TUP BULLETIN

速報908号 シリーズ「パレスチナの女性の声」【4】-2 (原発危機の中で) [家屋の取り壊し-2]

投稿日 2011年4月28日

女たちの証言--占領下パレスチナで生きるということ




福島原発事故の収束プロセスは今もなお「予断を許さない」状況です。今、多くの人が原発についての真実を学び始めています。それは強者による他者の犠牲を許さない社会に向けての歩みの一つでもあると思います。その歩みを進めるみなさんとの連帯を感じつつ、パレスチナからの声を続けてお届けします。
――――――――――――――――――――――――――――――――
このシリーズ「パレスチナの女性の声」はWCLAC(女性のための法律相談センター)の2009年報告書の翻訳です。スペィシオサイド(spaciocide、空間的扼殺)とも形容される占領下で、日常的暴力と人権侵害に苦しむ女性に対する聴き取り調査に協力した19人の女性の証言をお届けしています。


今回は、最終章「家屋の取り壊し」の証言13、14をお届けします。住む権利のある我が家でありながら安心して暮らすことができない実態が具体的に語られています。


報告書はこのあと「家屋の取り壊し」証言15~19と続きます。


シリーズ全体の前書き:岡真理、向井真澄/TUP(TUP速報869号をご覧ください)


翻訳:岡真理、キム・クンミ、寺尾光身、樋口淳子、藤澤みどり、向井真澄/TUP


凡例 [ ] :訳注 〔 〕:訳者による補い

パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書-2009年度版
シリーズ【4】家屋の取り壊しー2

東エルサレム、シルワーンの事例

シルワーン地区のブスターンの町は旧市街城壁のすぐ南にある歴史的な地域で、エルサレム市当局がこの地区から建物を撤去する計画を実行に移すなら、1000人以上のパレスチナ人が家を失うおそれがあります。2009年3月にエルサレム市のニール・バラカート市長は次のように述べました。「...(最後には)ブスターンには住宅がなくなると考えていいだろう」 WCLACのスタッフは、ブスターン出身の三人の女性に対して詳しいインタビューを行いました。全員が、家が取り壊されるという不安をかかえて暮らしており、自分自身の不安や家族への気がかりについて語りました。WCLACがまとめた報告書に証言が収録されているある女性は、1996年にブスターンの両親から受け継いだ土地に家を建てたときからずっと、取り壊しの恐怖をかかえて暮らすことを強いられてきました。訴訟費用と罰金として何千ドルものお金を払ったにもかかわらず、いまだにこの女性と家族は取り壊しの恐怖から解放されていません。彼女は、心理的な問題に由来すると医者が言うような身体的症状があり、この状況が原因で”慢性的に鬱状態”だと言っています。

証言13
イルハーム・ラムーズの証言

場所:東エルサレム、ブスターン
聴き取り調査の日時:2009年5月26日

「私はイルハーム・ラムーズ、32歳です。エルサレムの旧市街に近いシルワーン地区の出身です。1995年に、17歳で結婚しました。結婚した年は、シルワーンに住む私の両親の家で、そのうちニ部屋を使って暮らしていました。

私たちはほどなく、私が両親から譲り受けた土地に家を建て始めました。遺産の一部としてもらったもので、登記書類は私の名義になっています。子どもができたら両親と同居では具合が悪いので、自分たちの家を建てる必要がありました。今は子どもが五人います。長女Nは12歳、長男Jは10歳、次女Hは8歳、次男Jは6歳、末っ子のMは4歳の男の子です。

私も工事を手伝いました。すべてを大工さんの手でやってもらうには金銭的余裕がなかったので、夫と私も家を建てる作業に加わったのです。1996年に完成してそちらに移りましたが、その時私は娘のNを身ごもっていて、家はまだ完全には仕上がっていませんでした。まもなく、正確な日付は思い出せないのですが1996年のうちに、夫は住居の許可証を申請するために市当局に出向きました。夫は申請料を支払ったのですが、その場で、却下されたと言われました。1996年の8月に、家の取り壊し命令が来ました。私はこの出来事が起こってからノイローゼになりました。

取り壊し命令に対して異議申し立てをするために弁護士を見つけたのですが、そのプロセスはとても長くかかり、費用も大変なものでした。この弁護士には4,000ドル支払いました。弁護士は取り壊し命令の執行をなんとかくい止めましたが、2002年2月に、72,000シェケル(当時の額で約16,000ドル)の罰金を支払えと言われました。私たちはこの罰金を、1,000シェケル(約250ドル)ずつの分割払いで支払いましたが、そのほかに、市当局に支払う住宅税があり、それは年額4,000シェケルほどでした。

私と家族にとって、その支払いはとても重い経済的負担となっています。毎月、罰金、住民税、電気代その他の諸経費を払うと、あとはかろうじて食べていけるだけしか残りません。服やその他の子ども用品までは手がまわりません。自分からは決して頼んだりしないのですが、実家から借金せざるを得ないことも何度かありました。恥ずかしくてお金を貸してとは言えないのですが、こちらがせっぱつまっていて助けが必要だと思ったときに、両親が私にお金を差し出してくれたことが何度かあります。でも本当のことを言えば、経済的支援がほしいのではないのです。ただ、取り壊し命令を停止させ、我が家を守りたいだけです。

この状況について話をするのは難しいことで、しかもそれが1996年からずっと今に至るまで続いています。いつもそのことについて考えてはいるのですが、誰にも話すことはできません。安心感のないまま暮らしていて、もう何も楽しむことができないようです。基本的には、慢性的に鬱状態です。それに胃痙攣と胸の痛みがあり、服用していた薬は効きませんでした。今では医師の処方する注射を打ってもらうために通院しなければなりません。でも医師は、私の症状は身体の問題というよりは心理的なもので、「悲しみ」が原因だと言います。2003年、裁判所が罰金の支払い命令を出したあと、市の職員が何人かうちに来て、家の写真を何枚か撮りました。職員は五人で、警官が一緒に来ていました。職員はドアをノックすることもなく、私たちに話しかけようともしませんでした。何をしているのか、何を求めているのか、何にも教えてくれませんでした。

その次に起こったのは、2009年2月8日のこと、バイクに乗った男がやってきて娘のHに書類を手渡すという出来事です。この男は、私の名前を口にして、Hに私を知っているかたずねました。娘が知っていると答えたので男は娘に書類を手渡したのです。書類は私を裁判所に出頭させるための法的文書で、出頭しなければ不利なことになると書いてありました。そのあと、また夫が弁護士に会いに行って、法廷で私たちの代理人として弁論してくれるよう依頼しました。この新たな事案の最初の審理は、2009年5月17日に行われました。私には何のために裁判所に呼び出されているのかよくわかりませんでしたが、何か家についての具体的な話で、2006年に出された取り壊し命令にかかわることだということはわかっていました。

その後、2月になってから、ブスターンにもっと大勢の市職員がやって来ましたが、今度はうちだけに来たのではありませんでした。職員は機械をもっていました。それが何なのかはっきりとはわかりませんが、うちや近隣の家の測定や撮影をするレーザー・カメラのようなものだと思われました。その日は子どもたち全員と一緒に家にいました。学校が休みの日だったにちがいありません。夫は仕事に出かけていました。警官がとても大勢いて、何が起こっているのかは誰にもわからなかったので、子どもたちはひどく怖がりました。ヒステリックに叫び声をあげたりしていました。その夜、娘のNはひとりで寝るのを嫌がって、私のベッドで一緒に眠りました。この頃、末っ子のMは、警官がいるから、と言って外遊びをしたがりません。

最初、こんなことが起き始めた頃は、ひたすら眠りたいと思っていました。この状況全体のせいでひどく疲れてぐったりしていました。今は医師に注射をしてもらっていて、それが効いているようです。仲良しの家族は同情してくれていて、私はその人たちにはこの問題について話ができます。でも、その人たちも問題を抱えていて、家を壊される不安にとりつかれているので、逆にこちらが力になれるように努力しなくては、と思うのです。毎週金曜日にモスクに行ってお祈りをして、説教の間中泣いています。

家が取り壊されたらどこへ行ったらいいのか考えたことはありません。どこにもあてがないのです。自分の土地にテントを張ってそこに居るつもりです。」

イルハーム・ラムーズとのフォローアップ・インタビュー
2009年6月23日

「2009年6月22日に、私はインターネットのウェブサイトで、市職員が翌日ブスターンに来て爆発物やブルドーザーで近隣の住居を取り壊すという記事を読みました。そのニュースを読んだとき、私は神経衰弱になるかと思いました。何ものどを通らず、眠ることもできませんでした。子どもたちは『この家を壊すのはいつなの?私たち、どこへ行くの?』という質問を繰り返しました。娘のNは、まるで私の影みたいにどこへでもついてきました。娘は私から離れていられないのでした。どうしたらいいだろう?それから急いで隣家へ行って、自分が耳にしたことを話しました。

その夜は、近隣に住む男性の多くが、私たちがニ、三ヶ月前に立てた、抗議のためのコミュニティ・テントで夜を明かしました。隣の住民と私は、屋上で、おしゃべりしながら何かよくないことが起こるのを何時間も待ち構えていました。シルワーンの入り口には警官が大勢いて、どうやら、近所で不穏な動きがないか監視しているようでした。ブルドーザーが現われた場合に十分に対応できる人数の人が起きているように、交代でテントに詰めていました。市の職員が今にも我が家にやって来そうに思って待ち受けたまま、私は早朝まで起きていました。結局誰も来ませんでしたが、私はくたびれきって、今にも市職員が姿を現しそうな気がしてピリピリしていました。

翌日、夫に、地域住民の代理人である弁護士が発言する記者会見があるから、テントに行きなさいと言われました。弁護士は、取り壊し命令の具体的な執行開始日は市当局から聞いていないと私たちに言って安心させようとしました。でも私は当局が弁護士に言ったことも言わなかったことも信用する気になれません。連中は心理作戦に出ているのです。私たちを完全に消耗させて、実際にやって来るときには、もう抵抗するエネルギーが残っていないようにしたいのです。

その日、あとから、私は友達とアル=アクサー・モスクまで散歩しました。座ってお祈りをし、説教を聴きました。説教の間中、涙が流れて止めることができませんでした。前の夜眠っていなかったために、また恐怖と心配から憔悴していました。泣くと落ち着いて緊張がほどけるようでした。心が乱れているときはいつでもモスクに行くのが好きでした。家から歩いて5分のところにあります。いつの日かブスターンの町から立ち退かされたらどうしよう?

最近、女友だちがグループを作ってちょっとした協同事業を始めることにしました。毎月それぞれが少額のお金を持ち寄って、順番で誰かひとりに渡し、受取った人はそれを何にでも好きなように使えるのです。この女性グループは私にお金を預けることにしました。今日、私はそのお金を家から持ち出して、ブスターンには住んでいない別の女性に渡すことにしました。自分のものではない多額のお金を自宅に置いておくのは気が気でなかったのです。家が取り壊されたらお金も塵となってしまうと思います。〔そうなったら 〕このグループの他のメンバーに対してそのお金を弁償する方法はありません。」

証言14
I.Aの証言

場所:東エルサレム、シルワーン、ブスターン
聴き取り調査の日時:2009年5月26日

IAもシルワーンのブスターンの町に住んでいます。

「私の名前はI.Aで、エルサレム、シルワーン地区のブスターンの町に住んでいます。私はシルワーン地区で生まれ、ずっとそこで暮らしてきました。この町はエルサレムの旧市街に近いところにあります。私は40歳で、16歳で結婚しました。子どもが六人います。一番上のWは23歳、Mは20歳、Iは18歳、ARは17歳、Kは12歳、一番下のRは8歳です。ブスターンではどの家も取り壊しの恐怖にさらされています。

結婚したばかりの頃は夫の家族の家で小さな部屋に間借りしていましたが、あまりにも狭かったし、じめじめしてもいたので、子どもができると不都合なことばかりになりました。壁の湿気で衣類までが湿ってしまうので、衣類の収納家具は壁から離れた位置に移動しなくてはいけませんでした。そこで、1980年代の終わりに夫と二人で、夫の家族が祖父から相続した土地に家を建て始めました。二本のイチジクの木がめじるしになっていました。この土地は夫の相続分として早くに受け取ったものだったので、そこに自分達家族の家を建てることができました。それに、その周りの土地を夫の叔父やそのほかのシルワーンの住民から購入して買い足したので、ちゃんとした家を建てられるだけの広さになりました。

1989年9月にその家に引っ越しました。その時までに子どもが二人いて、三人目を身ごもっていて、家族が暮らすのに困らない、もっと広いところに移る必要に迫られていたので、新居に移れてほっとしました。といっても家はまだ完成してはいませんでした。流しがなく、ドアが入ってない箇所もありました。一つには資金不足で工事を完成できなかったのでしたが、もう一つの理由は、エルサレム市当局が検査にきて、取り壊しを命じるかもしれないとおそれていたのです。入居すればそうはならないだろうと思いました。着工する前に夫が当局に建築許可をもらいに行ったのですが、ブスターンはグリーンゾーンで、その地域には許可を出さないことになっていると言って、その日のうちに、許可申請を斥けました。

でも、私たちに何ができたでしょうか?あの狭い部屋にずっと住み続けることはできなかったし、私はシルワーン出身で、ほかの土地で暮らすことは考えられませんでした。この町以外の場所では暮らせません。私の家族みんなが生まれた土地で、町じゅうよく知っているし、お祈りに行くアル=アクサー・モスクからたった5分のところなのです。これは私にとってはとても大切なことで、この町なしでは生活していけません。

入居してまもなく、正確な日付は思い出せないのですが、エルサレム市当局の職員が来て、家の広さを測り、その後、面積に応じた地方税の請求書が届きました。それまでは家を当局がどうするか心配していたのですが、当局が家のことを知って、私たちがその家にかかわる納税を始めたら、もう大丈夫だろうと考えたことを覚えています。

1989年の入居から2005年までは問題はなく、エルサレム市当局は何も言ってきませんでした。ところが、2005年になって、エルサレム市職員がこの地域にやってきて写真を撮り始めました。この町の航空写真も撮影していたと思います。何が進行しているのか、エルサレム市からは何の知らせもありませんでした。でもシルワーンの住民委員会が、ブスターンの全住宅を取り壊す計画があることを発表しました。私にとっても、ブスターンで暮らす誰にとっても、これはおそろしいことでした。子どもたちは『どこへ行くの?』とか『僕たちを家から放り出してしまうの?そしたらどうなるの?』とたずねます。子どもたちの前ではしっかりしていようとするのですが、時にはそれができず、子どもやその質問を前に気が弱くなってしまうのでした。とにかく、私には何が起こっているのかよくわからず、我が家がどうなるのか、具体的な説明はいっさいありませんでした。

この時期、住民委員会はなかなか活発で、進行中の事態について話し合い、住民を組織化するための会合やその他の活動を行うためのテントを設営しました。ところが、三ヶ月経ってもそれ以上のことは起こらず、事態は沈静化しました。またこの時、ブスターンの住民の間では、家の増築や新築をする者はいないだろうという見方が広がっていました。私は、庭のでこぼこしたところの一部を平らにして石を敷く作業を始めていたのですが、それさえも中止して、未完成の部分は敷物を敷くだけにしました。

その後、正確な日付は覚えていませんが、2009年2月、市職員がまたブスターンにやってきました。それも、40~50台の警察の車を伴って。到着したのは朝の8時か8時半頃で、夫と次男のMが仕事にでかけていたほかは子ども全員と私が家にいるときでした。何かが起こっていることに気がついて、すぐに屋根に上がって様子を見ると、市職員と警察官が集まっているのが目に入りました。子どもたちも一緒に上がってきて、何が起こっているのかたずねました。『何をしているの?』『あの人たち、まだここにいるの?』と聞きます。子どもたちは進行している事態に気づいていて、取り巻いている警官を怖がっていたと思います。

市職員は撮影用や測定用の機器をたくさんもってきていましたし、中にはそれまでに見たことがないようなものもありました。でも、この作業についての事前の連絡はなく、通知書も受け取ってはいなかったので、これはまったくの衝撃でした。その日は神経衰弱に陥ったようでした。怖かった。彼らは1、2時間町にとどまり、それから立ち去りました。その後も、市からは、このできごとを説明する通知書などを何も受け取っていません。

2009年3月に、市職員がまたやって来ました。今度も、夫と息子のM以外、全員が家にいました。一人が門と門柱の間の隙間のところにカメラを掲げているのが見えました。我が家の庭と家屋の写真を撮っているようでした。今度も何をするつもりなのか事前の通知は何もありませんでした。門を思いっきりたたいて、大きな音を立てましたが、私は彼らを中には入れず、留守だと思わせるために、子どもたちを静かにさせました。自分の身と子どものことを考えて、恐怖を感じました。職員が何をしたがっているのか、何をする計画なのか、わかりませんでした。

それから2009年4月に、シルワーン住民委員会の弁護士がブスターンの全住居を対象とした取り壊し命令を市当局から受け取ったという話が耳に入ってきました。そんな書類を見たことはないのですが、弁護士は住民を代表してこの決定について裁判で争おうとしています。2009年2月に設営したテントに市職員が何人かやってきて、裁判所の変更命令がない限り、ブスターンの全住居の取り壊しを強行することになると言いました。

安心感というものがまったくありません。いつも、我が家に何が起こるかわからないという不安を抱えながら暮らしています。また、夫や子どもとの関係にも不安を感じます。平静を保とうとするのですが、とても難しいのです。ぴりぴりしていて、その気分を夫や子どもにぶつけてしまうのです。子どもが宿題をしていて、手伝ってほしいと言っても、苛々して追い払ってしまいます。この状況に影響されて、こんな風に感じたり行動したりするのです。将来のことを考えることができず、考えると手に余る、困惑するばかりだと思われるので考えまいとします。将来のことを悲観し始めると、すぐに努めて気をそらそうとします。家が取り壊されたらどこへ行くことになるのだろう。ほかに行ける場所などない。ブスターンに、家を建てた土地に、夫の家族が相続した土地に、ずっと居座るつもりです。テントを立ててそこに住みます。

この状況のため、自分と家族の将来について考え始めると健康にも影響が出てきます。血圧が高いようだし、2005年にこの問題が始まったときに、緊張をほぐすための錠剤を飲み始めました。それに、通常の鎮痛剤ではおさまらない頭痛もします。今は医者に頭痛をおさめる鎮痛剤を処方してもらっています。ストレスがとても大きく、ストレスと緊張のために胸にも痛みがあります。この状態について、夫や子どもには話ができません。心配させたくないし、将来についての心配は自分ひとりの胸にしまっておきたいので。姉に話をすることはありますが、姉だって何ができるでしょう。みんな同じ問題を抱えているのです。シルワーン地区には兄弟が四人、姉妹が四人います。だからよそで暮らすことなど考えられないのです。子どももみんなここで生まれ、実家の家族もずっとシルワーンで暮らしています。ここが大好きだし、ほかには行くあてがありません。」

2009年6月23日に行ったIAへのフォローアップ・インタビュー

「2009年6月18日木曜日の朝、正門をたたく大きな音が聞こえました。朝の9時頃で、娘のRと息子のARと私が家にいました。『どなた?』と聞くと、男が『警察だ。門を開けろ』と答えました。怖くなり、後ずさりして、門は開けませんでした。強くたたく音が続きました。長靴か銃で門をたたいていたのだと思います。警官が再度『門を開けろ』と言いました。『開けません』と返答しました。怖がっている娘のRのことを考えました。私もこわくて震えていましたが、娘には自分が怖がっていることを知られないように精一杯に努めました。まもなく、門をたたく音が止みました。正門のところへ行ってみると、門の隙間に折りたたんだ紙片が挟まっていました。

その紙切れを取り出して読みました。それは、エルサレム市当局からの通知書でアラビア語で書かれていました。市内の遺法建築物に対する措置についてのものでした。通知書の冒頭には、手書きのヘブライ語で『家屋 第35番』というメモが書き込まれていました。それは市の分類による我が家の番号だということを知っていました。箇条書きで4項目あり、第四点として、市当局が取り壊しの行政命令を発行すると書いてありました。本当に怖くなって、すぐに夫に電話しました。

それから屋根に上がって、近所の様子を見てみました。警察の車が四台、大勢の警官、兵士、灰色とネイビーブルーの制服を着てプラスチックの盾をもった”特殊部隊”の兵士などが見えました。彼らが隣のR家とAS家に行くのが見えました。町の上のほうを通って行き、隣家の家の中に1時間か1時間と15分ぐらいとどまっていました。後になって隣人から聞いたのですが、彼らは中で家の広さを測定し、うちの門に残されていたような通知書は手渡さなかったそうです。その日、そんな通知を受け取ったのはうちだけでした。

その日の日中、息子のMが市場で買うものはないかと電話をしてきました。その日の出来事については何も知らず、私も教えませんでした。嫌な知らせから守ってやりたかったのです。でも仕事から帰ってきて、隣の家族と言葉を交わしただけで何かよくないことが起こったことに気がついたときに、すべてを話すべきだと感じました。その知らせを息子がどう受け止めたか、目にしてとても心配になりました。息子は食べたものを吐き出し、とても具合が悪そうでした。

通知書の写しとして写真を撮りました。後日、夫が弁護士にその通知書を渡しましたが、弁護士さんには私たちを安心させる言葉はありませんでした。町の住民委員会の委員長をしている夫の兄にもそれを見せました。兄は、それは危険を含んだ通知書で悪い知らせだと言いました。つまり、市当局は取り壊しを実施しようとしており、行政命令だということは、その決定については裁判所に訴えることはできないのです。

私には、我が家の取り壊しは時間の問題のように思われます。この通知を受け取って以来、心配で怖くなっていました。夜には夢を見るし、食欲をなくしました。子どもへの対応もうまくいかなくなりました。子どもが求めていることに応えてやれなくなったのです。宿題を手伝ってやる元気も力もなくなりました。こんな事態となった時期も不都合でした。学校の試験の頃でしたが、子どもたちは学業に集中できなくなりました。息子のKは、学校に行きたがりません。学校から帰ってくると家がなくなっているのではないかと心配なのです。そんなこんなで、私の心配と恐怖感も募ります。強いフラストレーションを感じています。

隣人や家族の中には、もっと事態が悪化する場合に備えておくようにとか、身の周りのものの荷造りを始めなさいなどと助言してくれる人もいます。そんなことはできません。荷造りなんてできないし、そんなことをする自分を想像することだってできません。何から始めていいかわからないし。体に変調をきたしているようです。生理不順です。夫や子どもとの関係も普通じゃなくなりました。すべてがすっかりおかしくなりました。職員がまたやって来た場合、門を開けたほうがいいのかどうか、わかりません。混乱していて、簡単な作業をする力さえ無くしています。」

原文

A 2009 report on Israel’s human rights violations against Palestinian women
http://www.wclac.org/english/publications/book.pdf


(次号予告:シリーズ【4】-3 家屋の取り壊し 証言続き