか、終わるかもしれないという程度に考えてもよさそうなものだったが、私がそのときたどり着いた結論はそうではなかった。あの春の朝、私の手に握られた表は私に語りかけた。どちら側の警戒態勢の軍事力も絶対に使われることがないとするどのような確信も、いや、もっと悪いかもしれない、どのような現実的希望も、まったく根拠がないと。
スイッチが入れば5億人以上の人々を殺戮するこの戦争機構を、あの回答からすれば明らかに承知の上で構築し、しかもそれを大統領に臆面もなく報告するアメリカ人、そのような人間たちは、大統領からの命令があれば、または上記に言及し次の連載でも説明するように、おそらく大統領以外の上官からの命令であっても、ためらいもなくそのスイッチを入れるだろう。
そして大統領たち自身はどうだろうか。その2、3カ月前、ドワイト・アイゼンハワーは、既に多重大量虐殺機構の青写真を秘密裏に是認していた。彼はさらに主に予算的理由から、これ以外にソ連と戦う計画が存在してはならないと要求した。彼は個人的には、私が今理解したのと同じ理由で、その予測結果に愕然としたと伝えられているものの、この単一戦略作戦計画を承認した。そして後任のジョン・ケネディからわが国の計画攻撃による人的影響に関する質問を
統合参謀本部が受けたときに、あれほど迅速に返答したのは、その回答に対してケネディが彼らに辞任や不名誉除隊を命じたり、その機構の解体を命じたりしないことを明らかな前提としていたからだった(それについては、結局彼らは正しかった)。
確かにこの二人の大統領はこれらの計画を実行する命令を実際に下すことは望んでおらず、後任者の誰もそんな行動を取りたいと願わないだろう。しかし、彼らはそのようなシステムの存在を許すことの危険性を意識していたはずであり、またそうであるべきだった。彼らは一連の不測の事態、すなわち事故、誤警報、通信の途絶、ソ連の行動に関する下級司令官による誤った解釈、権限外の行動など、閉じ込めてあった力を制御しようもない形で解き放ちかねない事態について、そして自ら先制攻撃に至らざるをえなくなる、あるいは先制攻撃を開始することになる可能性のある展開について熟慮し、恐れおののくべきであった。
アイゼンハワーはそれらのリスクを受け入れることを選んだ。このリスクを人類そしてすべての命あるものに押し付けたのだ。ケネディおよびリンドン・B・ジョンソンも、私が直接知っているように、同じことをした。リチャード・ニクソンもそうだった。この物語を現在までたどると、同じことがすべての後任の大統領についても言えるという多くの証拠があり、それを覆すものはまったくない。
彼らの危険な賭けについて、1961年当時の私が知らなかった側面があと二つある。今後この連載で明らかにするが、その3年前の金門島の危機と、1年後のキューバのミサイル危機において――この二つほどではないにせよ、その他20数件ほどの事件においても――これらのリスクは密かに、大半の人々が現在認識する以上にさし迫った事態になっていた。
さらに、その潜在的な破滅の規模は、続く20年間にわたって、私や統合参謀本部あるいはどの大統領が想像するより遥かに膨大だったのであり、今でもそうである。最近確認されたのだが、1982年から1983年になって初めて、新しい計算でわかったことがある。米軍あるいはソ連軍による攻撃で燃えさかる都市から生じる煙と煤の雲が、北半球を、おそらくは地球全体を覆い、太陽光を長期間にわたって遮り、春と夏の気温を劇的に下げることになり、湖や河川が凍り、世界中の作物が破壊される。この「核の冬」は多くの生命体を死滅させ、何十億人もの人間を餓死させる。
それでも、都市(あるいは、婉曲的に言えば、都市の範囲内または近辺の軍産標的)に対する大規模攻撃の「選択肢」が数多くの計画案の一つであり続けているのはほぼ間違いなく、米国やロシアの計画および戦力準備態勢の戦略的能力範囲としてこれまで同様に遂行準備が整っている。「核の冬」現象の発見から四半世紀も経っている現状がこれだ。
米国もロシアもそれぞれ現在約1万発におよぶ弾頭を保有しており、そのうち2000発は実戦用に配備されている(最近の交渉では対象にされなかった数千発の弾頭を両国とも保管状態にしており、別に5000発ほどが解体を待っている)。バラク・オバマとドミトリー・メドベージェフ両大統領は、実戦配備の弾頭を2012年までに1500発から1675発の間に減らすことに合意した。しかし米国とロシアの1000発の弾頭が一度に爆発すれば、全面的な「核の冬」が引き起こされる。そして近年の研究によると、もしインドとパキスタンの間に発生するような非常に小規模な核戦力による交戦であっても、その後に発生する煤煙がオゾン層に影響を及ぼし、生態系が破壊される可能性が示されている。
研究者同士の査読を経た2007年発表のある研究論文には「総計1メガトン程度の核爆弾(二国がそれぞれヒロシマ級の爆弾50発ずつ発射した場合)による攻撃で生成が予測される煤煙の量は、有史上のいかなる変化をも超える世界規模の気候異変をひき起こす可能性がある。現在、世界の兵器保有量は約5000メガトンである」と結論づけている。2008年12月号『フィジックス・トゥデイ』誌[訳注:米国物理学協会(American Institute of Physics)が発行する科学誌]掲載の論文の一つでは、「2012年の兵器保有量(米ロ両国それぞれ1700発から2200発の弾頭)が使用された場合、直接的には何億人もの死者を生むだろう。間接的(長期的な煤煙による影響)には全人類の大部分が抹殺されるだろう」と予測している。
【5】
これらの科学的調査結果をわが国の秘密戦争計画の実相に照らし合わせて検証する義務を、米国議会は長期にわたって怠ってきた。実戦配備の核戦力は、オバマとメドベージェフによる削減提言が成立したとしても依然1500発から1675発で、それ以下になったとしても1000発などとまだ過大な数値である。その核戦力の攻撃対象として計画されているのはどのような標的かを調べ、さらに現計画による攻撃で標的群を破壊することから予見される人類および環境に及ぼす影響の重大性を調査することは、議会の責任である。
最初に提出されるべき質問は簡単だ。「前もって計画されたわが国の多様な『選択肢』は、いくつの都市を焼き払うのか。これらの様々な攻撃による爆発、火炎、放射性降下物、煙、煤やオゾン層破壊などにより、被攻撃国、その近隣諸国、米国、そして世界中で何人死亡するのか」
そして次に、簡単ではない質問が続く。「想定される攻撃の選択肢あるいは交戦により、地域環境ならびに世界環境に与える影響および起こり得る影響の範囲はどのようなものか。また、あり得るとすれば、わが国の選択肢のうちのどれが地域的あるいは世界的な『核の冬』現象を生み出す危険があるか。わが国あるいは他のいかなる国が、そのような『選択肢』を所有する権利があるのか。米国あるいはロシアの大統領が、上記に説明するような世界的な影響を及ぼす攻撃を命令する権限――いや、現在両者が持っている権力と言うべきか――を持つべきなのか」
わが国の連邦議会議員たちは、核戦争作戦計画を遂行することにより予測される人類および環境への影響について学びかつ影響力を行使する責任を、初めてのこととして果たすべきである。過去の経験から明らかなように、米国市民からのこれまで以上の圧力がなければ、上下両院議員たちが召喚権限を行使して、これらの問題に関する秘密のベールを破るために本当の調査をする公聴会を開催することはないだろう。(意義のある取り組みに参加するにはここ
[*1]、ここ[*2]、ここ[*3]を参照すること。私の判断では、戦争計画や議会での調査に十分な焦点を当てることは、これまでなかったことだ)
[*1] http://capwiz.com/wagingpeace/issues/alert/?alertid=13833796
[*2] http://www.abolition2000.org/
[*3] http://www.peace-action.org/#disarmament
これは単にアメリカ国民やその代議員たちの責任ではない。どれほどありえないようであっても、米国とロシアが現在配備している核戦力の大部分を互いに発射すれば、直接脅威を受ける当事者は、地球上のあらゆる国々のすべての市民だ。
世界中のすべての議会は、米国・ロシアの核の応酬あるいはインド・パキスタンの交戦から生じる大量殺人および環境破壊で、その有権者たちがなにを予期しなければならないか、緊急に知らなければならない。核兵器保有諸国――米ロが筆頭だが、他国も同様――のすべての非常時戦争対策計画が及ぼす社会および生態系への影響を見い出だし、それを変えることこそ、世界各国の議会の利害と一致する。必要なのは、世界的な運動だ。幸いにして、オバマ大統領が宣言した核兵器のない世界という目標に一致するいくつかの取り組みがあり、
賛同に値する(ここ[*4]、ここ[*5]、ここ[*6]、ここ[*7]、そして、ここ[*8]を参照)。
[*4] http://www.globalzero.org/
[*5] http://www.middlepowers.org/
[*6] http://www.inesap.org/
[*7] http://www.inesglobal.com/ines-home.phtml
[*8] http://en.wikipedia.org/wiki/Mayors_for_Peace
核爆発や放射性降下物によって半球規模でいくつもの大量虐殺に匹敵する抹殺(煤煙やオゾン層破壊による生態系破壊や大量絶滅の世界的な危険性についてはまだ誰も知らなかったが)を実行する用意をわが国の政府が整えており、そのことが意味する道義的および物理的大惨事を引き起こす潜在的可能性は、単に常軌を逸した米国人が生み出したものでも、米国に特異な現象でもない、と私は1961年には確信していた。私は正しかった。2、3年後、ソ連がキューバのミサイル危機で面目を失い、ニキータ・フルシチョフが追放された後、ソ連は
わが国の破壊能力を詳細にわたって模倣し、可能なかぎり凌駕することに乗り出した。
確かに、米国人は、特に米国空軍の計画担当者たちは、爆撃で戦争に勝ったと、特に日本で民間人に爆弾を落とす「市民爆撃」で戦争に勝ったと信じた世界で唯一の人々だった。第二次世界大戦中、そしてその後何年もの間、世界でたった二つの空軍、英国と米国の空軍だけが、思うままの実行力を持っていた。
しかし、核の時代が、その悪魔的な誘惑――敵国の住民のほとんどを絶滅させる軍事能力に基づいて、敵を退け、負かし、罰すること――を、数多くの国の手の届くものにしてしまった。61年の春には、4カ国(すぐに5カ国になり、今は9カ国)が多大な代償を払ってその能力を獲得した。どの核兵器保有国でも、米国のこういう計画担当者たち――そして複数の大統領――と同じような人間たちが、様々な都市に対する同様な核攻撃計画を生み出すために日夜働い
ていたのである。
私は個人的に米国の計画担当者をたくさん知っていたが、あの予想死者数の表からすると、おそらく思っていたほどにはよく知らなかったようだ。恐ろしかったのは、私が知る限り月並みな意味でも特別な意味でも、彼らが決して邪悪な人たちではない、まさにそのことだった。彼らは有能で、誠実で、愛国心のある普通のアメリカ人だった。彼らと同じような仕事をしているソ連の人々や、後の米国政権で同じ机に座ることになる人たちと違いはないし、ましてやもっと悪い人たちではないと私は確信していた。私は知り合いの計画担当者やアナリストのほとんどが好きだった。ランド研究所で爆弾を設計していた物理学者や、戦略について思索する(私と同じような)経済学者たちだけでなく、これらの計画そのものに取り組んでいた大佐たちもそうだった。私は昼間は仕事で彼らと相談し、晩には一緒にビールを飲んだものだった。
あの表が、以後半世紀近く私が取り組むことになる課題を提示した。それは、自らの種を他の大半の種もろとも自己破壊する力を自分たちが本当に持ってしまったという観点から、人間同胞――つまり私たち自身、私もその一人だ――について理解するという問題だった。流れを逆転させ、あるいはこの潜在的な力を取り除こうという試みが、過去8年だけでなく冷戦終結以降20年にわたって失敗を続けてきたことを振り返るにつけ、私は、長期的に見ればこの潜在力が実現化する可能性は無きにしも非ずと結論せざるを得ない。
さらなる核拡散と、本稿での私の焦点である、世界破滅の脅威となる超大国の核兵器備蓄が永続することはほぼ確実なのだろうか。間に合うように、これらの危険を除去するには手遅れなのだろうか。暗黒の日々には、そう考える。ホワイトハウスでのあの朝のように。ほとんどの時は、そうではない。実際、そうでなければ私はこれまで、そして今もなお、それを取り除こうと試みてこなかっただろうし、こうして自分の時間を使ってこの記録を書き始めることもし
なかっただろう。
だがこの話はまだまだこんなものではない。例えば、私の次の連載、「ボタンに延びる指の数は?」を参照してほしい。核時代の隠された歴史について知れば知るほど――これはこの連載で反復されるメッセージだ――私たちとロシア人が構築し維持してきた人類を破滅させる凶器の引き金がいずれも引かれるに至っていないことが奇跡的にさえ見えてくる。同時に、私たちはこれらを撤去できるし、また撤去しなければならない、そのことがますます明らかになって
くる。
A Hundred Holocausts: An Insider’s Window Into U.S. Nuclear Policy
(C)2009 Daniel Ellsberg
This column was originally published on Truthdig.
http://www.truthdig.com/report/item/20090910_a_hundred_holocausts_an_insiders_window_into_us_nuclear_policy/