TUP BULLETIN

速報917号 シリーズ「パレスチナの女性の声」【4】家屋の取り壊し−4

投稿日 2011年6月4日

女たちの証言--占領下パレスチナで生きるということ


シリーズ「パレスチナの女性の声」はWCLAC(女性のための法律相談センター)2009年報告書の翻訳です。スペィシオサイド(spaciocide、空間的扼殺)とも形容される占領下で、日常的暴力と人権侵害に苦しむ女性に対する聴き取り調査に協力し19人の女性の証言をお届けしています。

今回は、最終章「家屋の取り壊し」の証言17と証言18をお届けします。義理の父の所有する土地に小さな家を建てたところ、まだ完成する前に当局から破壊命令が出されます。裁判所に訴えでますがすぐに却下され、予告もなしに取り壊されるまでわずか2カ月、証言者の家族が完成した家に住めたのはほんの数日でした。この報告の証言者、マナール・Sは前回(速報915)の証言16のアマーニー・ASの姉妹です。証言18は、証言17とは逆に長年慣れ親しんだ家を取り壊された例です。その家には結婚して子持ちになった息子の一家が同居し、また自分の家を取り壊された別の息子一家も身を寄せていたので、一軒の取り壊しでいくつもの家族がホームレスにされてしまいました。

報告書はこのあと「家屋の取り壊し」証言19へと続きます。

シリーズ全体の前書き:岡真理、向井真澄/TUP (TUP速報869号をご覧ください)

翻訳:岡真理、キム・クンミ、寺尾光身、樋口淳子、藤澤みどり、向井真澄/TUP

パレスチナの女性の声シリーズの全体はこちらからお読みいただけます。https://www.tup-bulletin.org/?post_type=taginfos&p=1467

パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書-2009年度版
シリーズ【4】家屋の取り壊しー4

証言17
マナール・Sの証言

場所:東エルサレムのジャバル・アル=ムカッバル地区、シュケイラート界隈
聞き取り調査の日時:2009年9月7日

マナール・Sは27歳で東エルサレムのジャバル・アル=ムカッバル地区に住んでいます。アマーニー・ASの姉妹です。2005年にイスラエル当局によって家を取り壊されてこのかたの、夫の両親との同居生活について語ります。3人の子持ちで、上から7歳、3歳、1歳です。

「結婚して、ジャバル・アル=ムカッバルにある夫の両親の家の最上階の一室に夫婦で移り住みました。当時、わたしたちはその階に義理の両親と夫の兄弟のひとりと同居していました。

2004年頃、夫の実家からそう遠くないところにある義父が所有する土地に、夫はわたしたち一家の家を建て始めました。二部屋とキッチンと浴室だけの小さな家です。2005年1月までにほぼ完成しました。骨組みが完成し、屋根が葺かれ、窓やドアにガラスが入りました。まだ壁にペンキを塗ったり床にタイルを貼ったりする必要がありましたが、マットレスを数枚とテーブルをひとつ室内に運び入れ、やらなければならないことがいくらか残ったその家で時々寝ました。自治体から送られてきた書類についてはっきりと思い出すことはできませんが、その家に対する解体命令を初めて受け取ったのは、義理の父の話によれば2005年1月です。それから、解体命令の差し止めを求めて法廷で争うために代理人となる弁護士を任命したと義父は言います。聞くところによると、たった2回の公判で解体命令は決定してしまいました。

最初に思い出すのは、2005年3月のはじめ頃に自治体から1枚の書面を受け取った時のことです。その朝、わたしは医者に出かけていて、家に戻ったとき、窓の外に置かれた1枚の紙に気がつきました。ヘブライ語で書かれていたので読めませんでした。わたしはまず夫に電話をかけ、それからその書面をヘブライ語の読める義父のところに持って行きました。その紙には、わたしたちの家は許可を得ていないので取り壊されると書いてあると義父は言いました。そのような話を前に聞いたことがあり、罰金を払えば決着するだろうと思いました。家を取り壊されるよりはましです。わたしはほんとうに、わたしたちの新しい家が取り壊されるなんてこれぽっちも考えませんでした。ほんとうにそんなことはあり得ないと思っていたのです。2週間ではどんな手立てをとる時間もありませんでしたし、どのみち最終決定はすでに出ていたように思えます。けれども、わたしたちはその家への引越作業を続行し、家の仕上げをスピードアップしようとして、もっとお金を注ぎ込みさえしました。思うに、そうしていると、なんとか取り壊しを防ぐことができるような気がしていたのです。

3月22日、わたしたちの新居は市当局が差し向けたブルドーザーで破壊されました。そんなことが起きるなんて予想もしていませんでしたが、でもその日のことはとてもよく覚えています。その朝8時頃、わたしは息子を連れて姉妹といっしょに買物に出かけました。わたしが店にいたとき、義妹が電話をかけてきて、わたしの家が取り壊されていると言ったのです。わたしは自分の買った物を店に残し、タクシーをつかまえて両親の家に行きました。妹は泣き始めていましたがわたしは泣きませんでした。両親の家からはブルドーザーがわたしの家を取り壊しているのが見え、その光景を目の当たりにしてわたしたちみなが泣き崩れました。母も泣き叫びました。その日からわたしの頭の中にはブルドーザーのイメージがこびりついています。

そのとき、夫は仕事に出ていて、家の中にはだれもいませんでした。家族のだれも取り壊しがその日だとは予想しておらず、それどころか、わたしは取り壊しそのものさえ予測していませんでした。家が破壊されているのを目にして、わたしは義母に電話をかけ、ガラスを窓枠から抜く時間があったかどうか尋ねました。義母は、無理だった、何をする時間もなかったと答えました。わたしは夫にも電話をかけ、何が起きているかを伝えました。義父が家の近くにいて、兵士と行政の作業員たちを見つけました。義父の話では、かれらと話そうとし、取り壊しをやめさせようとしましたが、ブルドーザーに近づくのを兵士と警官に止められたそうです。わたしは夫が仕事から戻る夕 方まで両親といっしょにいました。夫はひどく打ちのめされました。こんなに急に取り壊されるなんて予想していなかったのです。

わたしたち夫婦は家計についてたいへん心配しています。家を建てるために借金をしたのでその負債がありました。ずっとお金を貯めようとしてきて、貯めたお金は全部家に注ぎ込むつもりだったので物がなくても気にしませんでした。でもすべては無に帰ってしまった。すべてを失い、大きな負債だけが残る、こんな事態のために家族とわたし自身のためのものをすべて我慢してきたのです。

それ以来、わたしたちは階上の居室に住んでいて、そこはわたしたち夫婦と3人の子どもたちには十分な広さではありません。義理の父母は階下に移りましたが、前に私たちと同居していた義理の弟が結婚していて子どもが2人います。そんなわけで、キッチンと浴室を義弟の一家といっしょに使っています。どうか、どんな暮らしか想像してみてください。わたしたちには3人の小さい子どもがいるのに、そのうえ、ふたりのおとなとふたりの子どもからなる一家といっしょに暮らしているんです。わたしは絶望のうちにあり、この状況をどのように変えたらいいか、どんな考えも計画もありません。まだ家の借金を返しているので、すぐに何か変えられる見込みはありません。

ともかく、わたしには同じ家に住んでいる妹があり、いま妹は夫(わたしの義弟です)と4人の子どもと階下に住んでいます。子どもたちはしょっちゅう喧嘩していますが、わたしたち姉妹は互いに助け合っています。子どもたちは同じ年頃なので喧嘩ばかり、宿題にしろ何にしろ助け合いません。子どもたちは問題を起こしてばかりいておばあちゃんの家具を壊してしまいます。わたしはここを出て、自分の家を持つ必要がありますが、とてもそんな状況ではありません。

あまり家から出ていません。実家に行くか、必要に迫られて子どもたちを医者に連れて行くぐらいです。でも3人の子どもといっしょだと外出はたいへんやっかいなものになります。さらに問題なのは、わたしは東エルサレムで生まれ育ったのに、西岸の身分証明書を持っていることです。つまり、これは、エルサレムに入るにあたってタクシーを使えないことを意味します。東エルサレムの身分証明なしにはタクシーに乗せてもらえないので。また、ラマッラーにも西岸の他のどこにも行けません。というのも、もし、ひとたびエルサレムを離れたら、戻ってくるために検問所を通してもらえそうになく、つまり家に帰れなくなってしまうからです。エルサレムを離れても戻ることを兵士に許可してもらえるよう、検問所に名前を登録する申請を出しましたが却下されました。わたしの名前を登録しようとして くれた弁護士へのイスラエル当局の弁によれば、わたしたちの家は検問所のある壁から遠過ぎる、西岸身分証明書の保持者に対しては壁の近くに住んでいる場合しか検問所への名前の登録を許可しない、とのことでした。とても理屈が通っているとは思えませんが、そんなわけで、わたしは事実上の自宅軟禁状態にあります」

証言18
R・ジャバリーンの証言

場所:東エルサレムのベイト・ハニーナ地区、アル=アシュカリーヤ
聞き取り調査の日時:2009年9月10日

R・ジャバリーンは結婚後、夫とイーサーウィーヤに住んでいました。しかし、子どもが7人になると住んでいた1寝室の家では手狭になり、またトイレが外にあって、そのわりに家賃は安くありませんでした。夫婦はどこか、子どもたちがもう少し自由に遊べる場所をもてる家に引っ越したいと考えました。

「そこで1990年、わたしたちは地価の安いベイト・ハニーナ地区のアル=アシュカリーヤに土地を買い求めました。そこならなんとか手が届いたからで、小さな家を建てました。十分な広さとは言えませんが前の家よりは大きくて、二部屋とキッチンと浴室がありました。家が建ったのは1990年で、できあがるとすぐに家族で移り住みました。でもそのときは、まだ道もなければ電気や水道も通じていませんでした。また、とても取得できそうにないとわかっていたので建築許可ももらっていませんでした。夫が自治体に出向いたところ、その地区はグリーンゾーン内にあり、そこに建物を建てることは誰にも許可されないと言われたのです。ですから、他に選択肢はないと思いました。わたしたちの借りていた家は9人家族には小さ過ぎ、そのわりに家賃が高過ぎたので引っ越す必要がありましたが、買える土地はその界隈だけだったのです。他に選択肢はありませんでした。

その家に引っ越したはじめの3年間、わたしたちは電気なしで過ごし、ガスランタンを明かりに使っていました。ずいぶん前に家を建てていて水の供給を受けていた隣人が水道を使わせてくれました。そして1994年までにさらに家が建ち、わたしたちも電気の供給を受けるようになりました。1998年にはとうとうわたしたちの家にも水道がひかれました。

2000年までには家を建て増したかった。子どもたちは成長し、結婚のためにそれぞれのスペースを必要としていました。そこでわたしたちは増築しました。と言っても、8メートル×6メートルの部屋を一部屋だけですが。今回も建築許可は申請しませんでした。と言うのも、土地はグリーンゾーン内にあり、どんな建築物も許可されないとわかっていたからです。家に関して何の警告も受けていませんでしたし自治体の住宅税も払っていたので、何もかも大丈夫だろうと思っていました。けれど、増築が終わってからたった2〜3カ月後に、法廷に出頭せよとの自治体からの通知を受け取りました。通知はヘブライ語で書かれていたので詳細はわかりませんでしたが、わたしたちの家に関する案件で出廷しなければならないことはわかりました。弁護士を雇い、弁護士がわたしたちの代理として出廷しました。結局4万8000シェケルの罰金が課され、月800シェケルずつの分割で支払いました。罰金を払ったことによって建築許可を申請する時間が与えられましたが、そんなことはとうていできませんでした。許可の取得に関して調査することにし、土木技師がわたしたちの家を見にきましたが、家がグリーンゾーンに建っている以上許可が与えられる見込みはなく、完全な建築許可を申請することに意味はないと言われました。

月々800シェケルの支払いはわたしの家族にとって大災害でした。子どもたちはまだ若く、わたしたちにはほんの少しのお金しかありませんでした。しかし、罰金を払うことで家を守ることができるだろうとわたしたちは考えました。罰金を払うために多くの物事を犠牲にしました。時に応じて借金をしては返しながら、なんとか罰金を払い続けました。家族みんなにとってたいへん困難な時期でした。お金が足りないこと、貧乏であることで、子どもたちはいろいろ辛抱しなければなりませんでした。

そして2005年、裁判所から別の召喚状を受け取りました。今度は、裁判所はわたしたちの家の取り壊しを命じ、取り壊しをもっと延期したいなら10万シェケルの罰金を払わなければならないと命じてきました。この罰金は払いませんでした。そんなお金はなかったし、家の価値をはるかに越える金額だと夫が言ったので。

そのため2006年12月20日、わたしたちの家は取り壊されました。それは夜よりも暗い日でした。わたしは糖尿病を患っているのですが、その日はいつも以上に具合がよくありませんでした。一番上の息子が朝6時に仕事に出かけるとき、ブルドーザーが地区の入り口にあるのに目をとめました。息子は電話をよこし、ブルドーザーが家のほうに向かっていると言い、おそらく我が家の取り壊しにきたんだろうと言いました。8時過ぎ、かれらがやって来ました。わたしたちは自分たちの家が危機にあるのは知っていましたが、それがいつ起きるかは知りませんでしたから、その日、家が取り壊されるらしいと知ってやはりショックを受けました。ブルドーザーといっしょに数人の兵士と市の職員が来ました。

わたしは夫と姉妹と、知らせを聞いて駆けつけてくれた近隣の人々とともに家にいました。ブルドーザーの到着を耳にして家の外に出ると、市の職員がいて、家の取り壊しに取りかかるつもりだと言いました。わたしたちは家の中の物をまだ持ち出していなかったのですが、イスラエル人たちはそれは許されていないと言いました。かれらは大きめの家具をいくつか運び出しましたが、いろいろなもの、例えば台所道具とか子どもたちの服とかはそのまま家の中に残してありました。

わたしは外に座り、自分たちで建て、16年間暮らした家が取り壊されるのを目撃しました。何年も何年も貧しい生活に耐えてきたわたしたち家族に、とどめを刺すような大災厄でした。影響を受けるのはわたしとわたしの家族だけでなく、息子の家族もでした。長男のSは結婚していて3人の子どもがいましたが、自分の家が2005年に取り壊されてから、わたしたちといっしょに住んでいたのです。別の息子のHも結婚していて、そのとき妊娠中の妻と一人目の子どもといっしょに、わたしたちの家の地下に住んでいました。

姉妹の夫の友人が自分の家を使っていいと言ってくれたので、わたしたちは東エルサレムのヒズマにあるその借家に引っ越しました。小さな家で、小さな部屋が二つとキッチンと浴室があるだけでした。わたしたち全員がそこに引っ越しました。思うに13人ぐらいいました。家が取り壊されたその日のうちにそこに移りました。そこに2年いましたが、家賃が高く、月400ドルでしたし、わたしの家族には小さ過ぎました。そこで2008年4月、わたしたちはアル=アシュカリーヤに戻ってきました。前のところよりは広い別の借家に引っ越しました。この家が違法建築かどうかは知りません。息子のSは自分の家族と別の家に住んでいて、ベイト・ハニーナにいます。

わたしは心配していますし、病気もあります。糖尿の持病があり、最近、足に壊疽が生じたので手術で足の指を切断しました。足全体を切断しなければならないと医者たちは考えていましたが、結局足の指を切るだけですみました。いま、動き回るのに車椅子を使わなければならず、ほんとうに自分ひとりでは何もできず、少しでも起きていると具合が悪くなります。過去1ヶ月半、家から出ることができずにいます。それに心臓にも問題を抱えていて、動脈瘤を取り除く手術を受けました。

子どもたちのことも案じています。あちこち引っ越し、こんな状態で暮らさなければならなかったので。わたしはいま新しい家になじもうとしているところです。選択の余地はありませんから。残念ながら、許可なしにまた家を建てることはないでしょう。前の家が壊された土地はまだわたしたちのものですが、もう一度建てることはないでしょう。その土地には瓦礫がそのままになっています。村の議会に雇われた土木技師がいて、この地域の土地を手に入れて、家を建てられないグリーンゾーン指定地域から居住可能地域に変えようとしています。わたしたちがもう一度自分たちの家を建てられるようになるには、望みはそれしかありません」