革命の最前線、タハリール広場を中心にエジプトの近現代史をひもとく
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1月25日、エジプトの首都カイロの中心部にあるタハリール広場を舞台に始まった民主化を求める民衆デモは、官憲の弾圧により300人もの死者を出しながらやむことなく、18日目にしてついに、30年続いた大統領独裁に終止符を打ちました。世界が注視するなかで、「歴史」が創られた瞬間でした。私たちみなが、この歴史的出来事の証人でした。
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エジプトと私とタハリール
1982年7月から翌83年9月まで1年と3カ月、アラビア語を勉強するために、エジプトに留学しました。
カイロの新市街は、19世紀にジョルジュ・オスマンが改造したパリの街をモデルに作られています。パリと同じように円形の広場から、6本の通りが放射状に延びて、また次の円形広場につながって…。通りの両脇に立ち並ぶ建物の外も内も、19世紀のパリを彷彿とさせるものでした。のちに初めてパリに行ったとき、街のファサードがそっくりなので、「カイロだ!」と思ったものです。川が見えたときは思わず「ナイルまである!」と叫んでしまいました(もちろんセーヌです)。
タハリール広場は、そんなカイロのダウンタウンのど真ん中にあります。西にナイル河畔に建つナイル・ヒルトン・ホテル、その前が巨大なバスターミナルになっていて、北側にツタンカーメンでおなじみのエジプト考古学博物館、そして南に、エジプト的官僚主義で悪名高いモガンマア(政府合同庁舎)があります。タハリールは、これらに囲まれた巨大な広場です。
タハリールはほんとにカイロの中心、すべての道はタハリールに通ず、そして私の下宿は広場から歩いて5分のところにありました。エジプトではタクシーに乗るとき、やって来るタクシーの運転席に向かって、行く先を大声で叫びます。当時は乗り合いが多かったので、先客と行く方角が同じなら、乗せてくれます。外出先から家に帰るときはいつも、同じ方角に行く車が来るまで、声を枯らして「タハリール!」と叫んだものです。
ちなみに「タハリール」の「ハ」は、預言者ムハンマドの「ハ」と同じ、アラビア語独特の咽頭摩擦音。「リ」と「ル」は巻き舌のRの音です。声が小さかったり、発音が悪いと車は止まってくれません。砂ぼこりにまみれながら、アラビア語を全身で学ぶ経験でした。
私が留学した82年は、前年にサーダートが暗殺され、ムバーラクが大統領になって1年目。今でもよく覚えているのは、ムバーラクが大統領になった当初のジョーク、「ムバーラク ミーン?(ムバーラクって誰?)」。副大統領でしたが、当時、市民は誰も、彼のことをよく知りませんでした。
サーダートもナセル(ほんとはアブドゥンナーセル)も軍人でしたが、空軍出身のムバーラクは若かったせいか(当時はまだ50歳)、いかにも「軍人」という感じがしました。
フランスのチーズメーカーにラヴァシュキリ(la vache qui rit、笑う牛)という名のメーカーがあります(日本でも6ポーションのチーズ、売っています)。そのマークが文字どおり笑っている牛の絵なのですが、その牛の絵がムバーラクに似ているというので、「笑い牛」というあだ名がつきました(今の絵は昔のものとは違うので、あまり似ていませんが)。でも、あの頃、笑い牛が現代のファラオとなって30年もエジプトに君臨するなんて、誰も思ってはいなかったのではないでしょうか。
ムバーラクがどこかを訪問したときのニュース映像を見て、背が低いことに驚いたことがあります。威風堂々としていて、演説している姿など実に大きく見えるけど、実際はそんなに背が高くないのですね。政治家としてのオーラなのでしょうね。
ナセル時代のエジプトは社会主義で、ナセルの死後(1970年、心臓発作で急死しました)、大統領になったサーダートは経済的には資本主義、門戸開放政策に舵を切り、アラブの大義を裏切ってイスラエルと和平条約を結ぶことで、アラブ連盟からは追放されたけれど、政治的には親米路線で、アメリカから多額の経済援助を受けることになりました。アメリカの経済援助、トップはイスラエル、次がエジプトです。エジプトをアラブ連盟から追放したアラブ諸国ですが、10数年後、湾岸戦争のあと、イラク、シリア、レバノン等をのぞき、多くのアラブの国々が競うように「エジプト化」しました。
資本主義になったとはいえ、30年前のエジプトはまだまだ貧しかった。カイロ市内全体に本格的なスーパー・マーケットは二つしかありませんでした。買いものはいつも、野菜は八百屋で、肉は肉屋で、魚は魚屋で、缶詰めは乾物屋で……。
その後、訪れるたびにカイロは、物があふれ、きらびやかに、明るくなっていきました。でも、明るくなればなるほど、闇もまた濃くなり、社会は富める者と貧しい者に二極分解し、その格差は歳月とともにどんどん広がりました。
ナセル時代を知る者は、「あの頃は貧しかったけれど、みな平等に貧しかった」と、昔を懐かしみました。ナセル時代は「暁の訪問者」と呼ばれる秘密警察(未明に家にやって来るので、そう呼ばれました)が跋扈し、ナセル独裁に異議を唱える者たちを政治犯として逮捕し、拷問しました。(ノーベル文学賞をアラブ世界で初めて受賞したナギーブ・マフフーズの小説『カルナック』は、それを描いたものです)。当時、政治的自由はなかったけれど、それはサーダートになっても、ムバーラクになっても、変わりませんでした。まるで、「独裁」こそがエジプトの伝統文化であるように…。
サーダートは、共産主義者やナセル主義者の力を抑えるために、敬虔なイスラーム教徒であることをアピールし、無神論であるコミュニストを敵視するイスラーム主義者を支援しました。皮肉なことに、イスラエルと和平条約を結んだことで、自分が育てたイスラーム主義勢力に、背教者として暗殺されることになるのですが…。
サーダートの額には祈りだこがあったそうです。ムスリムのお祈りは床に何度も額ずくので、敬虔なムスリムの額には、その証のタコができるのです。実際はどうだったか分からないけれど、敬虔なムスリムをアピールするサーダートには、ムバーラクのような汚職まみれのイメージはありませんでした。
サーダートは52年のエジプト革命のときの、ナセルと同じ自由将校団の一人ですが、ナイルデルタの貧農の生まれで、肌の色が濃いのは、母親がスーダン人だから。エジプト人のナショナル・アイデンティティは「農村」「農民」にあるので、そういう意味で、サーダートは見るからに、土着のエジプト人、という感じがします。白いガラビーヤ(エジプト人男性、とくにお百姓さんが着ている長い胴衣)を着たら、ほんとにお百姓さんに見えそう。
でも、ムバーラクは違いました。空軍出身で、見るからにエリートという感じだった。そして、この30年間、訪れるたびにエジプトでは、ムバーラク一族の汚職の話が市民のジョークのネタになっていました。
ある年に訪れたときの話題はムバーラクの弟の汚職。また、95年に訪れた時のエジプト人の自虐ジョークは、世界でいちばんベンツの保有数が多いのはエジプトだ、というものでした。ほんとにいちばんかどうかは分からないけれど、実際、高級ホテルの前には、ベンツばっかりが並んでいる。それだけ「ハラーミー」が多いということ。「ハラーミー」とは泥棒のことですが、汚職や賄賂で、不正にお金を懐に入れる連中のこと。その大親分がムバーラクでした。
かつて(ナセル時代)は社会主義で、大学の学費も無料、それどころか、大学生に対して政府が奨学金を出していました。貧しくても、優秀であれば大学に行けた(明治のころの日本と同じですね)。そして、大卒者には公務員の職が保障されていました。でも、ムバーラク時代、極端な話、子どもの時から教育に投資できる家庭の子弟しかいい大学には行けなくなった。
大学を出ても、まともな仕事などない。公務員になっても、給料じゃとても生きていけない。清廉であることなど何の助けにもならない。社会的、宗教的に、いろいろな意味で「不正」なことをしない限り、貧しさからは抜け出せない。一方でハラーミーたちがベンツを何台も持って、豪勢な生活をしている……。
だからムスリム同胞団が国民の支持を集めるのは、あたり前のことなのです。
ムスリム同胞団は、英国の植民地支配下のエジプトで、植民地支配という不正と闘うために誕生しました。共産主義も社会主義も凋落した今、貧しい者たちがおかれたこの状況を「不正」と名ざして告発する、つまり社会正義を実践しようとするのはイスラームだけなのです。
30年前のエジプトで、ヒジャーブ(イスラーム式スカーフ)を被っている若い女性など、ほとんどいませんでした。むしろ例外。ヒジャーブを被っている女子大生がいると、「ねえ、あなたはどうしてヒジャーブ被っているの?」とわざわざ訊ねたものです。
ところが今、多くの高等教育を受けた若い女性たちがヒジャーブを被っています。かつて、マルキシズムが社会正義の実現を目指す社会変革のためのイデオロギーであったとしたら、今、それはイスラームなのです。若い女性たちがヒジャーブを被る、その理由は一つではありませんが、でも、この不正な社会に対する一種のプロテストの意味もあるのです。
今回の革命で、ヒジャーブを被った若い女性たちもまた、前面で反ムバーラク、ムバーラク退陣を訴えました。ヒジャーブをイスラームによる女性抑圧の象徴と見なし、ヒジャーブを被ったムスリム女性をイスラームの家父長制に虐げられる犠牲者であるかのように見なす者には、彼女たちがアラビア語で、あるいは英語で積極的に発言する、行動する、そのアクティヴィズムが、不思議なものに映ったかもしれません。でも、「ヒジャーブを被った女性たち<さえもが>」ではないのです。ある意味、「ヒジャーブを被った女性たち<だからこそ>」、明確な政治的主張をしているのです。
エジプトの植民地支配の歴史は100年に及びます。19世紀の半ばには、英仏によって国家財政を管理され、実質、植民地となりました。1882年、英仏の植民地支配からの解放を求めて、革命が起こりました。革命を主導した大佐の名をとってオラービー革命と呼ばれています。しかし、革命は失敗、エジプトは完全にイギリスの植民地になります。
第一次世界大戦後、ウィルソン大統領が14カ条の原則で民族自決を説いたことで、世界的に、独立の機運が高まります。1919年3月、独立を求める政治家が国外追放されたことを機に、エジプト全土が蜂起します。全人民的蜂起でした。
農村女性も鉄道線路を破壊し、電線を切断し、放火し、女子学生(良家の子女)もデモに参加し…。当時、エルサレム巡礼の途上、たまたまカイロにいた徳富蘆花夫妻が、これを目撃しています(日英同盟のため、夫妻は英軍に便宜をはかられながらの中東旅行でした)。
ちなみに、1919年3月、日本の植民地支配下の朝鮮でも、独立を求める叫びが半島全体に広がります(三一運動)。時同じくして、アジア大陸の東にある朝鮮と、西アジアの隣にあるエジプトで、民衆が「独立」を求めて立ち上がったのです。しかし、朝鮮の独立運動は、日本帝国主義による苛酷な弾圧を招来することになりました。「(三一)運動」と呼ばれていますが、エジプトとの対比で考えるなら、それが朝鮮民衆のインティファーダであり、成就を見送られた革命であったことが分かります。
一方、エジプトは1922年、独立します。でも、それは、名目的独立に過ぎませんでした。英軍は依然、駐留を続け、王政は英国の傀儡…。腐敗した王政を打倒し、英軍をエジプトの国土から永遠に追放するための国民の闘いは続きます。官憲による苛酷な弾圧を被りながら。そして30年後の1952年、王政は打倒され、国王一家は海外追放、7月、英軍はエジプトから撤退します。
この国民の闘いの記憶は、小説で、映画で、繰り返し描かれてきました。日本で12月になると忠臣蔵が演じられるように、エジプトでは7月になると、52年革命の映画がテレビで放映されます(でも、旧社会主義圏のような革命のプロパガンダ映画ではありません)。「ヤスコト・イスティウマール(植民地主義打倒)、ヤスコト・ファールーク(ファールーク国王打倒)」を叫ぶ民衆たちの姿…リアルタイムでそれを見たわけでもないのに、一介の留学生に過ぎない私ですらそうした具体的イメージをもちうるほどに、それらの映画はテレビで繰り返し放映され、これらの映像はエジプト人の全国民的記憶になっています。
今回、「ヤスコト・ムバーラク(ムバーラク打倒)」のプラカードを掲げていたエジプト人青年たちの中には、自分たちが今、明確に、60年前の革命を再演しているのだという意識があったと思います。
タハリール広場はもともとはイスマーイール広場と呼ばれていました。イスマーイールは19世紀中ごろの国王(当時はヘディヴ[太守]と呼ばれていました)の名前です。脱ア入欧(「脱ア」の「ア」はアジアではなくアラブ)を目指し、急速な欧化政策をとり、オペラハウスを建設し(こけら落としはヴェルディの『アイーダ』)、「エジプトはヨーロッパになった」と豪語しました。結局、彼の散財により、国庫は借金にまみれ、国家財政を英仏によって共同管理されるという実質的植民地化の契機をつくってしまった人物です。彼の治世でスエズ運河が開通し、これを記念して、広場がイスマーイール広場になりました(スエズ運河沿いの街、イスマーイリーヤも、彼の名にちなんだものです)。
1919年革命のあと、人々はこの広場を「タハリール(解放)広場」と呼ぶようになり、52年革命によって真の独立を勝ち得て、広場は正式に「タハリール広場」に改称され、サーダートの暗殺後は「サーダート広場」に改称されたました。広場の標識にも「サーダート広場」と書いてありますが、その名で呼ぶ人は誰もいません。(もしかしたら、今回の革命を受けて、再び「タハリール広場」と正式改称されるかも…)
今回、革命の舞台がタハリール(解放)広場であったことは、偶然ではないのです。上に書いたように、エジプト近現代史が、エジプトをエジプト人民が自らの手に奪い返すための不断の闘いの歴史であったとすれば、タハリール広場とはその歴史的記憶が幾重にも沁みこんだ「記憶の場」にほかならないからです。
52年革命によって100年にわたる植民地支配に終止符が打たれました。でも、エジプト国民を待っていたのは、ナセル独裁という新たな闇でした。ナセルの死後も独裁は続きました。そしてサーダートが暗殺されると、非常事態宣言のもと、ムバーラクによる独裁が始まりました。
90年代、イスラーム主義者による反体制活動が活発化し、外国人観光客を標的にしたテロが頻発すると、ムバーラクは大統領としての自身の威信をかけて、ルクソールのカルナック神殿(『ナイル殺人事件』の舞台となった神殿です)の前でオペラ『アイーダ』を上演します。外国人観光客の安全を保障できることを、世界に向けて証明しようとしたのです。ルクソールに至る国道の両側はさとうきび畑。テロリストの潜伏を警戒して、一帯のさとうきび畑が丸裸にされました。(イスラエルが占領地で、同じ理由でオリーブ畑を丸裸にするのと同じですね…)
自国民である貧しい農民が食べて生きて行くことよりも、外国人観光客の安全の方が優先されたのです(ちなみに2006年のエジプト政府観光局の統計によれば、年間の外国人観光客数は910万人)。日本から年間、どれだけの数の観光客がエジプトを訪れていたかは分かりませんが、高級ホテルに泊まり、ツァー会社とつるんだおみやげ屋さんやレストランで何10ドル、何100ドルも払い、エアコンのきいた大型観光バスで観光する、それが、貧困ライン以下で生きるエジプトの圧倒的多数の人々の「生存権」を犠牲にし、「ハラーミー」たちの私腹を肥やすものであったことは覚えておくべきでしょう。観光客のためにさまざまな利便がはかられる一方、貧しいエジプト人の生活は放置されました。
砂漠の中にあるカイロの街の何もかもが砂でおおわれています。漢字でエジプトを「埃及」と書くのは、誰が考えたのかしら、まさに書き得て妙。街は人だらけ、車だらけ、砂だらけ、ゴミだらけ…。
エジプト人が日本(東京)に来て必ず驚くこと、それは「ザフマ・マア・アル=ニザーム!」(秩序のある混雑)。人がカイロと同じくらいいて混雑しているのに、日本の雑踏には秩序があるということです。何人ものエジプト人から同じ驚きの言葉を聞きました。そう、カイロの雑踏は混乱のきわみ、無秩序、混沌、カオスなのです。
エジプト人はカイロのことを「ウンム・アル=ドゥンヤー(世界の母)」と呼んで、誇りに思っています。世界が混沌から生まれたならば、カイロが世界の母で混沌の極みというのもむべなるかな、です。そして、タハリール広場とは、その混沌の中心部なのです。
だから、今回、タハリールのあの整然としたデモ、秩序を見たとき、すごく感激しました。そして、もっと感激したのは、砂だらけゴミだらけのタハリール広場を、エジプト人が掃除している姿…。
2002年、イスラエル軍がラーマッラーに侵攻し、街が攻撃されたとき、軍の撤退のあと、住民総出で街を掃除したことがありました。それを思い出して、タハリールの地面をデッキブラシで掃除しているエジプト人の姿に胸が熱くなりました。ハラーミーたちに支配されていたエジプトを、今、この人たちは本当に、自分たちの手に取り返そうとしているんだと思いました。
そして、アラビア語で、口々に喜びを語る人々……、30年前、1年間、私がそこに身をおき、砂の匂いのする空気を吸い、そして、身体全体で吸収したエジプトのアラビア語で、今、革命が再現され、圧制者を退陣に追い込んだ喜びが語られています。
この30年間、闇を深める一方のエジプトに、独裁こそがエジプトの伝統文化なのかと思いました。でも、エジプトの近現代史を振り返れば、圧制からの解放を目指して闘うことこそエジプトの伝統であり文化なのだと思います。すでに1月25日革命と呼ばれているこの革命で、官憲の弾圧により300人以上が殺されました。それでも民衆がデモをやめなかったのは、彼らは自らの歴史を通して、血を流さないかぎり解放はあり得ないことを身をもって知っているからです。オラービー革命、1919年革命、52年革命の記憶が、2011年のエジプト人を支えたのです。
1919年革命のあと彼らを待っていたのが、名目だけの独立であり植民地支配の継続であったように、また、52年革命のあと彼らを待っていたのが、ナセル独裁の闇であったように、今回の革命のあと、何が彼らを待っているのか、それはまだ、分かりません。でも、たとえそれが新たな闇であったとしても、1919年革命の輝きが、52年革命の輝きが決して色あせず、圧制下に生きる人々の記憶となって彼らの闘いを支えるように、2011年の革命も輝き続けると思います。(了)