このシリーズ「パレスチナの女性の声」はWCLAC(女性のための法律相談センター)の2009年報告書の翻訳です。「空間的扼殺」とも形容される占領下で、日常的暴力と人権侵害に苦しむ女性に対する聴き取り調査に協力した19人の女性の証言をお届けしています。
パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書– 2009年度版
シリーズ【1】─暴力 2/4
証言2
〔証言者の〕氏名:AR
場所:ヘブロン、ワーディー・アル=フセイン
聴き取り日時:2009年4月12日
入植者による暴行が発生した日時:2008年12月4日
ARはヘブロンのワーディー・アル=フセイン地区在住、自宅はイスラエルの入植地、キルヤト・アルバのすぐ近くです。ARは3歳から8歳までの4人の子どもの母親です。
「2008年12月4日の午後1時頃でした。私は家にいました。入植者が集まっているのに気づいて、家にいたのは子どもと私だけだったので用心のため、子どもたちを家の中に入れ、ドアと窓に鍵をかけました。午後1時半頃、声が聞こえてきました。窓の端からのぞくと、入植者が何十人もいました。そのうち一人は、機関銃のような銃を手にしていました。私は怖くなりました。子どもたちをどこに隠したらいいかわからず、寝室に連れて行って、私のベッドと下の息子のベッドのあいだの床に座らせました。しばらくして、入植者たちがヘブライ語で話しているのが聞こえました。罵っているのがわかりました。「アラビ・メケン」という言葉が聞こえましたが、それがヘブライ語で「アラブ人の売春婦」だと知っているからです。それから銃の発砲音と女性の叫び声も聞こえました。
夫は私たちのもとに来ようとしていたのですが、あとで聞いたところでは、軍に阻まれたのだそうです。夫は私たちの無事を確かめるために電話してきました。自宅からそれほど遠くない場所からでした。私はずっと家にいたのですが、入植者が家の窓に投石する音がしました。4時頃、夫から電話があり、調理用のガスボンベを台所から外に出すようにと言われました。理由をたずねましたが答えません。とにかく私が台所に行って、ガスボンベのネジを緩めて取り外していたそのとき、火が燃えあがる音がきこえました。それで、入植者たちが家の横に積んでおいた暖房用の薪に放火したのだとわかりました。煙が中に入ってきましたが、私には子どもたちをどうすることもできません。窒息するおそれがありました。私にできることといえば、子どもたちを部屋の中に入れたまま、ドアをきっちり閉めて、香水をかがせてやることだけでした。ましかもしれない、と思って。
半時間後、夫が電話してきて、隣のウンム・ワリードが迎えに来てくれると言いました。「子どもたちと母親が中にいるんです」と彼女が兵士に話す声が聞こえました。兵士は「戻れ、戻れ、調べるから」と彼女に言いました。兵士はアラビア語で話し、ドアを蹴りました。私が「だれ?」と訊ねると、彼は、「軍だ」と言いました。私が「入植者も一緒なの?」と聞くと、彼は嫌味な調子で「開けろ。入植者はいない」と答えました。私は息子を抱き、兵士は末っ子のナダーを抱いて、2、3メートル離れた隣家へ行きました。そのあいだも入植者は私たちに向かって石を投げていましたが、さいわい、誰も怪我はしませんでした。隣の家に着くと、女性と子どもばかり、20人ほどの人がいました。家への投石はまだ続いていましたが、みんなと一緒になれたので少し安心しました。6時頃、夫が私たちのところに来ることができました。外国人ジャーナリストも一緒で、その中にはユダヤ人ジャーナリストも一人いました。その人たちが警察を呼んでくれて、8時頃、警察が入植者を取り囲み、ようやく静かになりました。
8時半頃、私は夫と一緒に家に帰りました。入植者はもう貯水槽を破壊してしまっていて、住居のまわり全体が焼き払われていました。窓は壊され、薪は燃やされていました。家は煙の臭いがしました。怖くて家で眠りたくなくて、私は、夫に義兄の家に連れて行ってほしい、その晩はそこに泊めてほしいと頼み、そして実際にそうしました。夫は自宅にとどまりました。
軍は、入植者のしたことを一つ一つ止めていれば、私たちを守れたはずだと私は思います。私たちを守ろうとする動きはまったくありませんでした。何十人もの入植者が私たちを攻撃しているというのに、それを止めさせるための兵士はたったの三人しかいなかったのです。兵士は催涙ガス弾を入植者の集団めがけて投げたりもしましたが、それでは足りませんでした。後でわかったのですが、発砲で狙われたのはアブデルハーイ・マタリーイェという高齢の隣人で、撃たれて傷を負ったそうです。
この出来事のせいで、私は心理的にも気力の上でも深刻なダメージを受けました。かつては精力的に家事をこなしたものです。今はずいぶんと気力を失っています。窓を開けると、また同じことが起こるかもしれない、と不安になります。彼らがまたやってきて同じような出来事が繰り返されるのではないかと思ってしまうのです。今ではかすかな物音にも怯えますし、すごく怖くなります。夜、入植者が戻ってきて家を焼き払う夢を見ることもしばしばです。」
証言3
ハナー・ジャミール・ラティーブ・アブー・ハイカルの証言
場所:ヘブロン、ジャバル・アル=ラフマ
事件発生の日時:2009年4月11日
ハナー・アブー・ハイカルは51歳で、19歳の娘がいます。彼女はヘブロンのジャバル・アル=ラフマ地区に、娘、妹のリナ、年老いた母親と一緒に住んでいます。ヘブロンに美容院を経営しており、仕事は順調です。
ハナーの家は、1984年にイスラエルの入植用前哨地(アウトポスト)として建設されたラマト・イシャイの近くにあります。それ以来、地元のパレスチナ人住民は移動の自由を厳しく制限されてきました。今では、自宅の近辺に検問所が4つできています。家に帰るときは、入植地を走る道路を使用することはできず、荒地の舗装なしの道を使わねばなりません。イスラエル当局との事前折衝なしには、大型家具や電化製品や建設資材を自宅に運び込むことができません。事前にイスラエル当局に申請しない限り、誰もハナーの自宅を訪問することはできません。
もっとやっかいなのは、母親が地元の病院で必要な通常の検診や緊急治療を受けられるようにする際にハナーが直面する問題です。母親は糖尿病、心臓疾患および高血圧を患っていて、自力で動ける範囲が限られています。車は住居までは来られないので、医者や病院に母親を連れていくには救急車を利用するしかありません。しかもイスラエル当局と赤十字社の間で義務付けられている事前調整には長い時間がかかり、許可がおりないこともあります。
ハナーはWCLACに、2009年4月11日、病院から自宅に救急車で搬送される母親に同行する途中で発生した事件について説明しました。
「2009年4月11日、母は病院にいました。血糖値が非常に高くなったので緊急入院して治療を受けていたのです。その日医師たちが、母の容態がよくなったので退院してよいと言ってくれたので、私は赤十字社に電話をかけました。赤十字社の職員は母の状態を十分理解しているので、私はいつものように、救急車を利用するのに必要な手続きをお願いしました。私が病院で待っていると、赤十字社から折り返し電話があり、手続きはすべて完了し、病院から自宅に母を連れて帰るための救急車が病院に向かっていると言って安心させてくれました。
救急車が予定どおりに到着して、母は病院から救急車に運び込まれました。午後3時20分でした。私は母と一緒に後部座席に座り、救急隊員は前部座席の運転手の隣に座りました。救急車は我が家の方角に進みました。シュハダー通りの入り口でイスラエル兵に停止を命じられましたが、兵士は所定のチェックを行うと、私たちを問題なく通してくれました。救急車が200メートルほど進んだところで、一人のイスラエル兵がヘブライ語で「止まれ、止まれ」というのが聞こえました。運転手は停車し、その兵士が銃を手にもってこちらに近づいてきました。兵士は運転手に「誰が通行許可を出したのだ」とブロークンなアラビア語で言いました。運転手が、所定の手続きは済んでおり、最初の検問所の兵士がもう私たちのチェックを済ませていて問題はまったくなかったと説明しました。
その間、後部ウィンドウから入植者の一団が見えました。10人から15人が道路脇に集まっていました。入植者の子どもの一人で、14歳ぐらいの少年が救急車に向かって歩いてくるところでした。兵士が運転手に話しかけている間に、この少年が身をかがめて石を拾うのが見えました。兵士は、運転手に話しかけながらその少年に目をやりました。この時少年が救急車に投石して後部ウィンドウのガラスを割りました。石は私と母のそばに落ちました。私は怖くなって兵士に大声で呼びかけました。「母はとても具合が悪いのです。この子を追い払ってください」と言いました。私は彼にアラビア語で話しかけたので、その言葉がどれだけ通じたかはわかりません。兵士は身動きせず、何もしませんでした。少年はもう一つ石を手にして同じウィンドウめがけて投げつけたので、残っていたガラスがすっかり砕けて落ちました。このできごとが起こっている間、私は母におおいかぶさって、石やガラスの破片から守ろうとしました。それから頭を上げると、他の入植者の子どもが何人もこちらに向かってくるところでした。兵士は入植者が私たちを襲うのを止めるために何もしませんでした。
それから兵士は運転手に元の場所に戻れと命じました。入植者の子どもらに追いかけられながら、運転手は言われたとおりにしてもう一方のバリケードに着くと、そこで兵士らに停止させられました。入植者は私たちの後を追い、さらに投石してきました。私はおびえていましたが、それを態度に出すまいと懸命に努めていました。母にくじけないでほしかったので。兵士らの無関心が見てとれたとき、深い絶望を感じました。何もかもが、当局への申請さえもが、無駄なことだと思いました。
入植者がアラビア語で私たちを罵るのが聞こえました。彼らは「ばかやろう、死んじまえ」などと、極めて粗野な言葉を口にしていました。彼らが怒鳴りつけた言葉の中には恥ずかしくて口にできないようなものもあります。入植者らが四方八方から投石を続けているので母を守ろうとしてその体の上におおいかぶさりながら、私は泣き始めました。母も泣いていました。母のことがとても心配でしたがどうしていいかわかりませんでした。運転手が兵士に話しかけて、私たちを保護するかその区域の外に出るのを許すかしてほしいと頼むのが聞こえました。
結局、救急車はシュハダー通りを離れて引き返しました。パレスチナ当局の管轄区域に入ったとき、運転手は2、3分間停車して、救急車に損傷がないか点検しました。車はひどくやられて、ガラスもたくさん割れていました。運転手が上司に話をするのが聞こえ、母の極度の緊張が伝わってきました。彼女の様子が変化し始めました。それから運転手は運転を続け、私たちは赤新月社の病院に到着しました。そこが最寄りの病院だったのです。母はそこで診察を受け応急処置をしてもらいました。
その日、母は帰宅できませんでした。私たちは救急車で母をいとこの家に連れて行き、母はそこで3日間過ごすことになり、私は徒歩で帰宅しました。私は母を毎日見舞いましたが、容態はとても悪かったです。母はとても家に帰りたがり、この試練がいつまでも続くように感じていました。
私も姉妹も母もみな、さまざまな病気に悩まされています。日常的に被っている困難のせいだとしか思えません。私たちにはごく限られた選択肢しかありません。こんな暮らしを受け入れるか、それとも我が家を捨ててよそで暮らすことにし、入植者が自宅を乗っ取るにまかせるか。
三日後、私たちは、母を救急車で自宅に送るため、もう一度手続きをとりました。私たちは必要な許可を受けて、母は問題なく帰宅しました。私も同行しました。母は、この事件後、症状が悪化したと感じています。自力で立っているのは容易ではありません。家の周囲で物音がするたびに怯えます。たぶん、自分自身よりも、私たち姉妹や幼い孫たちのことを案じているのでしょう。特に自分が無力で私たちを守ることができないと感じるので。母は夜安眠できません。真夜中に不安に襲われて目がさめます。どうしたの、と聞くと、悪夢を見ていたことがわかります。私たちはもう、母をひとりにすることはほとんどありません。
私たちは、入植者たちとの闘いではひどい孤立感を感じています。警察に訴えましたが、暮らしに変化は起こりませんでした。2009年4月11日に発生した事件について確かに書面で訴えたし、イスラエル警察宛ての陳述書をキルヤト・アルバ警察署に提出したのですが、何も起こっていません。」
原文
A 2009 report on Israel’s human rights violations against Palestinian women
次号予告: 入植者の暴力 ナーブルスの事例 証言 4、5
訂正 (2011年2月7日):前文で予告したシリーズ3の表題について、
原文を再検討の結果、次のように改訳し、訂正しました。
訂正前: 住居と家族の離散
訂正後: 居住権の侵害と引き離される家族