TUP BULLETIN

速報362号 ネバダ核実験の残骸 04年8月20日

投稿日 2004年8月20日

☆ネバダ核実験場に放置された大金庫★
「臨界前」という名目で核実験が続けられ、ブッシュ政権が実戦使用可能な新世代核兵器の開発を目論んでいるにもかかわらず、包括的核実験禁止条約はいまでも「有効」とされているせいか、ネバダ核実験場の事跡や現状は滅多なことでは伝えられていません。映像ドキュメンタリー作家が「大気圏内核実験」遺跡に立って、ネバダの、そして核のある世界の過去・現在・未来の超現実的な光景を報告します。(本稿は、TUP速報358、360号に続く、トム・ディスパッチ企画、広島・長崎ウィーク3回シリーズの最終回)
/TUP  井上 /凡例:(原注)[訳注]

[編注]本稿は、TUP速報358360号に続く、トム・ディスパッチ企画、広島・長崎ウィーク3回シリーズの最終回。


人類自滅未遂博物館――
【ルポ】映像作家が見たネバダ核実験の残骸

――ジョン・エルス
トム・ディスパッチ 2004年8月12日
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フレンチマン・フラット(平原)の干上がった湖底に、モスラー社製の巨大な
金庫がうち棄てられている。醜悪で錆びつき、さながら地獄の大きなクッキー
缶といった趣である。それでも、ある意味では、希望と明晰思考とを顕彰する
アメリカ最大の記念碑になっている。

ネバダ実験場に放置されたその大金庫は、原子力委員会が1957年に実施し
た「突風負荷に対する防護容器の反応」試験の名残である。金庫に株券や債券、
金銀、紙幣や保険証書を詰めてテストしたところ、わが国の公的有価証券、契
約書、金融証書の類は核戦争を耐え抜くことが確認された。当時、この試験は
グッド・アイデアだったに違いない。鉄とコンクリートの現実政治の傑作とい
うわけだ。だがどっちみち、まったくの偶然ながら、45年の広島で金庫の性
能は試験にパスしていたのである。広島原爆のグラウンド・ゼロ(爆心地)に
程近い帝国銀行の地下室で、瓦礫のなかから見つかった4基のモスラー社製金
庫の中身は奇跡的にも無傷なままだった。おまけに、原爆投下の数週間後に広
島に入った米軍部隊が、市街地の灰塵のなかに数百もの小型金庫が鎮座してい
ると報告した。

その実験では、金庫を収める鉄筋コンクリート性の「銀行建屋」も、実験目的
で特別に建造されたが、現在のネバダ実験場に残っているのは、吹き飛ばされ
たコンクリートの破片がいくつか、それに、後方にたなびいて、まるで風に吹
かれる猫のヒゲの趣だが、それにしても夥しく林立し、太さが腕ほどもある鉄
筋だけである。

1957年6月24日の夜明け直前、コードネーム「プリシラ」と命名された
37キロトン爆弾が、大金庫の上空約800メートルにヘリウム気球で吊り上
げられた。プリシラの爆風圏内に、原子力委員会が小振りの20世紀都市を自
前で建造していた。プリシラは、広島市街を破壊し尽した原爆の2倍の爆発力
をもって、南ネバダに出現したミニ文明を揺さぶった。太陽よりも明るく光り
輝く閃光は月面にも反射したし、3200メートル離れた塹壕のなかで眼を手
で塞いでいた兵士たちは、手を貫通した原爆の閃光で、骨が透けて見えたと断
言した。

50ミリメートル厚アルミ合金製のドーム型シェルターは、作業現場で圧延さ
れるソフトドリンク缶さながらにペシャンコになった。衝撃波が、強化コンク
リート製シェルター、工場建屋、地下駐車場の車両、公共避難シェルター、鉄
道構脚(高架橋の台)、55トン・ディーゼル機関車、駐機中の航空機、ロシ
アと中国の防護服を着せたダミー人形、砂漠面に打ったコンクリートを根の代
わりにした人工の松林を叩いた。小さな防護服を着せられ、麻酔をかけられた
チェシャー種ブタは、プリシラの熱線で生きながらに丸焼きになった。これか
らも真相は知りようもないが、なにも知らずに飛んでいたワタリガラスも、ヒ
ロシマの原爆投下時のように、プリシラの熱波によって瞬間的に灰になったは
ずである。その日の午前中には、死の灰の雲が東方向へ流れ、その後の数ヵ月
かけて、他の大気中核実験の残存放射性生成物に混じりながら、地球全体に拡
散していった。今日、1957年以降に生まれた人はだれでも、骨のなかにプ
リシラに由来する放射性副産物であるストロンチウム90の原子をすくなくと
も2個や3個は抱えている。

こうして1957年に人類の自己破滅が史上初めて可能になったのとほぼ同時
に、政治に関わる者たちの多くが、ソ連との総力核戦争は避けられないと信じ
るようになった。株券や保険証書が核戦争に耐えるかどうかを知りたいと考え
たらしいプリシラ実験の立案者たちにしても、その一部は、理論的に全面核戦
争が地球上の全生命の絶滅をもたらしうることを承知していたはずである。そ
の年、実験室の見慣れない装置であった草創期から10年もたたないにもかか
わらず、原子爆弾はすでに実戦配備兵器になっていた。プリシラは、アメリカ
の核兵器保有量6744のうちの、ほんの1発にすぎなかった。(ソ連の備蓄
数は、660だった)

ここ、フレンチマン・フラットで、われわれは地球規模の自殺未遂をリハーサ
ルしたのである。地球規模の自殺は、壮大で超人的な意思表示であり、壮観な
ポルノグラフィになったはずだ。大爆発による人類絶滅には、AIDSや地球
気候の変動に見るような遣るせなさや重苦しい緩慢さはない。それは、太陽系
のどこからでも見えたに違いない。プリシラが実証してみせたように、われわ
れの金融資産は、人類が絶滅しても生き残ったはずだ。

グレート・ベースン[*]のなかで、とりわけ人里離れた広大なネバダ州の地
域が、1951年に核実験場に選ばれたのは、周囲を取り巻く低山の連なりが
外部からの詮索を防ぐ天然の目隠しになったからである。今日、フレンチマ
ン・フラットの荒涼とした残骸の只中に立つと、もう一つの側面が明らかにな
る。この盆地から外の世界を覗き見るのも、やはり不可能なのだ。この場所は、
ネバダの他地域、アメリカ、文明から遮断されている。これは、生命のかけら
もなく殺風景な、まるで映画『猿の惑星』のロケ地である。ここに転がってい
るのは、人類が瞬間的に断ち切る未来の残骸でもよかった。ラスベガスの、ウ
ィーンの、東京の瓦礫でも、あなたの町、わたしの町のでもよかった。爆発で
すべて吹っ飛んで、石器時代に逆戻りである。
[米国西部のネバダ、ユタ、カリフォルニア、オレゴン、アイダホ、ワイオミ
ング諸州にまたがる大盆地]

今日、北朝鮮が4個か6個の核兵器を持っているのではとか、イランにもある
のではとか、気に病んでいるが、思い出してみよう。トリニティ実験[*]か
らわずか12年後の1957年には、アメリカは、毎日10個、1年間で30
00個の原水爆を生産していたのだ。57年産の兵器で最大威力のものは、5
メガトンのマーク21型であり、これ一発で、400のヒロシマ(またはファ
ルージャやオークランド)を破壊できる。
[ヒロシマ・ナガサキ原爆投下に先立つ1945年7月16日、ニューメキシ
コ州のアラモゴルド砂漠で実施された世界初の原爆実験]

金庫に株券や債券を積んだ1957年の実験は、今では、超現実的なまやかし
の希望、ありえない未来への無駄な備えであると見える。思ってもみたまえ。
毛が抜け、不妊になった核戦争生き残りのアダムとイブが、(チェルノブイリ
の無人化した市街をうろついていた、放射能まみれの野性化した犬のように)
肺気腫でゼイゼイし、血だらけのボロをまとって、ダイヤル錠の番号を思い出
そうと焦りながら、銀行金庫をめざして這い進み、クライスラー社の株券や、
おじいちゃんの金時計、プルデンシャル生命の個人責任保険証書に望みを託し
ているのを…。

あるいはまた別の未来、金庫を開ける人間が誰一人残らない光景を思い描いて
みよう。これは映画『12モンキー』(米1995)の未来であり、1957
年のネバダ実験場ではリハーサルにすぎなかった地球規模の自殺が実現し、放
射線を放つ衣類を略奪したり、保険証書を回収する人間は一人もなく、ただア
リやゴキブリだけが、かつてネバダだった場所で、熱っせられ、吹き飛ばされ
た金庫が放射能を帯びた砂漠に転がっているのを見かけて、首を捻っている図
である。

だが冷静な頭脳が勝利した。核戦争が不可避と思えた1957年に47年間の
眠りについた人間がいたとしたら、いま目覚めて、未来に対する罪がいまだに
防止されているのを見て驚くだろう。アメリカの核兵器保有量は66年の3万
個でピークに達し、このところの5年間は、1万個で推移している。いまのと
ころ、われわれが絶滅の未来を免れているのは、主として、フレンチマン・フ
ラットの残骸が意味するものを理解した2世代にわたる指導者たちの、多大な
努力と明晰な思考のおかげである。われらが指導者たちを称えよう。早くも5
7年、プリシラ核実験のわずか数週間後に、核軍縮を提案したドワイト・D・
アイゼンハワーとヘンリー・カボット・ロッジを称えよう。大気圏内核実験禁
止条約を実現したジョン・F・ケネディを称えよう。SALT[戦略兵器制限
交渉]とABM[弾道弾迎撃ミサイル]制限条約を推進したリチャード・ニク
ソンを称えよう。第一次および第二次START[戦略兵器削減条約]を交渉
したロナルド・レーガンとジョージ・H・W・ブッシュ、それにミハイル・ゴ
ルバチョフを称えよう。ブレジネフを相手に戦略兵器制限協定に署名したカー
ターとフォードを称えよう。異議を唱え、たゆまずに圧力を掛けつづけ、バラ
ンスが狂気に傾くのを辛うじて防いできた、数千の科学者、活動家、一般市民
を称えよう。とりわけ、一目で地獄への滑りやすい斜面を見抜き、交渉と歩み
寄りをめざして、骨身を惜しまなかった、アメリカとロシアの明晰で無私な思
考力を持った数百の男女を称えよう。

ネバダ核実験場の沈黙の砂漠に昆虫類とヤマヨモギが戻り、金庫の上空にふた
たびワタリガラスが弧を描いている。だが核の番犬は今日も片目を開けたまま
眠りについている。プリシラよりずっと強力な兵器が現在も警戒態勢にあり、
ライフルや炭疽菌と同じく時代遅れの兵器にはなっていないのだ。1992年
にジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュがアメリカの核実験を停止し
たときにお蔵入りになった爆弾を設置するはずだった塔が、フレンチマン・フ
ラットの北32キローメートルの地点で、いまも新しい爆弾の到着をじっと待
っている。ジョージ・W・ブッシュによる現在の「核態勢見直し」指令にした
がって、現在、ネバダ実験場は、2年の工期を18ヵ月に短縮して、「準備態
勢」の整備を急いでいるところである。

その一方、アメリカおよび他の70ヵ国が、未来の核戦争に備えた防衛政策と
して、それぞれの国の高級軍人や官僚を収容する、地中深く築かれた地下強化
遮蔽壕を数千箇所も維持している。これはフレンチマン・フラット金庫作戦の
拡大版である。しかも、ブッシュ政権は、ABM制限条約支持を撤回したあと、
冷戦終結以来で初めての新世代核兵器「実戦使用可能な核バンカーバスター
[地下遮蔽貫通兵器]」の開発に果敢に取り組んでいる。ネバダ実験場敷地内
の銀行金庫から8キロ西に、装置組立施設が1億ドルかけて竣功したばかりで
あり、備蓄兵器の解体にも新兵器の組立にも使えるようになっている。

核戦争の可能性が過去のものに思えるとしても、この過敏な時代には、フレン
チマン・フラットの視察がアメリカで公職に就く者の資格要件であるべきだ。
この錆びた鉄屑のなかに立つことは、いったんは回避された身の毛のよだつ未
来の残骸のなかに我が身を置くことであり、これまでは政治家たちが慎重に手
順を踏んで白紙に戻してきたが、将来はなにが起こっても不思議ではないと深
く悟ることにつながるはずだ。これは、ことの本質が認識されたうえで放棄さ
れた、非常にお粗末なアイデアの墓場である。

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[筆者]ジョン・エルスは、ドキュメンタリー映像作家・監督。主な作品 “Cadillac Desert,” “Sing Faster,” “The Day After Trinity.” カリフォルニア大学バークレー校、ジャーナリズム学科大学院で教鞭を執る。今年早い時期の数日間、核兵器を主題にした新しい映画のためにネバダ核実験場を撮影訪問。その間に、フレンチマン・フラットの金庫を再訪。
[原文]Tomgram: Jon Else on the Museum of Attempted Suicide
posted at TomDispatch, August 12, 2004 at 5:46 pm
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?emx=x&pid=1680
Copyright C2004 Jon Else
トム・ディスパッチ編集者によりTUP配信許諾済み


[翻訳] 井上 利男 /TUP