2010年1月27日、ハワード・ジンが亡くなった。87歳だった。常に弱者の側に立ち、強者の目線から語られがちだった歴史を民衆の立場から読み直すことを提案したラディカルな歴史家。歴史を作る民衆のひとりとして、自身も反戦反核、人権擁護の最前線に立ち続けた活動家でもあった。知らせを聞いた直後の、まだその死を実感すらできぬうちに、盟友ダニエル・エルスバーグが長年の同志ハワード・ジンの思い出を語った。
[筆者紹介] ダニエル・エルスバーグは著者、活動家、教育者、ランド研究所の元米国軍事アナリスト。1971年、ニューヨークタイムズ紙にペンダゴン・ペーパー[1]を公開した。2009年10月に公開された回顧録的ドキュメンタリー映画 " The Most Dangerous Man in America: Daniel Ellsberg and the Pentagon Papers "(『アメリカで最も危険な男――ダニエル・エルスバーグとペンタゴン・ペーパー』)は、2010年度アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされている。
凡例 [訳注]は文末をご覧ください。(翻訳・訳注:藤澤みどり)
ハワードの思い出
2010年1月27日
ダニエル・エルスバーグ
友人のハワード・ジンが今日死んだと、たったいま聞いたところだ。つい今朝方、わたしは2月に公開になる、特にかれと、かれの著作に登場する人物たちを中心にしたドキュメンタリー [2] についてボストン・フェニックス紙のインタビューを受けていた。インタビュアーがわたし自身のヒーローはだれかと聞いたので、なんのためらいもなく答えた。まず第一に「ハワード・
ジンだ」と。
ほんの数週間前、そのドキュメンタリーを見たあと、わたしは、かれがわたしにとってどんなに大切な存在かを、まだかれに言ったことがなかったと気づいた。そう考えたことを、生まれて初めてわたしはタイミングよく行動に移した。かれに電子メールを送り、他の人たちには折りにふれ言ってきたことを特に伝えた。「わたしに言わせれば」、ハワードは「わたしが知っているなかで最良の人間だ。人が何になれるか、また、人生で何ができるかの最良の例だ」と。
わたしたちが初めて会ったのは1971年初頭、ボストンにあるファニエルホールで、イクバール・アフマド[3]とフィル・ベリガン[4]が「ヘンリー・キッシンジャー誘拐を共謀」[5]したとして起訴されたことに反対し、わたしたち二人ともがスピーチをしたときのことだ。わたしたちは大勢の群衆とともに、市民逮捕[6]を実行するためにボストンのFBI事務所まで行進した。その春遅く、わたしたちは志を共にする仲間たち(そのなかにノーム・チョムスキー、シンディ・フレデリックス、マリリン・ヤング、マーク・プタシュネ、ゼルダ・ガムソン、フレッド・ブランフマン、ミッチ・グッドマンがいた)と、ワシントンの交通を麻痺させるメーデーの示威行動に出かけて行った
(「政府が戦争を止めないなら、われわれが政府を止めよう」)。ハワードはドキュメンタリーのなかでそのときのことを語っていて、わたしも自分の回顧録、『機密――ベトナムとペンタゴン・ペーパー回顧録』のなかで、かなりのスペースを割いてそれについて書いた。しかし、ハワードが、デモと連邦政府ビルの封鎖のためにボストンに戻ってきたあとの項は(ハワードは
わたしたちのほとんどが他の場所に移ったあと、ワシントンD.C.で逮捕されていた)、紙数の関係で割愛しなければならなかった。このときの話はまだどこにも発表したことがないが、草稿だけで印刷物にならなかった部分を以下に記そう。
* * *
その翌日、ハワード・ジンはボストンコモンで開催された大きなデモで、最後にスピーチに立った。わたしは大群衆の後方で、拡声器を通したかれのスピーチを聴いていた。そのとき、かれが話したことを、27年後のいまでも全部ではないが思い出せる。「メーデーにワシントンで、何千人もの人々が平和を乱したとして逮捕されました。しかし、平和などあるものか。実のところ、われわれは戦争を妨害したかどで逮捕されたのです」
かれは続けた。「もしもトーマス・ジェファーソンとアレクサンダー・ハミルトン[7]がジョージタウンの通りを昨日歩いていたら、かれらは逮捕されていたでしょう。若さゆえに逮捕されたでしょう」
スピーチの最後にかれは言った。「わたしはいま、聴衆のなかの幾人かに言いたい。われわれのあいだに混じる私服警官諸君、われわれの監視を任ぜられた軍の情報官諸君。きみたちは同胞のアメリカ人をスパイする秘密警察の役を演じています。きみたちは、いまやっているようなことをすべきではありません。考え直し、やめるべきです。きみたちは、アメリカ人であることの本質に反するような命令に従う必要はないのです」
結びのところはかれの言葉そのままではないが、かれの話の真髄はこういうことだった。翌日、ボストンの連邦政府ビルの封鎖で、わたしたちが肩を並べて座り込みをしていたときに、このスピーチの代償をかれは支払うことになった。わたしたちは肩を組んで人間の鎖で建物をぐるりと取り囲んでいたので、わたしたちをまたがない限り、だれも建物に出入りできなかった。わたしたちの背後には、応援しているけれど逮捕される危険を冒すことまでは、まだ決めていない群衆がいて、ポスターを持っていた。わたしたちの前には、建物の正面玄関にわたしたちを近づけないようにと警官たちが並び、その背後には一大編成の警官隊が控えていた。警官はみな、ヘルメットに付いた大きなプラスチックの顔面カバーを頭の方に上げていて、長くて黒い警棒を持っていた。100センチ以上もの長さの野球のバットみたいなやつだ。後に法律家に聞いたところでは、都市部の警官の規則によると、そのような長さの警棒は使用を禁じられているそうだ。
でも最初のうち、警官との関係はおおむね友好的だった。わたしたちは厚顔にも玄関を守っている警官のすぐ近くに座り、鎖を人で埋めていき、建物の横から先は視界から消えていた。やがて、建物の後ろ側から来ただれかが拡声器を使って「封鎖は完了した。われわれはビルを完全に取り囲んでいる!」と告知した。背後の群衆から歓声が上がり、さらに多くの人々が、人間の鎖が二重、三重になるまで座り込みに加わった。
連中が逮捕し始めるとわたしたちは予想していたが、しばらくのあいだ、警官は何もしなかった。人間の鎖を力づくで断ち切って通り道をこしらえ、職員が建物に出入り出来るようにもできたのに、どういうわけか何もしなかった。連中がわたしたちの抗議に本当は共感し、そして、これは連中なりの抗議への参加のしかたなのかもしれないとわたしたちは考えた。午前中がそのようにして過ぎるうちに、人々はりんごやクラッカーや瓶入りの水をポケットやリュックサックから出し、周りの人と分けあい、そんなときはいつも前に立っている警官にも勧めた。警官は決まって断ったが、申し出には感謝しているように見えた。
やがて、ひとりの警官がハワードのところにやって来て言った。「あなたはジン教授ですよね」。ハワードがそうだと答えると、警官は手を差し出して熱を込めて握手をした。警官は言った。「あなたの講義を警察学校で聞きました。ここにいる連中の多くが聞きました。あれは素晴らしい講義だった」。ハワードは、アメリカ史における異議表明と市民的不服従の役割について話すように頼まれたのだった。数人の警官がハワードに敬意を表しにやってきて、講義への感謝を述べた。雰囲気はワシントンとは確かに少し違うように思われた。
それから、ネクタイを締めて上着を着た、あるいはワンピースを着た職員が列になって建物から出て来た。かれらの腕は高く挙げられ、その手にはカードが握られていた。かれらは、わたしたちの輪に沿って通り過ぎるとき、自分たちが政府の職員であることを示すIDが見えるように、こちらに向けてカードを差し出した。かれらはもう片方の手でピースサインを作り、わたしたちがやっていることへの連帯を表すために建物の周囲を回った。かれらの代表が拡声器越しに言った。「われわれもこの戦争には終わってほしい! あなたがたの行動に感謝します。どんどんやってください」。警官側も含めたカメラマンたちが先を争って職員たちを撮影すると、何人かは写真に写るようにIDカードを掲げた。これがその日のハイライトだった。
職員たちが建物の中に戻っていった少し後で、警官の雰囲気ががらりと変わった。命令が下されていた。広場の中央にいた警官の一団がきっちりと隊列を組み、ヘルメットのプラスチックカバーを下ろした。わたしたちのすぐ前にのしかかるようにして立っていた警官は、体を真っすぐに起こし、制服を調整し、顔面カバーを下ろした。明らかに逮捕が始まる時が来た。逮捕されたくない支援者たちは後ろに下がった。
しかし、逮捕の警告はなかった。笛が鳴って、警官の隊列がにじり寄るように前進し、黒い警棒がまっすぐ上に持ち上げられた。警官たちは肩を組むわたしたちのあいだに割って入るか、わたしたちにのしかかるか、あるいは後退させようとした。わたしたちの前にいた男、ちょっと前にハワードに講義について話した男が声をひそめてわたしたちに言った。「逃げろ! いま! 早く、立って」。威嚇ではなく警告だった。
ハワードとわたしは互いを見た。わたしたちは逮捕されるつもりでここに来た。だれかがそう言ったからといって、逮捕されてもいないのに、ただ立ち上がって移動するのは正しくないように思われた。わたしたちはそれまでいたところに、そのままいた。だれも動かなかった。警官のブーツがわたしたちの靴に当たっている。かき口説くような小声が頭上から聞こえてくる。
「動いて! どうか。頼むから、動いてくれ!」。制服に包まれた膝がわたしたちの膝に押し付けられた。警棒が振り下ろされるのが見えた。わたしは手を頭に置き、拳を固めた。そして1メートルの警棒がわたしの手首を打った、強く。もう一発は肩を打った。
わたしは転がり、腕で頭を被ったまま、立ち上がって数メートル後ろに下がった。ハワードは数人の警官に引きずられていくところだった。ひとりはハワードの腕を背中に回して押さえつけ、別のひとりは彼の髪をつかんで頭をぐいと後ろに引っ張っていた。だれかがかれのシャツを二つに引き裂いていて、裸の胸には血が付いていた。ほんのちょっと前までかれはわたしの隣に座っていたのだから、わたしも同じことをされるものと思ったが、だれもそうしなかった。ハワード以外の逮捕者はひとりも見なかった。でも、だれももう座ってはおらず、人の列は崩れ、鎖は崩壊していた。座り込みをしていた者はそれほど遠くへは移動せず、わたしと同じように数メートル下がったところに立っていて、周囲を見回し、それぞれ警棒で打たれたところを抑えていた。警官は動きを止めていた。隊列を作り、ヘルメットのカバーは下ろしたままで、警棒を自分の平手に打ち付けていた。かれらのアドレナリンは依然として上昇したままだったが、警官たちはその場に立ち留まっていた。
わたしの手からは血が流れ落ち、手の甲を被った。わたしは分厚い腕時計をはめていて、それが一撃されていた。警棒が時計のガラスを打ち砕き、破片がわたしの手首にくい込んでいた。血は指から滴り落ちていた。だれかが手首を包むハンカチをくれ、腕を高く挙げるように言った。ハンカチはたちまち血まみれになり、群衆の背後の広場の角に設けられることになっていた救護所を探しているあいだ、血が腕を滴り落ちていた。やっと救護所を見つけると、だれかがわたしの腕からガラスの破片を抜き出してくれ、ぐるぐると包帯を巻いてくれた。
わたしは抗議行動に戻った。肩には痛みがあった。警官たちは止まったところにそのまま立っていて、封鎖は再編成され、人々は前にいたところから10メートルほど後退した場所に座り込んでいた。人数が減るどころか、前よりもっと多くの人が座り込んでいるように見えた。支援者たちの多くも参加していたのだ。しかし、静かだった。だれも大声で話さず、だれも笑っていな
い。人々は警官が再び前進してくるのを待っていた。逮捕されるかどうかは、もう気にかけていなかった。
さっきはほんの3、4 人が抗議の列から引っ張りだされて逮捕されただけだった。(後でわかったが)警察は、わたしたちが逮捕や裁判を宣伝に使う機会を与えないように、「指導者」だけを逮捕することを決定していた。ハワードはこの行動のオーガナイザーではなく、他のみんなと同様にただ参加していただけだったが、警官たちがかれを列から引きずり出したときの扱い方からして、前日、デモのなかにいた警官たちに直接向けられたかれのスピーチが、だれかの神経を逆撫でしたに違いなかった。
ハワードとわたしがさっきまでいた場所と直角をなす側の列に、ハワードの奥さんのロズ・ジンが座っているのを見つけた。わたしは彼女と、それから夫妻の同居人で彼女と同じ年格好の女性の間に座った。彼女たちは、ハワードに起きたことを目にするまでは後ろの支援者のなかにいた。
隊列を組む警官たちの制服と警棒、腰につけた銃を見ながら、わたしは裸にされたような気持ちだった。武器を持っているがゆえに守られていると考えるのは戦闘時の錯覚だとわかっていたが、効力のある錯覚だった。そのとき初めて、自分が無防備だと強く意識した。海兵隊が言う、いわゆる「農村祭り(カウンティフェア)」[8]の際にベトナムの村人が感じたであろうことを、ついにわたしは、自分の国で、理解した。そういうとき、海兵隊は子どもたちにお菓子を分け与えたり予防接種したりする一方で、隊員が集落で見つけた者はだれでも、徴兵年齢あるいはベトコンになれる年齢の若者ではない女も子どもも老人までも残らず駆り集めて、テントの中でひとりずつ尋問するのだ。心をつかんで密告者を増やそう。戦闘装備を身につけた兵士が次に何をするか、だれが拘束されるか、農民のだれも知らないのだ。
わたしたちは座り、語らい、警官が再び向かってくるのを待った。かれらはヘルメットのカバーを下ろし、隊列を整えた。いっしょにいた二人の女性は両方ともわたしより年上だった。わたしは最初の一撃を受け止めようと、彼女たちの前に体を移動した。わたしの肘に手がかけられるのを感じた。「すみませんが、そこはわたしが座っていたところです」と、ジン夫妻と同居し
ている女性が冷ややかな目つきで言った。その日、そこに行って座り込みをしたのは私に守られるためではなかったと彼女があとで語った。わたしは謝り、彼女たちの後ろに引き下がった。
だれも動かなかった。警官も動かなかった。かれらはプラスチックのカバーで顔を被い、隊列を組んでわたしたちに相対し、かなり長いあいだ、そのまま立っていた。しかし、再び前進しては来なかった。5時が過ぎて退社する職員のために警官たちは通り道を作ってあり、やがて警官は去り、わたしたちも退去した。
* * *
もっと幸福な話をしよう、それから1カ月とちょっと後のことだ。1971年6月12日土曜日の夜、わたしたち夫婦はハワードとロズといっしょに、ハーバード・スクエアで『明日に向かって撃て』を見る約束をしていた。しかし、その朝、ニューヨークタイムズ紙が前もって警告もしないで、わたしがかれらに渡した最高機密書類の掲載をその日の晩から開始すると、タイムズ紙の人間に教えられた。つまり、そうなればFBIがいつわたしを尋ねてきてもおかしくないし、特にその時は、徴兵制に反対して議事妨害をするマイク・グラベル上院議員[9]に送ろうと思って、その書類のコピーがアパートにあったのだ。
『機密』から(386ページ)
アパートからあの書類を持ち出さなければならなかった。いっしょに映画を見に行くためにアパートに来ると予定していたジン夫妻にわたしは電話をかけ、代わりにわたしたちがニュートンにあるかれらの家に行ってもいいかと尋ねた。わたしは箱に入れた書類を車のトランクに入れて持って行った。かれらはFBIの注意を引くことを避けるためには理想的な人物とは言えなかっ
た。ハワードは、何カ月もFBIから逃れて地下に潜伏していた反戦活動家のダニエル・ベリガンの動向の管理を引き受けていたので、(つまり、その実際的な見地から見ると、FBIから何かを隠すには理想的な人物だと言えた)、たとえ継続的な監視下にはなかったとしても、かれの電話が傍受されていることは大いに考えられた。しかし、その土曜日の午後、私は、他のだれに助けを求めていいかわらなかった。ともかく、わたしは機密文書の大部分を、歴史学者として読み解いてもらうためにすでにハワードに渡していて、かれはそれをボストン大学の研究室に保管していた。わたしが予期したように、かれらはすぐに承知した。ハワードは車から箱を運び上げるのを手伝ってくれた。
わたしたちは映画を見るためにハーバード・スクエアに車で戻った。ジン夫妻は『明日に向かって撃て』をまだ見たことがなかった。わたしたちみんなが満足した。映画のあと、ブリガムのアイスクリームを買って、みんなでわたしたちのアパートに戻った。やがてハワードとロズは帰って行ったが、そのときはまだ、ニューヨークタイムズ日曜版の早版がスクエアの地下鉄のキヨスクに到着する時刻になってはいなかった。真夜中ごろ、パトリシアとわたしはスクエアに出向いて2、3部買った。わたしたちは第1面に大見出しで掲載された機密書類に関する記事を読みながら、ハーバード・スクエアへの階段を上った。晴れ晴れした気持ちだった。
原文:A Memory of Howard
http://www.truthdig.com/report/item/a_memory_of_howard_20100127/
[訳注]
[1] ペンタゴン・ペーパー Pentagon Papers
ベトナム戦争に関する政策決定の歴史を分析した国防総省の最高機密文書。故意の戦線拡大など歴代政権による「泥沼」戦争への道筋が記録されている。元国務省職員のダニエル・エルスバークが暴露し、全7000ページの一部が1971年6月ニューヨークタイムズ紙に連載された。
[2] ドキュメンタリー映画『The People Speak』
ハワード・ジンの著書『民衆のアメリカ史(原題:A People’s History of the United States)』に登場する歴史上の人々の発言を、ジン自身のナレーショ
ンで有名無名の俳優や市民活動家などが朗読するパフォーマンスの記録。市民権運動以降の歴史については実際の人物によるコメントなども収録されていて、エルスバーグも登場する。公開されるのは昨年のサンダンス映画祭で上映されたフィルムの再編集版。ヴィーゴ・モーテンセン、マット・デイモン(製作兼任)、ショーン・ペンなどが出演。
http://www.thepeoplespeak.com/
『The People Speak』のホームページ(英語)
http://www.youtube.com/watch?v=5qpm6aw5OWw
作品の一部が見られます。(英語)
この朗読会は、ハワード・ジンとかれの著作の編集発行人であるアンソニー・アーノブが全米各地で開催していた市民による『民衆のアメリカ史』の連続朗読会から着想を得たもの。アーノブはTUPが翻訳を担当し、昨年8月に岩波書店より発行された『冬の兵士』の著作権管理者であり、発行人のひとりでもある。
[3]イクバール・アフマド Eqbal Ahmad
インドに生まれ、アメリカで活躍したパキスタン人学者、活動家。専門は政治学と中東史。エドワード・サイードが「政治方面の師」と仰いだ。的確な分析により、発生の3年前に9/11を予言する講演、『テロリズム 彼らの、そして、わたしたちの』を行った。著書に『帝国との対決――イクバール・アフマド発言集』(デイヴィッド・バーサミアンとの共著 原題:Home
Commercans)など。1933-1999。
[4]フィル(フィリップ)・ベリガン Phillip Berrigan
生涯を反戦反核活動に捧げたアメリカの活動家、キリスト教アナキスト、カトリックの元司祭。ケイトンズヴィル事件[1968年、9人の活動家がメリーランド州の徴兵事務所から持ち出した400通弱の徴兵書類を手製のナパームで焼いた]他の破壊活動などにより、弟のダニエルとともにFBIの10人の最重要指名手配リストに名を連ねていた。100回以上逮捕されて11年を獄中に過ごし、亡くなる1年前に生涯最後の獄中生活を終えた。1923-2002
[5]ヘンリー・キッシンジャー誘拐の共謀
当時、ニクソン政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官だったキッシンジャーに対して、イクバール・アフマドとベリガン兄弟、他に4名のカトリック聖職者が誘拐を共謀したとして告発された。59時間の審議の末、陪審員によって無効審理が宣言された。
[6] 市民逮捕
逮捕権をもつ職業にない一般市民が行使できる逮捕の権利。国によって多少の違いがあるが、日本では刑事訴訟法213条により現行犯のみ逮捕状不要の市民逮捕の権利が認められている。市民逮捕の一例として、英国人活動家、ジャーナリストのジョージ・モンビオが、ブッシュ政権時に米国国連代表だったジョン・ボルトンに対する市民逮捕を試み、未遂に終わった件を『デモクラシーナウ!』が取り上げている。モンビオはボルトンをニュールンベルグ裁判で規定された国際法「平和に対する犯罪(侵略の罪としても知られる)」を犯した戦争犯罪人として市民逮捕しようとした。
http://www.youtube.com/watch?v=dHIyeglKxso&feature
なお、モンビオは現在、ブレア元英国首相の市民逮捕(罪状はボルトンと同じ)を呼びかけており、市民逮捕を試みた者には(単なる金目当てであっても)賞金を提供するとして奨励している。
http://www.arrestblair.org/
[7] トーマス・ジェファーソン、アレクサンダー・ハミルトン Thomas Jefferson, Alexander Hamilton
ともに「アメリカ建国の父」の一人。アメリカ建国の父とは合衆国独立宣言か合衆国憲法に署名した者、あるいはもっと広く独立戦争を戦った政治指導者たちを差す。ジェファーソンは第3 代合衆国大統領、ハミルトンは合衆国憲法起草者のひとり。
[8] 「農村祭り(カウンティフェア)」 “county fair”
本来は米国の農業地帯で開催される農作物や家畜の品評会を兼ねたお祭りを差すが、ベトナム戦争で米軍が導入した「平定戦略」の作戦名になった。カウンティフェア作戦。村を包囲して住人全員を尋問し、ベトコンとその協力者を捜索した。子どもへの予防接種など友好的な行動をとる一方でベトコンと疑われる若者等を殺害したり、住人を連れ去って村を焼き払ったりした。
なお、VVAW(反戦ベトナム帰還兵の会)は帰還後、恵まれない人たち、特に南部の黒人が貧困のために満足な医療も受けられずにいることに着目し、医療物資を支給したりワクチンを施したりなどする「カウンティフェア作戦」と銘打った支援活動を実施した。
[9] マイク・グラベル上院議員 Sen. Mike Gravel
アラスカ州選出の民主党上院議員(当時)として徴兵制更新法に反対する議事妨害を単身5カ月続行し、事実上の廃止に追い込んだ。ニクソン政権の妨害にもかかわらず、エルスバーグから入手したペンタゴン・ペーパー4100ページ分を上院小委員会でゲリラ的に読み上げて正式な議事録に記録、後に出版にこぎ着け、一般市民が自由に読めるようにした。2008年、76歳で民主党大統領候補に名乗りを挙げ、泡沫候補の扱いを受けたが、討論会でのオ
バマ等との論戦がyou-tubeなどネットメディアで人気を呼んだ。リバタリアン党に移籍。
http://www.mikegravel.us/
公式ホームページ(英語)
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2007/05/post_9dcc.html
大統領選での討論の様子など(日本語)
*ジン、エルスバーグともに過去のTUP 速報に収録されています。
ハワード・ジンのTUP速報は
速報830号 ハワード・ジン「戦争と平和賞」
速報783号 ハワード・ジン「帝国から民主主義へ」
速報762号 ハワード・ジン「選挙の狂騒」
など多数。
ダニエル・エルスバーグのTUP速報は
速報845号 ダニエル・エルスバーグ『ホロコーストの100倍――政権中枢で見た米国核政策の内実』
速報838号 ダニエル・エルスバーグ『ヒロシマの日――64年間、居眠り運転をしてきた米国』