女たちの証言--占領下パレスチナで生きるということ
件は結局のところフェイドアウトする可能性が高そうです。
パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書-2009年度版
シリーズ【4】家屋の取り壊しー3
東エルサレムのイーサーウィーヤ地区、ジャバル・アル=ムカッバル地区、アシュカリーヤ地区
東エルサレムでは他にもイーサーウィーヤ地区、ジャバル・アル=ムカッバル地区、アシュカリーヤ地区の3カ所で、多くのパレスチナ人の家族が家屋破壊の脅威にさらされ、また現実の取り壊しに直面してもいます。WCLACは、これらの地区で、家屋取り壊しのプロセスの様々な段階における女性への影響を明らかにする多くの事例を記録しています。証言15はイーサーウィーヤ地区の女性の証言で、WCLACによる聞き取り調査は、その女性の家が取り壊されたわずか数日後に実施されました。証言16と証言17[訳註1]はジャバル・アル=ムカッバルの二人の姉妹によるもので、一方は2005年に、もう一方は2009年5月に家を取り壊されました。彼女たちはいま、義理の両親の家に同居しています。女性たちは家屋破壊に至るまでの状況や家が取り壊されたまさにその日のこと、そして長いこと家族にのしかかる打撃について語りました。
このセクションにおける最後の証言[訳註2]はR・ジャバリーンからの報告で、この女性は現在アシュカリーヤに住んでいます。この女性の家は2006年の終わりごろに取り壊され、それ以降、女性と家族は不安定な賃貸住宅をあちこち移り住まなければなりませんでした。彼女は先の見えない状況に置かれています。と言うのも、この女性は現在アシュカリーヤに戻って暮らしていますが、その住宅環境は劣悪で、おそらくは違法建築でしょう。女性は糖尿病を患っていて病状はたいへん重く、最近、壊死した足の指を切断したので家に閉じこもっています。
[訳註1]証言17と [訳註2]証言18はこのシリーズの次号で取り上げます。
証言15
マイスーン・シャーヘル・ダーリーの証言
場所:東エルサレムのイーサーウィーヤ地区
聞き取り調査の日時:2009年11月23日
マイスーン・シャーヘル・ダーリーは生まれてこのかたずっと東エルサレムのイーサーウィーヤ地区に住んでいます。40歳の既婚女性で4人の子どもがいます。20歳の長女はビールゼイト大学で機械工学を学んでいて、18歳の長男は体育教師になる勉強をしています。下のふたり、10歳のMと8歳のNは両方とも小学校に通っています。2009年の初めまでは義理の親の家に住んでいましたが、それまでのあいだ長いこと、彼女たち夫婦は自分たちの家を建てるためにお金を貯めていました。2009年1月、家がほとんど完成して仕上げに入ったころに一家で住み始めました。そして2009年11月18日にイスラエル当局が彼女の家を取り壊しました。マイスーンは証言で、自分の生活と自分たちが建てた家について、最近のそのできごとが彼女と子どもたちにどのような影響を及ぼしたかについて話します。
「わたしは1988年に18歳で結婚しました。ビールゼイト大学で生物学を勉強していましたが、学位を取得するまで勉学を続けることはできませんでした。というのも、最初のインティファーダと、そのころ、わたしたちが閉鎖と移動制限のために直面していたすべての問題のせいです。わたしはずっと働いていました。最初はイーサーウィーヤの学校で働き、いまは特別な世話の必要な子どもや他の子どもたちを教える訓練を受けているところです。現在はエルサレムの聖ジョージスクールの5歳児学級で教えています。
結婚後、わたしはイーサーウィーヤに住む夫の家族の家に転居しました。わたしが引っ越していったとき、家はかなり手狭でした。というのも、夫には7人の姉妹があり、当時はひとりを除いて未婚だったのでまだ同居していたのです。住人が多かったので、わたしたち夫婦が暮らすためにはたった一部屋しかありませんでした。その後、もう一部屋もらって子どもたちみんなで使いました。家の中の物はすべてみんなで共有しました。食事もいっしょ、洗濯もいっしょ、子どもたちの世話もまたみんなでいっしょにしました。わたしは幸せで、夫の家族ともうまくいっていました。家族との同居に都合のいい点があるのははっきりしています。なにより安上がりですし、費用を分担し合うことができ、また、家族が子どもの世話を手伝ってくれるからです。でも少しはプライバシーも欲しかったし、あのように混雑していない場所に住みたかった。これは教育を受けた女性としてはごく普通のことですが、わたしは独立したわたしの家が欲しかったのです。子どもたちのためを思うと、もう少し場所があって、プライバシーが守れるようなスペースが欲しかった。そこでわたしたち夫婦は何年もかけて、自分たちの家を建てる資金をゆっくり貯めようとしました。
わたしは妹のファーティマ一家ととても仲がよかったので、二家族がいっしょに住める家を建てることにしました。一軒の家に二家族が入るのですが、別々の側に住むことになっていました。そこで、2006年、わたしたちは家を建て始めました。わたしたちは完成に向けてゆっくりゆっくり建て、やがてほとんど完成直前となりました。電気と水が家の中に引き込まれましたが、何ケ所かは未完成でした。でも2009年の初め、市の役人がわたしたちの家を見に来るかもしれないと聞いたので、わたしたちはその家に引っ越しました。
わたしは仕事に就いているので、家についての細々したことにはほとんどタッチしませんでした。様々な事柄、例えば事務処理や資金のことなどは夫と妹のファーティマに任せていました。ふたりは前もって建築許可を申請はせず、建築を開始してから申請しました。驚くにはあたりませんが、申請は却下されました。わたしたちが家を建てつつあった場所が道路だから、というのが却下の理由でした。つまりそれは、そのあたりに建っていた多くの家々はすべて違法建築であり、道路の上に建っていることを意味します。家の前には道路があるんですから、ほんとうに理屈も何もあったものではありません。その道路にしたって、その地域の当局による修繕なんて金輪際行われていませんでしたから、まったく素晴らしいものとは言えませんでした。
とは言え、わたしは家に何か起こるとは思っていませんでした。大丈夫だろう、取り壊されることなんてないだろうと考えていました。
2009年1月、わたしたち全員がその家に移り住みました。わたしと夫と子どもたち、そしてファーティマ一家です。わたしたちは生活になくてはならないベッド、戸棚、椅子などを運び込みましたが全部ではありません。なぜなら家はまだ完成しておらず、また、取り壊しに関する疑いがすっかり晴れていなかったからです。わたしはどうすべきかをファーティマと相談し、すべてを失う危険を避けるために全部の所有物を運び入れるのは止めることにしました。
家は2009年11月18日に取り壊されました。わたしはいつも通り、だいたい朝7時15分頃に仕事に出かけました。わたしが出かけるときには、もう数人の警官とイスラエル兵がイーサーウィーヤの上の方の入り口にいましたが、いつも何かしらやっているので、交通警官か兵士が人々の身分証明をチェックしているんだろうと考え、心配はしませんでした。わたしは普段通り、職場へ向かいました。
9時30分頃、夫が電話してきました。最初の電話はブルドーザーが近所にやってきたという内容でした。わたしは、だれの家も取り壊されないといいけど、と答えました。二度目に電話して来た時、夫はこう言いました。「マイスーン、やつらはわたしたちの家に向かって来ている」と。わたしがどんな気持ちだったか言い表すことはできません。わたしは教室を出て外に立ちました。舌が凍り付いたみたいに何も話すことはできず、なんというか、喉が詰まったような感じでした。わたしは夫や妹や子どもたちのことをすぐに考えました。息子たちが取り壊しに対してどんな反応をするか心配でした。
イーサーウィーヤでは、ちょっと前の取り壊しのときに青年が殺されていて、同じようなことがまた起きやしないかととても心配だったのです。みんなが無事でいるように、警察や軍と対決するようなことが起きないようにと心の底から願っていました。だれかが傷つくことには耐えられませんし、全員が無事でいることのほうが取り壊しに抵抗するよりもっと重要でした。
仕事は1時半で終わりましたがイーサーウィーヤには戻れませんでした。ただあちこち車を走らせ、3時半ごろになって、妹のファーティマが前に住んでいた家に行きました。わたしの夫を含め、家族の誰もかれもがそこにいました。夫はショックで呆然としていました。わたしも同じような気持ちで、その日は電話に出ることも誰かと話すこともできませんでした。
いま、わたしたち一家は夫の実家に戻って暮らしています。行くところがあったわたしたちは幸運でした。でも以前と同じ状況に戻ってしまい、新しい家を建てるために注ぎ込んだすべてのお金と骨折りは、いまでは瓦礫の山に変わりました。
わたしはほんとうにつらいときを過ごしています。どうやったらこの状況にうまく対処できるか、何をしたらいいのかわかりません。まともに食べてもいません。もっとも心配なのは長男のKのことです。わたしはKを含め、子どもたちとほんとうにいい関係を保っていて、息子には何でも話せます。普段なら息子は家の近所やイーサーウィーヤのどこかにいて、わたしは息子がどこにいるか知っています。家が取り壊されてから息子は変わってしまいました。わたしと話さなくなり、どこにいるかわかりません。どこに行くところか、何をしているか言いません。帰宅がとても遅いので、息子が戻るまでわたしは眠れません。前はいつもどこにいるか電話してきたのに、あれ以来そうしなくなりました。子どもをきちんと育て上げるのはとても困難です。ほんとうにたいへんな骨折りで、できるだけのことをしてきました。でも、占領がそれを不可能にします。家が取り壊されて以来、すべての骨折りは無になっています。息子のKのことがほんとうに心配です。息子は18歳で、息子に何かが起きるのではないかと考えると怖くなります。わたしたちが取り壊しに抵抗しなかったことや息子に何もさせなかったことについて、息子はわたしたちを責めているのです。
わたしはいま途方に暮れています。大海の真ん中に放り出されて、どこに行くのか、何をするのか、わからないような感じです。わたしは、子どもたちが自分の思っていることを言い、自分のしたいことを言えるようにと、自分の人生について話し合えるようにと育ててきました。でも、そういったことは、このような状況下では何の意味もありません。わたしは子どもたちに何もしないで静かにしていてもらいたいのです。何かに巻き込まれたりしないようにしていてもらいたいのです。話し合うことは何もありません。わたしたちに選択の余地はないんです。一番上の娘はこれについて何も言いません。娘は大学から帰宅するまで、何が起きていたかをなにも知りませんでした。下の息子は、自分がそのとき現場にいて、兵士たちに立ち向か った「ごっこ遊び」をしています。娘のNは、たとえば芸術的なことなど、何かすてきなことをもう今後はいっしょにできないのかと尋ねます。わたしはこの出来事で、わたしと子どもたちの関係が変わってしまったと思います。わたしたちはみなカウンセリングが必要だと思います」
証言16
アマーニー・ASの証言
場所:東エルサレムのジャバル・アル=ムカッバル地区、アル=ジャアビス界隈
聞き取り調査の日時:2009年9月7日
アマーニー・ASは25歳で、東エルサレムのジャバル・アル=ムカッバル界隈で育ちました。既婚者で、4人の子どもがあります。長男のOは6歳、その下の双子はARとAAで3歳、そしてもう一人の息子Mはまだ1歳です。 2001年に結婚するとジャバル・アル=ムカッバルにある小さな家に夫婦で入居しましたが、2009年5月、長ったらしい裁判のあげく、夫は、家族のために自分が建てた家を自ら取り壊さなければなりませんでした。こういった「任意の家屋破壊(パレスチナ人が自ら自分の家を取り壊すこと)」の例は、たいがい経済的な理由によるものです。というのも、自分で取り壊さずに行政当局に家屋を破壊させた場合はその費用を請求すると、イスラエル当局がパレスチナ人を脅すからです。自分の家を自分の手で取り壊すか、さらなる経済的負担を負うかの選択を迫るこの脅しは、心理的にひどい重荷となります。義理の親の家の一部屋に身を寄せるいま、どんなことが起きていて、どのように暮らしているかを彼女は語りました。
「結婚したとき、わたしは、夫が自分の両親の家の近くに建ててあった小さな家に引っ越しました。家族の土地に夫が自分で建てた家です。寝室がひとつとキッチンと浴室があるだけの小さな家でしたが、家族水入らずのいい家でした。パレスチナ人が家を建てる許可を得ることがたいへん難しいのは知っていましたが、その家に初めて引っ越していったとき、そこに問題があるとは知りませんでした。
2005年のいつだったか、違法建築に課される罰金を自治体に払わなければならないと書かれた書類が送られてきました。わたしはその書類の細かい点まで全部は知りませんでしたが、その書類がわたしの家の解体命令だったことはわかっています。家が建っていた土地は義父のものでしたから、義父がその書類に対処しました。義父は弁護士に会いに行き、弁護士はわたしたちが罰金を払うことで話をつけてくれました。罰金は9000シェケルで、法的な処理のために別に9000シェケル払わなければならず、月々500シェケルずつの分割で払いました。わたしは状況の全容をすっかり理解していたわけではありませんでしたが、罰金を払い、地方自治体が課す住宅税を払っているのだから、家は安全だ、何もかもうまくいくと考えていました。
しばらく後、2009年5月ごろ(正確にいつだったか思い出せません)、裁判所がわたしたちの家の取り壊しを決定したと夫が言いました、自分たちで解体するか、当局に取り壊させる場合は追加の解体費用を払わなければならないとのことでした。そう聞いたとき、わたしはショックを受け、「わたしたちはどこに行くの」「どこに住むの」と夫に聞きました。夫は悲嘆にくれ、罰金を払ったのに自治体は家の解体を決定したんだと言いました。どうしようもない、取り壊すしかない、もうだめだと言いました。
それからわたしたちはどこに行けるか話しあい、義理の父の家に移り住むことに決めました。2009年5月、わたしたちはジャバル・アル=ムカッバルのわたしたちの家の隣にある義父の家の1室に、夫婦と4人の子どもとで移り住みました。
家を解体する前の晩、夫は、自治体が取り壊しに来て解体費用を請求されることになる前に自分で解体するつもりだと言いました。わたしは非常につらい気持ちでベッドに入りました。
2009年6月26日、夫は家の解体を開始しました。金曜日でした。最初の日、夫はトタン屋根を取り除き、翌土曜日、重いハンマーで家の壁を壊しました。夫がそうしているあいだ、子どもたちがわたしに理由を尋ねました、なぜお父ちゃんはおうちを壊しているの? 夫がそうしているあいだ、わたしは義父の家の中のわたしたちの部屋と、夫が壊している我が家のそばとを行きつ戻りつしていました。子どもたちも父親と祖父母の家のあいだを行ったり来たりしながら、父親がしていることを見ていました。
解体の前に、わたしたちは家具や衣類その他を家から運び出しました。でも全部は持ち出さず、家の中に残しておいたものもありました。ベッドは持ち出すには大き過ぎたのでそのままにしておき、いまもそのまま雨ざらしになっています。大きなクローゼットも残してありましたが、それはあとで義父の家の中のわたしたちの部屋に運び入れました。
解体が終わると夫はすっかり打ちのめされました。肉体的にも精神的にも疲労しきって、絶望の中にあったのだと思います。かれは自分の手で家を建て、今度はそれを自分で壊しました。なぜこんなことが自分たちの身の上に起きたのか、なぜわたしたちにと、わたしはいつまでも考えていました。
そんなわけで、わたしは夫の両親の家の中の小さな一室に住んでいます。キッチンと浴室を義理の親と共同で使っています。夫の兄弟とその家族が階上に住んでいて、しょっちゅう下に降りてきます。上に住んでいるのは大人4人と子ども5人で、いつも下にきて、わたしたちといっしょに食事をしたり時間を過ごしたりしています。わたしにはひとりになる時間もプライバシーもありません。以前は、家では半袖の服を着ていたし、スカーフもかぶっていませんでした。いまは他の人といっしょに住んでいるので、どんな格好をするかにいつも気を使っています。前は家族のために料理し、全部の食事を作っていました。いまは家の中のだれかが調理するのでわたしはしません。プライバシーもひとりになれる時間も場所もまったくありません。とてもうるさいので、子どもたちは寝る時間になってもなかなか寝つけません。
家を建てる許可が得られたらどんなにいいか。夫は許可を得ようと骨を折っていますが、当座のところ、先立つものがありません。夫は熟練したタイル職人として働いていますが、日雇いであり、不定期にしか仕事がないのでいつもお金が足りません。
わたしは心理的に悪い状態にあります。わたしたちに起きたこと、家を失ったことを悲しみ、夫と子どもたちのことを心配しています。子どもたちも影響を受けています。一番上の子は1年生ですが、家の中がうるさいのと場所がないために宿題もできません。子どもたちは兄弟どうしでも、従兄弟たちともけんかばかりしていて、わたしは子どものしつけができません。自分の家にいたころは子どもたちもそれぞれにプライバシーがあったし兄弟から離れていることもできましたが、いまはプイライベートなスペースはなく、わたしも何もしてやることができません。
さらに悪いことに、検問所で兵士に通行を許可してもらうために名前を登録しようとしたところ、イスラエル当局に申請を拒否されました。名前を登録するには、わたしの住まいが検問所のある壁から遠過ぎると当局は主張しています。そのせいで物事はいっそう悪くなりました。自宅軟禁されているような気持ちです。わたしは自由に動き回ることも許されず、壁の向こう側にいるわたしの家族を訪ねることもできません」
原文:
A 2009 report on Israel’s human rights violations against Palestinian women
http://www.wclac.org/english/publications/book.pdf
(次号予告:シリーズ【4】-4 家屋の取り壊し 証言続き)