○ ベトナムの戦場で受けた啓示「ベトナム人は私の家族であり、自分は間違った側にいるのだと気づきました」
今回は、「ベトナム帰還兵」から非暴力に徹する抵抗運動を実践する平和主義者へ、という精神上の根本的な変化を遂げたブライアン・ウィルソンさんへのインタビューをお届けします。ニューヨーク州西部出身の保守的な若者だったウィルソンさんは、ベトナムの戦場で啓示を受け、人生の方向転換を経て、徹底した非暴力で平和のために行動する道を歩み始めました。広い意味での「平和主義者」であるウィルソンさんはエコに対しても積極的で、自宅は太陽熱を取り入れた自身の建築です。デモクラシー・ナウのエイミー・グッドマンさんが彼の最新の著書『血ぬられた轍(仮訳)』を紹介しながらインタビューしています。いつもながら、無駄のない、本質をついた質問が回答者および視聴者を引き込みます。
凡例: [ ] 訳者による補い
[ ] 訳注
前書き:樋口淳子/TUP
翻訳: 樋口淳子(前半)、向井真澄(後半)/TUP
デモクラシー・ナウ!
エイミー・グッドマンによるインタビュー
2011年10月28日放送
http://www.democracynow.org/2011/10/28/blood_on_the_tracks_brian_willsons
『血ぬられた轍』: ベトナム帰還兵から徹底した平和主義者への方向転換を遂げたブライアン・ウィルソンの回顧録
今回のゲストはベトナム帰還兵、ブライアン・ウィルソン。戦争中の経験が彼を反戦平和活動家に変えた。1987年9月1日、彼は、エルサルバドル向けの武器輸出を止めようとする非暴力の妨害行動中に、米海軍軍需品輸送列車にあやうく轢き殺されそうになった。現在、彼は両足に義足をつけ、三輪ハンドサイクルで「歩いて」いる。彼の新しい回顧録は、『血ぬられた轍:S.ブライアン・ウィルソンの人生とその時代(仮訳)』。
エイミー・グッドマン: 今日は、ベトナム戦争で軍務についていたとき、そして再び帰国後と、自身の命を少なくとも2回、危険にさらした男性に、時間いっぱいお話をうかがいます。1987年9月1日、ブライアン・ウィルソンさんは、カリフォルニアにあるコンコード海軍兵器廠の外での非暴力行動に加わりました。彼は、国の軍需品輸送列車が中米に武器を輸送するのを止めようとして、他の2名の帰還兵とともに線路で座りこみをしていました。列車は止まりませんでした。[そして、]ウィルソンさんは両足を失いました。
さて、ブライアン・ウィルソンさんをスタジオにお迎えしています。きのう、ここに訪ねてきてくださいました。「占拠せよ!」行動を訪ねて国内を回っていらっしゃいますが、この抗議行動に参加している仲間の中には帰還兵の方々もいます。[今回のツァーでは、]最近出版された彼の回顧録、『血ぬられた轍:S.ブライアン・ウィルソンの人生とその時代(仮訳)』についても語っていらっしゃいます。彼は、西海岸のツァーをほとんどハンドサイクルで終えました。これから東海岸を回ります。
カリフォルニアのコンコード海軍兵器廠の外で、線路で座りこみをして平和的抵抗行動を実施していた1987年の9月のこの日、いったい何が起こったのかを最初に聞きました。
ブライアン・ウィルソン: 1987年9月1日火曜日でした。これは、ニカラグアとエルサルバドルで米国による虐殺行為を長年にわたってこの目で見てきた私が前もって計画したものです。
エイミー・グッドマン: 当時、そこでは何が起こっていたのですか?
S.ブライアン・ウィルソン: どこで?
エイミー・グッドマン: ニカラグアとエルサルバドルで?
ブライアン・ウィルソン: あっ、そうでしたね。レーガン大統領の時代に、戦争が、テロ戦争が行われていました。内戦が続いていたニカラグアでは、「テロリスト」と大統領が呼んだのですが、それがソモサ[政権]を倒し、また、エルサルバドルでは、非常に抑圧的で封建的な政府に取って代わって、革命的な過程が進行していました。それで、彼、レーガンは、ラテンアメリカに[当時の]ソ連の足掛かりが出来つつあると断言しました。もちろん、それはでたらめだと誰にもわかっていて、他国で進行している自決権確立に向けたプロセスを封じるもう一つの口実でしかないのです。
私たちは、武器はカリフォルニア州の、サンフランシスコの東25マイル(約40km)にあるコンコードの海軍兵器廠から送り出されることを知っていました。議会に対し、[武器輸出の]資金提供を止めるための請願手続きを再三行って働きかけていましたが、現地に行くことにしました。実に煩雑な手続きで、いまや企業を代弁して政府に圧力をかける団体に成り下がっている議会に対して、なんですよ。私たちは、トラックと列車に積まれてサクラメント川に係留してある船まで搬送される武器の流れをコンコードで直接阻止することに決めました。燃料庫から船まで3マイル(約5km)の線路がのびています。線路は公共交通優先の高速道路を横切っています。そこは私たちが夜を徹して監視していたところです。3ヶ月間、夜を徹して監視していました。多くの仲間が逮捕されました。私は受刑者の支援をしていただけでした。そして、1987年9月1日、その日は、前の年に連邦議会議事堂の階段に帰還兵が座りこんで実施した命をかけての断食から一年目だったのですが、列車の動きを一時的であっても止めようと、二人の帰還兵と私が線路と線路の間に座りこみ、40日間の水だけの断食を決行することにしました。
私は夏の間中、列車の動きを監視していました。白りんロケット弾や500ポンド爆弾、迫撃砲、何百万発もの弾薬が入った木枠がぎっしりと並べられた平台車両の貨物列車でした。そのうちに私の思いが高まり、ともかく、私自身の、言ってみれば、非暴力の線路占拠、をもっと強めなければならない、と口にするようになりました。私たちは基地[兵器廠]に活動の内容と理由、そして時期を伝え、司令官との話し合いを申し込みました。司令官は応じませんでした。
それで、9月1日11時50分、二人の帰還兵と私は線路上に陣を構え、水だけの40日間の断食に入りました。その期間のほとんどは刑務所で過ごすことになるのだろうと思っていました。私たちの監視場所の横には大きな掲示板があり、「連邦政府軍需品列車を阻止すれば一年の懲役と5,000ドルの罰金の刑」と書かれていました。だから、私たちには結果的にどのようなことになるのかはわかっていました。実際私は...そして正午少し前、最初の列車が、その日の最初の列車ですが、やってきました。次に私が気がついたのは、病室の中で、4日後でした。
何が起こったのか、まったく覚えていません。ええ、40人の友人が事件を目撃していました。他の二人の帰還兵は寸前のところで線路の外に逃れました。列車は高速で走っていました。一本のビデオを見たFBIが、列車は我々にあたったとき時速5マイルの速度限度より3倍も加速していた、と言いました。あとでわかったことなのですが、その列車の乗務員は列車を止めないようにとの命令を受けていました。前例のない、本来、違法命令です。どうしてか?なぜなら、私は列車をハイジャックするつもりだったんだと彼らは言いました。しかし、そんなことは...350人の海兵隊が基地[兵器廠]を守っていたし、私たちが線路に座りこみをしている時はたいがい、地元の警察がいました。危険行為などとは私は夢にも思いませんでした。
私が入院中に一人のFBI捜査官が解雇されました。その後、22年近くたってから、彼は私と他の3人の帰還兵を国内テロリスト容疑者として取り調べることを拒否し解雇されました。このようなことは私にとってすべて衝撃的で、ただひどいとしか思えませんでした。ニューヨーク州北部で育った裏も表もアメリカンキッズで、ベトナム戦争後は、その、抵抗者、いや父なら非主流人間というでしょうか、そんなふうに変わりましたが、こんなことが起こるなんて想像したこともありませんでした。そうですよね、この政府はなんだってやる。誰しもが知っています。ただ、他国で、そこの民衆をこのような目に合わせるかもしれませんが、この国で、私に対してなどと思ってもみませんでした。だから、たいへん興味深い経験をさせてもらいました。
エイミー・グッドマン: 4日後、病室で気がついたとき、何が起こったのだと思いましたか?
ブライアン・ウィルソン: 最初、ベッドの下にたくさんの植物が見えました。緑の植物でした。それから、当時、私のパートナーだった人が横に座っているのが見えました。私は口走りました。それは、えーっと、こんな感じだったでしょうか。私の最初の言葉は「わーっ、俺は木のある牢屋にいるのかい? それに家族がベッドのそばに?」すると、家族が説明してくれました。「あなた、病院ですよ。列車に轢かれたんですよ」。信じられませんでした。まったく信じることができませんでした。
それから数日間、私は壁にかかっているテレビで[事件の様子を]何度も見ていました。放送局がニュースで流しており、私は自分自身が列車に轢かれるのを見て、「おお、あんなに簡単に」とつぶやきました。自決権などを持ちたいと思う人々を押さえつけようとする狂ったヤンキー暴走列車を阻止しようとすれば、世界のどの国の人だってこん目にあうんです。これはまさに、私がはらの底で、まさに個人的な実感として感じ取った、米国政府の政策のもう一面でした。
私の意識が戻った日、9,000人が線路のその場所に集まり、線路を900フィート(約270m)にわたって剥がし、枕木を積み重ねておもしろい立体作品に仕上げていました。その日から28ヶ月間連続で、昼夜ぶっ通し、一日24時間、線路占拠が行われました。時には200人の人が集まりました。テントを張り、列車とトラックをすべて止めていました。2,100人が拘留されました。警察のせいで3人が腕を骨折しました。すべて、24年前のことです。線路占拠。警察は権力を濫用していました。とはいえ、列車はもちろん、そのあと止まりました。止まって多くの人が拘束されるのを待たなければならなかったというだけです。すごかったです。
エイミー・グッドマン: あなた自身とあなたの上を列車が走っていくのが映っているビデオを見て、何を思いましたか?列車はあなたの上をころがって、あなたの両足を切断したのですよね?
ブライアン・ウィルソン: 私の二本の足のうちの片方を切り落とし、もう片方をずたずたに引きちぎりました。頭蓋骨もひどく骨折しました。実は、頭蓋骨のちょうどここにプレートがはいっています。レモン大の大きさの頭蓋骨の一部が取り出されて、埋め込まれ、右の前頭葉が壊れました。それで、医師たちは、手術中に私が命を落とすかもしれないと心配ました。
エイミー・グッドマン: ブライアン・ウィルソン、1987年9月1日に彼自身に起こったことを今、語っています。彼の回顧録『血ぬられた轍:S.ブライアン・ウィルソンの人生とその時代(仮訳)』について話しながら。短い休憩のあと、さらに彼のお話を。
休憩
エイミー・グッドマン: ベトナム帰還兵、非暴力反戦活動家、ブライアン・ウィルソンさんとのお話を続けます。1987年9月1日、ブライアンさんは、政府の軍需品輸送列車に轢かれ、両足をなくしました。彼は、それらの武器を中米に輸送する列車を止めようとして非暴力行動を行っていました。その日に起こったことへのFBIとコンコード海軍兵器廠の対応に関する質問からインタビューを進めていきます。
ブライアン・ウィルソン: はい、基地[兵器廠]側はその時、我々が見えなかったと言いました。そんなはずはありません。というのは、走っている、それらの武器を運搬する機関車は、線路に障害物がないことや毎時5マイルの速度限度が守られているかどうかをエンジニアと無線連絡する見張りを常に列車の一番前に立てています。650フィート(約200m)向こうの我々を確認することはできました。だから、彼らが我々を確認できなかったと言ったのは、まさに、仕事をやっていなかったということ、あるいはウソをついていたということを彼ら自身が認めたことになるのです。報告書の中には、そのときにいっしょにいた同志の一人が私を線路に押しつけたとしているものもありました。先ほども言いましたが、そこには私たちの同志40名が集まっていました。線路の上には3名が座りこみをしていました。それに、12名のベトナム帰還兵がいました。エルサルバドルやニカラグアで毎日、毎週、何百人もの農民を殺害し、あるいは毎週、重傷を負わせて不自由な身にしている武器の輸出を、連帯して止めようとしてみんなそこにいたんですよ。
エイミー・グッドマン: エルサルバドルやニカラグアの負傷した人々と話したことがありますか?
S.ブライアン・ウィルソン: エルサルバドルで何百人もの人たちと話しました...
エイミー・グッドマン: [事件の]前それとも後?
ブライアン・ウィルソン: 前も後も。以前、ニカラグアの戦場に何ヶ月も居たことがあります。また、エルサルバドルでは、ゲリラや人権団体のスタッフと話をし、とてつもない規模で殺害が行われていること、多くの人々がひどい負傷をして不自由な身になっていること、そして[住民は]殺害されることを恐れて退去せざるを得なくなっていることを知りました。私はこの目で見、多くの時間を費やしました。そして、知るにつれ、はらの底から、強く動かされました。
1987年春のある日、線路での事件が起こる前のことですが、足を切断された200人の人々に会うため、病院を訪ねました。病院から出て、外の石に座りました。そこはニカラグアの交戦地帯内だったのですが、こうつぶやきました。「彼らの足は私の足と同じくらい大切だ」-そのときは3ヵ月後に私自身が足を失うことになるなんて知りませんでした。
エイミー・グッドマン: ブライアン・ウィルソンさん、あなたは訴訟を起こしました。誰に対して起こしたのですか?そして、出てきた供述調書と告訴状から何がわかりましたか?
ブライアン・ウィルソン: 列車の乗務員、3名の乗務員ですが、それと彼らの上司全員、命令系統で3ランク上までですが、その人たちを訴え、そして海軍を訴えました。実は列車の乗務員が先に私を訴えていました。それはたいへんおかしな訴訟で、2年後に取り下げられたのですが、私が彼らに精神的威圧を与えたというんですよ、まったくばかばかしい話ですが。理由は私がよけなかったからです。私は国家賠償法に沿って彼らと政府を訴えました。つまり、政府に対し、公務員の怠慢行為に関して訴訟を起こしたのです。
それから、供述調書では、さっきも言いましたが、列車乗務員は、3人組ですが、その日、朝6時に職務についたとき、まあなんと、列車を止めないように命令されていたことがわかりました。また、海軍の報告書は、供述調書の完成までには、乗務員たちは650フィート離れている私たちを確認することができたし、まったくブレーキをかけなかったと結論づけていることもわかりました。彼らは最後的に私たちを見たと認めたのですが、それでさえ、ブレーキをかけようとすらしませんでした。それどころか、加速するためにスロットルを開けたのです。
私は供述調書室に40時間、一日8時間で5日間、つめなければなりませんでした。机の反対側には列車の乗務員と7人の弁護士が座り、こちら側には私と私の弁護士一人が座りました。供述調書に私の両方のパスポートを提示するようにとありました。相手の弁護士たちは、ラテンアメリカだけでなく中東の国々を含め私が行った旅行の一つひとつについて、誰が招待したのか、旅費はどこが出したのか、飛行場でピックアップしたのは誰か、どこに宿泊したかなど質問し、細かく調べました。かなり神経を張りつめるプロセスでした、ほんとうに。というのは、彼らはなんらかをでっち上げようとしていたのです。ある時点では、彼らは私をどこかの国のエージェントに仕上げようとしていたと思います。そうすれば、もし私が登録していない場合、外国エージェント登録法に違反することになってしまいますからね。
エイミー・グッドマン: 想定されるのはどこの国ですか?
ブライアン・ウィルソン: ニカラグアです。ある時、相手方の一人が言いました。そう言えば、ムアンマル・カダフィ大佐はオルテガ大統領に米国で広報キャンペーンを行うための資金を渡した、と。そして、私がその金を受け取った者たちの一人にちがいないと。ほんとうに、こういう連中には、人は報酬が無くても良心をもって行動することがあるということを理解することができないのですね。そういう場合がある、と単に把握することさえ彼らの行動基準評価外なのです。私の両親もそうですが、ほんとうに。私の両親は...ベトナムのあとは、私がベトナムで真実を悟る経験をし、私そのものが変わってからは、両親とはまったく話をすることができませんでした。
エイミー・グッドマン: そのときのことを話してくださいますか。なぜベトナムに行くことを決心したのか。
ブライアン・ウィルソン: ええ、徴兵されました。
エイミー・グッドマン: 何年ですか?
ブライアン・ウィルソン: 1966年で、私は大学院生でした。
エイミー・グッドマン: 何を専攻していたのですか?
ブライアン・ウィルソン: 法律と犯罪学です。
エイミー・グッドマン: どちらの大学院ですか?
ブライアン・ウィルソン: ワシントンD.C.のアメリカン大学です。ロースクールと修士号組み合わせのプログラムでした。学生だったので徴兵はあり得ないと思っていました。ところが、抜け穴から落っこちたのです。
エイミー・グッドマン: というと?
ブライアン・ウィルソン: 私はニューヨーク州西部のシャトークァ郡という農耕が中心の郡の出身で、そこではぶどう栽培や酪農などの農業が行われていました。一家の農場で働く若者には無条件徴兵猶予がありました。また、学校は優先的に徴兵猶予が与えられました。このような農業地域では、適格の若者で徴兵猶予の無い者が足りなくなると、政府は徴兵を猶予された者たちが集まる学校をあたりました。まったくタイミングよく、私がそこにいたんですよ。
私はこの戦争に賛成していました。かなり保守的で、共産主義には強く反対していました。陸軍や海兵隊に入るよりも空軍に入隊し、士官として4年間服務しました。空軍司令部で中尉として2年を過ごしたあと、12週間のレンジャー訓練を受け、レンジャーとしてベトナムへ派遣されました。
ベトナムでは、爆撃の結果について調査するよう言われました。ええ、そうです、目標を爆撃したあとの様子です。最初、「攻撃目標」が村であることが頭にはありませんでした。そして一週間後、1969年4月、私は、メコンデルタにある人の住んでいる5つの漁村が爆撃され、結果としてどうなるのかをこの目で見ました。700人から900人ものベトナム人が殺されました。半分以上が子どもです。すべてナパーム弾でした。私は泣き崩れました。私には自分がこの光景を目にしているということが、どうしても理解できませんでした。そのときからベトナム人は私の家族であり、自分は間違った側にいるのだと気づきました。その、アメリカ的イデオロギー体系にそって27年間、執拗に条件付けされてきたあとにそのような結論にたどり着くというのはかなり狼狽します。しかし、それらの人々と私が同じだということは私にとってはっきりしていました。そして、戦場で、私は戦争に強く反対するようになりました。つまり、上官に対し、自分はこの戦争に反対だという意見を遠慮なく言っていました。この戦争を止めようとしていたわけではありませんでした。爆撃を止めようとしていたわけではありませんでした。ただ、自分自身の思いを...
エイミー・グッドマン: 他の人たちは賛成しましたか?
ブライアン・ウィルソン: とにかく、自分が正気でいられるように、です。えっ、なんですって?
エイミー・グッドマン: 他の人たちは賛成しましたか?
ブライアン・ウィルソン: いいえ、そのときは誰も。上官は私のことをあざけりました。私は、交戦規則は、目標にしないようにと、我々が市民や民生インフラを攻撃目標にすることを禁止していると言いました。すると、上官たちは笑いました。それで、戦争の規則なんか実は存在しないんだと気づきました。単に言葉上のことだけです。書類としては存在します。でも、一旦戦場に入れば、実質的には規則や法律なんて存在しないんです。私は...私にとって、実にすばらしい、その、啓発となりました。つまり、私がほんとうに理解するにはその経験が必要だったのだと思います。条件付けが自分の人間性を破壊したのであり、回復しつつある白人男性と自分が呼んでいる新しい道に踏み出すことが必要なのだ、ということを私が心から理解するには。それは、私自身が持つ共感の能力や相互に敬い協力することへの深い関心、そして、たとえ他人に賛成できないとしてもその人たちを撃って傷つけたりしてはいけないということを生涯をかけて学ぶ道です。それを、非暴力といいます。
エイミー・グッドマン: ブライアン・ウィルソンさん、ベトナムから帰国されたのは何年ですか?
ブライアン・ウィルソン: 規定の期限前の1969年に帰ってきました。というのは、戦争反対の意見を言っていたので、規定期限より前に帰国させられたのです。[服役期間として]まだ1年残っていましたので、ルイジアナで任務に着きましたが、私はまったく別人でした。そこでは活動家でした。カレンダーには、除隊の日まで、終了のマークをつけていました。私がベトナムから出国した日、軍は私を告訴したので、私が軍法会議にかけられるということが言われていましたが、
軍はまったく会議を開きませんでした。思うに、軍はー
エイミー・グッドマン: 戦争に反対しているから?
ブライアン・ウィルソン: 私に対して50いくつの訴因がありました。たとえば、煽動、謀叛心、士官としてふさわしくない行為、敵国民との親交、政府資産の窃盗、など。またまたばかげた話で、でっち上げでしかありません。
エイミー・グッドマン: 位は?あなたの?
ブライアン・ウィルソン: 大尉でした。
エイミー・グッドマン: そして、帰国されます。それは、196-
ブライアン・ウィルソン: 1970年です。
エイミー・グッドマン: 1970年。1987年に線路の上に横になりました。
ブライアン・ウィルソン: 17年間...えー、線路上に座りました。横になったわけではありません。こんなふうに蓮華坐[訳注:両足先を各反対側のひざに載せてすわる姿勢]で座っていました。
エイミー・グッドマン:ではその線路での事件に先立つ17年に及ぶ旅路についてお話しください。
ブライアン・ウィルソン:私は1972年にロー・スクールの課程を修了していて、すでに修士号を取得していました。裁判所の審理手続きには従えないと感じていたので、法廷弁護士にはならないつもりでした。とにかく、いかなる権威ある人物であっても、自動的に尊敬することは二度とはできなかったのです。それはまったく無理なことでした。自分のことを、命令や指示に服従できる人間だとはとても思えませんでした。努力なしにはできないことでした。それで法律から離れて刑務所問題でいろいろ活動しました。受刑者に加えられる不正義-受刑者公正制度と呼ばれていますが私に言わせれば受刑者不公正制度の問題に取り組んだのです。さまざまな団体の顧問弁護士として活動していたのですが、法廷弁護士ではありませんでした。この活動は何年間も続け、その中にはマサチューセッツ州でのジャック・バックマン上院議員の補佐官としての職務も含まれていました。実はその中でベトナム体験のフラッシュバックに襲われたのでした。1981年のことで、それは実際ずいぶんきついものでした。帰還兵支援の取組みでは数年間活動しました。
エイミー・グッドマン:そのフラッシュバックはどういう意味をもっていたのですか。何を見、何を体験したのですか。
ブライアン・ウィルソン:ウォルポール州立刑務所の独房棟で受刑者に面談しているときのことでした。その独房棟にいる間に、説明のつかないことですが、二人の看守が、私が勤務していたのと同じ棟、同じ階にある独房からある受刑者を引きずり出しました。私は床続きの場所にいたわけです。その男性を、看守らが長靴を履いた足で踏みつけ、警棒で殴りつけていました。彼は-受刑者は叫び声をあげていました。そして、ご存知のように、刑務所はコンクリートやスチールや鉄でできていて、音が非常に大きく反響します。その瞬間、私の中にベトナムが甦り、そのまま刑務所内にいることが耐えがたくなりました。実はその時私はその棟の反対側の端のほうで別の受刑者と面談していました。実際、私はその階の廊下をよろめきながら歩き始めていました。死体を踏み越えて歩いていたのですから。独房の扉によりかかかってようやく体の平衡を保っていました。そして私は現実に-私の心の中では-村に、爆撃後に調査を行った数々の村の一つにいました。私は泣いていました。看守がどう思ったかは知りませんが、看守が開閉する扉を七つ通り抜けて、駐車場の自分の車にたどり着きました。そこで1時間半座り込んで、こんな風に震えて、どうしようもなくすすり泣いていました。運転することができませんでした。
そしてその時、私はベトナム帰還兵というものになったのです。その体験を思い出すことに特別な関心があったわけではなかったのに。実際、私はそれほど無知だったことを恥ずかしく思っていました。一方で、それは私が啓示を得たできごとでもあり、そこから私の人生の方向がすっかり変わりました。世界についての一定の強い感情を伴って。そして興味深いことに、支援を求めて最初に接触したラップ・グループに、「このトラウマ的な体験から癒される方法は、自分が巻き込まれた政策としての戦争の非道さに向き合うほかはない」と言いました。でも、そのグループの誰も賛同しませんでした。グループのまとめ役が「ここじゃ政治は議論しないんだ」と言いました。そこで「政治だって?これは、自分自身の体験の一部だよ。自分たちが関与していた絶対的な大虐殺を理解することなしに、この体験を乗り越えて前へ進むことはできないよ」と私は言いました。私たちは東南アジアの民を11年間にわたって毎日平均2,100人殺戮したのです。まったく、国の魂という問題まで掘り下げることぬきに、どうやってそれを説明するのです?私は自らの魂の問題に向き合う必要がありました。
それで、その後2年間出張支援センターを運営して、他の帰還兵のために、PTSDや枯葉剤に関わる補償要求の申し立てをしました。それから、その職を退いてニカラグアへの最初の旅に出て、レーガンが、ソ連の足掛り、マルクス=レーニン主義者と呼んでいた人々について学びました。もちろん、それは、自決権を求めて組織化に取り組む貧しい人々を指す隠語だということはわかっていました。最初の旅でニカラグアの山中に入って1週間は、スペイン語を話せませんでした。いつも誰かに通訳してもらう必要がありました。コントラ、レーガンのコントラ・テロリスト、つまりサンディニスタ革命を崩壊させるためレーガンが訓練し武装させていた人々は、3つの農業協同組合を襲撃し、11人を殺害しました。私はそのうち6人の遺体が納められた無蓋の棺が荷馬車でエステリの墓地に運ばれるのを見ました。それを見て私はただただ泣きました。そしてその時悟ったのです。
すべての文明はそうやって-搾取と信じがたい残酷さと殺人と身体の切断を踏み越えて-発展してきたのだと。
そしてその後、私は文明の歴史を真剣に学びました。というわけで、何も、本当に歴史について何も知らないということを悟って、歴史を本気で学ぶ学徒となったのです。私は文脈がわかっていませんでした。抑圧されている他者の実際の感じ方を知りませんでした。つまり、もちろん知ってはいたし、感覚的にはわかっていましたが、数千年にわたってこのことがどれほど広範囲に起こっていたのか本当に知りたかったし、自分が育った背景を、この-私の今生のうちに理解したかったのです。また、ニカラグアでのその体験がきっかけとなって、その後何度もニカラグアへの旅に出ることになり、米国の政策を研究し、多くのニカラグア人に出会いました-出会った人々のうち50人のニカラグア人の友人や知人をコントラのせいで失いました。彼らは殺されたのです。またエルサルバドルでは、知り合った人のうち15人が殺人部隊に殺されました。ですから、このことは大変...パーソナルな体験となります。家族が殺されているようなものです。家族が殺戮されるときには何らかの反応が起きるものです。
エイミー・グッドマン:それで、ついに線路の上に座り込んだ...
ブライアン・ウィルソン:線路の上に座り込みました。
エイミー・グッドマン:蓮華座で。
ブライアン・ウィルソン:列車は-あの武器は、私の体をどけることなしには動かせません。そうなのです。中米で暮すあの人々は、私の家族、私の家族の一部なのです。そしてもう二人の帰還兵ももちろん同じように感じていました。そのように感じる人は大勢います。言いたいことは、私にとってはまったく初めての経験だったということです。人間性と共感のこのような畏怖すべき性質を発見するのも初めてなら、協力・共同体・探究心・好奇心よりも個人主義・競争・モノの獲得を推進する社会で育ったために、このような感情をいかにわずかしか表現することを許されてこなかったのかを理解することも初めてでした。私の探究心は非常に盛んになりました。大学院でも大学でも、真の意味で深く研究するようには訓練されていませんでした。
エイミー・グッドマン:ベトナム帰還兵のブライアン・ウィルソンさんをお迎えしています。その回顧録の書名は『血ぬられた轍-ブライアン・ウィルソンの人生とその時代』(仮訳)です。まもなくこの対話を再開します。
休憩
エイミー・グッドマン:(今お聴きになったのは)ブルース・スプリングスティーンの『USA生まれ』でした。実際、ブライアン・ウィルソンさんは1941年7月4日に生まれました。では、ベトナム帰還兵の平和主義者ブライアン・ウィルソンとのインタビューに戻りましょう。1987年9月1日に、彼は列車に轢かれて両脚を失いました。その時彼は、米国の対外政策に対する抗議の一環として米国の武器輸送列車を止めようとする非暴力行動に参加していました。私は、ブライアン・ウィルソンさんに、自身の体と心の回復について話を聞きました。最初にたずねたのは、その日、1987年9月1日に両脚を失ったことに気がついたのは入院してから何日後だったのかということでした。
ブライアン・ウィルソン:2週間ぐらい経ってからでした。病院では包帯でぐるぐる巻きになっていました。というのは、おびただしい数の傷があったので全身に包帯を巻かれていたのです。19箇所の骨折と腕と肩の全体に切り傷と擦り傷がありました。
エイミー・グッドマン:正確には列車はどんなふうにあなたを轢いたのですか?あなたは...
ブライアン・ウィルソン:私の体全体を轢きました。
エイミー・グッドマン:今はどんな具合だったかおわかりになるのですね。線路を横切るような姿勢だったのですか?
ブライアン・ウィルソン:私は上体を起こして座っていました。
エイミー・グッドマン:ええ。
ブライアン・ウィルソン: その場にいた友人に話を聞いて、何が起こったか教えてもらいました。私は押し倒されて列車の下敷きになってつぶされたのです。
排障器とレールの間の空間に自分の体がどうやって納まったのか、わかりかねる-そんなことができるとは想像しがたいのですが。大きな体をしていますし。機関車の下でぬいぐるみの人形みたいに引きずり回されて、それでも列車は止まらなかったと聞きました。加速していたのです。人々が言うには、列車の前方にいた二名の監視員はただ頭を振っただけだったそうです。「いや、通行するとも」(というように)。だから、殺人未遂だった、というのが真相です。またそれが、裁判に備えて私たちが雇った模擬裁判用陪審員が下した結論でした。殺人未遂の意図的行為であったと。そこで、和解戦略を追求することになりました。故意だった場合には政府を訴えて勝訴することはできませんから。過失でないとだめです。
それから、2週間から2週間半ぐらいして、両脚のギブスを交換するつもりだと聞かされました。足には幻肢痛がありました。無くなった足が四六時中痛んでいたのです。それで、ギブスを切り裂いて新しいギブスを装着するまで本当には実感がなかったのですが、その時初めて切断された脚の残りを目にしました。しかと実感したのはその時でした。本当に両脚とも無くなったのだ、と。それでもまだ足の幻肢痛は残っていました。
エイミー・グッドマン:で、あなたの脚は-脚はどのあたりで切断されたのですか?
ブライアン・ウィルソン:膝下5~6インチのところで。
エイミー・グッドマン:両脚とも。
ブライアン・ウィルソン:両脚とも。残っている組織はきわめて健全なので、義足でまったく不都合なく歩けます。歩行できるようになるまで数ヶ月かかりました。脳の損傷が思考にどう影響するのかははっきりしませんでした。神経系の検査をたくさん受けました。そして覚えていますが、なんとまあ、韻や謎ときが下手になっていました。まあ、最悪の結果がそれだというなら、たぶん、まあ我慢できるな、と思ったのです。頭蓋骨にはプレートが挿入されています。
私の回復は非常に速く進みました。病院ではすばらしい看護を受けました。支えてくれるすばらしい友人もいました。そして私の友というのは-本の表紙の写真を見てもらえればわかりますが、それが私の出血を止めてくれた友人たちです。
私が轢かれた2分後に海軍の救急車が到着しましたが「そいつは海軍の施設に横たわっていたわけじゃない」と言って救援を拒んだもので。そして海軍の連中は行ってしまいました。とんでもないことです。それから郡の救急車が来るまで17分かかかり、その分病院へ行くのが遅れました。
エイミー・グッドマン:その遅れについて説明してください。
ブライアン・ウィルソン:海軍の救急車が私の救援を拒否し、搬送も拒否したので、仲間は必死でほかの救急車を呼ぼうとしたのです。そして海軍の消防隊が来るには来て、少なくとも私の生存兆候(血圧や心拍)を記録する手助けはしました。ところで当時の私のパートナーは助産婦で、救急車を、別の救急車を待つ間に、彼女がただちに静脈注射をしてくれました。生きていられるのはまったく幸運です。そうだということはよくわかっています。一人も、私が知るかぎり一人も、加速している機関車に正面からはねられて生き延びている者はいません。その様子は五人の写真家と映像記録者によって記録されました。つまり、それ自体が本質的に驚愕すべきできごとなのです。そして24年経った今、私は自らの政治活動を続けています。
エイミー・グッドマン:当時だけでも現在だけでもなく、事故の後まもなく早々と旅に出ていましたね。
ブライアン・ウィルソン:そのとおりです。私は-そうですね、私が初めて外国へ旅をしたのは1988年3月のことで、二回目の手術の後でした。その時プレートが挿入されたのです。脳膜の縫合箇所がうまく治癒しているか確認してからプレートが挿入されました。ニカラグアに行ったのですが、まるで英雄扱いでした。空港で何千人ものニカラグア人に歓迎されました。オルテガ大統領がタラップを上ってきて、駐機場に向かって降りていく間、私の手を握っていました。そして私はオルテガ大統領のジープに乗り込みました。クリス・クリストファーソンが私に同行していました。彼はジープの後部座席に座っていました。それから群集の間を縫ってマナグアの街をゆっくりと進み、群集は「ブリアン!ブリアン!ブリアン!」と言いながら車の中まで手を伸ばし、私の腕に触ろうとしました。するとクリストファーソンがジープの後部座席から私の肩をたたいて、「この状況をどう受け止めてるの?」と言いました。
エイミー・グッドマン:「ブリアン」と言うのはどういう意味ですか?
ブライアン・ウィルソン:ブライアンのことです、スペイン語で。で、「わからないな。受け入れようとしているだけだ」と言いました。でもそれは、毎日自分たちの命を奪っている武器の流入を止めようとした誰かに感謝しているニカラグアの人々の姿だったのです。
エイミー・グッドマン:いくらかはその試みに成功したと感じていましたか?
ブライアン・ウィルソン:そうですね、たぶん、その問題への関心を高めたと思います。成功とか失敗とかについて明確な線引きができなくなりました。旅の途中のようなものです。私の著書のテーマの一つは、人生は目的地ではなく旅路なのだということです。ひたすら歩く-歩き続けるのです。もう一つのテーマは、人らしい生き方は寿命の長さに勝るということです。つまり、どれだけ長く生きられるかということは気にかけないで、その瞬間を精一杯生きることです。そして、ご存知のとおり、主要なテーマの一つは、アメリカ式生活様式、それも西洋文明におけるそれは、この星で最も危険な力であるということであり、人類がアーキタイプ[注]としてもっている共感と互いへの敬意の回復は、今日の人類、特に西側諸国にいる我々にかかっているということです。そしてそうなる可能性はかなり高く、まったくあり得ないこととは言えません。しかし、占拠運動はおそらく、これらのアーキタイプ-私に言わせれば太古からのアーキタイプ-が最後には姿を現すことを示す兆候です。なぜなら人々は抑圧が永遠に続くことには耐えられないから。
[注]アーキタイプ(元型):心理学者カール・ユングの用いた心理学用語で、人間の心の深層にあって遺伝的に伝わり、集合的無意識を作り上げている心と行動の基本的な型をいう。
ところで、9月1日以降のできごとは実際、私に数多くの扉を開けてくれました。世界中の人々が私に会いたがっています。私は中東を訪れ、パレスチナのキャンプで長時間過ごしました。少年らは私の切断された脚を撫でさすりながら夜通し話しかけてきたものです。それまでに脚を失ったパレスチナの人をたくさん知っているからです。そして全員が、ジャック・ロンドンが1907年に書いた”Iron Heel”(『鉄の踵』)を読んでいました。私は読んでいなかったのですが。少年らは言ったものです。「ジャック・ロンドンの『鉄の踵』ってどう思う?」と言うのです。全員がこの本を読んでいました。物質至上主義にとりつかれた場合に西側の民主主義諸国で起こる可能性のあることについて予言をする本でした。この本はオーウェルの本に42年も先行しています。面白かったですよ、こういう経験は。自分が今や歓迎されていたのですから、疑問を投げかかられることもなしに。
エイミー・グッドマン:ブライアン・ウィルソンさん、占拠運動の拠点もいくつか訪問していますね。どこにいらっしゃいましたか?
ブライアン・ウィルソン:ポートランド。
エイミー・グッドマン:オレゴン州ポートランドですね。
ブライアン・ウィルソン:オレゴンです。10,000人が占拠行動の開始にあたって行進し、今では市役所前に約400人が野営しています。それも、今のところは市長や警察の賛同を得ています。それから、シカゴ、クリーヴランド、ボストン、マンチェスター、ニューハンプシャー、コンコード、ポートランド、メイン(に行きました)。2日前にニューヨーク市で列車を降りてから、私たち一行はまっすぐウォール街でのニューヨーク占拠行動に向かったのですが、それはなかなか凄い光景でした。私は実際、ビリー牧師に紹介してもらって群集に話をしました。それまではビリー牧師に会ったことがありませんでした。
エイミー・グッドマン:それで群集には何と言ったのですか?あなたのメッセージは?
ブライアン・ウィルソン:基本的には、それまでに立ち寄った7箇所の占拠行動の拠点からの祝福を伝えたいというメッセージと、そして、ごく簡単に、それらの場所で体験したことを話しました。それからまた、みんながニューヨークでの行動に鼓舞されてきたし、それが最初の行動でしたからね、私も元気をもらった、おそらく、これは垂直構造の体制への服従を置き換える水平的な革命の始まりなのだろう、そうして、長く続いた服従の歴史のパターンに大きな断絶をもたらすだろう、と語りました。私の本のもう一つのテーマは、ピラミッド型社会への服従は非常に不自然、不健康であり、また危険でもある、ということです。つまり、垂直的な国民国家のままでいるよりも、水平主義、すなわちアルゼンチンの人々や[メキシコの]サパティスタ国民解放軍が言うところの水平的な社会のほうが、未来への展望ははるかに明るいというのが私の見解です。
エイミー・グッドマン:スコット・オルセンというイラク帰還兵は、イラクで二期-二回の任務を務めて帰還したのですが、警官からの発射物に撃たれました。
ブライアン・ウィルソン:頭部を。
エイミー・グッドマン:オークランドで。
ブライアン・ウィルソン:頭蓋骨を、オークランドで。
エイミー・グッドマン:今は入院しています。
ブライアン・ウィルソン:入院しているのですね。
エイミー・グッドマン:これを放送している今、彼は意識不明です。彼の友人の一人と話をしました。そしてこれらの占拠行動拠点を訪れてみると、湾岸戦争の帰還兵、イラク帰還兵、ベトナム帰還兵が大勢います。国中で帰還兵が参加していることについてはどう思われますか?ルイズヴィルでは、ある青年が私に「2008年から2010年までイラクで軍務に就くことで国に奉仕していましたが、今はここでルイズヴィル占拠運動に参加することで国に奉仕しています」と言いました。
ブライアン・ウィルソン:帰還兵の役割はきわめて重要だと思いますし、1970年にベトナムから帰還して反戦ベトナム帰還兵の会(VVAW)に入会してからずっとそう思ってきました。私たちのほとんどは政府の説明をおおかた信じて体制に対して相当従順な大人になり、それから、戦争についての数々の嘘を、わが国の起源についての数々の嘘さえをも発見しました。だから、私たちが思いきってわが社会の神話や仮説のすべてを問う人々の動きに合流するならば、それによってエネルギーは大きく高まり、本当に、平和運動の経験は豊かになります。
そして、一週間前のボストンでは、午前1時20分に警察が占拠行動の参加者を占拠された一角から排除するために出動し、平和をめざす帰還兵の会(VFP)がそのうわさを耳にして、メンバーが必ずその場に姿を現し、揃って占拠行動参加者の前に立ち、警察と直接対峙することにしました。すると警察は帰還兵らを打ちのめし、殴り倒しました。彼らは反撃しませんでした。つまり、殴り返さないことによって、暴力を振るっているのは占拠している市民ではなく州当局だ、ということを公衆の目に明らかにしたのです。このことを肝に銘じておくことは大変重要で、証拠からも警官の振舞いからも、暴力を誘発しているのは私たちではないということは、たびたび思い起こさせたいと思います。暴力を加えるのは警察の方なのです。そして遅かれ早かれ、たぶん、そのことがはるかに多くの人々の間での次のことの理解につながるでしょう-私たちは全員が、一部の者の利益を守る政府に包囲されている、この社会は保安用の門や壁で防御されたゲーティド・コミュニティであり、庶民を食いものにしているのであり、警官も99%の一人なのに、今までのところはこのゲーティド・コミュニティの住民一同を防衛しているのだ、という理解に。警官のほとんどは、ホワイトカラーの管理職を除いて、99%に属しています。クリーヴランドでは、少なくとも私がそこにいた間は、警察は占拠を応援していました。悲しいことに、昨日か一昨日に聞いたところによると、クリーヴランドの占拠やテントは排除されたそうです。わかりませんが、時に政治が先鋭化するときがあります。
でも、これは世界的な広がりをもつ運動で、基本的にはいわゆる耐乏生活への反応だと思うのですよね。人々はこんな状態をいつまでも耐え忍びはしません。自由と自治と解放への深い渇望があります。それが長期にわたって抑圧されることはあり得ます、特に私たちが国家のイデオロギーを受け入れる場合は。でも、ある時点で痛みを感じ始めるのです。そして痛みと逆境は、箱から飛び出して「今こそ仲間の人間たちに合流して、『こんなのはおかしい。もうたくさんだ』と声をあげなくては」と言わせるための大きな刺激となります。占拠運動の火はこの冬の間に消えるかもしれません。北部の気候が厳しくなると、どうなるかわかりません。しかし、本当に破壊されてしまう可能性があるとは思いません。というのは、この運動は、古くからアーキタイプ[注]として存在した共感・敬意・協同・平等、あるいは公正さへの感覚を掘り起こしているからです。そのような価値は私たちの遺伝情報に埋め込まれた太古から伝わるアーキタイプなのです。それらは存在しないと誤認させるイデオロギーがあり、それこそ、私がベトナムで発見したものです。私の中にあったイデオロギーは、地面に倒れている人々を見て、彼らは私の家族だと理解したときに、5分ほどで消えてなくなりました。そしてそれは、私が書き換え不能な知識と呼ぶものでした。古いイデオロギーを再生する方法は-再生することは不可能でした。もう現実世界に当てはまらなかったのです。完全にくいちがっていました。実際、古いイデオロギーは私を非人間化していたのです。だから、今、私たちが人間として果たすべき任務は自らの人間性の回復だと思うのです。
[注]アーキタイプ(元型):心理学者カール・ユングの用いた心理学用語で、人間の心の深層にあって遺伝的に伝わり、集合的無意識を作り上げている心と行動の基本的な型をいう。
エイミー・グッドマン:ブライアン・ウィルソンさん、1987年9月1日に起こったできごとを悔やみますか?
ブライアン・ウィルソン:そうですね、両脚を失ったことは残念に思います。でも、その場に居たことは後悔していません。する、と宣言したことを実行したのです。海軍の兵員たち、彼らもベトナム帰還兵だったのですが、その兵員と海軍に雇用されていた三人の民間人は命令どおりに行動しました。そして、私はもう命令には従いません。命令への服従というのは、悟ったのですが、私の性に合いません。
エイミー・グッドマン:平和主義者、ベトナム帰還兵のブライアン・ウィルソンでした。その回顧録の書名は『血ぬられた轍-ブライアン・ウィルソンの人生とその時代』です。