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オバマ政権に「チェンジ」を求めて投票した多くのアメリカ人は、戦争の正当性を擁護するオバマのノーベル平和賞受賞の演説を聞きながら、暗澹としたことだろう。反戦を謳った公約はどうなったのか。「Yes, we can !」に託された真の民主国家への可能性は、結局はまた裏切られたのではないか。帝国主義国家の構造と歴史を根底から分析し、「正義と自由」という大義名分の虚偽と欺瞞を暴露してきたノーム・チョムスキーは、オバマ当選直後から新政権の方向性について冷徹な分析と批判を提出してきた。彼の予想どおり、この 14日、最高裁はグアンタナモにおける拷問に対するラムズフェルドの責任を追及する「ラスール対ラムズフェルド」の訴訟を却下した。アメリカが自国の歴史を忘れている限り何も変わらない、とチョムスキーはこれまでに何度も訴えてきた。今年5月に掲載された「拷問メモ」に関する彼の洞察もまた、時間が経つにつれ、予言にも近い趣を増してきている。
(前書と翻訳:宮前 ゆかり、協力:藤谷 英男/TUP)
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※凡例: 【訳注】、<著者脚注番号>
拷問メモ
ノーム・チョムスキー
http://www.chomsky.info/articles/20090524.htm
2009年5月24日掲載
ホワイトハウスが公表した拷問メモは衝撃と憤慨と驚愕を呼んだ。衝撃と憤慨は当然のことであり、チェイニーとラムズフェルドがイラクとアル=カーイダのつながりを見付けようと躍起になっていたことを報告した上院軍事委員会の証言はとりわけそうだ。二人は後に、事実にはおかまいなく、そのつながりをイラク侵攻の口実にでっち上げた。陸軍の精神科軍医チャールズ・バーニー少佐は次のように証言している。「その期間のほとんど、私たちはアル=カーイダとイラクの間のつながりを確立することに専念していました。このつながりを確立できないことへの苛立ちが深まるにつれ、…手っ取り早い結果を出せるかもしれない手段への圧力がいっそう高まっていきました」。すなわち拷問である。マクラッチー新聞社【訳注:米国の大手新聞社】の報道によると、尋問問題に詳しい元上級情報局員はさらに次のように付け加えた。「ブッシュ政権は、アル=カーイダと故サダム・フセインの独裁政権の間の協力関係の証拠を見付けるためにも収容者に手荒い手段を用いるよう尋問官たちに厳しく圧力を掛けた… [チェイニーとラムズフェルドは]アル=カーイダとイラクの協力関係の証拠を見つけるように要求した… 『情報局および尋問官に対し、収容者、なかでも私たちが確保していた一部の価値の高い人物から、その情報を得るために必要ないかなる手段でも用いよとの不断の圧力があり、その成果を得られないことが続くと、チェイニーやラムズフェルドの部下たちからもっと激しく責めるように求められた』」<1>
これらは、ほとんど報じられることがなかった最も重要な暴露だった。
政権の不道徳さや欺瞞についてのこのような証言は確かに衝撃的に違いないが、それにしても今回暴露された全体像に対する驚き方は意外だ。調査するまでもなく、グアンタナモが拷問部屋だったことは想像に難くないのがその直接の理由の一つだ。拷問の目的以外に、どうしてわざわざ囚人を法のおよばない所に、それも偶然にも、米国が武力でキューバに強制したある条約に違反して使用している場所に送るだろうか。安全保障上の理由が言われているが、真に受けることは難しい。秘密監獄や秘密引渡しも同様に推測され、その通りだった。
もっと大きな理由としては、拷問は全米の国土を平定した初期以来の日常的な慣行であり、ジョージ・ワシントンが「生まれたての帝国」と呼んだ新生共和国が帝国主義的事業を進めるにつれ、フィリピン、ハイチその他にまで広げられたものだからである。さらに、拷問は、他の列強の場合と同様に、米国の歴史を汚してきた侵略、恐怖政治、外国政府転覆、経済的扼殺などの幾多の犯罪の中では最も軽微のものである。従って、ブッシュの悪行に対する最も雄弁で鋭い批判者の一部でさえ、次のような反応を示したことは意外だ。例えば、我々はかつて「倫理的理想の国」だったのであり、ブッシュ以前には「我われ国民が体現するあらゆる価値をこれほど見事に裏切った指導者はなかった(ポール・クルーグマン)」といった言説である。ごく控えめに言っても、そのような一般の見方は相当歪曲した歴史観を反映している。
我々の「大義名分」と「行為」の不一致は時おり正面から取り上げられてきた。この作業に取り組んだ著名な学者の一人は、現実主義的国際関係論の創始者ハンス・モーゲンソーである。キャメロット【訳注:「神話的アメリカ民主主義」を体現するケネディ大統領黄金時代】の昂揚の中で書かれた古典的研究において、モーゲンソーは、米国には「超越的目的」があるとする標準的見解を展開した。
その目的とは、国内で、そして「米国が目的を擁護し推進すべき活動領域は全世界に広がったのであるから」、あらゆる場所で、平和と自由を打ち立てることである。しかし良心的な学者として、彼は歴史の実録はアメリカの「超越的目的」と激しく対立することを認識していた。
しかし我々はこの矛盾に幻惑されてはならない、とモーゲンソーは忠告する。彼の言葉によると「現実の悪用と現実そのものとを混同」してはならない。真の現実とは、未だ達成されていない「国家目的」であり、それは「我々の心が映し出す歴史の証拠」によって明かされる。実際に起こったことは「現実の悪用」に過ぎない。現実の悪用を真の現実と混同することは、「同様の根拠で宗教の正当性を否定する無神論の誤り」と似ている。うまい譬えだ。
拷問メモが開示されたことで、他の人々がこの問題を認識することになった。ニューヨークタイムズ紙のコラムニスト、ロジャー・コーエンは、米国のことを「大きいが、不完全な大国の一つに過ぎない」と結論づけた英国のジャーナリスト、ジェフリー・ホジソンの著書について書評を書いた。コーエンはホジソンの判断を支える根拠があることを認めながら、基本的にはそれは誤りであるとしている。その理由は、「アメリカは理念として誕生したのであるから、その理念を進展させていかなければならない」ということをホジソンが理解できていないからである。アメリカの理念は、「米国人の意識に深く」根づいている「霊的観念」である「山の上にある町」としてアメリカが誕生したこと、そして西部開拓に示される「アメリカ的な個人主義と進取の気性という独自の精神」によって表される。ホジソンの誤りは「過去数十年におけるアメリカの理念の歪曲」、すなわち近年の「現実の悪用」に固執していることである。
では「現実そのもの」、アメリカのごく初期の頃からの「理念」に目をむけてみよう。
「山の上にある町」という霊感あふれる語句は、1630年にジョン・ウィンスロップが考え出した文句で、福音書から借用され、「神が定めた」新しい国家の輝かしい未来を明らかにしている。その1年前に、彼のマサチューセッツ湾植民地領はその「国章」を確立した。それには、口からひとつの巻物を繰り出している一人のインディアンが描かれている。その巻物には「ここへ来て我らを助けたまえ」という言葉が見える。英国の植民者はそれゆえ善意ある人道主義者たちであり、異教徒の苦しい運命から救われたいという、みじめな原住民たちの嘆願に応えたというのである。
この「国章」は誕生の時からの「アメリカの理念」を視覚的に表わすものである。それは意識の深みから掘り起こし、あらゆる教室の壁に貼り出すべきである。また実際は在任中にもっと身の毛もよだつような犯罪のいくつかを画策し、忌まわしい遺産を残しながら、自分のことを「山の上にある輝かしい町」のリーダーであると満足げに説明した、残酷な殺人者そして拷問者ロナルド・レーガンに対する金日成(キム・イルソン)的なすべての崇拝の背景に、必ず現れているはずだ。
現在流行している言い回しを借りれば、この初期の「人道的介入」宣言はその後のこうした介入と結局のところ非常によく似たもので、実行者たちはそのことを自覚していた。初代の陸軍省長官ヘンリー・ノックス将軍は「北部諸州連合の最も人口の多い部分にいるすべてのインディアンたちの完全なる根絶」が「原住民のインディアンたちにとって、メキシコやペルーの征服者たちの行動よりももっと破壊的な」手段によって行われたと説明した。ジョン・クインシー・アダムズは、自分自身が経緯に重大な役割を果たしてからかなり時が経った後で「いつか神がそれに対する審判を行うと信じているが、この国の忌まわしい数々の罪の中でも…この残酷で不誠実な残忍性をもって我々が皆殺しにしている憐れな先住アメリカ人種」の運命を嘆き悲しんだ。残酷で不誠実な残忍性は「西部を勝ち取る」まで続いた。神の審判の代わりに、この忌まわしい罪はアメリカの「理念」の実現に対する賞賛のみをもたらしている。<2>
もちろん、これにはもっと都合のよいありきたりな表現があり、植民地入植者たちが「常に尊敬の念を抱いていた」にも関わらず先住民が「秋の枯葉」のように消えたのは「神の摂理」の働きだったと思い巡らしたジョセフ・ストーリー最高裁判事が、その一例である。<3>
西部の征服と移住は、確かに個人主義と事業的進取の気性を見せた。最も残虐な帝国主義の形である移住者- 植民地入植者の事業は一般的にその傾向がある。尊敬され影響力のあったヘンリー・カボット=ロッジ上院議員は1898年にその成果を歓迎した。キューバでの干渉を要求しながら、ロッジは「19世紀のどのような国民たちにも比類ない征服、植民地化、領土拡大」をしたわが国の記録を褒め称え、キューバ人もまた我々に来てもらい助けてほしいと懇願しているのだから、「今それを抑制すべきでない」と訴えた。<4> 彼らの懇願はかなえられた。米国は軍隊を送り、キューバがスペインから解放されることを妨げ、事実上植民地に変えてしまったのであり、それは1959年まで続いた。
「アメリカの理念」は、キューバの然るべき地位の回復のためほぼ同時に開始された驚くべき作戦行動によって、さらに明らかにされた。それは、反抗的な政府の打倒を促すようにその国民に制裁を加えるという、明白に組織された目的を持つ経済的戦争、侵略、「地上の恐怖(この任務を最高優先事項の一つとして担ったロバート・ケネディの伝記における歴史家アーサー・シュレジンジャーの言葉)」をキューバにもたらすためのケネディ兄弟の献身、そして全世界のほぼ一致した意見を公然と無視して、現在まで続いているその他の犯罪である。
キューバに民主主義をもたらす努力が失敗したので、「彼らのもとに来て助ける」別の方法を取るべきだと主張する自信満々の批判者たちがいるはずだ。このような批判者たちは、どうして目的が民主主義をもたらすことだったことを知っているのだろうか。証拠はある。我が指導者たちがそう主張したということだ。一方で反証もある。機密解除された内部記録だ。だがそれは単なる「歴史の誤用」として簡単に忘れ去ることができる。
アメリカ帝国主義の由来は1898年のキューバ、プエルトリコ、ハワイの支配権奪取にたどられることが多い。しかしそうすることは帝国主義の歴史家バーナード・ポーターが「塩水の欺瞞」と呼ぶ、つまり塩水を超えたときにのみ征服が帝国主義になるという考えに屈服することになる。というわけで、ミシシッピー河がアイルランド海に似ていたならば、西部への進出は帝国主義だったはずだ。ワシントンからロッジに至るまで、その冒険的事業に取り組んだ人々はもっとはっきりした理解を持っていた。
1898年にキューバの人道的介入に成功した後、神の摂理によって託された任務の次のステップは、フィリピンの「救出されたすべての人々に自由と文明の恩恵」を授与すること(ロッジの共和党の政綱の言葉)であり、その人々とは、残忍な虐殺とそれに伴う大規模な拷問やその他の残虐行為をかろうじて生き延びた人々であった。これらの幸運な人間たちは、新たに考えられた植民地主義的支配モデルに沿って米国が設立したフィリピンの警察隊に生殺与奪の権を握られることになった。この警察は、洗練された監視、威嚇そして暴力形態に対して訓練され装備された秘密警察隊に依存していた。<5> 似たようなモデルは、残忍な民兵組織やその他の傭兵隊を米国によって押し付けられた多くの地域で採用されており、その結果はよく知れ渡っているはずだ。
歴史家アルフレッド・マッコイによると、過去60年間、世界中の被害者たちは年間10億ドルにも及ぶ費用で開発されたCIAの「拷問パラダイム」をも耐え忍んできたのであり、彼は、この方法がほとんど変わらずにアブー・グレイブで表面化したことを示している。ジェニファー・ハーベリーが米国拷問記録の洞察鋭い調査を「真実、拷問、アメリカ流儀」と題したことに誇張はない。ブッシュ一味のドブ底への転落を調査追及する人間たちが「テロリズムとの戦争を戦ってアメリカはその道を見失った」<6> などと嘆くのは、少なくとも非常に誤解を招く言い方である。
ブッシュ-チェイニー-ラムズフェルドの連中は、実は重要な革新を導入したのである。普通、拷問は下請け組織に請け負わせ、政府が設立した拷問室で直接アメリカ人によって実行されることはない。最も啓発的で勇気ある拷問の調査の一つを行ったアラン・ネルンは「オバマ(の拷問禁止)が鳴り物入りで排除したのは、現在アメリカ人によって行われているごく一部の拷問でしかなく、米国の後ろ盾で外国人によって行われている制度的拷問の大量部分は残したままだ。オバマは拷問を行う外国軍の支援を中止することができるのに、それをしないことを選んでいる」と指摘している。オバマは拷問を行うのを禁止したのではなく、「単にその位置づけを変えただけだ」とネルンは見ている。典型的手法に戻したのだ。被害者にとってはどちらにせよ大した違いはない。ベトナム戦争以来、「米国は主に外国人に報酬を支払い、武装させ、訓練をし、指導して、自国の拷問を代理人にやらせてきたが、普通はアメリカ人を少なくとも一歩は下がって控えさせるように注意してきた。オバマの禁止令は「『軍事的衝突』の環境の外ならアメリカ人による直接的拷問さえも禁止しないのであり、多くの抑圧的政権は軍事的衝突状態にないので、実際のところそのような場所でこそほとんどの拷問が発生するのである … オバマ政権は、フォードからクリントンへ続いたかつての拷問政権の状況への回帰である。この時代には、毎年、米国に支援されたもっと多くの苛烈な苦悶が、ブッシュ-チェイニー時代よりも多く生まれたのだった」<7>
時には拷問への関与はもっと間接的だ。南米専門家ラース・シュルツの1980年のある調査によると、米国の援助は「みずからの市民を拷問する南米の政府へ、…南半球でむしろ悪名高い基本的人権侵害者たちへと不均等に流れる傾向がある」ことが明らかになった。これには軍事援助が含まれており、必要性とは無関係に、カーター時代を通して行われている。エドワード・ハーマンによるもっと広範な研究で同じ相関関係が見つかっており、さらにある説明が示唆されている。驚くことではないが、米国の援助は、事業営業にとって有利な環境と相関しており、これは労働運動および農民運動の組織者や人権活動家の殺害、またはその他の同種の行動によって改善されるのが通常であり、結果として援助と言語道断な人権侵害との間の二次的相関関係が生まれている。<8>
これらの研究は、相関関係があまりにも明白だったのでこのトピックを研究する価値がなかったレーガン時代以前に行われたものである。そしてこの傾向は現在まで続いている。
過去を振り返るのではなく未来を見つめろと、懲らしめの棍棒を握る側にとって都合の良い教理で大統領が勧告するのは不思議ではない。だがそれで叩かれた側の人間たちは違った見方で世界を見る傾向があり、我々としては具合が悪いわけだ。
CIAの「拷問パラダイム」の実施は1984年に採択された拷問等禁止条約に違反していないとする議論もあり、少なくともワシントンによる解釈ではそうだ。アルフレッド・マッコイは、高度に洗練されたCIAパラダイムは、「KGBの最も破壊的な拷問テクニック」に基づいており、人々を植物化させて服従させるには効果が低いと考えられている稚拙な肉体的拷問ではなく、主に精神的拷問に集中していることを指摘している。レーガン政権は「条約の26枚の印刷ページの中でたった一つの言葉に注目し、四項目の詳細な外交的『保留条項』をつけて」、国際的な拷問禁止条約に入念な改訂を行ったとマッコイは書いている。「精神的」という言葉である。「複雑難解に構築されたこれらの外交的保留条項は、米国が解釈する限り、拷問の定義を変更し、CIAが多大な労力を払って洗練してきたテクニックそのものである感覚遮断や自虐的苦痛を除外することになった」。クリントンが1994年に国連の条約の批准を求めて議会にそれを送った時、彼はレーガンの保留事項を含め入れた。つまり、大統領および議会はCIA拷問パラダイムの中核を拷問禁止条約の米国解釈から外した。「これらの保留条項は国連条約に法的効力を与えるために制定された国内法で、一字一句変えることなく再現された」と、マッコイは述べている。これは「政治的な地雷」であり、アブー・グレイブのスキャンダルおよび2006年に超党派的支持を得て通過した恥ずべき軍事委員会法において「驚異的な威力で爆発した」。それゆえ、米政府が拷問を用いていたことが最初に暴露された後、憲法学教授サンフォード・レビンソンは、レーガンおよびクリントンが国際人権法を改訂して採用した「拷問に寛容な」拷問の定義の見地から見ると、この拷問はおそらく正当化される可能性があると述べている。<9>
ブッシュはもちろん、国際法の自明なる違反を認可したことでは前任者を凌ぎ、彼によるいくつかの過激な新措置は法廷によって無効とされた。オバマは、ブッシュと同様に国際法を遵守する我が国の揺るぎない姿勢を雄弁に表明しつつ、過激派ブッシュの措置を実質的に回復させようとしているようだ。重要な訴訟である2008年ブーメディエン対ブッシュでは、グアンタナモの囚人たちは人身保護法(ハベアス・コルプス)の権利がないとするブッシュ政権の主張を、最高裁は憲法違反であるとして却下した。グレン・グリーンワルドはその後の展開を追っている。「世界中から人々を誘拐し」正当な手続きを経ずに収監する「権力を保持する」ことを求めて、ブッシュ政権は彼らをバグラムへ移送することに決め、「我が国の最も基本的な憲法による保証に基づいているブーメディエン裁定をまるでなにかふざけたゲームであるかのように扱ったのである。つまり、誘拐した囚人たちをグアンタナモに飛ばせた場合は、彼らには憲法上の権利があるが、代わりにバグラムに飛ばせた場合は彼らは司法的な手続なしに永遠に姿を消されてしまうのだ」。オバマは「二句で、この問題に関する最も過激なブッシュの理論を受け入れることを宣言する準備書面を連邦裁判所に提出して」、ブッシュの立場を採用した。この準備書面ではタイやUAEで誘拐されたイエメン人やチュニジア人たちを問題にしているが、世界のどこからであろうとバグラムに飛ばされた囚人は、「グアンタナモでなくてバグラムに収容されている限りどのような権利も一切なく無期限に収監される」と主張している。
3月に、ブッシュが任命した連邦裁判官は「ブッシュ/オバマの立場を却下し、ブーメディエンの理論的解釈は、グアンタナモに適用されるのとまったく同様にすべてバグラムにも適用されると裁定した」。オバマ政権は、この裁定に控訴すると発表したため、オバマの司法省は「行政権や正当な手続のない拘束の問題について、極度に保守的で行政権擁護を主張し、43代目ブッシュが任命した裁判官よりも右側に」正々堂々と位置づけられることになり、オバマの選挙公約や早期の立場を徹底的に裏切ることになった。<10>
ラスール対ラムズフェルドの訴訟も似たような軌跡をたどっているように見える。原告らは彼らがウズベク人の軍閥の長ラシード・ドストゥムによって逮捕されたあと連れて行かれたグアンタナモでの拷問に対して、ラムズフェルドおよびその他高官に責任があると告発している。ドストゥムは、当時アフガニスタンの北部同盟を率いていた指導者の一人であった、悪名高い凶悪犯だ。北部同盟はロシア、イラン、インド、トルコ、そして中央アジア各国の支援を受けていた党派で、2001年10月のアフガニスタン攻撃時に米国も支援に加わった。ドストゥムはその後彼らを米国に引き渡した。報償金と引き換えだったと言われている。原告はアフガニスタンには人道援助を提供するために行ったと主張している。ブッシュ政権はこの訴訟を却下させようとした。オバマ政権下の司法省は、拘束者たちが享受する権利について法廷はまだ何も確立していないので、政府高官はこの訴訟における拷問やその他の正当な手続違反に対する責任を負わないとするブッシュの立場を支持する準備書面を提出した。<11>
オバマはさらにブッシュ時代に行われたもっと深刻な法規違反のひとつ、軍事委員会を復活させようとしていると報告されている。それには理由がある。「グアンタナモ問題に関わっている高官は、政権の弁護士たちが、連邦裁判所での複数のテロ容疑者の審理にあたって大きな障害に直面するのではないかと懸念を抱き始めていると発言している。残酷な扱いを受けた拘束者たちを起訴すること、また諜報機関によって収集されたうわさの証拠を検察側が使うことを裁判官たちは困難にするかもしれない」。<12> 刑事司法制度の深刻な欠陥のようだ。
拷問が情報を引き出すために有効だったかどうかについては数多の議論があり、その前提はどうやら、もし有効ならばそれは正当化されるだろうということらしい。同じ議論に従えば、1986年にニカラグアがレーガンのコントラ軍への援助を配達した飛行機を撃ち落して米国パイロット、ユージン・ハセンファスを逮捕したとき、彼を裁判にかけ、有罪とし、その後彼を米国に送り返すべきではなかっただろうけれども、ニカラグアはそうした。そうする代わりに、彼らは CIAの拷問パラダイムを適用して、ワシントンで計画され実行されている他のテロリスト残虐行為について情報を引き出そうとするべきだった。世界的超大国によるテロリスト攻撃を受けている小さな貧しい国にとっては小さからぬ事である。またニカラグアは、首謀テロ工作者のジョン・ネグロポンテを逮捕することができたなら、間違いなく同様に対処すべきだった。ネグロポンテは、当時ホンジュラスの大使で、後に、誰からも何も言われないまま反テロ責任者に任命された。キューバもケネディ兄弟に手をかけることができたのなら、同じことをするべきだっただろう。キッシンジャー、レーガン、その他代表的なテロリスト指揮官に対して、被害者たちが何をすべきだったか取り上げる必要もない。彼らは、アル=カーイダすらはるかに引き離すような手柄を誇り、その後の「時限爆弾」を予防することができたはずの十分な情報を間違いなく持っていた。
そのような考慮すべき事柄はたくさんあるが、決して公共の話し合いの話題に上ってこないようだ。それで私たちは価値ある情報というような弁解を即座に評価できるのだ。
もちろん、ひとつの反応として、我々のテロリズムは、例えそれが確かにテロリズムであったとしても、山の上にある町に由来するからには、無害である、という意見がある。多分この論旨の最も流麗な解説は、人望の高い「左派」のスポークスマンであるニューリパブリック誌の編集者マイケル・キンズレーによって表明されている。CIAによるニカラグア空域の掌握とコントラへの洗練された通信システムの提供によって可能になっていたわけだが、ニカラグア軍を避けて「ソフト・ターゲット」つまり無防備の民間人ターゲットを攻撃せよ、という公式命令を米政府のテロ部隊に出した、と国務省が認めたことに対して、アメリカズ・ウォッチ(人権団体ヒューマンライツウォッチ)は抗議をしていた。それに応えて、キンズレーは実際的な基準を満たすのであれば、民間人ターゲットに対する米国テロリストの攻撃は正当化されると説明した。その基準とは、「分別ある方針が、費用対効果分析」すなわち「流し込まれる血および苦痛の量と結果的に民主主義<13>が生まれる可能性」の分析という「検証に耐えれば」満たされる。「民主主義」の定義は米国エリート層が決めるのだ。彼の思考への批評は、私の知る限り、まったくなかったし、どうやら許される内容だと判断されたらしい。ということは、米国の指導者たちや彼らの代行者たちは、そのような分別のある方針を誠実に行うことについて責められるべきところはないということになるようだ。時には、判断を誤ることがあるかもしれないとしてもだ。
流行している倫理的規範に従うなら、ブッシュ政権の拷問はアメリカ人の命が犠牲になっているということが発覚すれば、責められるべきところが出てくるのであろう。特派員パトリック・コバーンによれば、「米軍がイラクのアル=カーイダの長、アブー・ムスアブ・アル=ザルカーウィーを探し出すことを可能にした情報」を引き出した、イラクで最も経験豊かな尋問官の一人、米国のマシュー・アレクサンダー少佐(仮名)が、アメリカ人の犠牲についてまさにそう結論を出している。アレクサンダーは残忍な尋問方法に対しては侮蔑しか示さない。彼は「米国による拷問の使用は、有益な情報を引き出さないということばかりでなく、あまりにも非生産的なので、9/11で殺された民間人の数と同じだけの米国兵士の死を招いたかもしれない」と考えている。何百件もの尋問から、アレクサンダーは、外国の戦士たちがグアンタナモやアブー・グレイブでの虐待に対する反発からイラクに来たこと、また彼らの国内の同盟者たちが自殺爆弾やその他のテロリスト行為に走ったのも同じ理由だったことを発見した。<14>
さらに、チェイニー/ラムズフェルドの拷問がテロリストを生んだことをますます明らかにする証拠もある。入念に調査されたケースのひとつは、「北部同盟との銃撃戦に二回または三回参加していた」という罪でグアンタナモに監禁されていたアブドゥッラー・アル=アジュミーの場合だ。彼はロシアの侵略と戦うためのチェチェン入りに失敗した後アフガニスタンにたどりついた。4年間にわたるグアンタナモでの残酷な扱いの後、彼はクウェートに返された。その後彼はイラクへ行く術を見出し、2008年3月に爆弾を山積みしたトラックをイラク軍基地に乗り込ませ、自身と共に13人の兵士を殺した。ワシントンポスト紙は「元グアンタナモの収容者によって行われた単一かつ最も忌まわしい暴力」と報告しており、彼のワシントンの弁護士は「虐待的監禁の直接的結果である」と結論づけている。<15>
分別のある人物なら予想がつく、まったくもって当たり前のことだ。
拷問に対するもう一つの標準的な弁解は、「邪悪で恐ろしい残忍さ」で実行された「人類に対する犯罪」とロバート・フィスクが報告した9/11の後に、ブッシュが宣言した「テロとの戦い」という文脈である。あの犯罪は従来の国際法を「古風」で「時代遅れ」にしたのだと、ブッシュは、後に司法長官に任命されたアルベルト・ゴンザレスから法律的な助言を受けた。この教義は、評論から分析に至る色々な形で広く繰り返されてきた。
9/11の攻撃は疑う余地なく多くの面で類のないものである。ひとつは攻撃がどこに向けられたかということで、普通とは逆向きである。実際、あれは 1814年に英国がワシントンを焼き払って以来、国家の領土に対して何らかの影響を及ぼした最初の攻撃だった。もう一つの他に類を見ない特徴は、国家ではない行為者による恐怖の規模である。しかし、おぞましい出来事であったことには違いないが、もっと悪いことになっていたかもしれない。犯人たちがホワイトハウスに爆弾を落として大統領を殺し、5万人から10万人にもおよぶ人々の殺戮や70万人もの人々の拷問を実行する凶暴な軍事独裁制を確立し、暗殺を実践する巨大な国際テロセンターを設置し、あちこちに似たような軍事独裁政治を押し付ける支援を行い、あまりにも過激な経済理論を実践して経済が破壊されたために二、三年後には国家が実質的にそれを引き受けなければならなくなったと想像してみたらどうだろう。それは2001年の9/11よりずっと悪いことだろう。そしてそれは南アメリカが「最初の9/11」と呼んでいる出来事で、1973年に実際に起きたことなのだ。数値は実際に犯罪の重大さを測る手段として人口規模に合わせて換えてある。責任は直接ワシントンにつながっている。こうして、二つの出来事の類似性――非常に妥当な――は意識の外に消え、事実は、単純な人間たちが歴史と呼ぶ「現実の悪用」なのだと片付けられることになる。
また、ブッシュは「テロとの戦い」を宣言したのではなく、単にそれを宣言しなおしたに過ぎないということも思い出すべきである。それより20年前、レーガン政権はその外交政策の柱が、テロとの戦い、当時の熱に浮かされた弁舌の例を挙げれば「現代の疫病」そして「我々の時代における未開状態への回帰」との戦いである、と宣言して着任した。その頃のテロとの戦いもまた歴史の意識から抹消されてしまったが、その理由は、その結末が簡単に教理に組み入れられないものだからだ。中央アメリカの破壊された国々で何十万人もが殺され、その他の場所でもさらに多くの人たちが殺された。その中には、レーガンごひいきの同盟国、アパルトヘイト時代の南アフリカが近隣国で支援したテロ戦争で殺された約150万人がいた。当時南アフリカが自らを守らなければならなかった相手は、 1988年に米政府が世界の「特に悪名高いテロリスト・グループ」と指定した中の一つに数えられていた、ネルソン・マンデラのアフリカ民族会議(ANC)だった。公平に言って、20年後に米議会がANCをテロリスト組織のリストから外すことを可決したため、マンデラは今ようやく、政府から適用免除証書を取得せずに、米国に入国することができるようになったことを付け加えておく必要があるだろう。<16>
この支配的教義は時に「アメリカ例外主義」と呼ばれている。これは例外的なものではまったくない。多分帝国主義的権力の間ではほとんど普遍的なものだろう。フランスは、陸軍大臣がアルジェリアの「原住民の根絶」を要求しているときに、自国の「文明化の使命」を謳いあげていた。英国の高潔さは「世界でも稀有である」とジョン・スチュワート・ミルは宣言したが、一方で彼はこの天使の力がインド解放の完了をこれ以上遅延させないようにと嘆願していた。人道的介入に関するこの古典的な評論は、1857年のインドの叛乱を抑圧するために英国が行った恐ろしい蛮行が公に明らかにされた直後に書かれたものである。インドの残りの地域を征服することは、歴史上で群を抜いて最大規模だった英国の巨大な麻薬密輸事業のためにアヘンの独占を獲得しようとする試みであり、主に中国に英国の製造商品を受け入れることを強いるために考えられたことであった。
同様に、日本の軍国主義者たちが南京での強姦を実行しながら、穏便な日本の保護のもとに「地上の楽園」を中国にもたらそうと本気で思っていたことを疑う理由はない。歴史は似たような輝かしいエピソードで満ち溢れている。
このような「例外主義」的理念が強固に根付いている限り、時折「歴史の悪用」の暴露が逆効果を生み出し、恐ろしい犯罪が目立たなくなってしまう。ソンミ村の大量虐殺は、テト攻勢後の平定計画のもっと大規模な残虐さの単なる脚注でしかないのだが、この単一の犯罪に対して憤りが集中することで、もっと膨大な残虐さの方は無視されてしまった。ウォーターゲート事件は、疑いなく犯罪的だったが、それに対する熱狂的な騒乱によって、比較にならないほどもっと悪質な国内や国外の犯罪がかき消されることになった。悪名高いCOINTELPROによる弾圧の一部としてFBIが組織した、黒人運動組織者フレッド・トンプソンの暗殺やカンボジア爆撃はその二つの言語道断な例である。拷問は十分に忌まわしいが、イラク侵略はそれよりずっと悪質な犯罪だ。選択的な残虐行為にこのような働きがあることは、非常に多い。
歴史的記憶喪失は危険な現象であり、それは単に倫理的および知的な誠実さを侵蝕するからというだけではなく、将来起こる数々の犯罪のための地ならしをすることになるからである。
1)
http://documents.nytimes.com/report-by-the-senate-armed-services-committee-on-detainee-treatment#p=72.
Jonathan Landay, “Abusive tactics used to seek Iraq-al Qaida link,” McClatchy news, April 21. Gordon Trowbridge, “Levin: Iraq link goal of torture,” Detroit News, April 22, 2009.
2) Reginald Horsman, Expansion and American Indian Policy (Michigan State, 1967); William Earl Weeks, John Quincy Adams and American Global Empire (Kentucky, 1992).
3) On the record of Providentialist justifications for the most shocking crimes, and its more general role in forging “the American idea,” see Nicholas Guyatt, Providence and the Invention of the United States,1607-1876 (Cambridge 2007).
4) Cited by Lars Schoultz, That Infernal Little Cuban Republic (North Carolina, 2009).
5) Ibid. Alfred McCoy, Policing America’s Empire (Wisconsin, 2009).
6) McCoy, A Question of Torture (Metropolitan, 2006). Also McCoy, “The U.S. Has a History of Using Torture,” http://hnn.us/articles/32497.html. Harbury (Beacon, 2005). Jane Mayer, “The Battle for a Country’s Soul,” NY Review, Aug. 14, 2008.
7) News and Comment, Jan. 24, 2009, www.allannairn.com.
8) Schoultz, Comparative Politics, Jan. 1981. Herman, in Chomsky and Herman, Political Economy of Human Rights I, ch. 2.1.1 (South End,1979); Herman, Real Terror Network, 1 (South End, 1982), 26ff.
9) McCoy, “US has a history.” Levinson, “Torture in Iraq & the Rule of Law in America,” Daedalus, Summer 2004.
10) Greenwald, “Obama and habeas corpus — then and now,”
http://www.salon.com/opinion/greenwald/2009/04/11/bagram/index.html?source=newsletter.
11) Daphne Eviatar, “Obama Justice Department Urges Dismissal of Another Torture Case,” Washington Independent, March 12, 2009,
http://washingtonindependent.com/33679/obama-justice-department-urges-dismissal-of-another-torture-case.
12) William Glaberson, “U.S. May Revive Guantanamo Military Courts,” NYT, May 1, 2009;
http://www.nytimes.com/2009/05/02/us/politics/02gitmo.html?scp=1&sq=%22military%20commissions%22&st=cse.
13) Kinsley, Wall Street Journal, March 26, 1987.
14) Cockburn, “Torture? It probably killed more Americans than 9/11,” Independent, 6 April, 2009.
15) Anonymous (Rajiv Chandrasekaran), “From Captive to Suicide Bomber,” WP, Feb. 22, 2009.
16) Joseba Zulaika and William Douglass, Terror and Taboo (Routledge, 1996). Jesse Holland, AP, May 9, 2009. NYT.
原文:http://www.chomsky.info/articles/20090524.htm
The Torture Memos
Noam Chomsky
chomsky.info, May 24, 2009